| 仲町つれづれNO.292 2009年12月26日(土) |
| 丑の暮れに |
忙しい時間を過ごした後、やれやれとした気分で一服のお茶を飲む、その美味さは他に例えようもなく、といった時があるものです。今年も終わろうとしています。時間ができたら「何でもできる、何でもしよう」と思っていましたが、何ができたか、何を味わったのかを振り返っているこの頃です。
今月、奈良市の西大寺旧境内から、奈良時代の文人官僚として知られる石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)の名前や位階、兼務する官職を記した木簡が出土したというニュースがありました。彼は当時の貴族で、自宅を寺として、書庫を芸亭(うんてい)と名づけて希望者に公開した、いわゆる日本最古の公開図書館の始といわれています。今年は、世界最古の図書館といわれるエジプトのアレクサンドリア図書館について見聞きし、さらに、最先端をいく新しいアレクサンドリア図書館の館長の話も聞くことができました(仲町つれづれNO.261、262、282を参照のこと)。
「世のできごとが、あまりなじみのなかった英単語を有名にすることがある。去年の経済危機でグリード(強欲)を知らしめた。最近目にして覚えたのがミナレット」とは、『春秋』(12月11日付『日経新聞』)に載っていたコラムの一節です。
ミナレットとは「イスラム教寺院に付属する尖塔を指す言葉」だそうです。右派政党がイスラム系住民の増加への不安をあおり、「ミナレットは国のイスラム化の象徴」と訴えた結果、先月末、スイスで「今後ミナレットの建設を禁じる」という憲法改正案が国民投票で可決されたのだそうです。
このコラムニストは、憤りまじりの「なぜ」の思いが収まらないとしています。それは「かくも簡単に人はなびくのか」と「メディアは何の役割も果たさなかったのか」という疑問が残ったからというわけです。
この「ミナレット」から、日本の建築家を思い出しました。取りあえず、本屋で建築関係の本を立ち読みしたところ、町並みシンポジウムなどでも来佐されたことのある建築評論家の宮内嘉久さんの『前川國男賊軍の将』などを発見し、懐かしく思っていたところ、15日の新聞に宮内さんの訃報記事が載っていました。13日に脳梗塞で死去され、享年83歳とのこと。こうした不思議な偶然がよく重なることが多かったように思います。
不況の波は、出版界をも襲っています。京成佐倉駅前から書店がなくなりました。出版不況といわれながらも、たくさんの本が出版されており、例え一日に一冊読んだとしても、面白そうな本を読み尽くすことはできないのです。人生は短く、面白そうな本は多し、ということです。しかし、全体に本を読まなくなってきているようです。
医者を辞め、自らの生業をしばしば「売文業」と称していたといわれる加藤周一(1919.9.19-2008.12.5)が、亡くなってちょうど一年が経ちます。かつての『朝日ジャーナル』や『朝日新聞』などで彼の存在を知りましたが、晩年も割合大柄で多少腰がまがっていても、眼光鋭く、戦後を代表する知識人として亡くなるまで発言を続け、多くの人に影響を与えたという印象があります。著書数も170冊を超えます。
読書の愉しみについて、彼はまず「ひとりでできる愉しみ」であり、どういう愉しみが伴うのか、ということについて、それは人により本によって違いますが、「もし共通の愉しみがあるとすれば、それは知的好奇心のほとんど無制限な満足ということになるかもしれません。どういう対象についても本は沢山あり、いもづる式に、一冊また一冊といくらでも多くのことを知ることができます。世の中には好奇心を刺戟する対象が数限りなくあるでしょうから、対象を移して、好奇心の満足を拡げてゆくこともできるでしょう」と(1992年の著作より引用)。
また「読書の愉しみは無限です。時間を持て余してすることがない、といっている人の心理ほどわかりにくいものはありません」と。さらに、日本で出版される大部分の本は日本語で書かれているわけで、「本を沢山読むということは、日本語を沢山読むということであり、日本語による表現の多様性、その美しさと魅力を知るということでもある」といいます。
この原則論を肝に、これからの読書の方向を考えていかなければ、という思いを強くしています。
電車の吊り広告で「2010年は国民読書年」という広告を見ました。来年は本や読書に関する様々な活動が行われる一年ということです。たとえ「事業仕分け」で削られたとしても、学校の「朝読」や、「家読」(家で読む)で家族の絆を深めつつ読書活動が盛り上がり、子どもへの読書推進が一層広がっていくことを期待します。
*鷲巣力編 『加藤周一が書いた加藤周一』 平凡社 2009年 |
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| 仲町つれづれNO.291 2009年12月23日(水) |
| 村山槐多と「新型インフルエンザ」 |
毎年恒例の、今年の新語・流行語大賞のトップテン(世界流行語大賞では3位)に「新型インフルエンザ」が選ばれました。この流行語で表現された「新型」とは、いわゆる人類に免疫がないということであり、特に乳幼児から若い世代に発症が目立つようです。すでに国内の死者は百人に達しています。
かつて「スペイン風邪」が流行した時代もありました。当時は、20歳から50歳までの「血気盛りの人」の発症が目立ったといいます。このような未知の感染症の脅威は、人類の弱点です。だからこそ、簡単に感染しやすく世界的大流行(パンデミック)につながる恐れがあると警戒されているわけです。
「西班牙王アルフォンソ、首相マウラ氏以下数名の閣員及び西班牙国民の三割は、病名不明の伝染病に罹れり。該病の症状は高熱,胸部の痛み及び下痢等・・・」(1918年6月6日付『大阪毎日新聞』夕刊)
世界で4千万人、日本では約39万人が死亡したという「スペイン風邪」の国内での報道の始まりだといわれる記事の一部です。西班牙とはスペインのことですが、ただし、何もスペインが発生源ではなく、実は米国から欧州へ広がったものが、第一次世界大戦中の各国は疾病情報を検閲で抑えていたために、王族らの感染が派手に伝えられた中立国が病名に冠されたのだということです。(『余録』(『毎日』4月28日付)より)
肺結核や肺病というと、即、死を意味した時代がありました。その病に悩まされ、夭折した文人、画家は結構います。前号で取り上げた村山槐多(1898-1919)も、画と文芸において独特の感性を発揮したものの、わずか22歳5ヶ月で逝ってしまいました。報道記事などと合わせ考えるに、彼の直接の死因はスペイン風邪だったようです(当時は「流行性感冒」と表記したようです)。今、渋谷区松涛美術館で、彼の展覧会が開催されています(1月24日まで)。
彼の最新の年譜(『没後90年村山槐多展』図録)によれば、「1919年2月14日、インフルエンザ・スペイン風邪にかかり発熱して寝込む」とあります。2月18日の雪交じりの激しい雨の降る夜、発作的に戸外に飛び出して不明になり、午前2時頃草むらに倒れているのを発見されたが危篤になり、20日午前2時に亡くなりました。「死因はスペイン風邪による結核性肺炎」ということです。
『村山槐多全集』の年譜(山本太郎作成)には、直接の死因は書かれていません。1918(大正7)年「4月中旬突然結核性肺炎におそわれる。友人、知己の看護で治る」とだけ書かれ、「9月九十九里浜へ転地療養」、10月の中頃、「勝浦の東条病院に入院」したりしています。下旬には代々木の借家(「鐘下山房」)に入っています。しかし「病気は槐多の内部を深く潜行して」いたわけで、彼だけは、孤独な貧困生活の中で「近づく死の足音を聞いていた」のです。
村山槐多の日記を見ますと、九十九里の片貝へよく来ています。1918年9月25日、片貝より成東まで歩きそれから勝浦へ行き高砂館にとまったという記述の後、途絶えています。そして、死の寸前まで名前を叫び続けたモデルの「お玉さん」に対して書いた「1918年の末にお玉さんに言ふ事」という手紙があります。「あなたはまだ生きておいでですか。健康ですか。あのスペイン風邪になぶられませんでしたか」という問いかけがでてきます。当時スペイン風邪は流行っていたことが察せられます。
日記は、そのあと大正8年1月1日になり、8日の日記が最後で、「朝、美術院」へいき、夕方、浅草へ行ったりして帰宅、そして「もう死にたくなった」で終わっています。
村山槐多は、絵画で表現し得なかった内的葛藤を詩で表現していたといえます。『村山槐多全集編集後記』で、詩人の山本太郎(槐多の従兄山本鼎の長男)は「槐多の芸術は、すべて率直無比な告白であり、自由でボリュームのある言葉、奇抜な契機や辛辣なウイットや、活々した感覚をちりばめ、実に矛盾錯綜した告白をつづけながら展開される魂と肉体との戦場であった」と書いています。
*血を吐くようになってからの詩(『全集』124頁)に、『雨ふり』という長い詩があります。その一部を紹介します(今回の松涛美術館での『没後90年・村山槐多展』にも、この部分の自筆原稿が展示されています)。
血が私の口から滴り
死神がくゝと笑ふ
このむごたらしい事実が
よくも起った
私まで笑ったあまりの唐突さを
笑ってだまった
そして泣いた
それから九十九里の海べへかけ出して
ぼんやり沖を見た。
村山槐多は、ガランス(茜色)を溺愛し、「・・空もガランスに塗れ 木もガランスに描け 草もガランスにかけ・・(中略)・・汝の貧乏を一本のガランスにて塗りかくせ。」(『一本のガランス』)、「世界は赤だ。青でも黄でもない」(『わが命』)というほどでした。今回も、代表的な作品である『バラと少女』(1917)、『風景』(1915)、『尿する裸僧』(1915)、『カンナと少女』(1915)等が見られます。千葉の『片貝風景』(1917)も出ています。
*村山槐多 『村山槐多全集』増補版 彌生書房 1993年
*渋谷区松涛美術館編 『没後90年村山槐多 ガランスの悦楽』展図録 2009年
この図録は、図版、詩、小説「悪魔の舌」、年譜、文献目録、などが充実しています。 |
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| 仲町つれづれNO.290 2009年12月23日(水) |
| デカダンスの色を帯びる村山槐多(特に京都時代) |
村山槐多(1898-1919)といっても、馴染みではないかもしれません。彼の死後、彼の親友で近くに住んでいた山崎省三によって編集された遺稿集『槐多の歌へる』(1920)によって、類稀な詩人でもあったことが人々に知られるようになりました。村山槐多は横浜生まれですが、父(府立一中教諭)の転勤で、4歳から18歳まで京都で生活しています。彼の母は岡崎の出身で、版画家山本鼎(1882-1946)は母の姉の子にあたります。彼にとって京都は故郷といえます。
京都在住のエッセイストで詩人である河野仁昭さん(1929-)の『京都の大正文学―蘇った創造力―』という新刊があります。大正文学といえば、『白樺』や「新思潮」(第3次、第4次)、短歌の「アララギ」、俳句では「ホトトギス」の全盛期です。大正時代は自由で活力に満ちた時代で、「明らかに明治とは異なる結実がみられる」といえます。
河野さんは、京都では、詩と俳句にみられる市井人の台頭、京大や三高の教員、在校生、卒業生たちの活動、鉄道の発達に伴う東京の文人たちの入洛の三点に注目しています。当然、村山槐多についても書かれており、当時の同級生たちの話も、同窓会誌などからの引用で取り上げています。
また、読んでいて面白いのは、荒波力さん(1951-)の『火だるま槐多』(1996)〈第2章「多感な京都ボーイ時代」〉でしょうか。上京するまでの京都での生活については、初めての本格的な伝記といえる草野心平の『村山槐多』(1976)などをベースにしながら、著者もまた槐多の足取りをたどる取材をしており、写真も入っています。この本には佐倉駅風景も出てきますし、河野さんの著書『京都の文人・近代』(1988)からの引用も出てきます。
村山槐多は、図書館でプラトンを読破し、同時にボードレール、ランボー、マラルメ、エドガー・ポーに心酔していたといわれています。その他森鴎外の翻訳物や漱石などを読み、中学三年で「濁水」「石塊」という雅号を使って、石井柏亭や山本鼎等の『方寸』(1907年創刊)をまねた形式の『強盗』(34号まで)『銅貨』などというタイトルを付けた回覧雑誌を発行しています。これは、B4版位の薄半紙に水彩画や詩などを直接貼り付け、ボール紙を表紙にして紐で綴じたものだったということです。短歌、小説、戯曲なども載せていたようです。
そうした村山槐多でしたが、従兄の山本鼎が彼の才能を見抜き、油彩具一式を買い与えて画家になることを勧めたことが大きかったのでしょう。彼は親の希望に反して、画家になろうと上京することになります。
山本鼎は信州で自由画運動を実践した人ですが、当時パリ滞在中にもかかわらず、1913年夏休みに彼の長野県大屋(現東御市)の実家で過ごさせたり、翌年には画家小杉未醒(1881-1964)からの「上京諾」の連絡を待つために1ヶ月滞在させるなど、すべて鼎が面倒を見ています。
京都時代で注目しておきたいのは、村山槐多の一級後輩に、後に多くの著作を残した評論家の林達夫(1896-1984、ファーブル『昆虫記』の訳者、平凡社『世界大百科事典』の編集責任者)がいることであり、また『古事記』を絶賛した槐多に影響を与えたと考えられる英文学者竹友藻風(1891-1954)がいたということです。
この人は、上田敏に教えを受けた人で、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などを引用しながら展開した『詩の起源』などの著書もあり、北原白秋らと新詩会結成した詩人でもあります。彼の中に、当時古いものと新しいものが共存していたと見ることができるのではないでしょうか。
村山槐多の『遺書』には、『遺書』と死に先立つ13日前の手記『第二の遺書』とがありますが、『遺書』には「自分は、自分の心と、肉体の傾向が著しくデカダンスの色を帯びて居る事を十五、六歳から感付いて居ました。私は落ちゆく事がその命でありました。是れは恐ろしい血統の宿命です。肺病は最後の手段です。宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げよう、引き上げようとして下すった小杉さん、鼎さん、其の他の知人友人に私は感謝します。たとへ此の生が、小生の罪でないにしろ、私は地獄へ陥ちるでせう。最底の地獄にまで。さらば。1918年末」と書かれています。
*河野仁昭 『京都の大正文学―蘇った創造力―』 白川書院 2009年
*荒波力 『火だるま槐多』 春秋社 1996年
佐倉駅での描写「佐倉駅に列車が停止すると、肩にベルトをかけた弁当屋さんと、アイスクリーム屋さんがやって来る。懐かしい風景である。車外の風景を見ていると、いつの間にかほとんどが落花生畑に変わっている。そして、また気づかぬうちに水田に変わっている。」(1990年8月18日のことか)
*草野心平 『村山槐多』 日動出版 1976年
*『林達夫著作集』 全6巻 平凡社 1971~2年
*高橋英夫編『林達夫芸術論集』 講談社文芸文庫 2009年
* 「塊(マッス)その燃え立つ想い噴射せよ 槐多怒れば赤い消火器 福島泰樹」 『デカタン 村山槐多』鳥影社 2002年より |
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| 仲町つれづれNO.289 2009年12月19日(土) |
| 『塩1トンの読書』 |
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松本清張生誕百年記念にあわせて、映画『ゼロの焦点』が公開されています。この作品は、1961年にも野村芳太郎監督が映画化しています。今回の犬童一心監督(1960-)は、リメイクではなくオリジナルにこだわって演出しており、昭和32年という時代を必死に生きた女性たちの壮絶な最期が描かれています。金沢の町並みはオープンセットとのことですが、雪景色には120トンの塩を運び込んで作ったそう(金額にして500万円程度とか)で、それは美しいことです。
大相撲の力士の中には、たくさんの塩を撒くことで人気のでた力士がいましたが、「一人の人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」という言い伝えがイタリアにあるようです。「私」の姑が自分も若い頃姑から聞いた話だということで、「これといった深い考えもなく、夫と知人のうわさをしていた私にむかって」いきなり言われたのだそうです。
ここに出てくる「私」とは、須賀敦子(1927-1998)さんで、パリ、ローマに留学してそのまま定住し、1961年ミラノで結婚した頃の話だそうです。彼女は、「この喩えを、折りに触れ、ときには微妙にニュアンスをずらせて用いることに気がついた」そうで、「塩をいっしょに舐める、というのが、苦労をともにする、という意味で『塩』が強調されたこともあり、はじめて聞いたときのように、『一トンの』という塩の量が、喩えのポイントになったりした」といいます。
そして、本、特に古典とのつきあいは、「すみからすみまで理解し尽くすことの難しさにおいてなら、人間どおしの関係に似ているかもしれない」といいます。「目に見えない無数の襞が隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくる」、しかも、「一トンの塩と同じで、その襞は相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ開かれる」というわけです。
この一文の終わりに、「こんなふうにも読めるし、あんなふうにも読めるから、ほんとうはどう意味なのかわからない。だから本はむずかしいのよね」という姑、それに対して「こんなふうにも読めるし、あんなふうにも読めるから、いい小説なんだょ」と言う夫の会話がでてきます。「信用するものか」という顔をしていた姑でも、仕事にいく息子を送り出す時の姑は輝いていたということです。この姑は貧しい農家に生まれ、小学校へもろくに行けなかったが、心底読書の好きな人だったということですが、その姑も、夫も、「じっくりいっしょに一トンの塩を舐めるひまもなく、はやばやと逝ってしまった」と結んでいます。
須賀敦子さんは、日伊両国の文学や詩などの紹介に努められましたが、夫の死後、帰国し、上智大学等で教鞭をとられる一方、自らのイタリア体験をもとに『ミラノ 霧の風景』(1990)などの名著を遺されています。
この「仲町つれづれ」のために、毎日のように本に接していますが、「すじ」だけを知ろうとしたり、知識ばかりを入手しようとしていると思う時があります。須賀さんの「お茶を濁しすぎているのではないか」、本からすれば、「ないがしろにされたままだ」という指摘はごもっともなことだと思います。彼女は、読書の愉しみは「どのように書かれているか」を味わうことだといいます。
以前読んだ本でも、今また読むとまた新しい発見があり、優れた本ほどまるで読み手とともに成長しているかのように、新しい顔でこたえてくれるとよくいわれます。そういう体験をされた方は、人生の経験がより豊かになったり、語学とか、レトリックや小説作法といった、読むための技術をより多く身につけたからということになるのではないでしょうか。
*須賀敦子 『塩一トンの読書』 河出書房新社 2003年
*須賀敦子 『ミラノ 霧の風景』 白水社 1990年
*『須賀敦子全集』 全8巻別巻1巻 河出書房新社 2000-1年(河出文庫2006-7年)
*「塩顔」という言葉をご存知ですか?「今の顔トレンドは、いかにも草食系の、印象薄い顔」で、「色白」で「脂ぎってない」顔のことを呼ぶようです。「塩顔」の反対の、いわゆる濃い顔は「デミグラ顔」だとか。かつて濃い「ソース顔」に対して「しょうゆ顔」がありましたが、そのしょうゆよりもっと薄まった顔のことをいうのだそうです。その記事によりますと、「調味料は、顔にたとえられやすいけど、ソースやしょうゆとかの庶民的素材から、シンプルだからこそ奥の深い『塩』や、手間がかかるデミクラソースへの進化も見られなくもない」と書いてありました。(
『ことばの鏡』2009.11.28付『日経』より)
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| 仲町つれづれNO.288 2009年12月19日(土) |
| 塩の道 |
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広大な白い大地、いや湖面一面が地平線の彼方まで白一色の画面の中、太陽のすぐ真下で黙々と働く親子がいます。斧で切れ目を入れ、数10cmないし1m程度の大きさに切り出したものを積み上げていきます。氷を切り出しているのかと思ったら、なんと塩でした。それをリャマ(ラクダ科)の背に積んでアンデスの山々を越えて3ヶ月の行商の旅に出るのです。表面の塩は削り取り小山を作って乾燥させて食用にしているようです。〈湖面は塩の結晶で亀甲文様を呈し、雨季には数十センチの雨水が溜まるということです〉
南米ボリビアのアンデス高地を舞台にした『パチャママの贈りもの』(松下俊文監督、2009)の冒頭シーンです(本日12月19日より、ユーロスペースで公開)。かつての海の底が隆起し、標高4千m以上の山々が連なるアンデス山脈ができたことをこの映画で知りました。そして、海水を閉じ込めたまま隆起してできたのがウユニ塩湖(標高3600m、面積約12000平方キロ、四国の半分にあたる)です。周囲に住む人々(先住民)は、この塩を生業にしています。この映画はウユニの雄大な自然と共生して日々を暮らす先住民の家族の生活ぶり、少年コンドリの3ヶ月に及ぶ塩キャラバンを通じての成長を描いたものです。とても素朴な暖かさが感じられ、私達がが失ってしまった大切な何かを教えてくれるような作品です。
塩は、「しお」のほかに「えん」と読みます。その場合広範なある種の化合物を指し、化学の世界では、酸とアルカリと化合してできた物質のことをいいます。ある割合で混ぜると、塩と水ができるわけです。
塩や水は、人類の存在にとって欠かせない重要なものです。今は当たり前のように飲み食いしていますが、実は有限な資源であり、すでに危険信号が灯されているようです。
『塩の文明誌 人と環境をめぐる5000年』で使われている資料(米国ソルトインスティチュート、2006)によると、世界の食塩の年間生産量はざっと2.4億トン、海水に含まれる食塩の量はおよそ3%といわれ、その限りでは食塩は無限の資源ともいえます。
しかし、多くの食塩は岩塩であり、当然埋蔵量が問題になります。現在知られているだけで数千億トンといわれ、「岩塩の年間生産量である1.8億トンで割ると数千年単位でなくなってしまう勘定になる」そうです。すなわち、決して無限の資源ではないということです。
今の日本をみると、焼き鳥屋や居酒屋でも何種類もの色とりどりの塩が置かれ、「お好みのものをつけてお召し上がりください」とあります。それは料理を引き立て、実に旨いものです。先日も、庄内ゆかりの人と庄内のH牧場という店でカツをつまみに飲酒したところ、藻塩が出てきました。
この藻塩は塩のたっぷりついた海草を焼いて採ったもので、古くからの製塩技術とのことです。
来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ 藤原定家
日本では古くから塩田での製塩法が発達していました。塩は海水から採って食塩として食べた後、汗や尿など共に排泄され、やがて川などを経て、また海へ戻るというように循環しています。
しかし、最近の塩の使い道の大部分は、食用ではなく、化学工業用だそうです(ex. 塩化ビニール)。これでは、もはや塩に戻ることなく化合物であり続けるわけで、食塩は循環しなくなってきているともいえるため、「食塩の枯渇が問題になる日がくるにちがいない」といわれるわけです。
なお、日本の食塩生産量は約116万トン(世界24位)、塩の使用量は930万トン(2006年現在)で、ほとんど輸入に頼っているのが現実です。
*塩は、「サラリー」の語源であることをご存知ですか。古代から中世にかけて、塩は通貨としての一面がありました。それだけ安定的な物質で、希少価値があり、等質性の保てるものであった事が窺い知れます。
*民俗学者宮本常一は、塩を中心として内陸に発達した交易路を『塩の道』と呼んでいます。たかが塩でと思いがちですが、内陸では「塩は文字通り生命線であり、また富を生む宝石」でした。一例を挙げると、オーストリアにモーツアルトの故郷であるザルツブルクという都市があります。文字通りドイツ語の塩を意味した都市で、近くには塩の鉱山があり、集積地として繁栄したのです。今でも見学でき、当時のようすを体験することができます。
*片平孝 『地球 塩の旅』 日本経済新聞社 2004年(ボリビアのウユニ塩湖の写真が掲載)。
*宮本常一 『塩の道』 講談社学術文庫 1985年
*佐藤洋一郎・渡邉紹裕 『塩の文明誌 人と環境をめぐる5000年』 NHKブックス 2009年
総合地球環境研究所に属し、植物遺伝学と農業土木学を専攻する二人によって書かれています。普通、連名の本は章毎に執筆を分担してまとめられているものですが、本書は異分野間での討議をしながら、内容を修正しつつ完成されたようで、章ごとの執筆者名が明らかにされていません。ここでは「塩とはなにか」、「塩が生かす生命」、「世界をめぐる塩の姿」などがわかりやすく書かれています。特に重要なことは、地球上を見回した時すべての物質があらゆる地域に満遍なく分布しているわけではありません。地球上を見回した時、人間にとって重要な物質がより偏在化してきている(度合いが過ぎると、周囲の生態系などに深刻な影響を及ぼす)という事実を挙げ、塩をめぐってはかつての古代文明が崩壊した原因とも指摘し、塩のもたらす環境危機の仕組みに言及したうえで、これから塩についてどう考え、どうつきあっていけばいいのかを教えてくれます。
*映画『パチャママの贈りもの』のパチャママとは、インカ帝国の末裔、アンデス先住民の言葉で“母なる大地”のことです。6年の歳月をかけて撮られた長編劇映画初監督作品です。出演はケチュア語を使う先住民で、珍しい動植物を始め、フォルクローレ(民俗音楽)、ティンク(ケンか祭り)、ファッションなども楽しめます。
*この稿を書いている時に『ブルー・ゴールド 狙われた水の真実』(2008)というドキュメントを見ましたが、声を上げずにはおれませんでした。原作はカナダのモード・バーロウ、トニー・クラーク共著『「水」戦争の世紀』(集英社新書)です。それによると、この地球上には海水と淡水を合わせて約14億立方キロあり、海水は97.5%ということです。淡水では、氷河など(1.7%)を除き、われわれが飲める水はわずか0.8%しかないということです。さらに手で汲んで飲んでも安全な水は0.001%しかなく、これを地球上の67億5千万人が分かち合って飲んでいるという事実に気がつかされます。
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| 仲町つれづれNO.287 2009年12月18日(金) |
| 童謡詩人の高野辰之 |
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| 仲町つれづれNO.286 2009年11月29日(日) |
| 禁じられた恋-西村茂樹撰『新撰百人一首』の世界 |
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小春日和の日に片付けをしていたら、『小倉百人一首』(平成)が出てきました。子どもが小学生の頃買ったもののようですが、殆んど使われた形跡がないままです。百人一首は、今はなつかしい、優雅で品格のある正月の遊びの一つだったものです。『金色夜叉』(1897-1903)の冒頭、鴫沢宮が富山唯継に初めて出会うきっかけとなったのは、歌留多大会でした。この百人一首の歌留多大会は、今でいう“合コン”や“婚カツ”、男女交際のきっかけの場だったわけです。当時の男女出会いの場はというと、盆踊りか歌留多会しかなかったようです。
『百人一首』には43首の恋歌があります。勅撰集の恋歌比率などと比較すると、非常に高いといえます。(『古今和歌集』約33%、『新古今和歌集』約22%)最近ラジオで、読んで見たい古典というと『源氏物語』が一番多いと聴きました。男女の色恋沙汰を扱っていることが、いつまでも読まれたり、読んで見たいと思う古典であり続ける理由なのではないでしょうか。この『百人一首』にしても同じことが言えるのではと思います。
しかし、明治時代には教育修身上好ましくないという状況もありました。当時のリーダーの意識には国民の創出が急務であり、そのためにはこの『百人一首』は有害であるというわけです。その代表が、『日本道徳論』(1887)を提唱した佐倉藩士だった西村茂樹(1828-1902)でした。佐倉の偉人の一人として顕彰されていますので、ご存知の方は多いと思います。
彼は、伝統的な儒学と進歩的な蘭学を修め、明六社(啓蒙運動の団体)の進歩的文化人の一人(当時の文化人の典型といえます)ですが、福澤諭吉等のメンバーとはちょっと違っていたようです。
彼が編集した『新撰百人一首』(中外堂・1883)は、恋歌を除いた『百人一首』です。それはどのようなものだったか、岩井茂樹さん(1969-)の論文から紹介します。
① 恋歌と思われるものを完全に除いています。出典と思われる勅撰集では、恋の歌に分類されていないものまで恋歌とみなしています(6首)。
②『百人一首』で恋の歌とされている歌で、他に彼がふさわしいと思う歌がある場合は、同じ作者の別の歌を採用しています(24首)。ふさわしい歌がない場合は、他の作者の歌を載せています(20首)。
③ 2番と4番の歌は『万葉集』の読みに従っています(例えば、2番=春すぎて夏きにけらし白妙の・・[持統天皇]~春すぎて夏きたるらし・・)。
④ 『百人一首』では秋歌の数が春歌の3倍弱ありますが、春歌と秋歌の比率がほぼ同率になっています。
⑤『百人一首』にはなかった賀、釈教、神祗といった歌が取り入れられています(各1首)。
西村茂樹に『其六 小倉百人一首のことを論ず』(『或問十五條』)という一文があります。この中で、ある人の、女子六七歳になれば定家の『百人一首』を読ますことになるが、如何せん百首中の七八分は恋歌だが、人心風俗からいうと「淫靡に導くの恐れなきを得ず、此義いかなるものにや」という問いに対して、「百人一首の歌は何れも一種の風体にして、意味極めて曲折に渉り、容易に其義を解し難き物多し、故に幸にして女児は唯是を暗誦するのみなれども、もしよく其意味を解したらば、甚だ不都合なること多かるべし、其解せざるを幸として、此の如き淫褻の歌を女児に読ましむるは、人の父母たるの道に非らざるべし」と述べています。即ち『百人一首』は、女子の教育上よくないといっているのです。
この論調はこれ以降も根強く残ったり、反論として、かえって教えることは大切なことである、というものもあったようです。いずれにしても、この恋歌を問題にしているのです。これは何も、明治に入ってから始まった問題ではなく、江戸時代から和歌の世界では恋歌の非難があったようです。ただ、明治に入って正月の遊びとして定着した『百人一首』の恋歌にまで範囲が広がってきたと見るのが正しいようです。
さらに、西村茂樹の『女風頽廃の原由』(1892年4月の講話記録)という一文があります。ここでは女子の徳を破るものとして、七つの要素のうち、「男女交際」が挙げられています。
彼は「世人は多く西洋の舞踏を誹れ度も、我邦の歌碑(注:百人一首歌留多のこと)は其害舞踏と異なることなし」と述べています。やはり、恋歌が多く、歌留多会が男女交際の場となる『百人一首』は、道徳上とくに好ましくなかったのです。そう思う人は彼だけではなく、庶民でもそう思っている人はいたようです。
関幸彦さんは、この『百人一首』の問題を超えて、はるか彼方に、「公家(貴族)、武家(武士)に対する歴史の記憶という日本国が宿す大きなテーマにつながる内容がはらまれている」(『百人一首の歴史学』)といいます。
それにしても恋歌のない『新撰百人一首』が、恋という素材と恋の生まれる場が問題となって生まれたようですが、冒頭にも書いたように古典として生き延びることはなく、今までその存在すら知られない状況になったのも頷けるのではないでしょうか。恋歌のあるオリジナルな『百人一首』こそ、受難の時代を乗り越えて、今では古典として多くの人に親しまれているのです。
なお、現在、百人一首を用いたゼロ歳児からの学習用教材があったり、学校でも国語の教材としてうまく利用されているようです。
*岩井茂樹 『恋歌の消滅ー百人一首の近代的特徴』 2004年 《白幡洋三郎編『百人一首万華鏡」思文閣出版 2005年》
*日本弘道会編 『増補・改訂 西村茂樹全集』第2巻 思文閣出版 2004年
*日本弘道会編 『西村茂樹全集』第2巻 思文閣出版 1976年
*関幸彦 『百人一首の歴史学』 NHKブックス 2009年
例えば、「86番~なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな 西行法師」を恋の歌として、同じ西行法師の「いづくにもすまれすばたですまであらむ柴の庵のしばしなる世に」に差し替えています。
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| 仲町つれづれNO.285 2009年11月28日(土) |
| 歌留多遊び |
今月開かれている御即位20周年記念特別展『皇室の名宝展』(於:東博)第2期に、江戸時代の『源氏物語図貝桶・合貝』(御物)が出陳されていました。
合貝とは、内側に同一の絵が描かれ蛤貝の、対の殻を分けてそれぞれの桶に納めたものです。360個の蛤貝が用いられ、この場合は金箔の装飾に源氏絵(物語の一場面)が描かれています。貝桶も「亀甲繋文や菱繋文を金箔置上げにした源氏雲を配して、源氏絵を濃彩で描いたもの」です。
蛤貝は、貝の特性から「両夫に見(まみ)えず」(『史記』)という貞節の象徴と考えられ、夫婦の末長い和合を願う婚礼にふさわしいということで、合貝を収める貝桶は婚礼調度の中でも特に重要な調度とされていたようです。
歌留多(以下:かるた)遊びは、平安時代の貴族社会の女性の間で行われていた「貝合」がもとになっていると言われています。この「貝合」は、貝殻の色合いや形の優劣を競うものだったのが、後に「貝覆」(かいおおい)と一緒になったと言われています。これは、蛤貝の一対の貝殻はピタリと合うが、同じ蛤貝でも他の貝殻とは決して合わないということに注目し、それらを混ぜ合わせ、床に伏せて散らし、ピタリとあうものを探す、というゲームです。この一対の貝殻の内側には絵が書かれ、それから和歌を上の句と下の句に分けて書きこむこと(歌貝)もありました。
そういう伝統から、ポルトガルからのカルタが伝来した時、すぐに紙製のかるたに変わって普及していきます。そして、それにヒントを得て華美な、様々な和歌のかるたができていきます。この和歌のかるたも、「貝覆」に真似て嫁入り道具に数えられるようになっていきます。なかでも、『源氏物語』のかるたが54対、108枚で人気が高く、次に『伊勢物語』が続いたとか。
17世紀の半ばには、庶民にも理解の出来る『小倉百人一首』を題材とするかるたに人気が集中するようになります。これは多くのカードから、もともと対になっていた二枚の札を合せるというゲームということになります。この文化はあくまで女性のものでした。特に嫁の腕前のすごさは川柳や狂歌などに詠われています。(「歌かるた大先生と嫁をほめ」、「むだな手は百に一つも嫁出さず」、「他領まで嫁とり上げる歌かるた」等 )
この合せかるたには、ことわざ(たとえ)を集めた「たとへ合せかるた」、「いろはたとへ合せかるた」、言葉のしゃれを楽しむ「地口合せかるた」、「お化け合せかるた」、歴史ものでは「武者合わせかるた」、「東海道五十三次合せかるた」、「役者合せかるた」、「相撲合せかるた」などから、歌舞伎、浄瑠璃、能や狂言などの名文句を合せるもの等、多種多彩なものが作り出されていきます。
合せかるたで一番美しいのは、単純明快な「絵合せかるた」であり、「合せかるた」の代表的なものとしては「花合せかるた」(「花札」)であるといえるようです。これは18世紀に上流階級の遊びとして考案されて、一時誌下火になったものの、19世紀に入って「武蔵野」(木版手彩色)という、庶民向けかるたとして再登場して今日まで受け継がれてきているわけです。
また、百人一首もかるたの形を得て、日本人に広く普及したといえます。
*サントリー美術館(六本木)で開催中(1月11日まで)の『清方ノスタルジア 名品でたどる鏑木清方の美の世界』展に、鏑木清方(1878-1972)の『明治風俗十二ヶ月』(1935)という作品が出ています。12幅の内、1月は「歌留多」がテーマです。
*江橋崇(1942-)「歌留多になった小倉百人一首」《白幡洋三郎編『百人一首万華鏡』思文閣出版 2005年 所収》
*阿部達二 『江戸川柳で読む百人一首』 角川選書328 2001年 |
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| 仲町つれづれNO.284 2009年11月27日(金) |
| 光明皇后の真筆にふれて |
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天皇陛下即位20年に記念事業として、この秋の正倉院展に光明皇后の『楽毅論』が出陳されました。さらに上野の東京国立博物館平成館での『皇室の名宝展』では、『杜家立成雑書要略』(紙本墨書)が上京してきて、久しぶりに見ることができました。後者は唐初に成立した往復書簡文例集で、中国では散逸して、光明皇后の書かれたものが唯一現存する写本といわれています。書風は書聖といわれる王羲之(ぎし)の楷書に似ていますが、徐々に草書風になっていきます。皇后の豪放闊達な性格がよくでています。
書をやっていた時、線を鍛えるためにと、この2つの作品を師から与えられ、徹底的に書きこんだお手本です。特に、光明皇后筆『楽毅論』は、卒業論文としても取り組んだ思い出のある作品です。
ほかに、伝橘逸勢筆『伊都内親王願文』(833)、伝空海筆『孫過庭書譜断簡』(9世紀)、王羲之筆『喪乱帖』、小野道風筆『玉泉帖』(10世紀)等、書をやっている人なら必須のお手本を見ることができました。
このような機会は滅多にありません。今月29日まで開催されています。近くの都美術棺での冷泉家展と合わせて見られることをお勧めします。
今年もまた、そろそろ年賀状書きの季節です。古筆を見て毛筆の年賀状書きに挑戦して見たいと思われるのもまた一興ではないでしょうか。
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| 仲町つれづれNO.283 2009年11月15日(日) |
| 峠にも初雪 |
11月に入り、急に冷え込んだり雷雨や突風が吹いたりと、不穏な天候が続いています。北の峠では紅葉一色の中で初雪に見舞われたところもあったとか。
この夏から時代小説にはまり込み、『大菩薩峠』を終えて一山越えたところで、峠に因んだ小説を拾い出し、司馬遼太郎の『峠』を終えたところです。司馬遼太郎の『峠』(1993)は、「侍とはなにかということ」を考えた、越後長岡藩の河井継之助の話です。そこでいう道は三国街道、峠は「三国峠」のことです。
そんな折に、『朝日新聞』夕刊(09.10.27付)の「読者が決める『日本一』は?」という欄で、「峠」の特集がありました。回答総数4651人のうち、1位は天城峠、2位は野麦峠(小欄NO.190で紹介)、3位は大菩薩峠が入っていました。4位は碓氷峠、5位は塩狩峠、6位は司馬遼太郎の『峠』に出てくる三国峠という順位です。
静岡県の天城峠は歌謡曲にもありますが、川端康成の『伊豆の踊子』(1926)、松本清張の『天城越え』(1959)、池波正太郎の『天城峠』(1957)、井上靖の『しろばんば』(1960)など、多くの小説に登場しており、読者の心に定着しているのでしょう。嵐山光三郎さんが「峠は、自然と人とが触れあうところだから、いろんな物語が生まれる」、人が「来し方をふり返り、行く末をみる」ところでもあると言っています。また、旅の前に、その場所にちなんだ小説を読んでから出かけると、作者が心に住みつき、より贅沢な旅になるといいます。
峠は、山を越える道を意味し、山脈の一番低い、越えやすい場所にあたります。人は日常生活から外をめざす時には、山の向こうの世界、海の彼方の世界を考えるようです。ふと『山のあなた』というカール・ブッセ(1872.11.12-1918.12.4)の詩(上田敏訳『海潮音』所収)を口ずさみたくなりました。
「山のあなたの空遠く 幸住むと人のいふ。嗚〈ああ〉われひとと尋〈と〉めゆきて 涙さしぐみ かへりきぬ。山のあなたになほ遠く 幸住むと人のいふ。」という、哀しい詩です。
さらにはメーテルリンクの『青い鳥』を思い出すとなると、ちょっと感傷的すぎでしょうか。育った環境のせいか、今でも、山を越えれば峠を越えれば、別の世界が、きっと今より良い世界がある、と思っています。光を求めてローマを目指したドイツの人々(ゲーテなどの作品にも見られますが)と似ているかもしれません。
その昔、文化庁文化財調査官(史跡部門)時代を含めて佐倉にもよく見え、指導を受けたことがある服部英雄さん(1949-)の『峠の歴史学』(2007)という本があります。彼は野歩き山歩きが好きで、現地を歩いて「現地に立って、歴史を再検討し、読み直す」こと、彼曰く「あるき、み、きく」歴史学を実践している歴史学者(日本中世史専攻)です。
この本では、東海道とともに江戸と京を結ぶ二大幹線であった中山道、その中でも最高所の峠である和田峠について取り上げて、「峠通行の実際と村人の負担」について考察しています。
この峠を越えた著名人に皇女和宮がいるといいます。それは文久元年(1861)11月のことで、東海道よりは安全な道であったということです。
関東では鎌倉街道を取り上げています。「すべての道はローマに通ず」という言葉がありますが、日本でも「すべての道は鎌倉に通じていた時代があった」のです。「いざ鎌倉」のために、平時より道が整備されていたのです。
服部さんは、古道といわれるものに、生活のための流通の道、軍事の道、信仰の道などと大別して、具体的には人の道、獣の道、塩の道(塩買坂〈静岡〉、塩買峠〈各地に地名が残る〉)、コンブの道などについても触れています。
峠を越えるのは人間ばかりではなく、あらゆるものが越えています。在野の考古学者藤森栄一(1911-1973)の『古道』(1966)には、秩父から信州に抜ける峠道のことが書かれています。「峠は人間が越えるのみならず、シカも越えるという話を聞き流していたが、現実に峠道を歩いて、巨大なシカの角を見た。大いなる感動を得て、『しかみち』の復原に熱中」したということです。
人の歩行が途絶えると道は藪に埋もれてしまいますが、今でも「獣道」(けものみち)といわれる道があります。動物が長年同じ場所を行き交うので、動物の高さに藪が低くぬけています。そういえば、よく台風などの去った跡などにわかるのですが、風の道もあります。
なお、峠道を訪れたい、歩きたいという人のために、巻末に「峠みちへの案内」が7頁にわたって書かれています。これを参考にして、「あるき、み、きく」歴史学を実感してみてはいかがでしょうか。
* 服部英雄 『峠の歴史学 古道をたずねて』(朝日選書830) 朝日新聞社 2007年
* 藤森栄一 『古道』 講談社学術文庫 1999年 |
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| 仲町つれづれNO.282 2009年11月10日(火) |
| アレクサンドリア、ふたたび |
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先月の2日に国立国会図書館において、イスマイル・セラゲルディン(アレクサンドリア)図書館長の講演がありました。以前「アレクサンドリア図書館」について紹介しました(仲町つれづれNO.261、NO.262を参照)が、まさかそこの館長の話を直接聞くことが出来る機会があるとは思ってもみませんでした。
古代図書館の精神を取りもどすため2002年10月に再興されたアレクサンドリア図書館は、単なる図書館ではありません。博物館(4)、ギャラリー(4)、文書館、研究所(7)、美術学校、オーケストラなどを有している巨大な施設です。「将来に向けて、全ての知識をあらゆる人に届けるために、私たちのやるべきことはたくさんある」と館長が語るように、最新のメディアを活用したワールド・デジタル・ライブラリー事業、国立電子図書館フランス語圏ネットワーク、国際的な書籍デジタル化プロジェクト等の電子図書館への試みに積極的に参画し、世界中から注目を集めています。
ここには二千人のスタッフ(うちエンジニア:240名)が働き、年間700のイベントがおこなわれ、年間120万人が訪れるということです。デジタルデータからすぐペーパーバックの本をつくる装置(古典の再発行)の導入などもあり、とにかくすばらしいことを実践しています。時代が変わると、それまでなかった分野が出来てきます。今日どうやって多様な情報を組織化するかが重要なことですが、「古いシステムを守りたいというのは、過去の遺産、恐竜であって、最終的には新しい技術は必ず勝つと思う」という話もありました。
わざわざ図書館に行かなくても、最新の情報を入手できるという時代がきているようです。セラゲルディン館長が語るように「誇りを持って未来にできること」をしましょう。図書館人はぜひファィトを燃やしてください。
アレクサンドリアに関する文献、特に図書館やムーセイオンをめぐるものは19世紀以降、枚挙に暇がないといわれています。野町啓さん(1933-)の『学術都市アレクサンドリア』は、原本は『謎の古代都市アレクサンドリア』(講談社現代新書、2000)ということです。今でもアレクサンドリアは「謎の古代都市」といわれますが、すでにこれまでも述べてきたように、度重なる天災や内乱、外敵の侵入などで、その外見が見えなくなってしまったものの、海洋考古学の発展によってだいぶ明らかになってきています。
野町さんの本の巻末にある秦剛平(現在多摩美教授、新図書館長)の「解説」によると、野町さんはヘレニズム・ローマ時代の文献に通暁された卓越した研究者のひとりであり、残された史料から、プトレマイオス王朝の首都アレクサンドリアを「ポリュポリス」(フィロンの造語、諸民族混交都市の意味)と規定し、そこには「さまざまな思想があり、さまざまな思想潮流が存在していたことを紀元前3世紀から紀元後1世紀にいたるアレクサンドリア図書館やムーセイオンに関わった者たちが残した著作やその断片資料などの分析と評価で裏付け」をして、後の「ローマ帝政末期に、なぜ哲学都市に変貌したか」等々について、「ムーセイオンと大図書館」、「メセナとしてのプトマイオス朝」、「大図書館をめぐる学者文人たち」、「花開くペリパトス派の学風」、「哲学都市アレクサンドリアーユダヤ人フィロンとその周辺」といったことについて語っています。
特に、この本のクライマックスは最後の「哲学都市アレクサンドリアーユダヤ人フィロンとその周辺」ということになります。アレクサンドリアに招聘された学者の出身地は多彩であったわけですが、ここに出てくるフィロン(1896-1915)がそうであったように(歴史的宿命でもある)ユダヤ人の存在(人口においてもギリシア人、エジプト人に劣らない数を占めていた)を抜きにして語れないということです。フィロンの全集は全6巻約2千頁(『プラトン全集』〈1578〉:992頁、『アリストテレス全集』〈1831~1870〉:1462頁)にも及ぶという思想家だったのです。その大半は「聖書」を対象とするものだということです。
ここ2年ほど「アレクサンドリア」にこだわってきましたが、もはや、前2世紀アテナイオスが「黄金の街」と呼んだ土地を実際に自分の足で見てくるしかなくなってしまいました。いざ、エジプトへ!?
*野町啓 『学術都市アレクサンドリア』 講談社学術文庫 2009年
*ジャスティン・ポラード、ハワード・リード/藤井留美訳『アレクサンドリアの興亡―現代社会の知と科学技術はここから始まった』主婦の友社 2009年
*L.カッソン/新海邦治訳『図書館の誕生―古代オリエントからローマへ』 刀水書房 2007年
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| 仲町つれづれNO.281 2009年11月7日(土) |
| 本と人との出会いの場 |
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今年の第57回菊池寛賞に、米子市の永井伸和さんが経営する今井書店グループと「本の学校」に決まったことをうれしく思いました。長い間の地域での活動が認められたとのこと、永井さんの理想はドイツの書店だといわれたことを憶えています。おめでとうございます。
インターネット書店が台頭し、出版物のデジタル化も進んでいる時代です。我が家(子供たち)でも、本の購入はネットの利用が多く、週に何度も宅配の人が配達して来ます。これでは知的な刺激を体感することができないのではないかと危惧しています。
単に本を売るだけでは生き残れない最近の本屋さんは、いろいろな工夫をしています。店のディスプレイもきれいですが、いろんなスペースを設けています。最近聴いたラジオでの話ですと、アメリカなどの本屋では立ち読み客が多いほど、店主の選書のレベルの高さが誇示出来るということで、立ち読みは大変喜ばれ、毎日来てくれる客は大歓迎とか。
立ち読みはあまり歓迎されない日本でも、図書館並みに本を座って読めたり、相談を受けたり、作家が店長になり、お気に入りの本を並べたり、サイン会やトークセッションなどのイベントを企画したり、というように読書の動機づけのための努力(提案)が見られます。先日出かけた本屋さんでは、「古典の日」関連コーナーがありました。11月1日は古典の日で、日頃手にしない古典に親しみましょうということです。
東京都美術館で『冷泉家・王朝の和歌守展』が開かれています(12月20日まで)。冷泉家は藤原氏の末裔で、「勅撰(天皇や上皇の命により詩歌・文章を撰すること)の家」とも呼ばれ、八百年の歴史の中で集積されてきた勅撰集や私家集、歌論書などが現在まで守り伝えられています。1980年24代当主らの英断により公開されるようになり、その後調査と平行して1992年から『冷泉家時雨亭叢書』として写真版複製が刊行されていました。今年1月全84巻の叢書が完結したのを記念して、貴重な典籍の数々を一堂に鑑賞することができます。今回初めて展示替えを交え計400点に及ぶ国宝・重文が出陳されています。
冷泉家は藤原家の一流派で、藤原為相(ためすけ、1263-1328)が創設したといわれ、系図的には藤原道長―長家(家祖、歌人のおおもと)―忠家―俊忠―俊成―定家―為家―為相(冷泉家初代)―為秀―というように、和歌の流れが続いています。
藤原俊成自筆の国宝『古来風躰抄』(1197)は84歳の筆による歌学書ですが、著者自筆本としては世界的にも稀だといわれ、一部に雲母を散らした料紙に鋭く書かれています。藤原定家は『新古今和歌集』の撰者の一人であり、『百人一首』、『新勅撰集』、約60年(現存するのは56年間)にわたって書かれた日記『明月記』などがあります。定家の字は墨をたっぷり付け、ちょっとつぶしたような独特な結体(そこには意味があったようですが)で定家様といわれ、徳川家康の手習いにも使われたり、現代でもデザイン文字としてフォントにあるぐらいです。藤原為家には『続後撰集』、『続古今集』などがあります。
冷泉家が伝えてきた典籍類の特色は、個人歌集である私家集と呼ばれる作品が多いということです。平安時代から鎌倉時代にかけての装飾料紙を用いた、品格に満ちたきれいな装飾本が目立ちます。何種類もの『三十六人集』が伝わっています。その他歌書を中心に多くの古典籍があります。
藤原資経が書写した奥書がある一連の私家集のなかに『千里集』というのもありました。印旛沼に面した野鳥の森というところに歌碑がありますが、印旛沼を詠んだ歌もある大江千里(平安時代の学者・歌人・生没年不詳)の歌集です。
現25代当主は『図録』の中で、どうして伝統を継承できたかについて述べています。「定家の『紅旗征戎吾が事に非ず』を『家訓』に、何が何でも、どのような時でも和歌に専心してきた」、「『神』として崇めてきた」、「冷泉家は『一流の二流』であった」(これは一流は時代の先頭を走らなければならないが、二流はその行方を確かめて道を選ぶことが出来るので、ものを継承保存するということには二流の方が適していると考えられるという)、「明治時代京都に残ったために、大災に遇わなかった」、「一子相伝で、奥義は口伝であった」等々、が考えられるということです。冷泉家の歴史が語るように、いつも家を象徴する典型、『型』の文化を必死になって、守り伝えてきたということです。
今まさに和歌はわからなくても、「王朝の和歌守」冷泉家の尽力で日本の美意識を形づくった古典の真髄を見ることが出来る貴重な機会です。11月1日の「古典の日」にも因んで、足を運ばれることをお勧めします。
* 冷泉家時雨亭文庫編 『冷泉家時雨亭叢書』 第1~84巻 朝日新聞社
* 関幸彦 『百人一首の歴史学』 NHKブックス 2009年
この本は9月に出版されたもので、たまたま読んでいるところですが、百人一首を材料に、詠み手達の分析から、王朝時代史の読み直しをおこない、彼らの生きた時代と「時代を超えて継承されてきた文化の力が日本人の精神や思想にどのような作用をもたらしたか」を考える本になっています。
『百人一首』には、「定家個人の意思を超えて『鎌倉時代』が『平安時代』をどう見たのか、という問題」があり、そういうことを踏まえれば「『百人一首』は王朝の記憶の再生だ」といいます。定家にとって「歌人たちの存在は、かれが身をおく王朝の原点に位置づけられるもので、定家の時代に台頭した武家的なるものの混入を許さぬ世界だった。その限りでは定家にとって『百人一首』とは、王朝の記憶を汲み上げる営みだったと考えたい」というわけです。
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| 仲町つれづれNO.280 2009年11月4日(水) |
| いかに生きて死ぬべきか-隆慶一郎の魅力 |
今日11月4日は隆慶一郎(1923-1989)の命日です。『小説新潮』11月号に没後20年の隆慶一郎の特集が組まれています。グラビアの中に、『日本の歴史』(第5巻と第12巻)に何色ものペンで引かれた傍線やおびただしい数のインデックスと付箋がつけられた写真があります。時代小説に新風を吹き込んだといわれる彼の、創作の源泉の一端に触れることができるかと思います。
隆慶一郎は、池田一朗という本名で30余年にわたりシナリオ・ライターとして活躍(代表作『にあんちゃん』)しています。還暦を機に小説を書こうと思った時、隆慶一郎という名前に変更しましたが、この名前は浅草の串揚げ屋のおかみさんが名付け親だそうです。
隆はわずか5年の小説家生活の中で、未完を含めて15作の長編と12作の短編を発表しています。 『影武者徳川家康』が終盤の頃は、毎日最低でも新聞三社の仕事があったそうで、編集者が原稿をもらうのに、最初と最後では6時間ぐらいの差があったとか。
1989年10月に『一夢庵風流記』で柴田錬三郎賞の受賞が決定していたのですが、授賞式を待たずして亡くなりました。また『小説新潮』に『死ぬことと見つけたり』を連載中でしたが、途中で終わることになってしまいました。その時霊安室に駆けつけた編集者たちは、初対面の人も一緒に号泣しながら一晩中酒を飲んで夜を明かしたといわれています。
隆は、古本屋、特に歴史書の多い古本屋を覗くと「眩暈に似た感じに襲われ」、手近な喫茶店で腰をおろすなり「奇妙な幸福感」に浸ることができるのだといいます。時代小説の愉しみ、書き手に取ってのそれは、この「眩暈に似て」いて、「些細な史実にこめられた感動、さりげない言葉に秘められた目くるめくような美しさ。史料を読むとは、そうしたものとのめぐり逢いを望んでいるということ」(『時代小説の愉しみ』)だといいます。また「史実を全く離れた虚構ばかりの時代小説はあまり好きではない理由」でもあるといいます。
彼は、生涯小林秀雄を師としており、かつ(これは前回触れましたが)歴史学者網野善彦の影響が大きく、網野史観との出会いによって想像力は何倍にも広がったといえます。
また、歴史学者の著作に触れて「下手な小説家には及びもつかぬ壮大なロマンを持ち、文章もまた緊密で美しい。私自身も含めて、小説家は不勉強だった」といい、「歴史家に負けていてたまるか、と密かに敵慨心をもやしている」と入院中の東京医大病院で書いた『時代小説の愉しみ』のあとがきに書いています。
また、なぜ時代小説ばかり書くのかという問いに対して「死人の方が、生きている人間より確かだから」と答えます。『棺を蔽うて後、はじめて定まる(定まる:その人の声価の意)』という言葉があるようですが、隆は忙しい時代には「誰も棺に蓋されるのを待つまでもなく、いい加減な声価を下され、棺に入る頃はとっくに忘れられている」、「肉親でさえもそうかもしれぬ」といいます。「これでは益々死者が幅をきかす世の中になりそうだという気が多分にする」として、さらに「死者たちの決然とした風貌の見事さ」、そこからは訴えてくる彼らの志、「その誇りについて、解明する義務を持つのは、生きている私たちの方ではないか」と自問自答しています。だから「死者たちの助けが何とも有難く、貴重なものに思える」といい、「彼等が厳然とそこにいてくれるからこそ、私はない知恵をしぼって、一つのロマンの構築に立ち向かうことが出来る」、それこそが「時代小説の有難さであり、強みではないか」と書いています。
*安部龍太郎さんと藤田達生さん(三重大学教授)は『歴史を疑え』(『小説新潮』2009年11月号)という対談の中で、隆の魅力の基層にあるのは戦前の教育(旧制高校の教養主義=本当の教養の厚み)であり、国を背負って立つ気概みたいなものがあり、戦争体験による反骨精神、人間としての厚み(度量)が違うと指摘しています。また、安部龍太郎さんは「一番学ぶところは、自分の志とか夢、国のためとか自分が守らなくちゃいけない任務のためには、いつ死んでもいいという覚悟を持つこと」だと語っています。
*隆慶一郎の作品をはじめ時代小説は、困難な時代を生きるわれわれに、生気を与えてくれるのです。
*隆慶一郎 『時代小説の愉しみ』(新装版) 講談社 1990年
*9月から『隆慶一郎全集』(全19巻・新潮社)の刊行が始まっています。 |
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| 仲町つれづれNO.279 2009年10月28日(水) |
| 不思議な小説『大菩薩峠』の世界 |
中里介山(1885-1994)の長編小説に『大菩薩峠』(1913-41)があります。この峠は、最初の「甲源一刀流の巻」の書き出しによると、「大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです」と紹介されています。
この作品は、映画(『大菩薩峠』(1960)等)や演劇などでお馴染みの中里介山の未完の長編小説ですが、41巻(文庫本で20巻)にも及ぶ全体のうち、映画などで扱われるのは最初の数巻分までだそうです。しかし識者によると、面白くなるのは中盤以降のことであるとか。
『大菩薩峠』は元々新聞小説で、何と足掛け29年間書き続けられ、作者の死とともに未完に終わりました。中里介山は、連載開始の予告(1913年9月10日付『都新聞』)で仇討をベースにした伝奇ものというヴィジョンしか示しておらず、最終回にたどりつくまでは「数百或は数千の回数を要すべし」(第三巻「あとがき」1914)と記しています。要は終わりたくなかったのではないでしょうか。「余は大衆作家にあらず」といったという中里介山は、大衆に媚びることなく自然体で書き進めていったわけで、まさに「時代小説の導師」(中島誠)といっても過言ではないでしょう。
この作品の舞台は幕末の9年間(1858-67)で、新しい時代への変貌を遂げようとする時期です。折原脩三(1918-1991)が「新撰組に始まって、新撰組に終わっている」と極言していたように、ひたすら幕末期の9年間を舞台に書いていたことになります。
ここでは歴史の外にはみ出てしまった人々が登場人物として出てきます。近藤勇、土方歳三といった実在の人物から、町医者の道庵、槍の名人の米友といった創作上の人物など。彼らは大菩薩峠を皮切りに、武州沢井、江戸、京都、十津川、龍神、伊勢、甲府、九十九里浜、白骨、松本、高山、名古屋、関ヶ原、伊吹山、琵琶湖、仙台、花巻、果ては太平洋上の無人島にいたる土地を遍歴しています。それぞれの土地の空気や色、匂いを醸し出すような筆致で風景を描写しながら、人物については凄絶、虚無に描き、「無明の闇をたださすらい歩く出口なしの遍歴物語」(いいだ・もも〈『中里介山全集』筑摩版 第20巻月報〉)ともいわれています。まさに漂泊の旅を続けるのです。加藤周一(1919-2008)は「心理描写は繊細さを欠き、通俗的解釈に従う。しかし人物の性格には同時代の日本の小説には稀な独創性がある」(『日本文学史序説』下)と評価しています。
前回触れたような時代小説の約束事が当てはまりますが、主人公の龍之助と他の人物の多様な生き方の同時表現という実に不思議な小説であるといえます。中島誠によると、「書斎の机上にも壁面の棚にも、いっさい何も置かず、ただ部屋一面に、諸国の絵葉書の類を貼りつけ、それを眺めながら想を練ったという逸話が残っている」といいます。
中里介山は、現在の東京都羽村市(玉川上水の起点)で農業と精米業を営む家に生まれたものの、父の賭け事の失敗で不如意な幼少時代を送り、小学校を出た後、代用教員、電話交換手などをしながら苦学を続けています。日露戦争時には平民社の運動に参加(1903-05)しています。大体、時代小説の作家は実作でも苦労していますが、作家になるまでも苦労してきた人が多いようです。藤沢周平、笹沢左保、そして、佐倉ゆかりの吉川英治にしてもそうでした。宿命なのでしょうか。
中島誠は「現代の純文学の作家と作品は、大部分が消えて忘れられるが、時代小説の半分くらいは少なくとも生き残る。いまは、量産され、消耗品のように読まれている時代小説のほうが、長く生き残るのは、不思議なことだ」とあけすけにいいます。
この作品は、今日まで多くの人に読まれていますが、永井荷風、谷崎潤一郎、辻潤、辻まこと、宮澤賢治、芥川龍之介、埴谷雄高なども好んで読んでいたようです。戦後になり再評価の機運が出てきて、桑原武夫(1904-1988)、橋本峰雄(1924-1984)、折原脩三、鹿野政直(1931-)などの評論も遺されています。今夏7月に出版された野口良平(1967-)の「『大菩薩峠』の世界像」は、それらを踏まえて新たな展開を見せています。これらを併せ読むと、一層読みが広がり、深まること間違いなしといえます。
* 野口良平 「『大菩薩峠』の世界像」 平凡社 2009年
* 加藤周一 『日本文学史序説』上・下 (ちくま学芸文庫) 筑摩書房 1999年 |
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| 仲町つれづれNO.278 2009年10月27日(火) |
| 文字・活字文化の日 |
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「第63回読書週間」が始まりました。初日の今日27日は「文字・活字文化の日」でもあり、新聞各紙には特集記事が掲載されています。
例えば『毎日新聞』(27日付)には、恒例の「第55回学校読書調査」が掲載されています。それを見ますと、1冊も本を読まない子どもも少なくありません。しかし、インターネットからの情報収集の比重が増して来ている今の時代においても、9割近くの子どもが読書は大切だと認識していることがわかります。
その理由は、小・中学生の1位は「知らない言葉や漢字を覚えることができる」(57%・63%)、2位は「想像力が豊かになる」(41%・63%)、3位は「心が豊かになる」(35%・39%)、高校生になると心を充実させることに比重が移っていきます。
また、子ども達に人気の本には映画の影響が見られ、男子は『三国志』、女子は『余命1ケ月の花嫁』ということです。読みたいと思った時に即読し、「思わず夢中になりました」といえるような、読む楽しさを発見して欲しいものです。
そして、出来るだけ多くの本を読んで、本物の価値観を身に付け、豊かな人生をおくってほしいと期待しています。今を生きるためにベストセラーを読むことも大切ですが、そこで終わってしまってはいけないわけです。日頃は読まない本で世界を広げる、教養のための読書、本質をつかみとる読書こそが大事なことになってくるのではないでしょうか。
参考までに、柴田錬三郎の、有名なこんな話を紹介します。
「私は大新聞の読書調査で、好きな作家のトップに常に、夏目漱石が挙げられているのを見せつけられるたびに、むなくそがわるくなるし、また、志賀直哉が、日本の近代文学に猛毒をばらまいた元凶であることに確信をもっている男だから、漱石に似かよった『悪文』を書く作家と、直哉に追従したような『日常茶飯事的私小説』を書く現代作家の純文学など、読む気は、全くない」
(『地べたから物申す・眠堂醒話』より)。
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| 仲町つれづれNO.277 2009年10月25日(日) |
| 読書週間が始まります。 |
虫の音の大合唱も終息し、時々聞こえる虫の音にも寂しさを感じられるようになりました。まもなく11月、街の木々も色づき始める時期です。城址公園の紅葉が楽しみです。
秋の夜長に灯火親しむ季節でもあります。10月27日から11月9日までは、第63回読書週間です。
しかしながら、10月25日の読売新聞の朝刊に「高齢者が本を読まなくなった」という内容の記事が掲載されていました。大変に残念です。
ここは一念発起して、大いに図書館を利用していただき、本を読む楽しみを再び呼び起こして、今年の標語「思わず夢中になりました」になっていただきたいと思います。
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子ども達が好きな本について教えてくれました。
(館内に掲示しています。ぜひご覧ください。) |
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| 仲町つれづれNO.276 2009年10月23日(金) |
| 時代小説の魅力-明日を生きるための活力源 |
半七、銭形平次、丹下左膳、眠狂四郎、鞍馬天狗、木枯らし紋次郎など、誰でも知っている時代小説のヒーロー達ですが、人間の弱さをえぐりだす時代小説の世界を築く人間達は、皆ひとりで迷ったり困惑しています。そして、弱い者同士が労いあって、柔よく剛を制すというところまではいかないまでも、生きていきます。「おまえさん、そんなに出世しなくてもいいから、あたしのそばにいつまでもいておくれよと言われてその気になる男」と、「男の情にほだされて、貧乏を承知で男についていく女」が生きている世界ともいえます。気楽な読み物として、読み出すといくらでも読めてしまうという人も多い時代小説に、当世少なからず落ち込んでいる人は、活力源として元気をもらっているのではないでしょうか。
『オール讀物』10月号では、総力特集「魅惑の時代小説」として、山本一力、宇江佐真理、佐藤雅美(『開国―愚直の宰相堀田正睦』の著者)、畠中恵、杉本章子などの作品を並べています。11本の内6本は女性作家で、時代小説(あるいは歴史小説)への女性作家の進出、活躍が最近目立ちます。(醒めた目で暮しを考えるのは女性ならではでしょうか?)
また、今年8月に相次いでなくなった同世代の海老沢泰久(1950)と北重人(1948)に対する縄田一男の『追悼・海老沢泰久と北重人―時代小説に託した志』が掲載されています。スポーツのノンフィクションものが多い海老沢と千葉大工学部出身で建築家でもあった北の二人ですが、近年は時代小説にシフトしつつあったようで、海老沢泰久の『青い空 幕末キリシタン類族伝』(2004)、北重人の『蒼火』(2005、時代小説として初めて第9回大藪春彦賞〈2007〉受賞)を取り上げ、「作中、どれ一つとして無駄な死のない、死んでいった人間の思いが間違いなく拾われ、受け継がれていく時代小説」だと評価し、二人が「このまま作品を書き続けていたら、案外、同じ地平に辿り付いたのではないか」と早すぎる死を悼んでいます。
時代小説の「時代」とは、評論家の中島誠(1930-)によると「前の世の中、当世よりは少し古びた時代」ということです。江戸時代から見れば、室町・安土・桃山の戦国の時代、群雄割拠、下克上の戦乱の世の中が舞台であり、明治・大正の時代では、江戸時代が時代物の舞台に、今日から見れば、昭和初期の戦前も舞台となるといえるようです。
このように時代小説には、表現上の一種の約束があり、現代小説とは一線を画す独自のスタイルであり、作家は厳密な時代考証をし、さまざまな工夫を凝らしながら書いているわけです。
例えば、映画やTVドラマ、舞台と、いずれも人気ある作品を遺した藤沢周平(1929-1997)は、生前「歴史の未知の領域に想像力がおよぶとき、創作意欲が刺激される」(『周平独言』)し、「ざっくばらんに言えば好きだから書いたというしかない部分がある」と言っています。
また、かつて大学でフランス語の教師をしたり、長年シナリオ・ライターをしていて、60歳を過ぎてから小説の世界に入った隆慶一郎(1923-1989)は、死の三ヶ月前に出版された『時代小説の愉しみ』(1989)のなかで、「歴史学の大きな変換期に、死者たちの決然とした風貌を描く」というこだわりを述べています。それは「死人の方が、生きてる人間より確かだから」とか、「死人たちの決然とした風貌の見事さはどうだ。長い時間の風化を受けて、その像には鼻は欠け、耳は欠けているかもしれないが、それでも尚、誇らかに己れの志だけは明確に告げているかに思える」というわけです。
彼のいう「歴史学の大きな変換期」とは、当時歴史学者網野善彦(1928-2004)の「今までの農業定置民の視点に対して、同じ重さで、非農業民の視点を重視し」、民俗学からアプローチし、中世の職人や芸能民など非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにした業績を意味しています。作家としては短期間に膨大な量を書いた隆慶一郎でしたが、没後20年経った現在でも多くの若い人に影響を与えているようです。一種の自由人達の眼で、庶民の歴史を描いたことでも高く評価されているようです。
このようにして、今もたくさんの作品が創り出されていますが、われわれが親しんできた時代小説のフィールドは、何といっても江戸時代が中心になります。江戸と京・大坂、そして三大都市を結ぶ東海道と中山道が舞台の中心となります。時代小説の書き割りは「洋の東西を問わず、それぞれの国のいまから、二、三百年前の風景と人物に彩られている」ようです。
江戸時代全体を通しての時代物の代表は『仮名手本忠臣蔵』で「時代を縦の世話を横の糸で織った名作」だといわれています。さらに芝居の興行で、夏場の不入りをしのいだのは『東海道四谷怪談』といわれています。この二作は時代小説の元祖といえます。
*文学には純文学と大衆文学があり、この間に中間小説を置くこともあります。歴史小説と時代小説との区別は、というと、微妙な違いがあるようです。中島誠の著書から引用しますと「時代小説を文学の中央広場に置き、網野善彦流に言えば、無縁・公界・楽(ぶえん・くがい・らく)の場に時代小説は栄えている」そうです。さらに「歴史小説は時代小説より上座に、つまり、純文学にやや近いものとする考えもあるが、歴史上の人物や事件を骨格とした大部分の小説は、その世界の中身は時代小説である」とも。時代小説の歴史の境界は、豊臣徳川の間の戦争から幕末、維新の戦争までの時間に一応は限られています。時代小説とは結局は徳川家の天下の時代、即ち関ヶ原の戦いから桜田門の変までを舞台にしていることになります。
*時代小説はなぜ江戸時代にこだわるのか。江戸という都市空間にしがみつくのか。それについて、中島誠は「江戸に象徴されるものが、現代の『地方』であり、いなかであり、故郷の町並み家並み町筋の風景であったなのかも知れない」といいます。今の東京には、まだ当時の神社・仏閣、樹木、橋などが残り、当時の雰囲気がわずかに残されています。そこに、時代小説の世界の人間達にあやかって生きようと思わせる何かがあり、江戸探索も流行っているのでしょう。秋の夜長に、時代小説を気楽に読んで見ると共感を得るのではないでしょうか。中島誠は「時代小説を読んで、人は自分の心の懐に帰るのである。勤務を終えて、家に帰るように」(「あとがき」)と強調しています。それが時代小説の魅力でしょう。
*中島誠 『時代小説の時代』 現代書館 1991年
*隆慶一郎 『時代小説の愉しみ』 講談社 1989年
*藤沢周平 『周平独言』 中公文庫
*秋山駿 『時代小説礼讃』 日本文芸社
*網野善彦 『日本中世の民衆像―平民と職人』 岩波新書 1980年
*網野善彦 『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(増補版) 平凡社 1987年 |
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| 仲町つれづれNO.275 2009年10月13日(火) |
| チベット展を見て |
「アジアの心臓部には、地上最高の山岳地帯の雪をいただく山々が、太陽と星に向ってそびえ立っている。それは『チベット』、すなわち『雪の国』として知られるところである。『冬の住居』たるヒマラヤは、チベットの南の国境地帯で一つ城壁を形成し、また常夏の国インドの北限をも画している。中央アジアにおけるシナ・トルキスタンの息づまるような砂沙漠に覆われた場所から、チベットは崑崙の巨大な山系によって充され、それらはほとんど例外なく、東から西へと連続している。」
(『チベット遠征』より)
スヴェン・へディン(1865-1952)の『チベット遠征』(1934)の冒頭の部分です。原題は『チベット征服の旅』という冒険旅行記で、著者自らの生き生きした筆の運びで細々と描写された挿絵が縮尺されて280余枚ほど挿入されています。ヘディンはストックホルム生まれで、ベルリン大学で地理・地質学を学んでいます。1893年から1908年にかけての3度の中央アジア探検をはじめとして、その後も西域で大規模な調査を行うなど、その学問的業績の大きさと不屈の探検精神から、20世紀最大の中央アジア探検家といわれています。探検資金の捻出のために本を出版したという事情があったといわれています。
このように禁じられた山々が堅固な防御壁となり、チベットにおける土地の備えとなってくれたため、万里の長城を建造した中国諸皇帝のやり方に従う必要はなかったわけです。このようにして百年ほど前までは、チベット(海抜4千m、面積約250万平方キロ)は「この地球上で最も知られざる、最も近づき難い場所の一つとして残されている」ところでした。
しかし最近は、チベットへ旅行に行く人も増えてきたようです。また、このところチベットの抱える諸問題(1951年中国は軍隊を投入したことなどでチベットの独立は消滅、その後ダライ・ラマ14世はインドに亡命したことで、過去のチベットは終わりを告げたという歴史があります)が大きく報道されるようになってきています。
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上野の森美術館で『聖地チベット・ポタラ宮と天空の至宝』展が来年1月11日まで(無休)開かれています。本とは違って立体的に、実物によってチベット文化に触れることができる、いい機会です。
日本には、最澄や空海によって9世紀初めに中国から密教(インド中期密教に基づく)が伝えられましたが、10~11世紀頃再び仏教を受け入れたチベットは、インド後期密教からの影響を強く受けています。そのため、チベットの仏像や仏画には独特な姿形が見られます。
また、ポタラ宮は、チベットのシンボル的な建築として、よく日本画にも描かれていたり、世界文化遺産にも登録されています。ここには歴代のダライ・ラマの遺体を安置する霊塔、5つの建物、壁画、金印、玉印などから、各種工芸品、仏像、仏塔、タンカ等約7万余点、経文類6万余点が収蔵されているといわれています。まさに「チベット歴史宗教文化博物館」といえます。
右の写真は、上から「トルコ石を散りばめた豪華な『十一面千手千眼観音菩薩立像』(17-18世紀)」「数多い般若経典類のなかでは最古層に属する経典とされる『八千頌般若波羅密多経』(15世紀前半)の一部(藍紙金書、木板彫)」、そして「最後期の密教経典である『カーラチャクラ・タントラ』(14世紀・藍紙金書彩色、木板彫)」は、挿画や彩色が施された装飾経典て、本の表紙のように上下を経版に挟まれています。
経典類ではこれらの他には、『カンギュル』(1725)、『テンギュル』(清時代、18世紀)『四部医典』(清代)などが出ています。展覧会図録の「作品解説」によると、吐蕃王国では、8世紀末以降、国家事業としてサンスクリット仏典の収集・翻訳・校訂作業を行い、顕密の経典やタントラ、律蔵などをカンギュル(チベット大蔵経の仏説部)、論書や仏伝、医学書、占星術・暦などの文献をテンギュル(チベット大蔵経の論疏部)として五千数百巻の大蔵経を集大成したということです。カンギュルは功徳を積むための書写の対象としても重視されたということです。
*明治、大正の時代、チベットで学び、旅をした日本人僧は2人いました。河口慧海(1866-1945)は『チベット旅行記』『第2回チベット旅行記』を遺しています。もう1人の多田等観(1890-1967)は、約10年間ラサのセラ寺に学んでチベットの最高学位を修め、帰国後東北大学に勤めています。彼には『チベット』(岩波書店、1942)という著書があります。
*スヴェン・へディン・金子民雄訳『チベット遠征』 中公文庫 2006年(改版) |
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| 仲町つれづれNO.274 2009年10月1日(木) |
| 佐倉図書館【臨時休館】のお知らせ |
新町の佐倉図書館は、10/5(月)から10/9(金)まで蔵書点検作業のため臨時休館となります。
利用者の皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、ご協力をお願いいたします。
市内図書館の本や雑誌の返却はブックポストで受付ます。また市内の各図書館は開館しております。(ただし、5日(月)6日(火)は全館休館日となっています。ご注意ください。)
なお、10/9(金)から10/11(土)は、佐倉の秋祭りが行われます。佐倉図書館周辺の道路は、車両通行規制がありますので、あわせてご注意ください(詳細はこちらをご覧ください)。 |
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