| 仲町つれづれNO.273 2009年9月26日(土) |
| 「水絵の福音使者」大下藤次郎 |
郡山市立美術館で『水彩画のパイオニア 大下藤次郎の世界展』が開かれています。大下藤次郎の孫の敏さんら4人で見に行ってきました。あわせて、福島県鏡石町(唱歌『牧場の朝』の地としてオランダと縁がある町)の友人の好意で、時折光を浴びる黄金色の稲田や雲海のような白い花一面の蕎麦畑を眺めながら磐梯山を周遊し、会津の雪景色などを木版画で表現した文化功労者の斉藤清(1907-1997)の作品を収蔵する柳津町立斉藤清美術館も見て来ました。
自然美を愛した大下藤次郎は、どちらかと言うと人物は苦手のようで、国内各地を写生旅行しています。郡山の近くの磐梯山、猪苗代、桧原湖、尾瀬などは数回訪れ、名作を遺しています。今回展示されている作品や資料は大下家旧蔵のもので、敏さんのお父さん(正男)が生まれる時の状況などが克明に書かれた日記や、旅先からの家族宛の絵葉書類、写真類などの資料も展示されていました。
「水絵の福音使者」といわれた水彩画家大下藤次郎の生きた時代は、日本が近代国家として歩み始め、伝統の見直しを積極的に進めて、日本のアイデンティティを確立しようとした時代です。そうした状況の中で洋画家を志して後に水彩画の道に進んだのも、油絵具より携帯に便利なツールということ、友人の水彩画家三宅克己の影響もありますが、直接的には西洋の水彩画(オランダやイギリス)の繊細で叙情豊かな風景画、当時としては新鮮な自然の世界に触れた感動があったればこそのことだろうと考えられます。
当時、イギリスからアルフレッド・イーストなどの水彩画家が相次いで来日しています。また志賀重昂の『日本風景論』(1894)が大ベストセラーとなっており(実際、彼のところを訪れて助言を請うています)、その影響も見過ごせません。
年譜を読むと、松岡(柳田)国男、田山花袋、国木田哲夫(独歩)、蒲原有明、川上眉山、上田敏、島崎藤村ら、晩年は小島烏水(随筆家、日本山岳会創立者)とも交流しています。同世代の仲間たちと酒を飲みながら議論を交わし、都鳥英喜や浅井忠など佐倉ゆかりの人々とも交流があったようです。1900年5月「明治美術会の無能を憤かりて青年間にて何か企てんとの話が都鳥より出て」、青年画家の団体を結成すべく、大下も発起人の一人となり、洋画青年会が結成された際には幹事となっています。1902年8月には上野梅川でのフランスから帰国した浅井忠の歓迎会にも出ています。
さらに大下は、図書館に通って資料を集めて『水彩画之栞』(1901)という技法解説書を出版しています。この序文は森鴎外が書いており、今回の展覧会にもその原稿が出ていました。
この時代、水彩画に関する本がいろいろ出版されていますが、大下のそれは版を重ね(年内に6版、1904年15版)、ベストセラー(2万部)になったということです。その後、米欧巡遊の旅で得た成果を加えて増補改訂した『水彩画階梯』(1904)を出版します。これもすぐ再版されるほどの人気だったようです。まさにバイブルだったのです。彼自身、「一般水彩画の流行は、吾が作りし動機なれば、斯道に猶多大な力を尽くさんと希ひつゝ年を越したり」と振り返っています。
1905年には春鳥会を興し、7月に月刊『みづゑ』を創刊しています。この雑誌が、後の一世紀にわたって日本の美術界で大きな役割を果たし続けるわけです。この頃絵葉書が流行し、その出版もしています。
1906年には水彩講習所を開き、希望者増加で1907年には新たに日本水彩画会研究所を開設しています。この頃から各地へ行って講習会なども行い、水彩画の普及や発展に務めています。しかしながら1911年8月、松江、敦賀での講習会が最後の旅となってしまいました。病床に伏して1ヶ月あまりで夭折、享年42歳でした。
画家でありながら多方面で活躍したその才能は、親譲りの時代を敏感に読み取る優れたものだったのでしょうが、さらに、人一倍水彩を愛した彼の熱きエネルギーがなければ、日本での水彩画の発展はなかったといえます。それだけ彼の果たした役割は極めて大きかったのだと、今回、郡山でまとまった作品を見ることができて、改めて大下藤次郎を振り返ることができました。
佐倉においても、水彩画の世界では、いうまでもなく浅井忠、都鳥英喜の二人は忘れることはできませんが、戦後の荒谷直之介(1902-1994)の存在があります。彼の作品は、市内の施設や回覧版の表紙で見ることが出来ます。
*島根県立石見美術館編 『大下藤次郎の水彩画』美術出版社 2008年
*高階秀爾 『水絵の福音使者大下藤次郎』(美術出版社創業100周年記念出版)美術出版社 2005年
*近藤信行編 『大下藤次郎紀行文集』 美術出版社 1986年
*福田徳樹編 『大下藤次郎美術論集』 美術出版社 1988年
*原田光編 『日本の水彩画 1 大下藤次郎』第一法規 1989年
*『水彩画に生きる荒谷直之介展図録』 佐倉市教育委員会 1989年
*森鴎外の短編小説『ながし』(1913)は、大下藤次郎が21歳の時に書いた手記『ぬれきぬ』を元に、21歳の主人公藤次郎と家族との哀しくもあさましい人間模様を描いたものです。 |
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| 仲町つれづれNO.272 2009年9月23日(水) |
| 日本人と印象派絵画 |
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9月に入り、上野や六本木では絵画団体の公募展が開幕し、まさに「芸術の秋」到来という感じの季節になりました。第94回二科展では、図書館の近くにお住まいで、今は体が不自由であるOさんの『心』という作品が出品されていて頭が下がりました。
絵画にはいろいろな主義主張(画風)がありますが、西洋美術では特に印象主義、印象派の作品が多くの日本人を惹き付けているようです。日本では早くから、パリ在住の林忠正が画商として印象派の画家から直接入手していました(仲町つれづれNO.256を参照)。また実業家松方幸次郎(1865-1950)のような大コレクターもいました。1959年6月にフランス政府から返還された松方コレクションの受け入れ施設として、国立西洋美術館が開館しました。今日の国内での印象派のコレクションも充実しているといえます。
また、展覧会の価値は別として、全国各地で開催される展覧会で、印象派の展覧会は動員力があり、必ず成功しています。身の回りでも、極端かもしれませんが、どこの家庭やオフィス、店舗などにも必ずといって良いほど、印象派の画家の描いた景色や女性像の複製画などがあります。そのぐらい日本人は、アメリカ人とともに印象派の好きな国民といえます。
印象主義は、1870年代にフランスで起こった絵画の革新的運動でした。その作品は当初人々に理解されることはなかったそうです。それが現在では世界中の人々にあがめられ、「印象派絵画を買うことは、その人の社会的・経済的ステータスと、美的・文化的感性の到達点を示すもの」(中山ゆかり)となっているのです。
今夏『究極のトロフィー 印象派絵画はいかにして世界を征服したか』という本が出版されました。著者のフィリップ・フックは、1960年代からクリスティーズとサザビーズという二大オークション会社の競売人としてキャリアをつみ、その間、画商としても活躍した人で、英国BBC放送の美術番組のコメンテイターを務め、美術業界を舞台にした推理小説も手がけるといった多才な人です。それだけに、率直と同時に、英国人らしい皮肉なユーモアに満ちた語り口のなかにも説得力があり、おもしろく読むことができます。
この本は、印象派絵画を美学的・美術史的に論じているわけでも、また画家の生涯や作風の変遷を伝記的にたどるものでもありません。あくまでも、絵を見る人、そして買う人たちが、印象派絵画をどのように受け止めてきたか、そしてその受け入れ方がこの百数十年のあいだにどのように変遷してきたかという点に焦点を当てています。タイトルにある「究極のトロフィー」とは、印象派絵画の持ち主がいかに「高み」に達したかを象徴するものだそうです。
*この夏、東京都写真美術館で、文明開化の時期に来日したフランス人の画家ジョルジュ・ビゴー(1860-1927)の全生涯を明らかにする初めての展覧会が開かれました。彼は、陸軍士官学校で1年ほどお雇い外国人画家として働きますが、もともとは新聞や小説の挿絵画家(エミール・ゾラの『ナナ』など)であったため、好奇心と親しみを持って日本の情景を描き、明治の日本人の姿を西洋に伝えています。
また、17年間の滞在中にたくさんの画集を出版していて、『日本人のショッキング』(1895年サイゴン刊)という本では、東南アジアを拠点とするジャーナリスト(「フィガロ」記者)であるフェルマン・ガネスコが批評を書き、ビゴーが挿絵を書いています。その中で、ガネスコが黒田清輝や久米桂一郎などを「印象派」と呼び、フランスで印象派を揶揄的に批評する世相をそのまま黒田に当てはめていてます。挿絵(風刺)は「黒田氏の裸婦」(石版画)と名付けられ、裸体のフランス婦人に驚く日本人を描いています。ここでいう黒田作品は『朝妝図(ちょうしょうず)』(1895)のことで、それに対して「われわれが知っている化物はもう少し本物らしい化物のはずだ」と酷評しているようです。いずれにしてもビゴー自身も黒田に対していい印象をもっていなかったといえます。
* フィリップ・フック著中山ゆかり訳 『印象派はこうして世界を征服した』 白水社 2009年
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| 仲町つれづれNO.271 2009年9月15日(火) |
| ウィーンの「寅さん公園」 |
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今月28日、なんとウイーンのドナウ川のほとりに、「寅さん公園」なるものができるそうです。
仲町つれづれNO.266で紹介した映画『寅次郎心の旅路』のロケが縁で、葛飾区とフロリズドルフ区が都市提携しており、約3千平方メートルの緑地で、寅さんのレリーフ付き案内板が設置されるとのこと。28日の命名式では、写真展示などのイベントも繰り広げられるということです。
遠い異国の地で、寅さんに出会うことができるというのも、また乙なもの、でしょうね。
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| 仲町つれづれNO.270 2009年9月10日(木) |
| イメルダと靴② |
(前号より続く)
イメルダのルーツは、政財界の名門ロムアルデス家にあるそうです。しかし、イメルダの父は三兄弟の末弟で、兄たちに比べると経済的には恵まれなかったといわれています。彼女は少女時代から美しく「聖母マリアを思わせた」そうです。8歳で母が亡くなり、1938年マニラからレイテ島に移り住みましたが、言い寄る男たちから遠ざけるために、1952年に再びマニラに連れてこられ、このことから後に大統領夫人へと導かれる運命を辿ることになります。
「私は大統領として国民の父になり、丈夫な家を作る。君はそれを国民の安らぐ家にして欲しい」とマルコスに言われた彼女は、フィリピン人の心と安心の拠り所として、愛を育むための「美と文化」が必要だと感じたそうです。そこから、彼女の「美と文化」に対する欲望が大きく膨らんでいったのです。
政権発足から7年目、戒厳令発令から77日目の12月7日、奇しくも7の倍数に執着していた彼女が刃物を持った男に襲われ、生死の境を彷徨ったりもします。そのことから「私は他人のために全てを与え、無私無欲になる」として、マニラ首都圏知事に就任したり、居住環境省の大臣にも任命されたりしています。
美に関しては「美しくなるのに大金は必要ない。努力すれば美しくなれるわ。美とは鍛錬であり、芸術であり、すばらしい調和よ」といいます。彼女は、外国の要人に会う時の着替えには1時間、地方に行く時の着替えには2時間かけたそうで、彼女が美しく装えば装うほど、それは金権政治の象徴となっていったのです。
また彼女は、大使や外交官の役割も果たす素質を備えており、毛沢東、カダフィ大佐、カストロ、ヨハネ・パウロⅡ世、ニクソン大統領などを相手に手腕を発揮しています。ワシントンとも直接連絡を取ることができたのです。国家予算の15%を管理していたとも。要は、権力を持っていたということです。
*彼女の靴は、今では靴博物館として、保存展示されており、見ることができるようです。
*この映画はイメルダ夫人の同意を得て撮影されたにも関わらず、「真実を語ったのに悪意に解釈されたわ。フィリピンでは女性は美を追求するの。この映画は美を求めた私を笑いものにしている」として、上映禁止を訴えられた経緯のある作品でもあります。フィリピンは日本にとって身近な国です。旧日本軍の傷跡は残っていますが、親日国です。今日のアジアに民主化と人権をどう定着させていくのかを考える意味でも有効な作品といえます。
*この稿を書いていた時のことです。反マルコス派のリーダーだったベニグノ・アキノ氏が1983年暗殺された後、夫に代わって後継者となり、1986年ピープルパワーによってマルコス体制を崩壊に追い込んだ「民主化の母」コラソン・アキノ元大統領(1933年生、1992年退任)が亡くなったというニュースがありました。彼女は政治的立場や評価を超えて愛された人であり、亡くなって3日間、たくさんの市民が最後の別れに訪れたということです。イメルダ夫人は「コリーは今、神とともにある。彼女とフィリピンの人々のために祈りましょう」という声明を出したとか。フィリピンでは「政権を2度倒しても世の中は変わらなかったという閉塞感が社会を覆い」、彼女に代わる新しいシンボルの出現も望み薄だということです。(『朝日新聞』8月2日付) |
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| 仲町つれづれNO.269 2009年9月10日(木) |
| イメルダと靴① |
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日本の靴の発祥は佐倉ゆかりの人です(興味のある方は、佐倉市史や大塚製靴関連の資料をご覧ください)。
靴は人を表すといいます。通りを歩く時や信号待ちの時などに視線を落とすと、行き交う人々のいろんな靴を鑑賞できます。特に、女性の靴は非常に多種多様で、惹かれるものがあります。昨秋見た雑誌『メトロポリターナ』vol.69の中に「特集 シンデレラの靴を探して」というのがありました。「私たちは、なぜこんなにも靴に惹かれるのだろう。かわいらしいフォルム、美しい色合いは、見ているだけでも、うっとり」という書き出しでした。靴は、はく人を輝かせ、幸せにしてくれるとのことで、いろんな靴が溢れ、これほど豊かなデザインはない、というのも頷けます。
靴の起源は2種類と考えられています。ひとつは、古代エジプトで誕生した、地面から足を保護するサンダル、もうひとつは、北方系民族から誕生した、革で足全体を包むタイプの履物で、現在のモカシンの原型といわれています。靴は、足を守る以外にも権力を誇示する目的で、しだいに派手な装飾が施されるようになったそうです。また、機能性よりも見た目を優先して発展した時代もありました。女性の欲望を満たしながらデザイン性を高めていったわけです。
「靴がある意味で私を救ってくれた」という人がいます。20年もの間フィリピン共和国のファーストレディとして政治を操り、贅の限りをつくしたイメルダ夫人(1929-)です。自らの人生を語るドキュメンタリー作品『イメルダ』(ラモーナ・ディアス監督、9月12日からポレポレ東中野などで公開予定)の中での話です。
イメルダ夫人は、今年7月2日にマニラで80歳の誕生日パーティを開催した(デヴィ夫人も出席)ということです。2009年に「史上最も貪欲な人物の一人」(ニューズウイーク誌)にも選ばれた彼女は、現在も非常にアクティブで、今はブランドを立ち上げてブティックを経営しているようです。また、不正蓄財や人権侵害など150件もの訴訟を抱えているとのことです。
イメルダ夫人といえば、その昔、マラカニアン宮殿に残されたおびただしい靴のことを記憶している人が多いのではないでしょうか。当時、亡命を告げられたマルコス一家は、去るまでにわずか一時間しか時間がなく、亡命後すぐに宮殿内に入ったマスメディアがその靴の多さに驚き、こぞってこの光景をニュースにしました。その3000足の靴で有名になったのです(ドレスは6000着とか)。
1989年9月、マルコスは亡命先のハワイで死去しました。時代は変わり、1990年に祖国に帰ることができたイメルダ一家は、その後、長男が北イロコス州知事を経て下院議員に、長女も下院議員(現在ファッションデザイナーに転身)と、政治的復権を果たしています。
この映画の終わりで彼女はいいます。「私の心にやましいことは1つもない。人生について問われても堂々と言えるわ。私にははっきり分かる。主が満面の笑みで天国に迎えてくださると・・。」
(次号に続く)
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| 仲町つれづれNO.268 2009年9月5日(土) |
| 伊東静雄の詩② |
(前号より続く)
夏の終り
夜來の颱風にひとりはぐれた白い雲が
氣のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大氣の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景觀に
それがおほきく落す靜かな翳は
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田(みづた)の面(おもて)を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
ずつとこの會釋をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる 伊東静雄『反響』小さな手帖から 1947 所収
伊東静雄は、1945年当時住んでいた堺市で、空襲により全てを失っています。この年の日記は8月28日から31日までしか書かれていないということです。
そして1946(昭和21)年、『文化展望』十月号に「夏の終わり」を発表しています。この頃「小さな手帖」に詩の素描を書きとめています。1947年11月、詩集『反響』(135頁・創元社)を出版しています。この詩集は既刊三冊の詩集からの再編集で、新作は「小さな手帖から」の表題の10編が収められています。
伊東は、若い頃から特にリルケを愛読していますが、彼自身が詩を本気で書く気持ちになったのは「リルケの新詩集を読んでから」で、また「詩だけでしか表現されない種類の、思考の正確さ」と(『マルテの手記』に感動し)「目の正確さのために払われた勇猛の真の犠牲がわかる気がします」(手紙)とも書いています。1947年夏にはリルケの詩約60編をドイツ語で読んでいます。
(小欄でお馴染みの)杉本秀太郎さんは、伊東静雄の詩の散文的、描写的への変化について、「かつては見えなかったものが、リルケの向こうに見えてきた」、その結果「詩の表層はいちじるしく透化し、表現は平明となった」といいます。
杉本さんの解説を読んでみますと、詩を批評するのは評論だけではなく、詩によって批評する批評詩というのがあるといいます。近世和歌の世界には、「先人の和歌を和歌によって批評する形式」の本歌取りというのがありましたが、伊東静雄は「伝統の蘇生をひそかに、はにかみがちに、試みた」というわけです。自らも語っているように、自作詩の自作詩による解説というわけです。杉本さんは「『解説』というより詩集の題名そのものの反響にするのがよさそう」だといいます。事実詩集『反響』(1947年・創元社)の扉の裏に「これ等は何の反響やら」と書かれています。そこには耳を澄まして聴く詩人の姿が感じられます。
*伊東静雄の詩の魅力について、三島由紀夫は「俺の心の中で、ひどくいらいらさせる美しさを保っている」。そして「俺は伊東に人生を教はったことはない。はっきり言へば、その抒情の冷たい響きが、俺のもつとも荒んだ心情と記憶とに触れるのだ。それが俺にはやりきれない」。「あの人の詩句は、いつもそんな塩梅のものに俺には思はれる。そんな詩句がこれほど美しいのは、殆んど許し難いことだ」と言っています。
*杉本秀太郎さんは、過去にもいくつもの『伊東静雄詩集』を編集されていますが、今春「伝記的通説を排除し、注釈に徹した画期的詩人論」といわれる『伊東静雄』(2009年)を出版されました。特に、『古今和歌集』、ベルダーリンの詩、ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-1899)の絵に範例を求めつつ、伊藤静雄の「意識の暗黒部との必死な格闘」を読み解いています。
*杉本秀太郎編 『伊東静雄詩集』 岩波文庫 1989年
*杉本秀太郎 『伊東静雄』 講談社文芸文庫 2009年
*小島信一編 『日本の詩 伊東静雄』 ほるぷ出版 1975年 |
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| 仲町つれづれNO.267 2009年9月5日(土) |
| 伊東静雄の詩① |
咏唱
秋のほの明い一隅に私はすぎなく
なつた
充溢であつた日のやうに
私の中に私の憩ひに
鮮(あたら)しい陰影になつて
朝顔は咲くことが出来なく
なつた 伊東静雄『わがひとに与ふる哀歌』1935 所収
詩人の伊東静雄(1906-1953)には4冊の詩集があります。「咏唱」は最初の詩集にある一篇です。47歳という短い生涯だったこともありますが、一般的に考えれば少ない作品数です。が、それだけに一篇一篇密度の濃い、完成度の高い作品になっているといえるかもしれません。
萩原朔太郎は、『わがひとに与ふる哀歌』が出版された時、伊東静雄の詩について、美しい恋愛歌だが「この『美しさ』は、そのエスプリに惨虐な痛手を持った美しさであり、むしろ冷酷にさえも意地悪く、魂を苛めつけられた人のリリックである。ああしかし、これもまた一つの『美しい恋歌』であろうか?」(『コギト』第44号)と熱烈な称賛を寄せています。また1935年1月の出版を祝う会(新宿「とと屋」)では「日本に尚一人の詩人がある」と激賞したそうです。
伊東静雄はどんな人だったのでしょうか。彼は、ちょうど戦争という危機的な時代を、生活と文学とのジレンマに苦しみながらも生き抜いた一人です。京都大学国文科を卒業、大阪府立住吉中学校に就職しながら、同人誌に発表しています。国文専攻にしては珍しくドイツ語を得意とした伊東は、学生時代からフリードリヒ・ヘルダーリン(1770-1843)、ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)などのドイツ・ロマン派から戦後の前衛詩人たちの原典に親しんで,その影響を受けています。
また1933年夏に保田与重郎(当時23歳の東大生)と出会います。その後の声援が「生涯最も輝かしい思出になる底のものであった」(『夏花』1940年)と自らも語っているように、保田との関わりが伊東の生涯に決定的な方向づけを与えたといわれています。1935年、保田与重郎らの『日本浪漫派』に第2号から参加し、そして処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』(1935)の出版となります。前述の宴会では、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治、中原中也(当日彼の下宿に1泊)、丸山薫、保田与重郎、檀一雄,立原道造、(筆者も教わった)芳賀檀らが集い、その後交友関係が広まっていきます。
1939年には、時流に乗りはじめたロマン派系の詩人、歌人、作家を結集して、中河与一(仲町つれづれN0.187を参照)の『文芸世紀』が創刊され、伊東静雄も詩やエッセイを載せています。(ロマン派の影響は三島由紀夫、井上靖、島尾敏雄、庄野潤三、吉本隆明、橋川文三、磯田光一、桶谷秀昭などに及んでいきます。) (次号に続く) |
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| 仲町つれづれNO.266 2009年8月26日(水) |
| 寅さんからの暑中見舞 |
前号で年中行事や季節性との結びつきが強い和菓子の一端を書きました。また私の持論ですが、日本酒には羊羹など甘いものがぴったりで、これからの季節は和菓子に限ります。
さらに、最近、漫画などでも和菓子などをテーマにした連載もあり、若者の間で和菓子が人気だという記事を見ました。全日本菓子協会のデータをみても、生産額でも和生菓子は洋生菓子を上回っています。和生菓子は07年に2.5%増、08年も1%増と3年連続で前年を上回る状況で、逆に洋生菓子は2年連続(07年0.5%減、08年3%減)で前年割れだったということです。
伝統的な和菓子は植物性原材料が多く、低カロリーで健康志向に合致し、何といってもあんこの甘みがわかり、安心して食べることができるというわけです。
映画『男はつらいよ』(松竹)の寅さんの実家は、葛飾区柴又の老舗草団子屋「くるまや」(39作まで「とらや」)です。団子は、季節でいえば花見団子や月見団子などがあり、普段よく口にするのではないでしょうか。
さて、『新潟日報』の一面コラム『日報抄』(09.08.14付)に、「フーテンの寅さん」こと車寅次郎から暑中見舞の手紙が届いたという話がありました。「故郷を遠く離れ、長ーい旅を続けておりますが、その後の日本は、少しは明るくなったかい?」という文面だったということです。
寅さんシリーズの第1作が封切りされたのは、40年前の1969年8月27日でした。この暑中見舞は、寅さん役の渥美清(1928-1996)の13回忌(2008年)から続く『男はつらいよ』40周年プロジェクトの一環として出されたものだそうです。(なお、第41作『寅次郎心の旅路』(1989)では寅さんがウィーンとアムステルダムへ行くのですが、スキポール空港では知人が出演したことなどが思い出されます。)
寅さんはいつも盆と正月に、我々の前に帰って来たものです。コラムニスト永井梓さんが『よみうり寸評』(1988.11.2付)に寅さんのことを書いています。寅さんは「今年の盆は休みだった。その代わりでもあるまいが,異例の出番が菊薫る11月にやってきた」。これは当時還暦を迎えた渥美清が紫綬褒章をいただいた時のことで、「褒章は寅さんがもらったと思ってもらうのが一番うれしい」という受章の弁だったとか。
「車寅次郎は葛飾柴又、渥美清は上野車坂の生まれだが、シリーズは今度の正月(筆者注:1989年)が40作目。今や一心同体だ」。「『ありがとう。アリが十なら、イモ虫や二十。結構毛だらけ、ネコ灰だらけ』と受けてくれ。20年前、渥美はこんなテキ屋の口上を山田洋次監督の前で延々三時間にわたって披露してみせた。それが超ロング・シリーズ誕生のきっかけだった」と。永井さんは「大当たりの秘密は解説無用。ファンの一人一人が知っている。キヨシ百まで、トラ九十九まで、末永く続けてやっておくんなさい」で〆られています。
残念ながら、渥美清は1991年肝臓癌に掛かり、癌と闘いながら出演していましたが、1996年8月4日順天堂病院で亡くなりました(享年68歳)。彼の死により、二代目寅さんの誕生の噂もあったものの、映画『男はつらいよ』シリーズは全48作で終了、世界最長シリーズ(作品数)としてギネスブックにも認定されました。
渥美清は死ぬまで仕事をプライベートに持ち込まなかった人で、他者との交わりを避ける孤独なタイプだったそうです。遺言により訃報は3日後の発表で、8月13日のお別れする会には3万人が訪れたということです。死後、人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたということで、国民栄誉賞が授与されています。
渥美清は、晩年俳句を趣味として、「アエラ句会」(AERA主催)に「風天」の俳号で句を詠んでいたといわれています。森英介さんの『風天 渥美清のうた』を一読ください。
寅さんの不安は的中したのでしょうか。過去の記憶を振り返って、今一度現在を考える機会をもちたいものです。
*かつて寅さんファンクラブというのがあり、このシリーズはいつもぎりぎりまで制作が続けられていて、試写会などはなかったのですが、一度だけ、松竹大船撮影所へ撮影セットの見学会に参加したことがあります。その時、寅さんとの記念撮影の機会があり、寅さんの隣に座った私は、名札を付けていたのですが(難読なので)「名前は?」と聞かれて、名乗ったことが思い出されます。
*永井梓 『コラムニストの目』―「よみうり寸評」この八年― 読売新聞社 1995年
*小林信彦 『おかしな男渥美清』 新潮文庫 2003年
*森英介 『風天 渥美清のうた』 大空出版 2008年 (全218句収録) |
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| 仲町つれづれNO.265 2009年8月23日(日) |
| 書物へ閉じ込める意味 |
7月末のこと。戻り梅雨で暑い日の夕方、九段の坂を、眼下のお堀には夕日を浴びて光る蓮の花々が見えるものの、蝉の鳴き声に悩まされながら、会場に向かってある映画を見ました。イタリアのエルマンノ・オルミ監督(1931-)の、自身最後の長編劇映画という『ポー川のひかり』(2006年、クレストインターナショナル配給)という作品です。
ハリウッド映画に慣らされている身には、清々しくも余韻は限りなく深く、心の奥深くにまで語りかけてくる作品でした。会場に入るまでの喧騒をも忘れさせる、イタリア人にとっての母なる川であるポー川のゆっくりとした静かな流れの、それも光と影が織り成すいろんな表情に魅了されました。作品の原題は『百本の釘』、「無数の釘」とは何を意味するのだろうか、先ず、磔刑になったキリストが浮かびますが、ことさらに考えてしまいました。
舞台はイタリアのボローニャ、夏休みに入ったばかりで静まり返った佇まいの、堅牢かつ荘厳な建物のひとつであるボローニャ大学図書館です。「どんな書物でも、書物そのものは語らない。レイモンド・クリバンスキー」、「歴史図書館」という字幕が流れていきます。昨日が学年末だったという日、鉄格子の扉の奥の図書館の一室で、大量の古い本(手稿写本)が床や机に開かれて所狭しと置かれ、美しい絵文字も見える手稿の文字の上に太く重い釘(120g)が打ち抜かれているという事件のシーン(それはあたかも大虐殺!“ヘロデ王の虐殺”だ。書物に何の罪が?しかもまるで現代アート作品のように見える。)から始まります。
ここに登場するのは、主人公である哲学の主任教授(後で「キリストさん」と呼ばれる)で、書物を人類の財産であり、最良の友として、人生を捧げてきた聖人である司教に対立する人物です。彼は近く「力本説(ダイナミズム)と方法」という論文を発表する、国際レベルの学者で将来を嘱望されていました。
その彼が、実存主義の父ヤスパースの言葉を学生に話します。「我々の時代は、精神性が利益に置き換えられ、儲けることが全てになった」、「人生そのものが虚構であり、生きる喜びも偽りだ。芸術も偽りである。純粋性が失われた時代には、我々の実存を解明するのは狂気なのか?」といって講義を締めくくったのです。
また、「我々は知識に囲まれている。多くの真実が著されたが、何かに役立ったか?」「我々を欺いただけだ」とある学生にいい、それから忽然と車で郊外へ、ポー川に沿った道を進み、全てを捨て去り、朽ちはてた家(廃屋)での生活を始めます。ここではいつの間にか「キリストさん」と呼ばれるようになります。
こうして、ポー川という自然の秩序の中で、素朴な村人との交流を通して生の息吹を蘇らせて、全世界を覆う偽りを取り除くことができれば、それが本当の真実だということを見出していきます。(日本語のタイトルはこの辺から付けられています)
「偉業を成せると錯覚する者は多いが、人生を支配するものを忘れてる」
「自然が人間の侮辱に反抗する時が来る。自然は万物を侮辱する全てを消し去るだろう。」
「別れの時が来た。自分の領分に戻るべきだ。皆がここに残って平和に暮らせるよう祈っている。その平和は外からくるくるものではない。皆で作るものだ。」
そして(犯人である)教授は憲兵隊本部で尋問を受けますが、そこでも「最近本を何冊お読みに?」と聞きます。憲兵は「最近忙しいから、読む暇がない」と答え、結局、今までの人生で10冊ぐらい、充分かどうか「考えたことはない」、「振り返っても不満は言えない」と。
「ところが私は、振り返ると見えるのは本ばかり。紙ばかりの人生だ」、「世界中の本より、友人と飲むコーヒーのほうがいい」、「誰もが生まれ直すべきだ。最初から始めなければ真実は理解できない。愛はどこにでも表れる。その存在は音のように感じることができる。愛はどこから来てどこへ行くのか。真実の中に再生した者は、眼で見るもの全てを信じる」、「書物は忠実な友だ。あれらの書物には世の英知が収まっている」。「“世の英知”は欺瞞です」、「神は本など書かない。書物はどんな支配者にも、神にも仕える。」
このようにただセリフを拾い上げてみても、それは書物の否定という痛烈な批判なわけですが、「辛辣で行過ぎた言葉だろうか?」(エルマンノ・オルミ)いや、「誰もが見直すべきだ。最初から始めなければ」ならないのです。アルベルト・マングェルではありませんが、「それは塵にちがいない。だが、愛のこもった塵である」とも。
*この映画は岩波ホールで上映中です。 |
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| 仲町つれづれNO.264 2009年8月11日(火) |
| お盆の頃 |
塵泥(ちりひじ)に 染まぬ蓮(はちす)の
色見れば もとの笑まひの 思ほゆるかも 良寛
お盆は、日本に連綿と伝わっている仏の教えに思いを馳せてみるいい機会でもあります。私の田舎の高田公園では、「第30回上越はすまつり」が開かれています。
その昔、高田藩が財政難の折、蓮根で活路を見出したのが始まりです。今でも16ha(東京ドームの35個分)ほど蓮で埋め尽くされており、東洋一と称されています。
蓮の花は「その昔、仏陀の誕生を告げて咲いた」と言われ、仏教では大切な花とされています。開花して一定時間で閉じるということを三日続け、外側の花びらから散り始めて、四日目に散り終わると蜂の巣型の果(花)托が膨らみ出し、実が育つのだということです。
中国では純粋の象徴として「君子の花」と言われています。また、和菓子の世界では蓮を意匠として、睡蓮同様に仏事の干し菓子や上生菓子を拵えるのです。秋に採れる蓮の実を甘納豆に、蓮根は花林糖などに使われています。(『江戸和菓子職人物語 あんどーなつ』第95話より。ビッグコミックオリジナル2009.8.20号連載)
右の写真は、私の実家の和菓子屋で、明治大正の頃より使用されていた和菓子の型の写真です。落雁などを作る際に使用されたのですが、蓮と一口に言っても、蓮つぼみ、新蓮玉、蓮花、蓮根、と様々な種類の型があり、ここに日本人の洒落たデザイン感覚と、伝統の技が生み出す和菓子の世界を見ることができます。
* 8月15日を迎えて、お勧めする本
保阪正康 『昭和史の大河を往く』第1集~第7集 毎日新聞社 2009年
第7集は『本土決戦幻想―オリンピック作戦』(2009年6月)
梯久美子 『昭和二十年夏、僕は兵士だった』 角川書店 2009年
この中に登場するのは、大正生まれの各界の第一人者、
俳人の金子兜太、 小欄でも取り上げたことのある考古学者大塚初重、
俳優の三國連太郎、漫画家の水木しげる、建築家の池田武邦の5人 |
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| 仲町つれづれNO.263 2009年8月11日(火) |
| 8月は過去を振り返る月 |
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新宿の写真ギャラリーに立ち寄ったら、Aギャラリーでは「追憶―昭和30年代」という展覧会をやっていました。この人は、17歳で中古カメラを買い、定年を迎えて振り返っているのでした。高度経済成長が始まった時代、生きる力強さに溢れた写真ばかりでした。例えば、千葉県関係では成田線蒸気機関車の行商人指定車に乗ってくる上野駅の行商のおばさん方、そして都電に乗り換えて日本橋、築地方面へいく姿(昭和36年)、九十九里鉄道の女性車掌(昭和35年)、浦安のアサリ取り、大原海岸、御宿海岸で働くたくましい女性の姿など。
また、Cギャラリーは「過ぎ去りゆく時ひろしま~被爆建造物のいま~」展でした。こちらは、時を経てあの日の記憶が「日常化」という名の忘却に押しやられ、風化していくことに危惧して撮り始めたとのこと。そこで、2日前の広島市長の平和宣言をいただきました。
数学者である広島市長の文章には定評がありますが、今年はオバマ大統領を支持し、最後には英語で「私たちには力があります。私たちには責任があります。そして、私たちはオバマジョリティーです。力を合わせれば核兵器は廃絶できます。絶対にできます(Yes、we can)」と呼び掛けています。
今月6日に女優の大原麗子さんが亡くなっていたというニュースがありました。ハスキーボイスと艶っぽい演技で人気があった彼女でしたが、2週間以上気づかれず、いわゆる孤独死という哀しい姿で発見されたという事です。彼女が若い頃の話ですが、彼女の実家は田月堂という、今でいう和菓子屋さんで、「かわいい女」の代名詞となった彼女の写真があちこち貼られていました。親にとっては自慢の娘で、小柄な親父さんは夜になると、蝶ネクタイの出で立ちでした。
諸先輩方の話では、60歳ぐらいになると「死」というものが身近になってきて、孤独や寂しさ、虚しさ、もののあはれといった感情がどんどん鋭くなってくるそうです。やはり、喜びや幸せなどより、悲しみの方がはるかに深くて、永続的なのです。
日本人の感受性は、世界的に見ても圧倒的に豊かで鋭いものであり、繊細な自然の美しさによって育まれてきたといわれています。この感覚を研ぎ澄ます上で、一番邪魔をするのは「欲」だそうです。金銭欲、物質欲等々、「金さえあれば」という考え方が主流になってはいけないということです。
日頃見過ごしていたものなど、いろんなことに感動するということを忘れないようにしたいものです。
*「横断する知を生きる」脳科学者の茂木健一郎(1962-)さんは、人間は「何歳になっても、どれほど学習を積み重ね成熟したとしても、必ず『次がある』という点において、脳は可能無限を体現している」といいます。「学ぶことには限りがない」し、人間の思考は常に「その次」を考え、限りなく広がっていくものだそうです。しかし「人間の身体はいかにも貧弱である」といいます。
今、何を大切なものとして生きるべきなのかについて、「疾走する精神」で学び続けることで、この世界の多様性を自分の支えとすることができるといいます。先ず学ぶ際の「テンポ」の設定が大切であると。それは「せっかく無限に学ぶ能力を持っていても、それを生かした日常生活を送らなければ、次第に心は濁ってきてしまう」。「疾走する」テンポこそが、理想的だといいます。(「今日、モーツァルトが寵児なのは、その音楽の疾走感がわれわれの時代精神にあっているからだ」と。)
彼の著書『疾走する精神』(2009)は、20編のエッセイでまとめられています。その「おわりに」の中で、「いろいろなものに向き合う中で、自然に『疾走する精神』への助走が自分自身のテンポとなっていくことが感じられた」と。そして「私たちの心にやすらぎを与えるもののすべては、実は「多様性」と「疾走する精神」の結合によってもたらされるものではないか」と書いています。
先ずはその精神を取り戻し、育むために、われわれは世界の多様さを知り、「センス・オブ・ワンダーによって、みずみずしい感性を開くこと」によって、それらのものと行き交うことから始めることが重要のようです。
*茂木健一郎 『疾走する精神』 〈中公新書2003〉 2009年
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| 仲町つれづれNO.262 2009年8月8日(土) |
| アレクサンドリアの大図書館② |
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そして、<エジプトは>アフロディテの家に似ている。
存在するすべてのもの、入手可能なすべてのものがエジプトで見つけられる。
金、獲物、権力、頭上の青空、名声、奇観、哲学者、黄金、若者と娘たち、血のつながった神々
の神殿、情け深い王、ムセイオン、ワイン、その他、人が思いつくありとあらゆるもの。
(アルベルト・マングェル(1948-)の『図書館 愛書家の楽園』からの引用)
紀元前三世紀後半に活動したコス(またはミレトス)の詩人、ヘロンダスの詩の断片です。このヘロンダスが、アレクサンドリア図書館について最初に言及しているといわれています。
紀元前三世紀末、プトレマイオス1世と2世によって創設されたムセイオンは、博物館の語源とされています。元来は、9女神(ムサイ)を祀る場所(ムーサの神殿)という意味だったそうですが、ムセイオンの実際の役割は、考古学者の近藤二郎さんによると「知識の管理・保全や増進・普及を目指す、現在の総合大学と似た学術研究機関で」あり、巨大な建物だったそうです。
このムセイオンの付属として、大図書館があったのですが、もともとの動機はあくまでも保管のためであり、特定の目的のために文書を参照する必要性から、今日でいう閲覧機能を発してきたと考えられます。
また、紀元前1世紀、ギリシャの地理学者ストラボンは、「アリストテレスの教えを守るものとして、アリストテレスの蔵書が弟子ネレウスに遺贈され、そのネレウスがアレクサンドリア図書館の設立に関わることになった」と書いているということです。
プトレマイオス王は、自らの野心を広げ、アレクサンドリア港に到着した書物をすべて押収して写しを取らせていたといわれています。原本は必ず返却すると約束されていたものの、写しが返却されることも多かったとか。こうして集められた本は「船のコレクション」と呼ばれ、「蔵書は破壊される前に70万巻にも達した」といわれています。(近藤二郎『古代エジプトと地中海』-『海のエジプト展』図録所収)
王はまた、図書館のために写本を作るライバルを妨害するために、パピルスの輸出を禁じたり、写本のために多くの人材を集めたりもしています。
紀元前236年、アテネで自然科学を学んできたキレナイカ(リビア)出身のエラトステネス(前276-前194)が、この図書館長に任命されています。彼の研究分野は非常に広範で、哲学、数学、地理学、天文学、歴史学、文学にまで及んでいました。彼の著作はすべて失われていますが、『地球の測量』と名付けられた地理学書が存在していたのでは、ということです。
他に、科学者アルキメデス、幾何学者のエウクレイデス(ユークリッド)、天動説のプトレマイオスなど、一度は聞いたことのある錚々たる学者が各地から集まって図書館で研究していたといわれています。
この図書館の消滅についても、確実なことは何ひとつ書かれていませんが、近藤さんは『古代エジプトと地中海』で、紀元前48年、ローマのユリエス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が占領した時に火災で「一部を焼失し、多大な損害を蒙っていたと伝えられている」と書いています。カエサル自身の『アレクサンドリア戦記』を基にして書かれた情報も、いろいろ伝えられているようです。
いずれにせよ、火災または後の地震により、アレクサンドリア図書館は失われてしまったのですが、「集めたものはすべて失われるという警告を学び、しかし、そのほとんどは再び収集できるということも知る」(アルベルト・マングェル)ことになったのです。マングェルはさらに続けます。今日でも、いろんな旅行記、年代記に登場し、「フィクション、寓話作品のなかで再創造されてきたアレクサンドリア図書館は、棚から棚へと『この私は何者?』という問いを投げかけ、人間性の本質をめぐる謎となって屹立している」といいます。
*ヘロンダスの描く建物の構造によると、アレクサンドリア図書館は「まるで目くらましのような入れ子細工の箱に似ている」とのことだそうです。彼の記述によると、エジプト王国はすべてを包含する宇宙的な図書館のようなもので、エジプトにはこのムセイオンがあり、その中にアレクサンドリア図書館が収まり、その図書館にはあらゆるものが収蔵されている、と・・・。
*エリアス・カネッティの『眩暈』(1935)では、主人公が自身と自分の蔵書に火をつける場面があるそうです。アルベルト・マングェルは、「この男こそ、アレクサンドリア図書館のあらゆる後継者を体現している」、「みずからも塵に返らざるをえない読者の姿である」といいます。
*宮尾登美子 『クレオパトラ』 朝日新聞社
*アルベルト・マングェル・野中邦子訳 『図書館 愛書家の楽園』 白水社 2008年
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| 仲町つれづれNO.261 2009年8月8日(土) |
| アレクサンドラの大図書館① |
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今、横浜ではさまざまな開港150周年記念事業が開催されています。その関連で『海のエジプト』展が、パシフィコ横浜で開催中(9月23日まで)です。地中海の海底で永い間眠っていた古代都市アレクサンドリアの遺物が、何事もなかったかのように美しい姿でわれわれの前に並べられています。高さ5mほどの『プトレマイオス朝のファラオの巨像』、頭部はないながら濡れた襞を思わせる見事な衣の表現が美しい『王妃の像』(前3世紀頃)、ステラ(石碑)、宝飾品類など、実に感動的です。
アレクサンドリアは、人々を魅了してやまない町だといわれ、その美しさは「地中海の真珠」とも称せられています。エジプト第二の都市カイロの北西2018キロ、車で3時間ほどのところにあり、クレオパトラ1世の愛した都市としても知られる、古代世界において経済・文化の中心として繁栄したところです。
8世紀頃の大地震や地盤沈下により水没(古代の地面のあった高さから8m、今の海面から6m)し、海に飲み込まれてしまったのですが、90年代から始まったフランス人海洋考古学者フランク・コディオ(1947-)による調査と発掘作業によって数々の画期的な発見があり、今日われわれは2千年前の豊かな町の様子を知ることができるようになったわけです。
小欄(仲町つれづれNo.231)で、アルベルト・マングェル(1948-)の『図書館 愛書家の楽園』という本を紹介しましたが、その中にもアレクサンドリアの図書館のことが書かれていました。この展覧会を見る上でも、外観等は何もわからないのですが、アレクサンドリアの、いや、エジプトの知の中心としての図書館の存在意義は大きい、と改めて感じました。
*エジプト政府は、古代の夢を蘇らせようと、1988年に着工、2002年に11階建てのアレクサンドリア図書館(2億2千万㌦・設計はノルウェーの建築設計事務所スノヘッタ)を開館させました。高さ32m、円周160mの丸い形で、壁面には世界中の文字が書かれています。800万冊収納の書架、オーデオ・ビジュアルやバーチャルのものなどの収納スペースなど、TVで見た限り、それはすばらしい建物です。
*今年の夏はエジプト三昧、東京都美術館では『トリノ・エジプト展』が(10月4日まで)開催中です。イタリアのトリノ市にある古代エジプト博物館の、世界屈指といわれる古代エジプトコレクションから、初めて改修工事の為に外に出たといわれる大型彫像、彩色木棺、石碑、ミイラなど、実に質の高いものばかりが来ています。内覧会での挨拶では、理事長が「官僚の国立から民間人の財団になったことにより、はるか遠くの日本にまで来ることが可能になった」といっていました。トリノの展示室からそのまま移送してきたというわけで、照明もイタリア的で、見ないと損をする感じです。(こちらの展覧会も、日本側の監修は「海のエジプト展」を手がけた考古学者の近藤二郎さんです。
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| 仲町つれづれNO.260 2009年7月26日(日) |
| アメリカ文化の強さ |
先月初め、第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールにおいて、20歳の日本人ピアニスト辻井伸行さんが1位を獲得し、賞金(2万$)と3年間で100以上の公演が約束されました。彼の帰国早々の公演は某県のさくらホールで行われ、大きな話題になりました。
この音コンは、アメリカが生んだ国民的英雄ともいえる伝説的なピアニストのヴァン・クライバーン(1934-)が住んでいる、テキサス州フォートワースの音楽教師と地元有志が創設したもので、4年に1回開かれています。リサイタル・プログラムの選曲が各ピアニストに任されているといった特徴があり、世界的にも難関のコンクールの一つとされています。
たまたま最近話題となった音コンを紹介しましたが、このような文化事業を成功させているエネルギー、文化発信力はどこにあるのでしょうか?アメリカの文化というと、従来の「文化」という言葉でイメージされるそれとは正反対の「単純で共感しやすく、何事にも前向きで、未来の創造に大きく眼を開き、過去の芸術にしがみつかずに、多彩で若々しいポピュラーカルチャーを創造」してきました。先ず商業的なもの、大衆的で支配的な文化といえます。
フランスなど多くの国は、文化省をもち、政策として責任をもってやっていますが、アメリカには文化省はなく、民間に任せています。それは市場に左右されずに効率的に巨額の資金を集め、それで多様な文化を振興しているのが実態です。
この本は『アメリカの文化について』(原題)実態を調査し、アメリカはなぜ強大な文化を生み出し得るのかを実証したものです。著者フレデリック・マルテル(1969-)さんはジャーナリストで社会学者ですが、2001~05年にフランス大使館文化外交官としてボストンに在住していました。その当時(リーマン・ショックとオバマ政権になる前に)執筆されたレポートということになります。なぜか英語版は未刊のようですが、日本語版は613頁に、注、参考文献、用語解説で45頁からなる膨大なレポートで、著者の4年にわたる現地調査(「35州110の都市で実施した700回のインタビュー」)と「434点にのぼる未発表史料」などに裏付けられたもので、小欄(No.231)でも取り上げたアンドリュー・カーネギー、ロックフェラーなど個人の逸話もあり、物語としても読めます。
著者は、日本語版への序文の中で「アメリカで、アメリカを超えるものを見た」といいます。それは「近代社会における文化と芸術の発展を理解するのに必要なプリズムを見つけたし、フランスやヨーロッパの芸術上のモデルが抱える矛盾を映しだす鏡も、世界のすべての文化システムのインスピレーションの源泉もーさらに望ましくない行き過ぎた行為の例も見つけているから」と。アメリカで、最良と最悪のものも見たというわけです。
著者が20万キロを超えるアメリカ横断の旅、「長い冒険」をして導き出したアメリカ社会の特徴とは、「フィランソロビー(社会運動や芸術文化を支援する活動)精神、地方自治体の自主性、大学の活力、中産階級の重要性、大郊外地帯、地理的流動性、ヨーロッパとの差異へのこだわり、新しいものに対する崇拝と、とりわけ黒人問題」だといいます。
著者の意図は、第1部(アメリカの文化と政治)で「一つの公共政策がどのように構想され、実施され、最後に放棄されたのか、ということ」、第2部(アメリカの文化と社会)で「どのように広汎な『文化的活動』が生まれ、システムとして具体的に機能することになったのかを充分に解き明かすこと」にあったようです。
この「文化的活動」という表現は、民間の財団や団体が自主的に行う、政府とは無関係の事業のことであり、著者は「国家の介入が弱いほど、その社会はより一層力強くなる。つまり、文化省はなくても、文化的活動はいたる所でおこなわれている」ことを強調しています。
公的でも私的でもなく、国家に依存せず、市場の影響もほとんど受けない、それでいて社会全般の利益を生み出す(恐ろしいほどに効果を上げる包括的な)アメリカの文化システム、著者は「それ自体は良くも悪くもなく、極めて特異なもので、比較を受け付けない」「それゆえに、比較することを避け、謙虚に描写に徹しさえすれば、この原因を見抜くことは研究者にとって、格別むずかしいことではない」といっています。この本の中に「パラドックスと複雑性に富む」アメリカの文化モデルを読み解くいくつかの鍵が提示されているわけです。
わが国もそのシステムを参考にして動き出していますが、この不況の時代を迎えてどうなるか?いずれにしても、日本における文化のあり方を考える上でも学ぶところは多いはずです。
* アメリカの文化概況 〈人口2億9800万人。面積930万平方km〉
アーティストの数(2002年):200万人(労働人口に占める割合:1.5%)
非商業的な文化支出(推定値):1340億ドル〈非営利文化組織による支出総額532億ドル、非営利文化活動への参加者による支出808億ドル〉
市立芸術文化支援機関数:4000. 〈州立は各州とアメリカ領に1つずつ:56〉
芸術分野に関係する組織・企業の数:58万
図書館の数:12万
美術館・博物館の数:1万7500〈うち美術館数(国立177)1000・入場無料館:36%
オーケストラの数(推定数):1800 〈常設900.青少年600.プロ350.国際的評価を得ているオケ20〉、オペラ・カンパニーの数:96、非営利のプロの劇場数:1274.コミュニティ劇場数:7000.
* フレデリック・マルテル、根本長兵衛+林はる芽監訳
『超大国アメリカの文化力―仏文化外交官による全米踏査レポート』 岩波書店 2009年 |
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| 仲町つれづれNO.259 2009年7月24日(金) |
| 疾走するサガン②-サガンと読書、そしてサルトル |
サガンは、彼女が「自分のために買っていたのは本ぐらい」とまでいわれていたほどの読書魔だったそうです。思春期に、孤独と飢えのなかで手当たりしだい本を読みあさり、「本から本へと読み継ぎながら、無限の真理を探究し、新たな発見を楽しむ」それも「読書の喜びが少しでも長く続くように、厚い本を選んで読んでいく」といったような具合で、まったくすごかったようです。しかしながら、このようにすべての時間を読書に注ぎ込むといった贅沢な生活をしていたとも言えます(『愛という名の孤独』にも、本の買い方について言及しています)。
彼女は、20歳でサルトルの『存在と無』を読みきったそうです。彼女にとって、お気に入りの作家は「親密な友」であり、血縁上の家族よりも強い絆で結ばれた家族のような存在であったとか。息子の話によると、特に自分より回転の速い人を求めていて、中でもサルトルが一番だったようです。(サルトルとの関係については『サルトルとデート』のなかから紹介します。)
サルトルは、失明して以来、他人の手助けを必要としていて、3~4人ほどの女性たちがいつも周りにいたようです。サガンも、その内の1人でした。サガンにとってサルトルは、青春時代の憧れの人だったようです。
サガンの作品に『サルトルへの愛の手紙』があります。サルトルについて、作家としても、人間としても大好きで、その思いやときめきを秘めて書き綴られた作品になっています。サガンは、サルトルの人間的な温かさを愛し、彼がいつも弱者の味方であること、ノーベル文学賞を辞退したこと(自らの信条を優先して、権威や名声よりも、自らにとって大切なことを守ろうとしたこと)に感激していたと言われています。
また、この二人は誕生日が同じで、30年違いの6月21日生まれでした。二人とも会うのを楽しみにし、刺激的な時間を過ごしていたようです。『サガン 疾走する生』(仲町つれづれN0.258を参照)の著者は「サガンもサルトルも、他者の自由を最大限に尊重する。つまり、その人の人格、苦しみ、すべてをありのままに受け入れる」人として、彼らは「素朴な意味での<隣人愛>を実践して」きた、それが彼らの知性だといいます。サガンは「私は彼と手をつなぐのが好きだった。でも、支えてくれたのは彼のほう。彼は心の支えだった」といい、また、サルトルの一番素敵なところは「ばかを相手にしないこと」だともいっています。
サルトルは、失明してなお、大きな影響力を持ち、輝いていたということがわかります。
*フランソワーズ・サガン・朝吹由紀子訳『愛という名の孤独』新潮文庫 1997年 |
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| 仲町つれづれNO.258 2009年7月24日(金) |
| 疾走するサガン①-「私そのものが事故なのよ。しかも、ずっと続く事故」 |
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フランソワーズ・サガン(1935-2004)の作品は「若い時によく読んだ」という人が多いようです。彼女は、18歳の時『悲しみはこんにちは』(1954)で世界的なベストセラー作家となりましたが、ブルジョア育ちの彼女の人生そのものは、早熟で異端、2度の結婚、出産(1人息子)、薬物中毒、スポーツカーとギャンブル(趣味)、瀕死の自動車事故、借金、バイセクシャル、等といった言葉で表現されるような、自由奔放に疾走する人生でした。
この度、マリー=ドミニク・ルリエーヴルというジャーナリスト作家が、「サガンのポートレートというより、万華鏡のように多面的なレポート」(プロローグより)としてまとめた『サガン 疾走する生』(2008)の訳本が出版されました。著者は、サガンの生涯に居合わせた50人ほどに話を聞き、彼女自身の声に耳を傾けるために作品を読み込んだ上で、彼女の住んだ家を訪ね、蔵書類、原稿、レコード等まで見せてもらい、果ては「彼女の寝ていたベットで眠った」りして出来上がった「サガンの世界の訪れた旅行記」だと書き記しています。おかげで大変面白く読みました。
サガンの名字は筆名で、敬愛する作家スタンダール(プロイセンの地名)とプルースト(『失われた時を求めて』の登場人物)にあやかって付けたものだそうです。この本の中の姉の話によると、「まるで不道徳の代名詞みたいにいわれ」て父親が怒って「クワレーズ家の名を使うな」といったことにも起因するようです。(墓石:フランソワーズ・クワレーズ=サガン)「彼女はサガンという筆名をつくり、その筆名が彼女をつくった」そして「彼女の思惑をよそに、名声が作品を書かせ伝説をつくりあげていく」ことになったわけです。
また著者は、社会の変化に敏感に反応して新しい生き方を提言し、充足感を与えることこそスターの条件なのだといいます。戦後のフランス人は自由と解放、「自身から逃れたい、さらには暗い過去の記憶から逃れたい、と切望していた」ところに、サガンが登場したのです。その嗜好は、まさに「大衆の思いを具現するもの」であり、時代の寵児となったわけです。彼女には豊かな知性とそれだけ先を読むセンスが生まれながらにしてあったわけです。
最近、『悲しみはこんにちは』の新訳(河野万里子訳・新潮文庫)が出たり、映画も上映されています。また、サガンの作品としては、マリー=ドミニク・ルリエーヴルが最高傑作と評している『私自身のための優しい回想』(1984)などもあります。この機会に併せて読んでみることをお勧めします。そして、サガンの正当な評価が期待されるところです。
―「限界を超える悦びは、趣味やセンスと同じ問題ね。一生、ついてまわるもの。どこまでやれるか試してみたくなることが、次々と出てくるからこそ人生は楽しいの」(1987年8月28日付『フィガロ』紙)―
*マリー=ドミニク・ルリエーヴル・永田千奈訳『サガン 疾走する生』 阪急コミュ二ケーションズ 2009年
*フランソワーズ・サガン・朝吹三吉訳『私自身のための優しい回想』新潮文庫 1995年
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| 仲町つれづれNO.257 2009年7月12日(日) |
| 『未来の食卓』を見て |
あるフランス人が2回目の来日で「日本の感想は?」と聞かれて「(来日前)日本は逆説の国だと聞いていた。確かにそうだった。フランスと比較しても、日本はとても美しい国、自然は本当に美しく温暖で、文化的な遺産をもち歴史のある国でもあり、地球の中で最も洗練された国だ。日本はなぜ切腹しようとしているのか、わからない」と語っていました。
彼の名は、ジャン=ポール・ジョー。テレビ界で監督として多くの番組を制作し、今回は『未来の食卓』(2008年・アップリング配給)というドキュメンタリー映画の公開のために、またこの作品のパート2となる作品の取材(福岡県のアイガモ農法)のために来日したのです。
2004年結腸癌に侵された彼は、病気の原因の一部は食生活と環境にあると考えます。そして自らの生だけではなく、全ての生き物の環境のことを真剣に捉えるようになったということです。多くの事実を知るにつれ、これを作品にして多くの人々に知ってもらうことこそ映画人としての使命だと認識したわけです。
1年間かけて出来上がった作品は、南フランスセヴェンヌ山脈の麓に位置する小さな村、バルジャック村が舞台です。画家ヴィンセント・ファン・ゴッホが愛したアルルに近く、温暖でブドウ栽培の盛んな村です。一見美しいところですが、実は土や水は汚染されており、住む人々は苦しんでいるといったところだそうです。住民の63%が所得税免除の低所得層という事実もあります。
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2006年の新学期から、給食のオーガニック(有機栽培の地場産食材)を導入し、子ども達は校庭で野菜作りを始めます。村長はいいます。「地元の有機食材を給食に取り入れた。そして、オーガニック給食の導入には、調理スタッフの協力が欠かせない。彼らの労働時間は長くなった。新鮮なかぼちゃは3時間かけてむかなくてはならない。そして、給食を変えるだけじゃない、村全体に影響を与える。農家も店主も含まれる家族を変え、議員にまで影響を与えるんだ」と。子どもにせがまれて急にオーガニック化する家庭も、種類が少なく選ぶほど量がないから、必要な分だけ買う、余計な物は買わなくなり出費は変わらない、ということになっていきます。
収穫の秋。食べ物を通じて住民、生産者、地域のコミュニケーションがうまれ、ある住民は「村長が言い出した時は信じられなかったけど、・・・食べればわかる。味が全く違うよ」といいます。村長は「今年のパーティーのテーマは『自然』だ。あえて『自然食』ではない。(中略)喜ばしいことに、調理スタッフは自分の職業が、教育の一部であると自覚した。こうした努力の中、生徒達の保護者、他の自治体の議員の理解にも恵まれた。これは理解、もっと言えば良心の問題なのだ。子供達の食事は健全で最良でなくてはならない。未来のために行動しなくてはならないのです」と乾杯します。
この映画の冒頭で、2006年ユネスコ・パリ本部で開かれた「ガンと環境行政」についてのシンポジウムの模様から、ガンや糖尿病、不妊症、現代人のかかる病の70%は環境に起因しているということなど、たくさんのデータが紹介されます。従来の農法で栽培している農家とオーガニック農家の検討、とりわけ生き物たちと畑の関係での歴然とした違いを知ることになります。「オーガニックとは?」という問いに、子ども達は「自然のまま!」と答えます。
その後、村では3件の農家が有機栽培に切り替え、フライドポテトが好きだったある子どもが給食を食べて、「食」の授業でも積極的に手を上げるようになったということです。
監督は「地球は私達のものではない。子供達のために借りているにすぎない」といいます。「自ら国の遺産、地球の遺産であるすばらしいものを壊そうとしている。国は残るというが、今のままでは培ってきたものは明日にでも壊れてしまう」と。ロシアの文豪、ドストエフスキーの言葉「美こそ世界を救う」という言葉をあげて、映画という芸術の役割、映画のもつ力を信じ、美しさを守る事こそ、子供達の未来を守ることだという彼のこの作品は、自然の美しさへのオマージュでもあり、人生へのオマージュでもあります。
この作品の原題は『NOS ENFANTS NOUS ACCUSERONT』です。私達も『子供たちは私たちを告発するでしょう』(邦訳)とならない未来のために、行動しましょう。 |
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| 仲町つれづれNO.256 2009年7月5日(日) |
| 画商・林忠正のこと |
2008年9月にニューヨークのクリスティーズ・オークションで、林忠正旧蔵の歌麿作品(『もの思う恋』)に150万ドルの予想落札価格がついて話題になりました(結果は不落札)。林忠正(1853-1906)は、在仏25年の美術商でした。小さく林忠正という丸印が押してある浮世絵を見かけますが、それは彼が扱ったものであり、一面では質の高さを保証するものとなっています。
浮世絵は、19世紀半ば頃から輸出工芸品の詰め物として使われてヨーロッパに渡ったといわれていますが、日本人がその価値を知らない頃、大勢の外国人が大量に浮世絵を積み出していたというわけです。日本と浮世絵に憧れていたファン・ゴッホは、1889(明治19)年頃パリで浮世絵を眺めています。ゴッホの証言によると、当時の浮世絵の値段は1枚3フランから5フランといいます。何百枚売っても工芸品一個の値段には程遠かったといえます。
1886年の『パリ・イリュストレ』5月1日号は、「日本特集」として(浮世絵も紹介されていますが)そのほとんどが林のエッセイ「日本」で占められている(約20頁)そうです。その表紙は歌麿の浮世絵で、そのカバーには英泉の花魁の姿が描かれています。(この『花魁図』はファン・ゴッホが模写していることで知られています。)林が弟に送った『パリ・イリュストレ』の表紙に「たちまち二万五千部売り尽くした」と書き添えられているとのことです。ここからも、フランスでの浮世絵への関心が急激に高まっている状況を知ることができます。
林忠正は、印象派の画家たちと交流を深めたり、援助はもちろんのこと、「パリの愛好家の中に溶け込み、彼らの中でなくてはならぬ美術商となっていった」のです。
日本での評価はというと、日本美術を海外に紹介し、印象派の作品を初めて日本にもたらし、1900年パリ万国博の事務官長も務めていながら、「その見識が全く理解されず」にいたっているようです。
これらは、これまで知識人を中心に「日本の近代とは何か」を主題に描き続けている木々康子(1929-)さんの『林忠正―浮世絵を越えて日本美術のすべてをー』(ミネルヴァ日本評伝選)という新刊に描かれています。木々康子さんの『蒼龍の系譜』と『陽が昇るとき』は、越中高岡の蘭方医長崎家の四代にわたる家系を描いたものです。特に『陽が昇るとき』では、1878(明治11)年に六代目の蘭学者長崎浩斎の二人の孫、林忠正と磯部四郎がパリのカルチェ・ラタンで再会するところから始まっています。「あとがき」によると、木々さんにとって林忠正は義祖父ということになります。木々さんのご主人は「二人の子孫が結婚して生まれた」人で、豊富な資料や身内ならではの情報があり、林忠正の実像に多角的に迫ることが可能だったわけです。
レオナ―ル・フジタもそうですが、祖国との乖離は大きく、林忠正を理解する人は少なく、「“浮世絵を大量に海外で売った国賊”のそしりは、博覧会での恨みと一つになって、その悪評をより大きくした」といいます。「林は華麗な浮世絵に夢中になっている愛好家たちに、『あなたがたは本当の日本を知らないのですよ。日本美術総体の深遠な精神を理解して蒐集、研究して欲しいのです』と説いて」いたのです。日本の洋画界の重鎮である黒田清輝(1866-1924)は、林忠正によって画家への道を歩んだことは知られていますが、後に林を助けることはなかったようです。林忠正は、病のため1905(明治38)年3月帰国しますが、翌年4月10日理解を得られないまま亡くなりました。享年53歳でした。
この10~20年、ジャポニスム学会や「林忠正国際シンポジウム」などで再評価が進んでいます。木々さんは、祖国の近代化のために心を砕いた“知の先達”として林忠正を読み取って欲しいという願いを込めて書いたそうです。資料豊富な『林忠正とその時代』(1987)と併せて読まれることをお勧めします。
* 木々康子『林忠正―浮世絵を越えて日本美術のすべてをー』 ミネルヴァ書房 2009年
* 木々康子『林忠正とその時代 世紀末のパリと日本美術』 筑摩書房 1987年
* 木々康子『蒼龍の系譜』 筑摩書房 1976年
* 木々康子『陽が昇るとき』 筑摩書房 1984年 |
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| 仲町つれづれNO.255 2009年6月23日(火) |
| 生誕100年の「桜桃忌」 |
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先週の6月19日、太宰が眠る三鷹市下連雀にある禅林寺の墓地に墓参りをしてきました。今年は太宰治(1909-1948)の生誕100年です。また太宰は地域に定着していたこともあり、大勢の人が狭い路地に行き交っていました。当日は梅雨を忘れさせるような快晴に恵まれ、わが身をサングラス等で守りながら汗をかきつつ、太宰の旧宅や、入水したといわれる玉川上水の場所なども歩いて回ってきました。
前号でも触れましたが、この日は「朗読の日」で、朗読会も開かれていました。太宰の文章は口述筆記されているため、日本の語り物の旋律やリズムが入っているといわれ、朗読にふさわしい作品だそうです。青山光二によると、太宰はオチ(落語のオチ)作家と呼ばれ、坂口安吾は「落語として後世にのこるだろう」といったとか。
また、太宰は自分の作品を朗読して人に聞かせるのが好きだったといわれています。一例をあげると、1940年11月、旧制新潟高校での初講演でも、懐から本を2冊出して、自分の作品『思ひ出』と『走れメロス』を音読し、最後に友情は大事だというようなことを話したそうです。
今、生誕100年ということもあり、太宰治に関する本がたくさん出版されています。老若男女、これほど多くの人を惹きつけてやまない魅力とは何なのでしょうか?
雨の多い季節、太宰作品を室内で声に出して読んで実感してみてはいかがでしょうか。どうぞ、太宰治の言葉を聴いて見てください。
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*一昨日、太宰の代表作『人間失格』の映画(角川映画)製作発表がありました。角川さんはアジアを中心に世界に発信していくと語っていました。この作品は自殺直前に発表されたこともあって遺書的な自叙伝ともいわれていますが、過剰な自意識から他人となじめず、酒や女に溺れて破滅していく主人公葉蔵の心の彷徨を描いています。荒戸源次郎さんという鬼才が監督するというので、今から完成作品を楽しみにしています。
*かつて「檸檬の画家」と呼んでもいいほど檸檬を描いた小館善四郎(1914-2003)から、太宰の妻小山初代との不倫話を聞いたことや、検死にも立ち会った編集者の野原一夫(1922-1999)から太宰の話を聞いたときのことを思い出しながら、もっと太宰のことを勉強しておけば良かったと悔やんでいます。
*当時画学生だった小館は、太宰が敬愛する姉の子どもであり、実弟のように接していたということです。太宰は、1935(昭和10)年7月船橋市に転居しましたが、パビナール中毒症にかかり、1936年師井伏鱒二のすすめで武蔵野病院に入院します。その頃、小館は自殺未遂で阿佐が谷の病院に入院していて、太宰の妻初代が武蔵野病院の帰りに見舞うのが常だったとか。そこで「哀しい間違い」(『東京八景』)を起こしたというわけです。それは太宰の体調と芥川賞騒動を考えれば、失意のどん底状態で、まったく気の毒としかいえません。年表によると、1937(昭和12)年3月、小館から初代との若気の過ちを知らされた、ということになります。その後太宰は水上温泉で初代と心中を企てたが未遂に終わり、6月10日離婚ということになりました。(井上ひさしさんの話によると、その時の名セリフが「妻を理屈としては許せる。だけど感覚がたまらない・・・。(『講演 太宰治と私』より『太宰治に聞く』所収)」ということです。)
*太宰治 『人間失格』 角川書店 文庫(改版三版) 2009年
*井上ひさし・こまつ座編著 『太宰治に聞く』 文藝春秋(文庫) 2002年 |
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| 仲町つれづれNO.254 2009年6月19日(金) |
| 朗読の日に「愛を読む」 |
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6月19日は「朗読の日」だそうです。NPO日本朗読文化協会が定めたもので今年で7年目とか。この週末2日間、博品館劇場で朗読会が行われ、また、映画『愛を読むひと』のチラシには6月19日(朗読の日)公開とありました。
この映画の原作は、ベルンハルト・シュリンク(1944-)の『朗読者』(1995)です。訳者あとがきによりますと、彼はかの有名なフンボルト大学教授(法律学)ですが、1990年代はじめの東ベルリンとの出会いが執筆の動機として重要な役割を演じたそうです。結果として余技の方が発売後5年間で30以上の言語に翻訳されミリオンセラーになってしまったということです。ドイツ文学ではギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』以来、最高の世界的成功を収めた作品といわれています。
この小説は「15歳のとき、ぼくは黄疸にかかった」で始まります。前半は、主人公ミヒャエル・ベルクが、ある月曜日の学校の帰り道に具合が悪くなって吐くなどした時、介抱してくれた彼の母親のような年齢のハンナとの恋愛が描かれています。彼はいつも朗読をしてから愛の儀式に入ります。『老人と海』、『オデュッセイア』、果ては「四十時間から五十時間」かけてトルストイの『戦争と平和』など。この映画の邦題は、そういう場面から付けられたのでしょう。
そしてある日突然、彼の前から彼女は消えてしまいます。時が経ち、学生となった彼は法学を専攻し、ナチス時代とそれに関連する裁判を研究するゼミで強制収容所を巡る裁判の傍聴にいった法廷で被告席のハンナと再開することになります。
そこで彼女の秘密でもある過去の苦しみを知ることになるのですが、彼女に対する記憶を断ち切ることなく、10年間も刑務所に朗読テープを送り続けるのです。このミヒャエルの律儀な姿勢に、読者は共感するのでしょう。
訳者は「ある種のドイツ人らしさ」が表現されているといいます。この本で描かれた裁判の時期は、過去のドイツ人の戦争犯罪の裁判が初めて開かれた1960年代半ばと推察されていますが、ハンナとミヒャエルの関係、裁判の経過、収容所のこと、その後の生涯について等、きめ細かい表現のなかに奥深い問題が隠されています。当時の人の立場に立って考え、理解することの難しさも強調されていますが、そのすべての判断は読者に委ねられているといえます。
*ベルンハルト・シュリンク 『朗読者』 松永美穂訳 新潮社 2000年
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| 仲町つれづれNO.253 2009年6月16日(火) |
| 図書館協議会が行われました。 |
今年度の第1回図書館協議会が、6月2日に佐倉南図書館にて行われました。
今回は、任期2年の最初の会議のため、以下の報告事項ならびに質疑応答が行われました。
*図書館協議会とは、図書館法の中で、図書館の運営に関して館長の諮問に応ずるとともに、図書館の行う
図書館奉仕に関し館長に意見を述べる機関として、公立図書館に置くことができるとされています。
*佐倉市では、条例により、任期2年で委員定数10名以内として、昭和52年より設置されています。
【報告事項】
・平成20年度の事業報告および今年度の職員体制
・平成21年度予算および平成21年度事業計画
・その他、図書館の状況
(近隣市町村利用者への一部図書貸出制限の状況、県内図書館の指定管理者の状況)
【質疑内容】
(21年度予算に関して)
・図書購入費の各館への配分方法、図書の購入範囲について
・購入する図書資料の選定方法について
・図書館補佐員の仕事内容について
・書籍(図書資料)購入と教材(視聴覚)資料購入の内訳について
・今後の図書購入費の状況について
(21年度事業計画に関して)
・主婦層や高齢者層を対象とした生涯学習の取り組みへのサポートについて
・児童を対象とした事業の推進について
・図書館施設の改修の予定について
・公民館図書室の条例での設置根拠について
・移動図書館の活用状況について
(その他図書館に関して)
・図書館運営における高齢者の活用について
なお、会議内容の詳細については、市役所姿勢資料室にて会議録が公開されます。
あわせてご覧ください。また次回の図書館協議会は、11月下旬を予定しております(傍聴可能です)。
詳細は、佐倉図書館まで、お問い合わせください。 |
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| 仲町つれづれNO.252 2009年6月14日(日) |
| 『1Q84』現象 |
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村上春樹(1949-)さんの新作『1Q84』が、出版社の戦略もあって爆発的なヒットを続けているというニュースを見ました。発売まで書名と価格以外の情報を伏せるという徹底した情報管理のもと、内容についても、ジョージ・オーウェルの近未来小説『1984』に対し、逆の方向から1984年を描いた「近過去小説」としか明らかにされないまま、発売されたそうです。初版は2巻で38万部、予約が相次いだため発売日には4刷68万部を記録、6月4日現在、1巻を7刷51万部、2巻を7刷45万部まで増刷したものの、印刷が人気に追いつかない現状のようです。
村上さんはノーベル文学賞に一番近い人といわれています。代表作『ノルウェイの森』(1987)は世界36言語に翻訳され、累計部数は日本だけで900万部を超えるとか。この『ノルウェイの森』は、トラン・アン・ユン監督(1962-、仏在住ベトナム人)により今年映画化されます。(木村拓哉が出演している同監督作品『アイ・カム・ウィズ・レイン』が現在公開中です)
また『海辺のカフカ』(2002)の発売数は、6年間で73万8千部です。今回は5年ぶりの新作、長編としては7年ぶりということになりますが、いかにすごい勢いかおわかりになるでしょうか。村上さんの作風や世界観が、読者を増やしているのでしょう。いまか、いまかと渇望感に苛まされている読者が多いともいえます。
この「1Q84」というタイトル、なんて読むのかと最初悩みましたが、〈ichi-kew-hachi-yon〉とルビがつけられていました。仮説の新しい世界を意味しているそうです。「Qはquestion markのQだ」とし、「疑問を背負ったもの」としています。現実の世界から迷い込んでしまった末に「私の知っていた1984年はどこにも存在しない。今は1Q84年だ。空気が変わり、風景が変わった」と書かれています。その答えは、私達に投げかけられているようです。 「全2冊、2000枚」という触れ込みのとおり、Book1[4月~6月]、Book2[7月~9月]の2冊、それぞれ24章ずつの章立てになっています。「青豆」と「天吾」という二人の登場人物について、これまでにない細やかな人物描写で交互に展開しています。後々にBook3も期待できるように構成されています。
それでは、当館でも予約がかなり多く、ご用意できるまでにかなりの時間がかかると思いますが、深刻なテーマが盛り込まれている作品です。ぜひ手にとってお読みください。
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村上さんは、今年1月イスラエル最高の文学賞エルサレム賞を受賞し、2月には、反対の声もある現地で「メッセージを伝えるために来た」と強調した上で、体制を壁、人間を卵に例え「どんなに壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と述べたことは、記憶に新しいところです。
*村上春樹 『1Q84』1、2 新潮社 2009年 (2刷、6月10日)
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| 仲町つれづれNO.251 2009年6月8日(月) |
| 日本の名湯へ行ってきました② |
草津行きのバスの中の話題は、朝刊各紙に掲載された「サラリーマン川柳ベスト10」(第一生命保険主催)の作品でした。1位は「しゅうち心 なくした妻は ポーニョポニョ」、2位は「久しぶり ハローワークで 同窓会」でした。日頃の生活の深刻さだけでなく、ダイエットや家族に絡めた風刺の効いた作品だったことが勝因だったのでしょうか。「『ストレスか?』聞かれる上司が その原因」という作品もありました。
川柳は、季語、切れ字や文語体を使って詠む俳句などと違って、口語体で喜怒哀楽や人生、時の社会や政治への不満などを自由に表現する庶民の文化で、今はちょっとしたブームのようです。
日々の生活苦や厳しい労働環境をワーキングプアの立場から川柳に詠んだ「ワーキングプア川柳」というのもあるようです。「政治屋よ あなた時給は いくらです」(乱鬼龍)、「貯金なし家なし趣味なし嫁来ない」(陶酔)、「蟹工船売れて多喜二は苦笑い」(わかち愛)(09.05.18日付『毎日新聞』夕刊より)
また、やはり毎日新聞連載の「脳トレ川柳」(毎週土曜日)担当のコラムでの話ですが、指南役の川島隆太東北大学教授によると、「川柳をつくるとき、左脳の論理的思考を使う前頭前野と知識を収める側頭連合野が活発に働く。また、紙に書き出すことで脳の多くの部分を活性化させる」ということです。(『憂楽帳』09.5.19付『毎日新聞』より)
メンバーの1人で、元気であれば当然いっしょに行くはずだった先輩が、その3日前に急逝された。よく酒を飲んだ人でした。ご冥福を祈って皆で献杯を捧げました。合掌
「鮎のわた噛みしめ別れられようか 神田斐文」(長谷川櫂選『四季』 09.5.25付『読売』より) |
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| 仲町つれづれNO.250 2009年6月8日(月) |
| 日本の名湯へ行ってきました① |
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毎朝、犬の散歩をしていますと、特に自然との距離が近くなり、いろいろな発見があります。かつては、楓の新緑の美しさを「青もみじ」と呼んだそうです。瑞々しく爽快な言葉ですね。毎日の生活はつまらないことの繰り返しかもしれませんが、もう6月です。季節の移り変わりを先人に倣って楽しんでみてはいかがでしょうか。
先日、群馬県草津温泉へ行ってきました。新緑がまぶしいほど美しく、また、途中の深い山間にはコンクリートの橋梁がにょきにょきと建っていました。この異様ともいえる風景は、標高700m上に道路やJR吾妻線などの付け替え工事のものです。この付近一帯は、国が計画している八ッ場ダムが完成すると水没するのだそうです。八ッ場ダムは、群馬県長野原町の利根川水系吾妻川中流に多目的ダムとして1952年に計画されたもので、いよいよ本体工事が年度内に始まるといわれています。
草津温泉は、江戸時代の温泉番付では東の大関に登場しています。日本温泉協会の「最も行ってみたい温泉地」(2001年3月調査)などでも1位にランクされるほど人気のある温泉地です。その選択理由は「温泉そのもの」の湯の良さにあるようです。
草津は湯量日本一、源泉かけ流しの殺菌力のある強酸性泉で、湯の華が取れるほど硫黄分が多い温泉として知られています。ドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツ博士により、医療的に優れた温泉であることも世界に紹介されました。この調査結果は、料理や施設面とか料金面での評価ではないため、今の時代の風潮にも当てはまっているように思われます。
温泉とは、(法律上)「地中から湧出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭化水素を主成分とする天然ガスを除く。)で」、25度以上の温度又は19項目にわたる物質のうちどれかが含まれていれば良いことになっています。物質の条件がどれ1つ満たせなくても、湧出した泉温が25度以上あれば温泉と認められているのです。そのため、温泉の乱開発や枯渇が問題になってきています。
温泉評論家の石川理夫(1947-)さんが書いた『温泉法則』という本によると、「温泉は最高のコミュニケーション・ツール」だそうです。本物の温泉にこだわり、自分に合った温泉をいかに見極めるかという視点で、温泉を上手に選ぶためのポイントが書かれています。
日本の温泉地数は、3023か所(2002年3月末現在:宿泊施設のある温泉地のみ)で、平成の時代になってから平均して毎年約60ヵ所ずつ増え続けているということです。日帰り温泉施設が含まれる温泉利用公衆浴場数となると、6433ヵ所というデータです。この本の中では「都内も温泉だらけ!?」という表現も出てきます。
また近年では、温泉付き分譲マンションもあります。そういうところに住んでいる知人もいますが、メンテナンスや日々の衛生管理など多くの疑問が浮かんできます。「千葉県佐倉市の例では、地下700mまで掘削して温泉を得ており、やや黄褐色した源泉は『乾燥肌に効く』という」ことも紹介されています。「24時間いつでも入れて、遠くの温泉地に行かなくても自宅で湯治ができるというのが売りだ」とも。
小欄で何度も書いているのですが、「温泉も本来のスローライフ的な利用と提供へと転換が求められる時代となっている」(あとがき)ということです。そしてわれわれは「温泉をもっとよく選ぶことで、温泉の構造改革的な淘汰や『本物の温泉』の育成に手を貸さなければならない」(あとがき)ということです。
*石川理夫 『温泉法則』 (集英社新書) 集英社 2003年
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