| 仲町つれづれNO.306 2010年3月17日(水) |
| 初心の詩人、堀口大学 |
|
不安定な陽気とはいえ、早咲きの桜も見かける中、今夕の茜さす富士の遠景は美しい限りです。詩人で、フランス文学者の堀口大學(1892-1981.3.15)には、小さな詩集ができるほど大量の、富士山への讃歌が遺されていたようです。晩年の一編に「富士山」(『消えがての虹』所収)というたった三行の詩があります。
ふじ山 高く つつましく
長谷川郁夫さん(1947-)は、この詩について、「呆れる思い」だったが「他愛ないようでいて、ふてぶてしくもある」とも感じ、その後「三字、二字、五字の行末の余白に、富士の図形がつつましく現われるのに」びっくりし、「魔術のような詩語の不思議を感じた」と自著の「あとがき」で書いています。
これは無意識にでた言葉であり、やはり大先生でないと書けないものでしょう。誰もが愛するあの富士山、「日本人の感性そのものの歴史的総体」でもある富士山に対して、特に(自然に対する)畏敬の念が染み付いていた、ともみてとれます。そして「堀口さんにとって、それは『日本語〈=詩〉』であり、『日本人』であり、-すなわち『日本』であった」といいます。
長谷川さんは、この「富士山」という三行詩がきっかけで、堀口大學の89年と2ヶ月の全生涯を辿ろうとしたそうです。そして昨年秋に、『三田文学』(2002年秋季号~2009年夏季号)に連載したものに、350枚の書き下ろしを加えて、(敗戦を迎えたところで一区切りとして)堀口大學の前半生を回想した伝記『堀口大學 詩は一生の長い道』を上梓しています。図書館にリクエストしていた本書が届いたのが、また偶然にも詩人の命日(3月15日)近くであり、602頁の大著で借用期間内に読了することが難しく、つまみ食いになってしまいましたが、彼の人生哲学のある一面を取り上げてみます。
堀口大學は、名前のごとく本郷の赤門の前で生まれ、3歳の時に父の故郷である新潟県長岡市に移り住み、中学を卒業するまでそこで生活しています。父の堀口九萬一(1865-1945)は当時東大生で、卒業後外交官になり、メキシコ、オランダ、ベルギー、スウェーデン、ブラジル等々に赴任しています。堀口大學も青春期を海外と日本との往復で過ごし、ほぼ14年にわたる海外生活を送っています。また、彼は芥川龍之介と同年生まれで、彼は1月生まれだから「僕の方がお兄さんよ」といっていたとか。同門の佐藤春夫(1892-1964)とは終生の友人であり、後に続く西脇順三郎、草野心平や三好達治らにも影響を与えたといわれています。
堀口大學は、17歳で与謝野鉄幹、晶子の新詩社に入門してから数えて72年のうち、わずか3年間(1925~7)を文化学院でフランス近代詩の講座を持ったほかは、最期まで現役の詩人として生涯を全うした珍しい人でした。その彼が目指したものは、島崎藤村以来、青春の文学といわれてきた口語自由詩を「一般の鑑賞(=口誦)に堪えるものに育てよう」ということであり、「日本語とのきびしい、ながい闘いだった」といいます。
そうしてできた彼の詩は、平明で親しみやすいものであり、この表現を支える背景に彼の人生哲学があるわけです。本書で引かれている那珂太郎の指摘は「『人生には嫌なことがいっぱいあるから、それ以上の面倒はつくらぬがよい』といふあの官能的画家ルノワアルの言葉は、そのまま堀口さんの哲学を示すものだと見てよかろう」(『堀口大學回想』)ということです。
長谷川さんは、この健康な生活人の思想に、江戸時代の儒学者である貝原益軒の名前を思い浮かべるといいます。貝原益軒(1630-1714)の思想と重なる部分について、詳しく引用してみます。
長谷川さんは、堀口大學は「毎晩”天の美禄”(酒)二合半を楽しむ『詩生晩酌』の詩人だった」といいます。一方の益軒ですが、1630年、関が原の役から30年後(堀口は維新後25年の生まれ)、福岡で生まれています。学問好きで『近思録備考』などを著したが、七十歳で辞職を許されるまで、黒田家の家臣、地方官僚として働いたのです。藩命により『黒田家譜』を編纂したり、紀行文を遺しています。特に「71から84歳で歿するまでの14年間の著述活動がめざましい」といわれ、およそ30冊、主なものとしては『筑前国続風土記』、『和俗童士訓』、『家道訓』、『養生訓』などがあります。彼の一生は「外来思想(朱子学)の受容と咀嚼と紹介」で、長谷川さんは、彼はなぜそうした説教書(訓)を、「その時代に書かれたもっとも平明な日本語によって」著わしたのかについて興味があるといいます。そして、益軒は「合理的な精神から、儒の教えを、日本人の具体的な生活の場に生かしたいと試みた」り、それを「暮らしの伝統をささえる日本人の感受性に働きかけた」とみています。
また、彼には『楽訓』という老年を楽しむ方法を説いた一冊があるそうです。そこには四季の移ろいを楽しむ心、読書の喜びが説かれているといいます。*中公版『日本の名著』の松田道雄の解説には「益軒が、その美文的能力のかげりをつくして描写した日本的自然は、『万葉集』、『枕草子』『古今集』『徒然草』を通って『細雪』までつらなっている、私たちの見なれた風景である」とあります。
長谷川さんは、益軒の『楽訓』にある「清福」(其心風雅にして、古書を読み、詩歌を吟じ、月花をめで、山水を好み、四時のおしうつる折々の美景と、草木のかはる々栄えうるはしき楽み、貧しいけれど飢寒のうれひなく、・・・)について、堀口大學の晩年の境地を語るものと読みとることができないだろうか、といいます。さらに彼の背景にも、父の堀口九萬一読書家で『游心録』『外交と文芸』などの著書もあり、その影響もあって「儒の精神が一本通っている」と指摘しています。また「『鼻を欠いても、義理かくな』の長岡侍だった」とも。
彼には、80歳を機に口語新訳に取り組んだ、父(号:長城)の漢詩に訳をつけた『長城詩抄ー父の漢詩・子の和訓』(168頁、大門出版、1975年)があります。また、84歳の最晩年の夏に『大疑録』を完成させています。彼が生涯をかけて「心の師」として尊んだ聖人・朱子への懐疑を記したもので、「それは自己否定にもつながりかねない危険な試みだった」が、彼もまた「問い」を抱き続けたことがわかるといいます。
*清福は、富貴の驕楽なる福〈さいはひ〉にはあらず、貧賤にして時にあはずとも、其身安く静かにして、心にうれひなき、是なん清福とぞ云ふめる。いともありて、閑に書をよみ、古の道を楽むは、是清福のいと大なる楽なり。・・・〈有明堂版『益軒十訓・上』より〉
*堀口九萬一の、敗戦の年の9月11日の日記に、「朝、清貧論を考う、清福を倖とす」という記述があるということです。
*長谷川郁夫 『堀口大學 詩は一生の長い道』 河出書房新社 2009年
*柏倉康夫 『敗れし国の秋の果て 評伝堀口九萬一』左右社 2008年
|
|
|
| 仲町つれづれNO.305 2010年3月11日(木) |
| 孤高の画家・島崎蓊助という人 |
|
シベリア鉄道の旅(仲町つれづれNO.301を参照)について続けます。1929年9月21日の夜に東京駅を発ち、敦賀経由(天草丸)でウラジオストックにわたり、ハバロフスクからシベリア鉄道に乗ってベルリンに留学した人がいました。島崎蓊助(1908-1992.3.11)という寡作の画家です。
彼は、島崎藤村(1872.3.25-1943)の三男です。藤村がフランスから帰国して4人の子どもたちと一緒に住むようになって以降のことを書いた小説『嵐』(1926)に出てくる三郎のモデルといわれています。
画家を志した彼は、プロタリア美術運動に参加したこともあり、21歳の時に、演出家で俳優でもあった千田是也(1904-1994)が待つベルリンに渡ったのです。そこで3年3ヶ月あまり、千田の舞台美術などの仕事を手伝いながら、ベルリン大学でドイツ語を学んだり、当時のバウハウス(ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなどが指導し、研究した総合造型学校.研究所)等の新しい流れをつぶさに見て、1933年2月に照国丸で神戸に帰国しています。
その乗船までのわずかな時を、吹雪のハンブルグの宿で過ごしています。ちょうど大晦日の夕方の乗船だったようです。その宿は港湾を望む丘の途中にあり、日本人の老人とドイツ人の妻が経営し、別なところに船乗り相手の小さな酒場も経営していたということです。先の読めない時代のなかでの新たな出発点(転換期)だったのでしょうか。よほど印象に残ったようで、後に再訪しています。
彼の書き遺した『絵日記の伝説』(『島崎蓊助自伝』所収)によると、彼は川端画学校(1909開校)洋画部(藤島武二の指導を受ける)の画学生でありながら、藤村から当然のごとく与えられたルソーの『懺悔録』や福田正夫や白鳥省吾の詩集を懐にする文学少年でもあったようです。
美的精神的栄養としては、『白樺』や『アトリエ』など『芸術の革命』(木村荘八訳、洛陽堂、1914)、高村光太郎の『ロダンの言葉』(1920)『続ロダンの言葉』(1921)『泰西名画家伝』(日本美術学院、8冊、1921)などが出版されていた時代です。
村山槐多の名もでてきますし、藤村の友人でもあった山本鼎の「春陽会への奨めも耳に入る余裕はなかった」といいます。それほど、既成画壇の否定という思想を持ち続けて「未知の冒険へ青春を駆りたてた」のです。
さらに、シベリア鉄道の旅の様子も書かれていますが、モスクワでは中條百合子と湯浅芳子が一緒に住んでいた時期で、中條は以前紹介したようにパリ旅行中で、彼のモスクワ滞在中のスケジュールは湯浅芳子が作り、案内もしてくれたようです。
俳人の石田波郷(仲町つれづれNO.198を参照)とも30代からの友人であったようです。自伝でも頁を割いています。波郷の兵営生活に入る前の一句である、”かりがねや残るものみな美しき”も書れています。
銀座6丁目のヒロ画廊で、ちょうど「島崎蓊助」の展覧会が開かれていて彼の作品を見ることができます(13日まで開催中)。彼は、戦後(1948-1952年まで)『島崎藤村全集』全19巻(新潮社)、その後(1966-71年まで)『藤村全集』全17巻別巻1(筑摩書房)の編纂に携わっていました。そして、1970年3月から9月までドイツのハンブルグへいき、アルトナ地区マルクト広場のアパートに住み、周辺風景の作品を30点ほど遺しています。今回その一部を見ることができたわけです。
それらは縁取りされ、一種異様な不気味さが漂うセピア色一色の画面です。この展覧会のサブタイトルに「セピアに込められた執着と解放」とあります。また彼は、1948から88年までB5版の大学ノートに書き綴られた全164冊の『ノオト』を遺しています。今回も一部展示されていました。
昔の写真のように見える彼の作品ですが、光が感じられます。例えば、彼の書き遺した一片によると、「現実を歪めずにリアリテに迫る策として、取り敢えず濃暖色(バアント・アンバー)に、死の色(ブラック)と肩代わりしてもらい、下塗りに明るい金色(イエロー・オーカー)を基調にして他の色を決める。この“沈色”のイメージは、少年時代に木曽の桧の上からよく眺めた川底の小石の群れの幻が手伝っているようだ」(『ハンブルグ日記』1970年5月24日)といっています。
これは、彼の父と兄弟から引き離されて育ったという生い立ちから想像されることですが、子どもの時から、自分を阻む、表現不可能だと思っていた深々としたもの、その強い存在感、それが「孤独感、恐怖感の正体だった」(『ノオト100』1971.2.19)ということに気がつき、それが表現すべき形式だというわけです。そこにまさに「セピアに込めた執着と解放」をみることができるのです。
そして今、到達点として遺されたハンブルグの風景画には、セピア色という「孤独の色」で彩られた激しい筆致で、人影もなく一見寂しい風景ですが、存在感があり、暗部の中にはぼんやりとした光を感ずることができ、温かみすら感じ取ることができるのです。とにかく不思議な力を持った絵です。今日3月11日は、島崎蓊助の命日です。
*加藤哲郎・島崎爽助編『島崎蓊助自伝ー父・藤村への抵抗と回帰』平凡社 2002年
*島崎蓊助 『藤村私記』 河出書房 1967年
|
|
|
| 仲町つれづれNO.304 2010年2月28日(日) |
| 内井父子に見る建築家という仕事 |
|
以前、「ミナレット」(尖塔)という言葉から、塔のある建物について調べていると書きました(仲町つれづれNO.292を参照)。人間はかつて天までとバベルの塔を築きましたが、あえなく崩れました。塔は人間の象徴であり、生きた証しであり、その姿は人間の姿をしているといえそうです。
内井昭蔵(1933-2002)という建築家の展覧会「内井昭蔵の思想と建築」が、彼自身の設計による世田谷美術館で今日まで展覧会が開かれていました。内井昭蔵が生前設計し、竣工した建物は249件だったそうですが、約100件の写真パネル、模型、図面等が展示されていました。
彼は、人間性や自然を欠いた画一化の道をたどる都市や建築や、あまりに自己主張の強い建築に対して、「自己抑制のきいた常識的な建築」を、不健康に対する健康な建築の必要性を訴えた『健康な建築』(1985年)という本を書いています。
「健康とは“生きているもの”の価値基準。人は病んだとき初めて健康の喜びや健康の価値を知るのである」として、後年は病める部分を排除せず、「病を認め、『病む自由』があってはじめて人は健康であり、健康な社会といえる」と、いかに病の中に生を見出すかということについて考えています。
「建築も都市も人間と同じで、常に病んでいる」ということには変わりありません。健康な建築とは自然の生態系にあてはめ、「人にイマジネーションをかき立て、創造性を生み出す建築のこと」といいます。それらの考えに基づいた、彼の代表的な作品には必ずといっていいほど塔のある建物であり、祈りの空間があります。それは彼の生い立ちに求めることができるかもしれません。
彼の祖父、父ともに建築家であり、また、彼の息子も建築家として活躍中です。建築家に限りませんが、親子二代、○○二代と言う話はよく聞きます。しかし三代目となると、それをつぶすということが多いのではないでしょうか。よほどでない限り、その家業やその伝統を受け継いで繁栄させることは難しいと思われます。やはりその底流に、ロシア正教会の信徒としての信仰心があったからこそ、だったのでしょうか。
祖父の河村伊蔵(1865-1940)は、ニコライ師に仕えた人で、ニコライ堂と呼ばれている東京復活大聖堂の敷地内に住んでいました。彼は聖職者としての他に、各地の教会建築に深く関与していたそうです。彼が建築の専門教育を受けた事実や、教会建築に関与していった経緯の詳細は明らかになっていませんが、「彼自身の内面の問題として、教義への理解を深める場、信仰心の高揚を促し、祈りを捧げるに相応しい空間の構築を果たそうとしたことにあったのではないか」と考えるのが妥当といえます。
二代目は伊蔵の二男で、養子縁組(産婆・信徒のアンナ内井ゑ以)で内井となった内井進(1900-1964)です。彼は工手学校(現・工学院大学)に進み、1922年銀行建築で作品を残した矢部又吉建築事務所に入ります。
この矢部又吉(1888-1941)については、15年ほど前に調べたことがあり、今回の内井にも不思議なことに係わりがあったことに驚いているところです。彼は横浜元町の生まれで、内井進と同じ工手学校で学んでから、現在のベルリン工科大学に留学しています。帰国後に渋谷区神宮前で事務所を開設、川崎財閥の関連会社の重役の娘と結婚した縁もあって、旧川崎定徳銀行などの建築を一手に引き受けています。内井進は川崎第百銀行の建築部の嘱託として、設計業務にもあたっています。
したがって、矢部又吉の初期の設計である、佐倉図書館の同じ通りにある佐倉市立美術館のエントランス部分にある旧川崎銀行佐倉支店の建物(1918)は別にしても、日本橋丸善の隣にあった川崎銀行本店(1927、明治村に一部保存)、同銀行千葉支店の建物(1927、現・千葉市美)などについては、内井進の手によるものと考えられます。
彼は「『分離派』が目指したような(ドイツ的な)〈近代〉の建築表現の追求といったことではなく、むしろその逆に、従来の日本の建築設計で盛んに行われていた《様式》的なデザインの機会が多」かったといえます。父のドローイングについて、内井昭蔵は「よく銀行のファサードのために、ギリシャのオーダーなどを描いていたが、子供心にもその描き方のうまさに驚き、描いている様子を見ていて厭きることがなかった」と書いています。矢部の死後、事務所は解散し、内井進はドラフトマンとしての優れた才能をもっていたがために、その後数社で設計、意匠設計に当たっていました。彼の卓越した意匠感覚と高い製図技術はあちこちで重宝がられたといえます。
内井進は、銀行建築とは別に、父伊蔵の指導で、金成聖堂(宮城県、1934)、横浜聖堂(1935)などの教会を数多く設計しています。そのほか現在遺された図面では、帝室博物館(現・東京国立博物館本館)設計競技に参加したプラン、映画館のプランなどを見ることができます。
*内井昭蔵の主な作品 世田谷美術館(1985)、高岡市美術館(1993)、大分市美術館(1998)、浦添市美術館(1990)、千葉英和高校(1987)、蕗谷虹児記念館(1987)衆議院議長公邸(2001)、明治学院大学本館、群馬県立自然史博物館(1996)、吉田正音楽記念館(2004)など。
*かつて「緑の佐倉市」を標榜していた時代に、環境デザイン研究所所長として顧問的に係わっていた建築家仙田満(1941-)は、菊竹清訓建築設計事務所に入った時に副所長だった内井と仕事をしています。今回の図録で、彼の建築以外のすべての仕事も社会的な表現だったとして、「芸術性と社会性の融合というべき行為は多くの建築家が引き継いでいかなければならない行為だ」と書いています。仙田は、子どもの遊び環境の構造に関する研究で工学博士号を取得しており、四街道の幼稚園、伊勢原市立図書館などを設計しています。
*『内井昭蔵の思想と建築 自然の秩序を建築に』図録 世田谷美術館 2009年
*内井昭蔵 『健康な建築』 彰国社 1985年
|
|
|
| 仲町つれづれNO.303 2010年2月27日(土) |
| 長谷川等伯と千利休 |
2月28日は千利休(1521-91)の命日です。千宗左さんの書かれた「春立つ頃」(『同門』463号、2010年2月)によると、不審菴の茶席には、今も古渓宗陳の筆になる板額が掲げられるということです。
この庵号は、利休の求めに応じて与えられたもので、古渓和尚の詩句「不審花開今日春」より名づけられたといわれています。利休の参禅の師であった古渓が大徳寺の住持になったとき、利休が多大な寄進をした記録も残っており、大徳寺の三門「金毛閣」の階上には利休の木像が安置されているそうです。そして、その天井には、長谷川等伯の野太い筆線と濃厚な色彩で描かれた迫力満点の龍(『晩蟠図』)がいます。このことからも、この三人の関係の深さが伺えます。
長谷川等伯(1539-1572)は、今年の2月24日でちょうど没後400年にあたります。それを記念した空前の規模の展覧会が上野の東京国立博物館において開催されています(3月22日まで)。
長谷川等伯の作品というと、なんといっても国宝の『松林図屏風』、重文の『枯木猿猴図』などの水墨画が知られていますが、今回の展覧会は代表作約80点を一堂に見ることができます。
また、千家不審菴家元に伝わる等伯筆の『千利休像』も出品されています。龍の天井画や柱絵については写真で復元展示されています。
この『千利休像』(1595)は、利休の没後4年を経て描かれた肖像画ですが、黒の頭巾で白扇を手にとり、上畳に座る利休が、実にリアリティに富んだ描かれています。等伯が生前の利休に相対し、その表情を写し取った画稿をもとに描いたものとされています。絵の上部の賛には、三玄院住職の春屋宗園が楽家家祖の田中宗慶に請われて書いたものとあります。
*江戸時代に、鹿苑寺住持の鳳林承章(1593-1668)が残した日記『隔冥記』(かくめいき)の慶安元年(1648)5月28日の条に、利休の孫である宗旦が茶会でこの絵をかけたという記事があるとのことです。
展覧会では「等伯をめぐる人々」という章で、等伯が信春と名乗っていた頃の法華宗の僧侶や武将の肖像画をはじめ、上洛後に描いた重文『日堯上人像』(1572)、重文『春屋宗園像』(1594)などが展示されています。
等伯にとって、元亀2年(1571)33歳の時の上洛が転機となったわけですが、当時の画壇は、狩野永徳とその一門(狩野派)の時代であり、いろんな人々と関わる中でさらに努力した結果、天正17年(1589)に千利休を施主として増築・寄進された大徳寺三門の壁画制作や三玄院の障壁画の依頼を受けて、有名画家の仲間入りを果たしたというわけです。
しかしながら、三門の楼上には利休の木像が安置されたことが、後に秀吉の逆鱗に触れて、利休切腹の一要因となったといわれています。
天正18(1590)年8月、御所造営工事の中で、対屋(たいのや=寝殿)の付属施設で、娘、夫人、女房が居住したところの障壁画制作をめぐって、いさかいが起きました。いわゆる対屋事件で、2月23日の産経新聞にも関連記事が掲載されています(『決断の日本史(20)』)。また、本展『図録』にある京都国立博物館美術室長山本英男さんの『長谷川等伯、天下を取るー上洛後の二十年』によると、公家の勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』にも記述があるそうです。天正18年(1590)8月8日に狩野永徳らが訪ねてきて、造営奉行の前田玄以らが、対屋の障壁画制作を「はせ川と申者」に申し付けたのは迷惑であるので、断って欲しい、と依頼を受けたということです。頼まれた晴豊は、早速11日に准后九条兼孝を通して、対屋の障壁画は狩野派に描かせる旨を前田玄以に伝えています。そして「同13日にはその礼に永徳らが晴豊のもとに参上し、祝杯を挙げたという」ことです。
このように有力公家を動かして、仕事を取ってしまうわけであり、力関係ではまだまだ狩野派の時代だったようです。しかし、山本さんは、狩野永徳の行動は仕事を横取りされた怒りだけではなく、江戸時代の史料で信憑性に問題はあるものの、『立斎旧聞記』の「天正15年(1587)竣工の聚楽第に等伯の障壁画が飾られていた」という記事が事実とすれば、「既に等伯は秀吉の御用をも務めていたこと」になり、「等伯に対する強い警戒心に根ざしたものであったことが了解されよう」と書いています。
等伯の幻影に脅える毎日を過ごしたがためでしょうか、心労がたたって翌月永徳は48歳で急死します。それにより、天正19年(1591)8月、秀吉の愛児である鶴松が病死し、その菩提を弔うために建立された祥雲寺の障壁画を等伯が任されることになります。
能登七尾(今の石川県七尾市)に生まれ、はじめは絵仏師として仏画を描いていた等伯は、自らの努力もあって、トントン拍子に画壇の頂点にまで登り詰めました。しかし、その等伯にも、一緒に上洛した妻に先立たれ、さらに文禄2(1593)年6月には自らの後継ぎと期待を寄せた長男久蔵が26歳という若さで急逝するなど、悲哀に満ちた一面があります。
いずれにしても、「墨の魔術師」ともいわれる等伯の自由で柔軟な感性を、東博の一室に展示されている『松林』の静寂の中で確認されることをお勧めします。 |
|
|
| 仲町つれづれNO.302 2010年2月19日(金) |
| 梅の香りのように-太宰治と山崎富栄 |
昨年の年末26日早朝、太宰治『斜陽』の主人公かず子のモデルといわれる太田静子(1982年他界)が疎開で暮らしていた小田原市下曽我の大雄山荘(木造2階建て約100㎡)が、不審火によって焼失してしまいました。
1947年2月21日、曽我の梅林では満開の紅白の花が甘い香りを放っていたと思われます。太宰治は辺り一面梅一色といった感じの所にぽつんとある大雄山荘に再度の訪問をします。人里離れた桃源郷の隠れ家といった感じのたたずまいの中で5日間過ごし、大学ノート4冊に書かれた彼女の日記を借り出して伊豆の三津浜へいき、旅館安田屋で『斜陽』を書きはじめます。3月17日にも訪れ、その時には妊娠を告げられます。静子は『赤ちゃんができたんだから、これでもう一緒に死ねないね』といったとか。後に太宰の娘の太田治子を出産します。(太田治子は昨年『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』(朝日新聞出版)を上梓しています)
太宰治は、よく読者や知人の日記を再構築して小説にする手法をとっていました。太田静子は自作の小説を送ったりする太宰ファンの一人でしたが、太宰治の助言で、母と暮らす日々を日記として書くようになり、それが『斜陽』の原型となったわけです。
太宰治は、静子から妊娠を告げられてから10日後に、三鷹の屋台で、後に一緒に身を投げることになった山崎富栄に初めて会っています。妻の美知子が出産する3日前だったとも。この頃の太宰治は、友人への手紙に「酒と仕事と女性でメチャクチャ」と書くように、三人の女の間を綱渡りしていくことになります。
山崎富栄が太宰に出会った直接の要因は、19歳で病死した彼女の兄の年一が弘前高校で学んでいたということで、同僚の手引きにより面会します。しかし、太宰治は高等小学校を出てから進学していることと、兄は早生まれということもあって学年が違ったため、太宰治は知らなかったということです。
太宰治と富栄の関係も、いわゆる不倫であったわけですが、「夫婦でもかくや、というほどのいたわりあいと思いやり、信頼の通いあう、誠意のこもった情愛だった」と指摘する人もいます。二人は今からちょうど62年前の6月13日、折からの長梅雨に水かさの増した玉川上水(日頃人々が人食い川として恐れていた川)に身を投じています。それは合意だったのか、無理心中だったのか、はたまた他殺だったのか、という問題や、特に文化人は富栄を悪く書いていました。本当にそうなのかどうか、山崎家側から見てみるとその真相も見えてきます。
山崎富栄は、太宰に出会った日から心中する日の夜まで日記(ノート6冊)をつけています。それが太宰治の晩年を知る、まさに一級資料となりました。太宰治には『人間失格』『斜陽』『桜桃』といった傑作があります。これらは、愛人の山崎富栄の部屋で、彼女の献身的な看病を受けながら、恐らく傍で彼女が見守る中で書かれたもので、これらの作品は二人の愛の結晶である、ともいえます。
山崎富栄(1919ー1948)は、当時戦争未亡人(1944年に結婚、夫は三井物産マニラ支店勤務で現地召集され、1945年1月ルソン島バギオ南方で戦死。太宰と初めて会ったときは奥名姓)で、三鷹美容院に勤める美容師でした。当時の新聞記事によると、彼女は日本で最初の文部省認可の美容洋裁学校である「お茶の水美容洋裁学校(現在の本郷2丁目)校長、晴広の娘(3人の兄や長女は3歳で病死)」で、「同僚と共に、三鷹の屋台で太宰氏と知り合い、氏を好きだといったこともあるが、陽気で、洋裁は巧みで、今まで浮いた話はなかったという。」(『毎日新聞』1948年6月16日付)ことです。さらに「但し、最近は、『人間失格』全集第一の『虚構の彷徨』、及び、十回分だけ書いたという朝日紙の『グッドバイ』など、題名は不吉を暗示し、井伏鱒二氏も『近ごろ彼の題名は少しおかしい』といっている。」と当時の様子が書かれています。
1963年に世界初の弱酸性パーマ液を開発して、世界各国で特許をとった美容師の山崎伊久江という人の自叙伝『真昼を摑んだ女』(扶桑社)によると、山崎富栄とは親戚関係にあり、伊久江は富栄の父に指導を受け、二人は同じ屋根の下に暮らし、一緒に学んでいたということです。富栄は、英語フランス語ロシア語を学び「外国語が堪能で、日本髪や洋髪の結髪のみならず、戦前の華族に十二単の着つけ、おすべらかしのおしたくしていた」そうで、小林秀雄の妹である高見沢潤子から聖書も学んでいます。さらに、富栄は日本の小説には興味がなく、翻訳文学を好んでいたようで、ジッドの『狭き門』、モーパッサンの短編小説、ヘッセの『車輪の下』、『青春はうるわし』、『ハイネ詩集』といった作品を愛読していたといわれています。
山崎伊久江は、今の天皇のご成婚(1959年)に際して宮中にあがり、美智子妃殿下の十二単の着付けの助手もしたそうです。そして「富栄が亡くなっていなければ、彼女が御用をつとめていた可能性もある」と。
山崎富栄については、主に長篠康一郎の『山崎富栄の生涯』(1967)や『太宰治武蔵野心中』(1982)があります。また、富栄の死後わずか二ヶ月で、彼女の日記が『愛は死と共に』(石狩書房)というタイトルで出版されています。これは長篠康一郎編集でも出版されたりしています。そして、昨年10月には、日本初全文訳・訳注つき『赤毛のアン』(集英社文庫)で注目を集めた松本侑子さん(1963-)により、『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(初出の『小説宝石』2009年3月号から8月号に加筆)が著されました。この本により、山崎富栄の実像が、その誕生から、1961年に母の手によって山崎家の墓に彼女の名前のみが刻まれるまで、太宰についても織り交ぜられながら時系列で明らかにされています。そして、時代の潮流の中で「残された謎、遺された人々」を丁寧に検証しています。
*4人の子どもに先立たれた山崎晴弘ですが、その彼が常々語っていたという言葉を挙げておきます。父親の無念さが悲しく残りました。「美しさは、目に見える姿形だけではなく、内面から光輝くものです。美容師はお客様の心の温かさ、優雅さ、知性を引き出す仕事であります。それには美容師本人が、心の温かさ、優雅さ、知性をそなえておらねばなりません」「美を追い求める美容師は、この世の美しいもの凡てを学ばねばなりません」
*晩年の太宰を愛した二人の女性ですが、不思議な縁で結ばれています。『斜陽』の女性である太田静子は、滋賀県愛知(えち)郡愛知川町の出身であり、一方の山崎富栄は、1945年の東京大空襲で父親の学校や自宅、銀座の店などを失い、疎開したのが滋賀県神崎郡八日市町244というところでした。なんとも偶然のことながら、琵琶湖(東岸)に注ぐ愛知川の中流に富栄が住んだ町があり、わずか五キロ下流に静子が生まれ育った町があるのです。
*松本侑子『恋の蛍 山崎富栄と太宰治 』 光文社 2009年 |
|
|
| 仲町つれづれNO.301 2010年2月17日(水) |
| シベリア鉄道を旅した女性作家たち |
五木寛之さんの『青年は荒野をめざす』(文春文庫)は、18歳の主人公がトランペットを携えて船でナホトカに渡り、そこからハバロフスクへ飛行機、さらに、シベリア鉄道でモスクワへ、ヘルシンキへ、パリへという冒険あり、恋ありの物語です。その影響もあってか、1970年代に冒険を好んだ学生は、シベリア経由で欧州へ行くことが多かったそうです。
同じく、シベリア鉄道(全面開通1904年)の旅を長いこと夢見ていた森まゆみさん(1954-)は、与謝野晶子(1878-1942)、中條百合子(1899.2.13-1951.1.21)、林芙美子(1903-1951)の三人も、時こそ違いますが、同じシベリア鉄道でヨーロッパへ行ったことに気がつき、このことをテーマにして夢のシベリア鉄道に乗る旅(2006)を思いたったそうです。そしてまとめられた本が『女三人のシベリア鉄道』(初出は『すばる』2007.3~2008.5)です。
佐倉ゆかりの中條百合子は、東京山の手育ち(本郷)のお嬢さんで、17歳で作家デビューしています。以前にも小欄NO.78で紹介しましたが、建築家の中條精一郎、葭江の長女で、「母は国粋主義的な倫理学者西村茂樹の次女で華族女学校を首席で出た才媛だった」そうです。森さんの家は、彼女の育った家と10分も離れておらず、同じ小中学校に通ったこともあって、以前から親近感を持っていたそうです。
百合子は、女子高等師範付属(お茶の水高女)へと進みます。「当時の女性としてはきわめて明晰で、幅広い知識を持っていたことは文章やエピソードから分かる」ように、文学好きの母の影響と、本を買う小遣いも十分に与えられていたため、聖書、ギリシア神話、徒然草、古今集、リア王、オスカー・ワイルド、モーパッサン、E・.A・ポー等々の名著を手当たり次第に、鋭い感受性で読破していったようです。日記には「本も読めず、書けもせず、勉強もせず、只まるで女中と同じように何をかんがえるでもなく体ばっかりをうごかして暮らしてしまった今日一日って云うものがいかにも馬鹿らしいような気がした(1913年7月26日)」と正直に書いています。この頃から、彼女は読むだけでは飽き足らず、翻訳し習作を書き始めています。
また、早熟な彼女は、早くから社会的名士や建築家などと交流を持っていたようです。日記には「一日も早く広い世の中に飛び出したい」「生きぬく!動きぬく!書きぬく!」といった言葉がみられるといいます。森さんは、大正時代に「17歳でこれだけ理想を高く掲げ自己をのばし、やりたいことをやった少女が」いたことに驚いています
そうして書き上げた『貧しき人々の群』は、父方のふるさと、福島県安積郡開成山あたりの小作農を描いたものですが、坪内逍遥が読み、「中央公論」の滝田樗陰にわたり、『中央公論』1916年9月号に発表され、天才少女現ると喧伝されたということです。
母の葭江は「わがままでぐちの多い人であったうえ、糖尿病の持病があって、子どもは次々生れ次々死んだ」(9人中6人が死亡)ために、百合子は母を支えながら、弟妹の世話をしていたようです。母は新進作家としてデビューした娘の成功の仕上げとして華族との結婚を考えていたようですが、現実は地味でさえない男と結婚をすることになります(『伸子』(1924)参照)。そして、実家の近くに住むものの、百合子はすぐに実家に通うようになります。やがて夫は結核になり、療養所に入ります。これが事実上の離別となります。
百合子は、1927年11月の28歳のときに、3歳年上の湯浅芳子(1896-1990)とシベリア鉄道で二人旅をしています。湯浅芳子は京都の裕福な魚問屋に生まれ、料亭の養女となり、日本女子大や津田塾に学び、早稲田露文科の聴講生となってロシア語の研究や翻訳を続けていた人で、チェーホフの『三人姉妹』『櫻の園』(いずれも岩波文庫)や『森は生きている』(岩波少年文庫)など、今でも読み続けられているたくさんの訳書があります。二人の関係は「友人という以上の知的にも精神的にも、おそらく肉体的にも深い結びつきがあった」といわれています。
彼女たちの目的地はモスクワとレニングラードでした。当時のモスクワは人口が6年間で約2倍の201万8千人に膨張するほどで、4つの世帯がたった一つの台所しかない貸し室に住む状況で、貸間は払底していて、最初はパッサージ・ホテルで生活(1泊1万5千円ほど)し、やがて、新聞広告を出し、協同家屋として建てた家の一室に移ったようです(『モスクワ印象記』より)。
湯浅芳子は、語学とロシア文学の研究のためであり、中條百合子のねらいは社会主義革命という「現実化した理想」の現場を見ることでした。彼女の見たのはちょうど革命後十年の、スターリンの大粛清の時代の前、プロレタリア文学、美術、演劇の最高潮期であったようです。
1930年10月25日モスクワを発って、シベリア鉄道でウラジオストク、そこから敦賀に船で帰国しています(11月8日東京着、13日間の旅)。 帰国後、百合子はひそかに日本共産党に入り、9歳年下の宮本顕治と結婚、今は宮本百合子の名前の方が知られています。彼女がどうしてロシアへ行くにいたったか、モスクワでの生活などについては、彼女の長編『道標』(1950)などや『女三人のシベリア鉄道』(2009)をご覧ください。
米沢藩士と佐倉藩士の血をひく中條百合子は、恵まれた文化的環境に育ち、正義感と優秀なる能力と感性を身につけ、「停滞を嫌い、たえず変化と前進をつづけた」稀有な女性であったといえます。
*他にも、たくさんの女性がシベリア鉄道に乗っています。例えば、林芙美子のライバルであった吉屋信子も、1929年春に恋人の門馬千代とシベリア鉄道でヨーロッパ旅行しているようです。湯浅芳子は『憶い出すこと』(『婦人公論』1973.年9月号)の中で、モスクワのホテルで二人にあったことを書いています。また、武林夢想庵の妻文子、歌手の三浦環、映画輸入業者であった川喜多かしこなどもいます。
*森まゆみ 『女三人のシベリア鉄道』 集英社 2009年
*『宮本百合子全集』 新日本出版社
*瀬戸内寂聴 『孤高の人』 筑摩書房(ちくま文庫) 2007年~湯浅芳子について
*沢部ひとみ 『百合子、ダスヴィーニャ湯浅芳子の青春』 学陽書房 1996年
*黒澤亜里子編著『往復書簡宮本百合子と湯浅芳子』 翰林書房 2008年
*『林芙美子全集』 全23巻 新潮社 1951~1953年
*立松和平編 『林芙美子紀行文集・下駄で歩いた巴里』 岩波文庫 2003年
*林芙美子 『巴里の恋』 中央公論新社
この稿を書き終わるところで、立松和平さんが亡くなったというニュースを聞き、驚いています。あまりにも早すぎます。栃木なまりの行動派で、市役所出身作家でもあり、若いときから親しみを持っており、残念でなりません。謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌 |
|
|
| 仲町つれづれNO.300 2010年2月10日(水) |
| 瞽女(ごぜ)さん その2 |
先月『瞽女の画家・斎藤真一からの手紙』という本が出版されました。前回紹介した画家の斎藤真一(1922-1994)が、瞽女の画家として惜しみなく彼を支援した画商の美術収集家の木村東介(1901-1992)に宛てた手紙をまとめたものです。娘婿の荒井一章さんがまとめに当たって書いていますが、まさに「一画家の情念と、そのしごとを熱狂的に応援した一画商との交流記録」です。
木村東介は、柳宗悦の指導を受けて開業した人で、かのジョン・レノンとも交流があったことで知られています。娘の木村品子さんの「二人三脚」によると、瞽女の絵に感動した木村東介は、「日本民族にとっての財産」であり、「瞽女一筋でいくべきだ」という激励をおくったところ、それを天の声として受けとめた斎藤真一は旅先から絵入りの手紙などを「時には、日に二通くるなど」、切ゝと「執拗なまでの探究心」を綴ってきたとか。今回それが明らかにされたわけですが、柳の影響を受けて、自らを民族画商と名乗った木村東介だけに、その「肩入れも尋常ではなく、この二人の情熱が絵画ばかりではなくその後の映画や芝居などの瞽女ブームを巻き起こした」のだと書かれています。
この書簡集は、昭和42年4月10日から昭和47年8月3日までの斎藤真一からの(抽出された)手紙によって編まれています。また、明治・大正・昭和と生きた瞽女の杉本キクエについて、「長い旅日記ほど日本の姿、日本の縮図を感ずるもの」はないとして、事実に迫った画家が自分の幻想(宇宙観)をキャンバスに描いたきっかけなどがよくわかります。
彼は「一生涯たった一度しかない命をすべて瞽女にかけてみたい」、また「木村様、私に才能があるのでしょうか。勿論『無い』と言われても、私はそれをやるよりほか方法を知らない人間なんですが」「何か方法をお教えいただければ」とも綴っています。さらに、「盲目の瞽女さんの記憶の中に入りたい」、その中に「何か私達の共通な何者かを見出そうと一生懸命な」姿が見えます。
彼女たちが、まるで水の流れのように話す昔の思い出が昨日のことのように聞き、それを驚きとして受け止めて、その驚きが「当然すぎるほど当然な事がら」ながら、自分にとっては「実は重要な価値なの」だといいます。「事実であるが故に幻想」なのだということで迫っていきます。瞽女さんといっしょに旅をし、瞽女さんに逢っている時だけ「人の生きる喜びを痛切に感ずる」とも。それは「あまりにも見るもの聞くものすべてが偽物ばかりの現世に住む不幸を感じてなりません」と。
そして、「芸術ぐらいは純粋で清い水や空気や土や樹木や花のようにありたい」、「瞽女さんのみに水や空気や土を感じなければならない現代人など、今一度瞽女の精神に帰らなくてはなりますまい。私は本当に瞽女さんでいいのです。」「私の絵を本当に愛する人の為に描いているのです」(昭和47年1月24日付け)等々、一瞥しただけでも、斎藤真一の命を賭けた強い意志が綿々と綴られていて、感動せずには居られません。
なお、木村東介については、昨年5月に出版された福田和也さんの『日本怪物列伝』(角川春樹事務所)に詳しく書かれています。彼のスケールの大きさがよく理解できます。
* 『木村東介様 瞽女の画家・斎藤真一からの手紙』 不忍画廊+羽黒洞木村東介 2010年
* 木村東介 『ランカイ屋東介の眼』 岩崎美術社 2000年 |
|
|
| 仲町つれづれNO.299 2010年2月2日(火) |
| 余寒の候といいますが |
近所の庭や公園にある梅の木は、紅梅白梅とも色鮮やかになってきています。梅は年が明けて最初に匂う花です。花見というと、今では桜の木の下で宴を開くことを指しますが、明治40年代までは梅見のことだったそうで、その昔は菊や萩の花を指すこともあったようです。
1946年1月に市川に引っ越してきた永井荷風(1879-1959)は、明治の末に欧米から帰国した頃、向島の百花園でも梅の木は枯れていたし、新宿、池上、小向井(江東梅園)などにあった梅園も皆閉ざされていたと書いています。「明治末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあった梅も、大抵枯れ尽くしたまゝ、若木を栽培する処はなかった。梅花を見て、春の来たのを喜ぶ習慣は、年と共に都会の人から失はれてゐたのである」(『葛飾土産』)と。 |

(以前に紹介した、雑司が谷霊園にある村山槐多の墓。永井荷風の墓も同じ霊園にあります。)
|
 |
博文館の教養シリーズ『日用百科全書』12編に『通俗書簡文』(1896)という本があります。これはわずか24歳の樋口一葉(1872-1896)に依頼して書かれたもので、彼女にとっては生前唯一の刊本で、最後の仕事ともいわれています。その中に、余寒見舞いの文があります。
「暦をくれば春の日数に入り候へども、梅うぐひすなどかけても思ひよられぬ御寒さにおはしまし候を、いかゞ暮させ給ふや・・・」(暦のうえでは立春をすぎましたのに、梅や鶯などとても思い及ばぬ寒さでございますが、いかがお過ごしでしょうか・・)という書き出しで、お返し文の結びは、「池の氷の岸をはなれん折まち渡り候 御かへしのみ かしこ」(池の氷が岸を離れるのをひたすら待っております)と、なかなか美しく綴られています。
樋口一葉は、作家生活わずか14ヶ月あまりで「たけくらべ」、「十三夜」、「にごりえ」といった作品を遺しています。このような樋口一葉の文の美しさを味わいながら、手紙の書き方、約束事、心構えなどを学んでみることも必要ではないでしょうか。森まゆみさんの『かしこ一葉』(1996)の一読をお勧めします。なお、余寒見舞いは2月いっぱいに出すもののようです。
ほそけれど人の杖とも柱とも思はれにけり筆のいのちも (樋口一葉の少女時代の最初の歌)
*永井荷風 『荷風随筆集』上 岩波文庫 1986年
*森まゆみ 『かしこ一葉』―『通俗書簡文』を読む 筑摩書房 1996年 |
|
|
| 仲町つれづれNO.298 2010年1月31日(日) |
林倭衛(はやししずえ)という画家
|
|
おれはおれの魂を爆発させたい。おれは太陽の光でおれの視神経を焼きたい。
凡て狂乱にまで逆上りゆく過度の緊張にありたい。
おれの持っているものゝ凡てをこの地上に叩きつけて死にたい。
おれから思考と躊躇との二つの大きな障害を取りのけたい。
おれの持っている一切の教養と知識と記憶を忘れ去りたい。
然る後再び、最初から一歩を踏み出したい。
・・・・(略)・・・・
この詩は、今月26日で没後65年の画家林倭衛(1895-1945)の「魂の爆発」(『文明批評』大正7年2月号)の部分です。先月小欄で紹介した村山槐多(かいた)と同様、詩人の道か画家の道かと迷うほどの才能があったようです。林倭衛は長野県上田市の生まれで、16歳で上京して書店や印刷会社で働きながら、絵や詩作を試みています。1911年に大下藤次郎の日本水彩画研究所夜間部に入り本格的に絵の勉強を続けます。この頃大杉栄らアナーキストと交わります。1916年に二科展に初入選(関根正二、東郷青児、中川紀元らも)し、その後毎年賞をとって注目されることになります。1921年、坂本繁二郎、小出楢重らと同じ船で渡仏し、ドイツにも何度となく出かけています。珍しいことに、セザンヌのアトリエを借りて制作もしています。1926年に帰国後は春陽会に迎えられています。1928年にはシベリア鉄道で再度渡欧(1年余)。画風は変化し、詩的で明るい色彩の風景画を遺していますが、晩年の作品は東京大空襲により殆んど失われてしまったそうです。大杉栄を描いた『出獄の日のO氏』、『H氏肖像』(久板卯之助)などの代表作があります。
林倭衛は房総ゆかりの画家でもあります。1935~7年市川市菅野に、1938~41年には鵜原にも住んでいます。鴨川市波太海岸などを描いた『海景』や『鵜原の海』(1940)などの作品に、反骨の画家といえども、伸びやかな筆致の海の表現にすばらしさを感じます。
また林は、佐倉ゆかりの倉田白羊をはじめ、有島生馬、村山槐多、関根正二、猪谷六合雄、菊池寛、広津和郎、芥川龍之介、室生犀星(『M氏像』)、出隆、久米正雄等の多くの人との交流がありました。このような巡り会わせが、社会の矛盾を感じつつも、自由に対する熱情を抽象表現に表出するのではなく、美しい風景や人物の自然な表現の中への発露へと、林を導びいていったと見ることが出来るのではないでしょうか。
大正時代のデモクラシーの高まりの時代から、晩年は時代的には戦時下で、物資も乏しい中での生活を続けていた林倭衛は、結局酒と女に精魂を傾けるようになり、放浪生活をしていたようで、それがたたっての無念の死を迎えたようです。窪島誠一郎さんは「林倭衛―没後65年:その孤愁のゆくえ展」に寄せて、倭衛の絵の底にある不思議な静けさに着目し、「私にとっての倭衛は、一生涯自分の真の姿を隠していた『孤愁の画家』のように思われる」と書いています。
*村山槐多の命日2月28日には「槐多の短くはげしかった人生とその作品をしのぶ集い」として「槐多忌」が開かれます。今年は盲目の津軽三味線奏者の踊正太郎さんのコンサートもあるようです。その信濃デッサン館のアネックスギャラリーであるキッド・アイラック・アート・ホール(世田谷区松原)において「林倭衛―没後65年:その孤愁のゆくえ展」が開かれています。今回新たに発見された友人の画家浅枝次朗(1888-1967)の肖像と思われる「ポートレイト オブ サンジカリスト」(1916.6.16)をはじめとした作品、スケッチ約30点と、上田市といえば、眼の療養中という山本鼎からの手紙、大杉栄「獄中記」などの関係資料も展示されています。また、このビルの地下にはブックカフェ「槐多」という店があります。
*林の娘(林聖子さん)は、太宰治の『メリイクリスマス』の少女(シズエ子)のモデルになっています。作品では。少女時代かわいがっていて大人に成長したシズエ子と偶然東京郊外の本屋で邂逅した一日を綴っています。(太宰との関係については、野原一夫『回想太宰治』新潮文庫を参照してください)
|
|
|
| 仲町つれづれNO.297 2010年1月27日(水) |
| 瞽女(ごぜ)さん |
わが故郷の新潟には、江戸時代から、高田瞽女といわれる目が不自由な女性旅芸人がいました。彼女たちは紺絣の着物に前掛けをつけ、丸いスゲ笠をかぶり、3~4人のグループで、民家の戸口で三味線を弾きながら、瞽女唄といわれる繊細な哀調を含んだ民謡やはやり唄、口説節(「佐倉宗五郎」「山椒大夫」「八百屋お七」などに節をつけて歌物語にしたもの)などを唄いながら、村から村、里から里へ、一年間決まったコースを旅していました。民俗学者によると、彼女たちの旅(門付け)は1977年春で終わったといわれています。また、鈴木昭英『越後瞽女唄絶やすまい』(2009.9.29付『日経』)にも詳しく書かれています。
瞽女は、幼くして失明した子がなることが多かったようです。雪国で医学が乏しかった時代のこと、一般的には、はしかや天然痘、栄養不足が原因で失明の不幸にさらされ、両親はその子たちの行く末を案ずるばかりに瞽女に出さざるを得なかったと考えられます。瞽女という名は、確証はないものの、その昔貴族社会の御前で芸をもたらせたということから、盲御前、即ち「ごぜ」という名が生まれたともいわれています。
この瞽女に、いわば日本のジプシーとして魅せられた画家が斉藤真一です。現在、武蔵野市立吉祥寺美術館で斉藤真一展が開かれており(2月21日まで)、久しぶりに斉藤真一の世界に浸ることができます。
画家の斉藤真一(1922-1994)は、1960年にヨーロッパ留学から帰国し、藤田嗣治の勧めもあって津軽へ旅するようになります。次第に津軽三味線の旋律に魅せられ、そこで瞽女の存在を知った彼は、3年後に高田で瞽女に会うとともに、十年余をかけて自ら地図をたよりに歩き続け、多くの絵画作品を遺すと共に、『瞽女=盲目の旅芸人』(第21回日本エッセイストクラブ賞)や『越後瞽女日記』(1972年ADC賞受賞)を著しています。その記録は、当時その地で生まれ育った私よりも、上越の山野や集落について詳しく、驚かされたものです。晩年は吉原の遊女たちの世界をもテーマにしましたが、佐倉に残る遊女の写真なども提供したことがありました。資料収集にもすごく力を注いでいた方で、海外などでも購入していました。
この年末年始に、山里の家で書棚から『瞽女=盲目の旅芸人』を取り出して読んで見ました。彼は、「私が見、私が知り、私が歩いて、そこで得た経験から、その感動を出来る限り事実に即して、一部始終とどめて置きたかった」「日本の歴史の裏面にあった一抹の哀しい瞽女といわれる盲目の女旅芸人の声として記録してみたかった」(「はじめに」)と、その動機について書いています。
内容は、瞽女との出会いから、瞽女宿めぐり、瞽女唄、瞽女の歴史、そして瞽女への想いなど、そして「大臣が一番偉くて、瞽女さんは乞食だと誰が決めたのか・・・。私はこの辺で『回れ右』と号令をかけなければ、社会はメチャメチャになってしまうとさえ思っている」(あとがき)とまで書いています。そこには画家ではなく、一人の人間としての強い意志・姿勢が見てとれます。今の世では考えられない、彼女たちと地域の人々との、ありきたりな義理人情の飾り言葉でない身内以上の何かで結びついた強い絆を感じとったのです。彼は「これほど人間らしくあった時代は、もう再び訪れないのであろうか」とも書いています。
*瞽女の正月は、市内にいて唄や三味線の稽古、門付けで町を流し歩いたりして過ごしたようです。彼女たちの守り神は弁財天で、25日の弁天講まで飾り、その日は小豆ご飯を供えたそうです。29日は組合総会で、17軒の親方が集まり、一年の巡回の日取りを決めていたということです。冬の旅(2.3~21)、7日間の薮入り、春の旅(3.3~24)と続くわけですが、12月27日に必ず帰宅し、年越しの準備をするのだそうです。この日に遅れると罰金を取られたということです。
*斉藤真一の本より、瞽女唄の一部を紹介して終わります。(「松前」の部分)
春のうぐいす何見てとまる 梅の木小枝をみてとまる・・・
私しゃ貴方の何見てとまる 真の心を見てとまる・・・
*杉本キクエ自作の唄。斉藤真一は「何と孤独な情念の唄であろうか。しかし、こんな強い意志の唄をわたしは知らない」といいます。
ねえあなた あたしゃ野原の一本松よ
よそに 木(気)がない松(待つ)ばかり
あなた 山吹 浮気花
どこに実がなる あてがない
* 斉藤真一 『瞽女=盲目の旅芸人』 日本放送出版協会 1972年
* 斉藤真一 『越後瞽女日記』特装版 河出書房新社 1972年(普及版1975年)
* 斉藤真一 『斉藤真一放浪記』 美術出版社 1985年
* 斉藤真一 『吉原炎上』文庫 文藝春秋 1987年
* 篠田正浩監督作品『はなれ瞽女おりん』(東宝配給、岩下志麻主演) 1977年 |
|
|
| 仲町つれづれNO.296 2010年1月20日(水) |
| 鉄道文学 |
|
先週末の新聞(16日)によると、京成電鉄が7月に開業する成田新高速鉄道で使用する特急車両「3050形」が公開されました。車両の外装は灰色に青の横じまが入り、そこに飛行機の模様が描かれ、青地の座席には白地の飛行機の模様が入っているとのこと、昔に比べると、京成電車にも戦略的デザインが導入されてスマートになった上に快適な車両になってきています。利用者としてはうれしい限りです。
明治学院大学教授で日本政治思想史専攻の原武史さん(1962-)は、1996年から連載中の『鉄道ひとつばなし』(『本』講談社)の中で、宮脇俊三、種村直樹、川島令三、嵐山光三郎の4人を鉄道趣味界の「四天王」と呼び、この4人はそれぞれ全く異なる持ち味があり捨てがたい味があるとしています。
趣味の世界は奥が深いもので、原さんも鉄道趣味界の一人でしょうが、学者らしく「鉄道そのものではなく、鉄道を通して見えてくる日本の近代や、民間人の思想や、都市なり郊外なりの形成や、東京と地方の格差など」に興味をもって書き進めています(『本』2009年12月号では「東大合格上位校と鉄道」について書いています)。
日本文学史上で鉄道を題材にした作品といえば、内田百閒の『阿房列車』シリーズ(1950~55)、志賀直哉の短編『真鶴』(1920)、芥川龍之介の『トロッコ』(1922)、松本清張の『点と線』(1958)、西村京太郎の作品などを思いつきますが、阿川弘之さん(1920-)も大の乗り物ファンで、造詣が深い作家です。
鉄道に関する小説だけを集めた黒羽英二(1932-)の『十五号車の男』(2009年)という本があります。この本には、半世紀にわたって発表された、本のタイトルになった『十五号車の男』(初出:『三田文学』1973年.11月号)を含む8篇の小説が収められています。そのなかに『成田』(初出:『文藝軌道』2008年10月号)という1篇があります。全篇にわたっていえることは、著者の少年時代の鉄道体験が原点になっていて、それが現在まで鉄道廃線跡探索を続け、多彩な作品を書き続けてさせているということです。
『成田』には、その原点といえる少年時代に体験した鉄道との因縁話、成田山新勝寺参詣のためにつくられたチンチン電車廃止の日に偶然乗り合わせたという話が、ひとり語り的におもしろく語られており、それを読むと、成田山の電車の沿革がわかります。
チンチン電車とは、正式には1910年12月開業した成宗電気軌道のことで、開業時に「新造した十五輌の東京市電型ダブルルーフ、下窄(すぼま)りの、牛除け金網のついた四輪単車のポール集電装置電車」で、成田山門前(後、不動尊)から成田駅前(後、本社前)間1.05キロを運行していたようです。
1911年1月20日には成田駅前―宗吾間(5.3キロ)が開通しています。社名はその後成田電気軌道、成田鉄道、と変遷しますが、1944年12月に不要不急線として廃止になります。会社としては、その後、今の京成電鉄の前身である京成電気軌道の傘下に入って、今は千葉交通というバス事業会社として存続しています。著者は「全国広しといえど、この電車ぐらいスタートから何度も廃止コールが出た電車はない」、「かわいそうにな」と語らせています。
*なぜチンチン電車というのでしょうか。路面電車では、運転士と車掌との合図のために、鐘(ベル)を鳴らした音に由来するようです。一回鳴らしたり、二回鳴らしたりしていました。著者は「電車が発車する時、車掌は必ず吊り輪をぶら下げている横棒の上を通っている白くて太い木綿製の綱の元の取っ手の木を握って」、「二度引っ張ると、運転席の頭上に取り付けてあるベルが、ちんちんと、律儀に二度鳴ったものだ」と語っています。
*この作品の中には、佐倉という地名が出てきます。母の弟の説明のなかで、「東京の中学卒業後、佐倉の書店に婿養子として入っていて結核で倒れ・・・」と語られています。
*黒羽英二 『十五号車の男』 河出書房新社 2009年
*今尾恵介監修『関東1』〈日本鉄道旅行地図帳3〉新潮社 2008年
|
|
|
| 仲町つれづれNO.295 2010年1月17日(日) |
| 2010年新春の新町通り |
|
気がつけば、小正月もあっというまに過ぎてしまいました。
今年も暖冬との予想でしたが、外れたのでしょうか。このところ氷点下まで冷え込む真冬日が続いており、春が待ち遠しい今日この頃です。
そんな中、佐倉図書館前の新町通りでは、冷たい風に元気よく幟がはためいています。「何かお祭りでもやってるの?」という雰囲気です。図書館の窓口でも「あれは何?」と聞かれたりします。
今年は、初代の佐倉城主である土井利勝が1610年に佐倉藩主となって400年を迎えます。また、年始は「佐倉七福神巡り」で、この新町通り訪れる方も多いため、お正月の賑やかしと景気づけに、ということで、佐倉商工会議所と新町商店会と歴史生活資料館が協力して、歴代の佐倉城主20人の名入りの幟をたてたそうです。
毎月10日は、金比羅市も開催されます。麻賀多神社も近くにあります。初詣などまだの方は、新たなる気持ちで、この新町通りをぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
|
 |
|
|
| 仲町つれづれNO.294 2010年1月16日(土) |
| 哲学の重要性-10年代を意識して |
元旦の新聞で、「次の10年へ」(『日経』)という見出しに代表されるように、特集記事などにみな「10年」がついていました。西暦2010年となり、21世紀の10年代が始まったということです。90年代、80年代というのですから、「10年代」といっても驚くことはないのですが、まったく意識していなかったためか違和感を否めません。新聞には「2010年は、変化の始まりの年になる。」とあり、『次の10年へ、未来を読む』では、「日本が希望ある成熟社会への移行を果たすために、人口減少や財政悪化など様々な危機をどう克服するかが厳しく試される。経済、そして社会を元気にするのは私たち一人ひとりの意識と行動。地球規模の視野と生活に根ざした視点で現実をしっかり見据え、夢のある未来を歩んでいこう。」と書かれています。
「ゼロ年代」という呼び方もありました。「ゼロ年代」とは西暦2000年から09年までの10年間のことだそうです。経済界や経済学者の世界では、90年代は「失われた10年」といわれ、ゼロ年代の10年で「失われた20年」といわれています。ゼロ年代の日本経済について、例えば伊藤元重東大教授は、「経済構造を新しい姿に転換しきれなかった10年間」(『日経』09.12.27付)だったと発言しています。2010年、今後も不況が続くともいわれています。
私たちの心も沈んだままですが、この10年代はゼロ年代同様、様々な変化が予想されます。その変化の意味を正しく捉え、適切に対応して行くためには、「世の中を見つめる視点を時代の変化に伴って変化させていくこと」(『経済展望台』10.01.05付『朝日新聞』)が大事だといわれています。
アメリカでは、「ゼロ年代」をどう呼ぶべきか議論になっているとニュースを見ました。(『朝日新聞』‘09.12.28付)それによると、英語では、80年代は「Eighties」、90年代を「Nineties」と一般的に呼びますが、ゼロ年代は呼びにくく、命名のあり方について20世紀半ばから議論が続き、「Zeroes」,「Double O’s」などが提案されたものの未だ定着していないということです。1900年から09年にかけての10年を、ゼロを意味する単語「aught」を使って「Aughts」(オーツ)と呼んだことがあるものの、つづりがやや特殊でもあり、定着しなかったということです。10年代に、どのように命名されるか今後注目しましょう。
「ムダ社会、ニッポンの現実」(『本の窓』10.01)という特集が目に留まりました。「ムダは、一見排除すべきと思われますが、決してムダではないムダも私たちの中にあります。それは、心が実に豊かになり得るものでもあります。」と。4人の人がムダについて書いています。大切なものは何かを知ることになれば良いと思います。
この雑誌の中に、体験に基づいた独創的な見解をあちこちに書きまくっている佐藤優(1960年生まれ)さんが『勉強術-社会をしぶとく生き抜くために-』を連載しています。そこで、立花隆さんの指摘をとりあげ、「日本の中高等教育に決定的に欠けているのは哲学の教育だ」(『東大生はバカになったか 知的亡国論+現代教養論』2004年)と述べています。
改めて考えてみると、「知識としての哲学」は学んでも、自分の頭でものを考える、「哲学すること」それ自体の教育ではなかったといえます。佐藤さんは「頭が悪くなるための勉強法」について、書き進めています。「いくら勉強をしても知識が身につかないというのは、頭の中で知識が整理できていないので、大量の情報によって消化不良が起きてしまうからだ。こういうことが起こらないようにするために、ヨーロッパやロシアの教育では、哲学を重視している」といいます。自戒を込めて挙げるならば、いくら情報をたくさん知っていても、「頭の中で整理されてつながっていないと意味がない、それは現実の役に立たないということ」だと。自分の頭でものを考えるという姿勢をとらない限り、知識だけを身に付けても、思考や判断が出来ない「頭の悪い」人間になってしまうということです。
哲学の語源、フィロソフィアとはギリシア語で「知を愛する」という意味があり、「知の世界では『自分の頭でものを考える』ということが、『知を愛する』ということ」だということです。日本人はとかく正解のない問題について考えることを苦手としてきたわけですが、いつまでもそうであっては生き残れません。哲学の重要性を感じています。特に、これからはどこの社会でも、上に立つ人は哲学がないと、心も沈みっ放しになってしまいます。10年代の初めにあたって、哲学の重要性を拾い読みして見ました。 |
|
|
| 仲町つれづれNO.293 2010年1月5日(火) |
| 寅の春を迎えて |
新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。
新年の干支は、庚寅(かのえとら)、干支の動物では虎になります。虎は「千里往って千里還る」、その勢いのよさが讃えられます。今年は虎にあやかって、勢いを盛り返し前進したいものです。
元旦に部分月食が観測できた所もあったようですが、如何でしたか?「小寒」の今朝は、深夜にお湿りがあったのか、家の周りが濡れていました。そんな光景にぴったりの、良寛の句があります。
『春雨や門松の〆ゆるみけり』
我が家も玄関などに花が生けられ、新年を迎えた気分になっています。
この「いけばな」とは、江戸時代中~後期に出現した様式名です。もともとは仏への供花の形式をもとにして座敷飾りの花が生まれ、意思的行為として花を立てる「立て花」、「立花(華)」、「抛入花(なげいれはな)」と呼ばれたこともありましたが、「いけばな」が一番広がりを見せた様式として、今日にいたるまで親しまれてきたわけです。
一般的に「いけばな」とは、芸術の一種で、時間的制約から自由であり得なかったところにいけばなの特質があり、「花卉を素材とする暫時傾刻の造形芸術のこと」(村井康彦)といわれます。暫時傾刻とは難しい言葉ですが、しばらくの間だけの芸術ということでしょうか。
15世紀室町時代に京都で生まれた「いけばな」は、戦国時代に一個の芸術として確立したといわれています。いけばなの源流を考えれば、花は美しさだけではなく、霊的威力を持つと信じられています。そういう意味では、正月の門松や正月飾りも神を迎えるための標識であったといえます。
いけばなは女性の文化、嗜みのひとつと思われがちですが、今回江戸東京博物館で『いけばな』展(1月17日まで)をみて、いけばなの担い手はかつては男性であったということを知ったところです。女性が花と係わりあうのは江戸時代後期以降になってからとか。
しかし、『いけばなと江戸時代の女性たち』(コラム『図録』所収)によると、あくまで「饗応のための立花や砂物は武家や上層商人の一家の主たる成人男子の楽しみであり嗜み」であり、女性は家庭の小間にあった、力のない女性でも気軽に多様な飾り方を楽しめる「抛入花」が中心だったといわれています。例えば、読書する女性たちの部屋を描いた『女訓百人一首錦鑑』(1841)のなかで、背景に梅や椿が生けてあります。また『新増女諸礼綾錦』(1841)では歌留多遊びを興じる婦人と子ども達の後ろには水仙が生けられています。
上方から江戸に諸流派が進出してきたのは18世紀後半のことになります。そして今では国際的にも空間芸術としてのIKEBANAとして認知され、伝統的な様式美の作品から先鋭的な作品まで、多彩に展開されています。
*今年は、暦どおり正月三ケ日の休みが終わり、4日の月曜日から仕事初めというところが多かったことと思います。市内の図書館は、昨日から今日にかけて開館の準備(休館中の新聞や、ブックポストへ返却いただいた本を整理など)をしており、明日6日(水)より開館いたします。
*昨夕オープニングがおこなわれた『第54回現代書道二十人展』(上野松坂屋で9日まで)を見てきました。例年、その年の書芸術の動向を示す書壇(漢字、かな、篆刻の分野)を代表する20人の新作展として開催されているものです。今年も皆様におかれましても良い年でありますよう祈念しております。 |

(我が家の玄関に
生けられた、新年の花) |

(山里の雪中ながら、
元気な南天の実) |
|
|
このページのトップへ戻る
このページは、InternetExplorer5.5以上、または NetscapeNavigator6.0以上のブラウザでご覧ください。
|