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図書館ホーム > 仲町つれづれバックナンバー > NO.228~NO.249(2009.2~2009.5)

仲町つれづれNO.228~NO.249 ~佐倉図書館通信~ 

仲町つれづれNO.249 2009年5月24日(日)
裁判員制度が始まりました。

昨年秋頃から裁判員候補者へ調査票が送付され、新聞やTV等で話題の「裁判員制度」ですが、いよいよ始まりました。今後は、事件ごとに候補者が選任され、実際の裁判に呼出されるそうです。
この制度については、導入が始まった現在でも、賛否両論さまざまな意見があるようです。さらに「もし自分が選ばれたら?」と、少なからず不安に思っている市民の方も多いと思われます。
図書館でも「裁判員制度」に関する本について、当面用としていくつか収集しております。また、様々な「法律」に関する本もありますただし、法律や制度は日々改正されていますので常に新しく買い換える必要があり、その上、より専門的に学習するための資料まで収集するとなると、書庫スペースや購入費不足の影響もあり、あくまでも初歩実用的なラインナップになっているのが実情です)
普段の生活において、どんな法律があってどのように関係しているか等、きちんと意識して把握し理解することは、なかなか難しいかもしれません。裁判員に選ばれても選ばれなくても、ぜひこの機会に興味関心を持ち、「法律」という視点から、日常を見てみる機会としてはいかがでしょうか。

*佐倉図書館のHPで、本を探す(検索する)時のポイントをご紹介します。 (*5/23時点でのデータです)
例えば「裁判員制度」についての本を当館の所蔵資料から探す場合、次の4つの方法が考えられます。

① かんたん検索(簡易検索)で、「裁判員制度」(全項目)と入れる。
 市内の図書館で所蔵している68件の図書の一覧が表示されます。
 ただし、日本以外の制度や、昔の制度(現在話題の制度以外)に関する本も含まれています。
 詳細検索で、「タイトル」の項目に「裁判員制度」と入れる。
 18件の図書の一覧が表示されます。
 こちらは、本の題名に「裁判員制度」という言葉が使用されているものだけです。
 なので、やはり、日本以外の制度や、小説などの本も含まれてしまいます。
 詳細検索で、「件名」の項目に「裁判員制度」と入れる。
 26件の図書の一覧が表示されます。
 市内の図書館で所蔵している、現行の裁判員制度に関する本となります。
  * 結果の並び替え出版年降順を選択してクリック)をすると、より選びやすくなります。
④ 分類検索で、「3類社会学」「320法律」「327司法.訴訟手続法」をクリックして検索する。
 たくさんの関連する図書の一覧が表示されます。
 気になる図書を1冊クリックして検索結果の詳細を表示し、所蔵情報のうち「請求分類」の番号を確認します(この場合は「327.6」だったとします)。

 前の画面(一覧)に戻り、結果の絞り込み「分類番号」の項目に「327.6」と入れてクリック)をすると、より関連する図書の一覧に絞込みが出来ます。
  * 結果の並び替え出版年降順を選択してクリック)をすると、より選びやすくなります。

どんな本を探したいのか(特定の著者の本、一番新しい本、歴史的背景や関連する分野も広く見たい等)によって、どの方法で探すかを使い分けることにより、自分にぴったりの本と出会いやすくなります。
他の分野について探す時も、ぜひお試しください。
*もっとわかりやすい探し方で利用されている方、ぜひご一報ください。

仲町つれづれNO.248 2009年5月3日(水)
暗号の時代
1943年4月18日午前7時半すぎ、ブーゲンビル島上空(パプアニューギニア)で、前線を視察中の海軍の航空編隊が、待ち受けていた米軍機の襲撃を受けました。その一番機には連合艦隊司令長官山本五十六が搭乗しており、海軍の暗号を解読した米軍の狙い撃ちだったと言われています。
今人気のある戦国時代にも、暗号は使われていました。上杉謙信の軍師だった宇佐美定行は、単文字換字式暗号(いろはの48文字を7行7列に並べた、字変四八)を用いていたということです。
20世紀に入り、日清日露戦争の時代から、暗号技術は高度に進歩しました。ドイツのエニグマ暗号や、日本では、アメリカでパープルと呼ばれた紫暗号の九七式欧文印字機(1937年、皇紀2597年に採用)が開発されます。日本の暗号はエニグマ以上に解読が難しかったそうです。しかし、いずれも解読されてしまったわけですが、それは、情報を支配する数学の功績でもあります。

世界の歴史を裏で動かした暗号の開発は、「情報の世紀」へと移行する中で、人間の欲望を満たし時代を生き抜くために、数学者の攻防として続けられています。極端な言い方ですが「第三次世界大戦が起こるとすれば、それは数学者の戦争になるだろう」とまで言われています。(暗号の進化史を描いたサイモン・シンの『暗号解読』より)
暗号というと、スパイか諜報しか連想しないのはもはや少数派で、我々は「暗号の黄金時代に生きているのだ」そうです。そして「どんな方法でも決して解読できない暗号を作ることができる」状況にある、とも。
現代に生きる私達は、もはや暗号に無関心ではすまされません。いや暗号の方で放っておいてはくれません。この原稿はメールに添付して送付していますが、手軽に送ることが出来るだけに、容易に傍受されやすく、多くの危険な問題を孕んでいます。行政サービス等も電子化されてきています。情報セキュリティの中核技術としての暗号というものをもっと積極的に考え、暗号リテラシーを身につけなければと痛感しています。

*林海象(1957-)監督の映画『THE CODE 暗号』(日活配給、5月9日公開)があります。この作品からも暗号の世界を垣間見ることができます。探偵への思い入れが深い林監督は、世界探偵協会会員であり、彼自身のオフィスを(株)映像探偵社という名称にするほどです。作品も一貫して探偵ものを撮り続けています。
この作品はその集大成であり、川崎市内にある創立60周年を迎えた格式ある探偵事務所「探偵事務所5」に所属する、5から始まる3ケタの番号(5**)で呼ばれる探偵達が、川崎市内のあちこちに仕掛けられた爆弾の暗号を次々と解読していきます。とてもスリリングなこのプロローグは、」川崎市の全面協力による撮影で、本物の阿部川崎市長も出演しています。
暗号の解読にかけては天才的な探偵507(五代目尾上菊之助)が依頼された次の仕事の舞台は上海、そこで地下マフィアと闘いながら暗号の解読を試みていきます。その暗号とは、旧日本陸軍が隠した軍資金のありかを示す禁断の暗号であり-。現代都市の風景と、監督自身のこだわりのあるレトロモダンな探偵たち(事務所内部など)の対比による独特の映像美、それを演じる主演の五代目尾上菊之助、宍戸錠、松方弘樹などの豪華キャストに満足できる作品です。

*この映画にも登場しますが、実存哲学者カール・ヤスパース(1883-1969)の暗号論がよく知られるところです。彼の実存哲学の概念の一つで、絶対意識において聞き取れる超越者の言葉を意味し、暗号とは認識ではなく、それ自体「超越的なるもの」としての「実存」によって聞き取られる。それも自らの限界に突き当たる挫折の経験を通して解読されなければならないとしています。
*暗号とは、重要な単語を頭文字の1文字に符号(CODE)化し、その前後にそれを隠すためにランダムな文字をはかせて三文字構成にするというように、大事な情報を担う語句のみに略号を割り当てて秘匿目的に使用したことから、暗号のことを「CODE」と呼ぶそうです。しかし、秘密を暴きたいという衝動は、人間の本性に根ざしたものです。残念ながら、謎解きにかかわる職業に就けるのはごく一部の幸運な人であり、大多数の人はパズルを解いたりしてこの衝動を紛らわせる・・・のでしょう。

*サイモン・シン 『暗号解読』上・下 青木薫訳 新潮文庫 2007年
*辻井重男 『暗号と情報社会』(文春新書078) 文藝春秋 1999年
*カール・ヤスパース 『神の暗号』(ヤスパース選集37) 草薙正夫訳 理想社 1982年
仲町つれづれNO.247 2009年4月29日(水)
図書館カウンターにて
ある昼下がりのこと。図書館の窓口で、返却作業をしていたところ、
「漢字の由来や成り立ちが載っている本が読みたい」と、利用者から声がかかりました。
<調べる>のではなくて<読みたい>とは?と思いつつ、
「何か特定の漢字について調べているのですか?」と水を向けてみましたら、
いわく「以前<こけら>落としの<こけら>という漢字を、<杮(かき)>と表記すると聞いて、
どうしてそんな漢字を使うのか、何か関係があるのか気になって・・・」とのこと。

とりあえず、国語辞典漢和辞典、漢字の語源辞典などの、調べるための本を案内しながら、
ひょっとすると、よくTVのクイズ番組で取り上げられるような、
漢字にまつわる雑学知識などの本にも載っているかも?と思いついて、
<日本語>というテーマの本棚から、ことばや漢字に関する本も案内しました。
ここで、<こけら>落としについて記述のある本が見つかれば、最高だったのですが、
弱小図書館の悲しさゆえ、蔵書の種類も限られており・・・。
利用者の方も、時間がなかったのか「また来た時に探しますので」ということでした。

改めて、辞書などを引いてみると、<杮(こけら)>と<柿(かき)>は、違う漢字でした。さらに、
漢字については、起源が中国である漢字についての本は、<中国語>というテーマの本棚にも
置かれており、そちらも参照したほうがよかったことがわかりました。
漢字は奥が深く、かつ諸説あるため、なかなか正解にはたどりつけない、ということが身に染みました。
さて、ここまで読んで<杮落とし>の意味について気になった方、どうぞ、辞書を引いてみてください。

*インターネットを利用するとあっという間に意味が引けます。ただ、その情報の出典まで
載せているサイトを見つけるのはかなり時間がかかりました。つまり、意味はすぐにわかるけど、
そこで終了になりがちなのです。
辞書などの本の場合は、おおよそ出典や根拠が載っていますし、調べながら、その周辺の関連する
言葉なども目に入ってきますので、さらに広げて追求したりすることが可能になるのです。
どちらを使うかは好みでしょうが、少なくとも「これからの未来ある人」には、ネットだけでなく
辞書や参考文献も使えるような、幅広い視野を持つ、奥深い人になってほしいと思う日々です。
*中高生から電子辞書を使い、e-ラーニング(ネット学習)が推奨される時代です。
すべてにおいて合理化効率化が最優先の時代では、はかない願いでしょうか。
仲町つれづれNO.246 2009年4月25日(土)
手塚治虫の業績
書店の店頭に置かれていた新刊書『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書)に目が留まりました。手塚先生とは、『鉄腕アトム』に代表される、天才漫画家の手塚治虫(1928-1989.2.9)のことです。
著者は、彼のアシスタントとして30年以上関わった福元一義さん(1930-)です。火葬場での最後の別れの時、「あれだけ生命の尊厳を信条とされていた先生が『医者の不養生』を地でゆくような結果となり、悔しいやら、情けないやらの複雑な感情とともに、いささか腹立たしささえ覚えた」そうです。1989年1月15日の最後の日記には新作のアイデアが書かれており、手塚治虫は旺盛な制作意欲を持続したまま亡くなられたようです。
福元さんは「(病床で連載3本を書き続けていたが、2月で絶筆となった)本人が、一番悔しさに歯ぎしりされているのではないでしょうか」と結んでいます。


手塚治虫は、日本におけるストーリー漫画とアニメーションのパイオニアとして、今なお多くの影響を及ぼしています。特に『鉄腕アトム』は、7つの超能力を持つ少年ロボットのアトムが地球の市民と平和を守るために悪者たちと戦う物語で、雑誌『少年』に1951年から連載していたものを、彼自身が設立した虫プロダクション(1962年設立)で初めてテレビ・アニメーションとして製作しました。
これが日本で初めての本格的なシリーズ・テレビ・アニメーションとなったのです。放送が始まったのは、1963(昭和38)年1月1日で、その後4年間、1話30分、全193話が放送されたようです(平均視聴率25%)。

放送史や映画産業史を研究する古田尚輝さん(1943-)「『鉄腕アトム』の時代―映像産業の攻防」(2009)によると、『鉄腕アトム』の場合、1話25分の1800枚の動画が、6日間で製作されており、平均5人とすると、1人1日当たり60枚描いていたことになるそうです。
このため「長期にわたって、プロダクションのほとんど全員が日曜も祭日もなく深夜まで働き続け、独身者は帰らず、眠くなると体を丸くして作業机の下に入り込んで眠ったという」ことです。当時は放送権料と実際の製作費に差があり、人気が出れば出るほど赤字が増えていったという話です。あくまでも手塚個人の仕事で、企業としての収益性の確保は難しかったといえます。
この後に、今で言うグッズ、キャラクター商品の販売と輸出で収益を上げることになっていきますが、今、日本のテレビ・アニメーションが世界に日本の大衆文化の代表として広く認知されているのも、『鉄腕アトム』の遺産であるといえます。

*手塚治虫の曽祖父である手塚良庵(後に改名して父の良仙を名乗る、1826-77)は適塾に入門した蘭方医で、漫画『陽だまりの樹』(全11巻)に描かれている蘭方医手塚良仙のモデルです。祖父の手塚太郎は長崎控訴院(裁判所)院長まで勤めた人(関西大学の創立者の一人、陸軍大尉)です。
息子の手塚真さんによると、手塚治虫が医者を志したのは家系のせいではなく、戦時中に自らの悪性腫瘍を治癒した医師への敬意の念があったからで、大阪大学医学部出身(適塾の流れであり、何やら因縁を感じます)で医学博士だったのに、それを断念して漫画の道に進んだのは、サラリーマンで若い時から趣味の写真に興じていた両親の理解も含め、「それを後押しする環境があったせいだろう」と書いています。

手塚治虫の漫画は独学ながら、影響を認める先達は『のらくろ』の田河水泡、『フクチャン』の横山隆一、そしてウオルト・ディズニーだということです。
18歳でデビューした彼は、総タイトル数700と、誰も把握出来ないものの、生涯15万枚、一日平均で10枚の原稿(人気のある時期には1日20枚以上)を描いてきたことになるといわれています。
これだけ地球的なグローバルな仕事をしてきた根拠として、幼い頃から外国映画や宝塚歌劇などに親しんできたこと、昆虫採集や観察に興味を持ってきたこと(彼は明治節に生まれ、治と命名された本名に対して、筆名は治虫とした)などをあげることができます。「ミクロとマクロの間に自分を置けた」からこそ、誰よりもたくさん描き、誰よりも様々なことを描いてきたのではないか、と考えることができます。

手塚真さんは『人間・手塚治虫』(図録)のなかで、「(彼は)意欲満々とした青年期に、なぜそこまでの深い思索的な視野を持ち得たのだろうか」ということについて、それは「永遠の謎かもしれないし、だからこそ天賦の才があったという、単純明快な結論しか出せないのだろう」と。そして「手塚治虫は自らの天才に溺れることなく、常識的な人間の宿命として、ひたすら努力し、苦しみ、自らの命を削って作品に没頭した」という事実の大きさを強調し、「手塚治虫は、彼のマンガそのものだった」と結んでいます。

*手塚治虫生誕80周年を記念して「手塚治虫展~未来へのメッセージ~」が、江戸東京博物館で、6月21日まで開催されています。


* 古田尚輝 「『鉄腕アトム』の時代―映像産業の攻防」 世界思想社 2009年
* 手塚真  『人間・手塚治虫』(江戸東京博物館他『手塚治虫展』図録所収) 2009年
* 福元一義 『手塚先生、締め切り過ぎてます!』 集英社新書 2009年
* 山本瑛一 『虫プロ興亡記』 新潮社 1989年   
仲町つれづれNO.245 2009年4月22日(水)
子ども読書の日!
明日の4月23日は、子ども読書の日です。(子どもの読書活動の推進に関する法律により平成13年より定められたものです。)
また、明日から5月12まで、こどもの読書週間がスタートします。

子どもの読書活動は、
  言葉を学ぶ
  感性を磨く
  表現力を高める
  創造力を豊かにするなど
生きる力を身につけてゆく上で必要不可欠なものです。

読書普及活動についての理解を深めるとともに、読書意欲を高め、読書に対する関心を広めていきたいと思っています。


*佐倉東学童の皆さんに、好きな本について、紹介してもらいました。
(こどもの読書期間中、佐倉図書館内に展示しています。ぜひ見に来てください)
仲町つれづれNO.244 2009年4月19日(日)
阿修羅様から尼門跡の世界へ
奈良興福寺の「阿修羅立像」(734)が、上野の東京国立博物館平成館に来ています(6月7日まで)。全方向から見ることが出来るように展示された阿修羅像は、表情豊かな八部衆像の一つで、純粋な心の象徴として、人間ではない神として存在しています。どこか憂いを帯びた3つの顔としなやかに伸びた6本の手を持つ阿修羅像は、少年のような印象です。団塊の世代には、あのかつての人気歌手であり女優の山口百恵さんが思い出されるかもしれません。調和のとれた、なんとも美しい姿です。
白洲正子は『両性具有の美』の中で「不自然ではなく、見る人にまつわりつくように色っぽい」と評しています。また亀井勝一郎は「錯乱の涯の、衷心の祈りの姿」といい、「在る物語の象徴化」で「阿修羅劇の表現にちがいない」(『古代知識階級の形成』)ともいっています。そのほか、川端康成の『舞姫』(1951)、堀辰雄『大和路・信濃路』(1954)などの作品にも出てきます。

阿修羅像など八部衆像と十大弟子像は、光明皇后(701-760)の発願により、熱心な仏教信仰者であった母の一周忌の供養として建てられた西金堂に安置されています。光明皇后は写経をするたびに「父母の菩提のために」と奥書に書くなど、母への思慕の念が強く、よく孝行していることがわかります。

*東京藝術大学大学美術館では「尼門跡寺院の世界 皇女たちの信仰と御所文化」展が6月14日まで開かれています。「門跡」とは住持が皇族である寺院のことで、「尼門跡」も住持が歴代皇族、貴族、将軍家の出身者であり、通常の尼寺とは一線を画しているそうです。この「尼門跡」と呼ばれる寺院は、京都と奈良に現在13か寺残っているようです。そこでは高貴な女性たちが修行や仏教儀式を行うだけでなく、文学や芸術の庇護、および制作に自ら携わる場でもあったとか。今回初めて独特の典雅な世界に接してみました。この中に光明皇后を開基とする法華寺門跡もでてきます。法華寺門跡は12世紀後半までには荒廃してしまい、数人の貴族の息女らが在家信者として住むのみの寺になったようですが、平安末から鎌倉初期にかけて光明皇后の物語を広めることに努め、巡礼者たちが常に訪れる寺になったとか。小堀鞆音(1864-1931)による光明皇后の逸話を描いた『光明皇后像』や重要文化財の『法華滅罪寺縁起』(1304)などが展示されています。
この機会に、あわせて光明皇后の仕事を考えてみる一助になればと思います。
*3月31日『朝日新聞』朝刊一面に阿修羅像の写真が掲載されましたが、右正面から見上げるように鑑賞している姿の私が写っています。群馬の友人に指摘されて初めて知りました。その日はちょうど38年の勤めを終えた日であり、良い記念になりました。
*ちなみに阿修羅像の東京出展は、1952年2月21日から3月9日まで日本橋三越で開催された展覧会だったそうです。当時も、戦後再興計画の遅延もあって、不況色が漂っていたとか、何か似ている時代状況です。この展覧会による美への感動が心の糧となり、混迷の時代に生きる原動力になり得ると良いのですが。


*白州正子 『両性具有の美』 新潮社 1997年
*亀井勝一郎 『古代知識階級の形成』 講談社学術文庫 1985年
仲町つれづれNO.243 2009年4月14日(火)
「吾妹子の、髪くし梳(けず)る、春の宵・・」-川端文学賞に関連して
先週の4月9日、第35回川端康成文学賞に青山七恵さんの『かけら』(『新潮』2008年11月号)が選ばれました。昨年に発表された短編のベスト1の作品ということになります。ぜひご拝読ください。
川端康成文学賞の、最年少での受賞だそうですが、最高齢の受賞は、2003年(第29回)に受賞した、偶然にも同姓の青山光二(1913-2008、当時89歳)です。昨年10月29日朝に老人福祉施設で亡くなりました。
受賞作は『吾妹子哀し』(『新潮』2002年8月号)です。この小説の主人公、齢90を前にした杉圭介は、失禁や徘徊を繰り返すアルツハイマー型認知症の妻杏子の介護に当たっていて、老いた妻の姿に若い頃の「全身全霊をかけた自分の愛」を甦らせていきます。「今も愛は生きている。それなら人間らしく、愛に責任を持たなければー。時の流れがとまるまで。」、それは実体験に基づく「究極の夫婦愛」を描いた作品です。
たまたま、青山光二の『食べない人』(2006年)を読んでいたところでした。小欄No.236で紹介した画家香月泰男の、イチゴが5個描かれた絵(1956.5.29と、日付とサイン入り)を表紙に使った本です。料理雑誌(『日本の味』)に掲載された小文16編などの他、1959年に『新日本文学』に発表された『暗い部屋』が47年ぶりに収録されています。

青山光二は、東大文学部在学中の1935年同人誌『海風』を創刊し、織田作之助、太宰治など無頼派の作家と厚い交流がありました。この本にも「友は無頼派」という一文があります。
また「食べない人のいた時代」では、結婚して5年後子宮ガンで逝った織田作之助の夫人織田一枝が出てきます。「私はついに一度も彼女が物を食べるのを見たことがないまま終った」と書くとともに、一人になった織田の限りない悲嘆ぶりが書かれています。原稿用紙に「一枝哀れ 一枝哀れ 作之助  光二様」とだけ書かれて送られてきた、ということです。

「さらば友よ」には、林芙美子も登場します。織田作之助の愛人であった輪島昭子が、東京に舞い戻って林芙美子邸に食客暮らしをしていたことに触れ、「苦労のありったけを積んだ林芙美子という人の、底知れぬやさしい人間味というものに」頭が下がる、と書いています。
「巨匠逝く」では、2005年4月20日百歳で亡くなった丹羽文雄(1904-2005)のことが書かれています。風俗小説で人気を博し、『親鸞』や『蓮如』などの作品も遺した作家だけに、葬儀には3千7百人の会葬者が詰めかけたということです。会葬者の中で、一番永い年月を心おきない友人として付き合ったのは自分ではないかと書いています。1957年10月丹羽文雄の長女(桂子さん)の結婚式の媒酌人を務めたのは吉川英治夫妻で、吉川英治のスピーチの軽妙洒脱に感銘したことを書いています。

*丹羽は、晩年痴呆症になり、長女(本田桂子)の献身的な介護が話題になったこともありました。娘が父より先に、虚血性心不全で急逝されました。2001年4月15日、享年65歳でした。


*青山光二 『食べない人』 筑摩書房 2006年
*青山光二 『吾妹子哀し』 新潮社 2003年
*本田桂子 『父丹羽文雄介護の日々』 中央公論社  1997年
*本田桂子 『娘から父丹羽文雄へ贈る朗らか介護』 朝日新聞社 2001年
仲町つれづれNO.242 2009年4月9日(木)
春、続々!
日中は、汗ばむほどの好天で、あっというまに春爛漫です。佐倉の城址公園で満開の桜を愛でた後は、印旛沼のほとりのチューリップ畑へ出かけてみてはいかがでしょうか。
毎年、佐倉ふるさと広場において「チューリップまつり」が開催されいています。21回目の開催となる今年は、日蘭交流400周年記念ということもあり、4月11日(土)~15日(水)の期間は、様々なイベントが行われています。(詳細は佐倉市商工観光課のHPをご覧ください。)また、チューリップの花は、4月下旬頃まで見ることができるようです。ぜひお出かけください。

*1609年に徳川家康がオランダに公式な通商許可(朱印状)を与えて、日本とオランダの通商関係が始まってから、今年で400周年です。また、幕末開国の1858年に徳川幕府がオランダと修交通商条約を結んでから、昨年は150周年ということで、「日本オランダ年」として、各地で様々なイベントが開催されているようです。

*日本にオランダ人が初めてやってきたのは、1600年4月のことでした。オランダの船リーフデ号が現在の大分県臼杵付近に漂着したのが、最初だったそうです。

*『オランダ:栄光の“17世紀”を行く(旅名人ブックス) 日経BP出版センター 2009年
  『日蘭交流の歴史を歩く』 NTT出版 1994年
  河野実『日本の中のオランダを歩く』 彩流社 1999年 

(2009年4月8日撮影)
仲町つれづれNO.241 2009年4月5日(日)
サクラさいたら・・・
4月です。暖かかったり、寒かったり、大風に雷だったり・・・と、かなり不安定な今年の春です。
でも、やっとお花見ができるかな、という陽気になってきました。
新しい学校、新しい職場、新しい生活、新しい人間関係などの新しい環境では、
舞い散る花びらのように、心もフワフワと落ち着かなくなりがちです。
この時期にぴったりの詩をくちずさみながら、気を引き締めていこうと思います。


(2009年4月5日撮影)
『ドキドキドン! いちねんせい』   (作詞 伊藤アキラ  作曲 桜井順)

サクラさいたら いちねんせい  ひとりで いけるかな
となりにすわる子 いい子かな  ともだちに なれるかな

だれでもさいしょは いちねんせい いちねんせい  ドキドキするけど ドンといけ

ドキドキドン! いちねんせい  ドキドキドン! いちねんせい
仲町つれづれNO.240 2009年3月31日(火)
定年は、忘れ去るものなり
休み明けの職場の机上に、「やたら“定年後”が出てきます。よかったら読んでみませんか」という司書のメモがつけられて、1冊の本が置かれていました。題名は『さみしいネコ』、著者名は早川良一郎、誰か知らないまま読んでみました。一瞥しただけでも、人間観察が的確で文章がうまく、感動してしまいました。
初めの短編は「自由への道」というタイトルで、TVのドキュメント番組に出てくる定年退職者の送別会の話の中にラバウル小唄が出てきたので、これはだいぶ世代が違うと気付きました。早川さんは定年があると知らずにサラリーマンになった世代で、戦前は定年になると「長いお勤めご苦労さま」と赤飯で祝ったそうだといった話も出ていました。巻末の著者略歴を見ると、私の親の世代(1919―1991)にあたり、旧制中学を3年で中退してロンドンへ留学した人で、がむしゃらに働き出世街道をかけのぼるのではなく、坦々とサラリーマン生活を送り、50歳を過ぎて文筆に目覚めた人のようです。

最初に書かれた『けむりのゆくえ』(1974)という「自分の人生を思い返し、とりわけ意味深かったことをつづってみた(池内紀)」という私家本が日本エッセイストクラブ賞を受賞し、そのことにより出版社が名乗り出て市販されることになりました。そして『さみしいネコ』は、60歳で定年を迎えて以後のことが綴られており、早川さんは「おりおり、さみしいネコのふりをして、たのしんでいたようで(池内紀)」す。この作品が読めるのは、池内さんが『けむりのゆくえ』に感動し、行方不明の良書を編集しなおして〈池内紀のちいさな図書館〉シリーズとして刊行された中に収録されたことによります。
本の中から、教えられたことをいくつか列挙しておきます。
「いくつまで生きようなんて考えないことですね。年をとると死とか死後のことを考えやすくなりますけれど、死の経験者に話をきくって訳にもいかんでしょう。人間には分かりっこないことです。人間には生しか分かりません。分る方のことを考えないで、分からないことを考えようとするから苦しむんですよ。生きている間、なにかしてりゃいいんです。」「楽しみばっかり求めるのはいけないな、楽しみのみを求めているといずれは欲求不満になる。」と、まったく最もなことで、納得します。
「定年というものは定年になるまでの間考えるものであって、定年になってからは日々忘れ去るもののようである。」「このままでは定年も勤め先も忘れてしまうんじゃないかな。」
「お金があってぜいたくをするということはバカでも出来ることですよ。いかにお金をかけずに人生を楽しむかということが本当のぜいたくというものです。」
「生活の理想はバランスのある生活ということです。バランスの感覚ってのは人間を落ちつかせます。ところがアンバランスというのは醜悪です。」
「六十を過ぎたら、あの人、この人、知り合った人を思い浮かべて見るといい。生きている人より死んでいる人の方が多いのではあるまいか。」
「なあにサラリーマンなんて椅子が仕事をするようなもんですよ。その椅子に坐れば回りもそのつもりになるし、自分だってそのつもりになって、なんとか仕事は片付いていくもんです。」
やはり、サラリーマンは椅子だけの存在なのでしょうか。今では、外資系などの会社は自分の机すらないのが実態のようです。早いところ、どこかに座り心地の良い椅子を見つけておくべきでしょうね。自問自答しています。


*早川良一郎 『さみしいネコ』〈池内紀編〉 みすず書房 2005年
仲町つれづれNO.239 2009年3月24日(火)
バロンサツマと呼ばれた薩摩治郎八

今年の2月22日は、欧州の社交界で爵位がないのに「バロン」と呼ばれていた、薩摩治郎八(1901-1976)という人の33年目の命日でした。この日は日曜日でしたが、不思議なことに33年前のこの日も同じ日曜日だったということです。この命日に、薩摩治郎八の評伝「『バロン・サツマ』と呼ばれた男~薩摩治郎八とその時代~」が発行されました。著者の村上紀史郎さんが、彼の生きた1920~30年代のパリやロンドンの状況などを8年がかりで綿密な調査をしながら『十三日会』という同人誌に6年間18回にわたって連載していたものを、今回大幅に推敲して本としてまとめたものです。

薩摩治郎八は、1920年にイギリスへ、その後パリに渡り、第二次大戦期を含む約30年間をその地で過ごしました。以前小欄で紹介した林芙美子や金子光晴、岡本一平、かの子、太郎一家なども、同じ頃パリなどで生活していましたが、薩摩治郎八は桁外れに豪奢な生活を送っていたようです。何といっても当時のパリ社交界を驚かせたのは、1929年に私財を投じてのパリ日本館(国際大学都市)の創立に際し、現在の金額で1億円を投じた大晩餐会を開催したことでした。その後「日仏交流のキーパーソン」として、M.ラヴェル、H.マティス、J.コクトー、藤田嗣治、岡鹿之助等々、多くの芸術家と親交を重ね、パトロンとしても活躍しました。

彼は、単なるお金持ち坊ちゃんの気まぐれではなく、美的センスを持ち合わせ、社交性、行動力などが相まってプロデューサー的な活動に才覚を発揮しています。例えば、パリでは仏蘭西日本美術家協会展(1929年)を2回、ブリュッセルで1回開催、「修禅寺物語」パリ公演(1927年6月)等、日本では一時帰国してジル=マルシュックスのピアノ演奏会(1925年)などを開催しています。

また、彼は、1926年3月13日に山田英夫伯爵の長女千代と結婚しています。その経緯は不明ですが、女子学習院でのアンリ・ジル=マルシェックスの演奏会で彼女の美貌に見初めたという説もあります。帰国療養中だった千代夫人の死後(1949年)、帰国して浅草を拠点に文筆活動をしていましたが、その頃浅草の劇場でダンサーだった30歳年下の利子さんと再婚(1956)し、1959年に阿波踊りを見に訪れた彼女の出身地徳島で脳出血で倒れ、74歳で亡くなるまで療養生活を続けました。

*パリでの生活をあきらめられなかったのか、1926年秋に新妻を連れてパリに戻っています。とりあえずの理由は、大学都市に「日本学生館と図書館を自費で建てる」(『大阪毎日新聞』1926年9月16日)ためであったということです。以前、レオナール・フジタについて取り上げました(仲町つれづれNo.228を参照)。彼のパリ日本館の大壁画が里帰りしたばかりですが、そのパリ日本館の建設資金を用立てたのが、当時パリ社交界にいた薩摩治郎八だったのです。
*彼の遺品の写真の中に、藤田の最初の妻の東金での教え子であり、後に高野三三男夫人になる画家の岡上りう(1896-1969、以前は大高リウと書いた)も写っています。
高野三三男(1990.3.30-1979)の作品にも、『仮装した薩摩夫人像』(1929年、第1回展出品作)があります。

薩摩治郎八の「600億円ともいわれた祖父(筆者注:綿織物問屋)の財産を散財する一方、藤田嗣治ら芸術家を惜しみなく支援した」(『朝日』徳島版09.02.24)パトロン的存在は、アメリカの富豪やアラブの王族などスケールの大きな例は別として、日本人としては稀といえます。この破天荒な人生に、最近再評価の機運が高まっています。その魅力に、多くの人々の興味関心が集中しているわけです。今年は、村上さんの本の他にも何冊か出版されるようなので、大いに期待しています。

*村上紀史郎 「『バロン・サツマ』と呼ばれた男~薩摩治郎八とその時代~」藤原書店 2008年
*『薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち』展図録 共同通信社 1998~1999年
*薩摩治郎八 『せ・し・ぼんーわが半生の夢』(復刻) 山文社 1991年

仲町つれづれNO.238 2009年3月14日(土)
魂の叫びを聴きたい-ピアノあれこれ
先日、「主婦の半径5mの日常」を歌うという、秦万里子という人をTVで知りました。音大でピアノを専攻した彼女は、渡米してバークリー音大で作曲やジャズ、ミュージカルなどを学んだそうです。双子の子育てに専念した後、ピアノの音色を聞いて復活、主婦の日常を即興で唄ったり、ワークショップなどで活躍されているようです。ちょっと見ただけですが、何でも曲にしてしまう、楽しいステージでした。
ピアノは、誰でも一度は触れてみたことがあるのでは、というほど、楽器の中でも一番家庭に普及し、身近に感じられる楽器ではないでしょうか。また「ピアノほど筋トレ的な訓練が学習の絶対条件と信じられている楽器は」ないといえます。ピアノをやっている人から、なかなか指が動かないと聞いたことがありますが、指の訓練が重要といわれてきました。
岡田暁生著「ピアニストになりたい!」という本があります。中身はピアノ文化論ですが、サブタイトルは「19世紀もうひとつの音楽史」とあります。この本は、19世紀「ピアニスト現象」を「技術学習に焦点を当てて再検討し、ロマン派音楽のもう一つの顔を浮かび上がらせようとする」意図で書かれています。岡田さんは「19世紀はロマン派音楽の世紀だから、きっととてもロマンチックな時代だったんだろう」と思いこんでいたそうですが、今では19世紀は「ロマンチックな時代じゃなかったから、人々は『ロマン』を音楽の中に求めた」のだといいます。

音楽とはいうのは、「あくまで、有機的に関係づけられたムラのある音の集まり」であり、「時計の針のように完璧に均質な刻みは音楽ではない」のだそうです。さらに一生懸命すべての音を均等に、しっかりと弾こうとすると、何の曲だか分からなくなってしまうというのは、「適切なムラが作り出すところの、その作品の相貌に固有の陰影が消し飛んでしまうために、曲の正体が不明になってしまうのである。それはまるで、かつて自分がよく見知っていたはずの場所にやってきても、それが区画整理されてさら地になっていたりしたら、自分がどこにいるのか正確に特定できないことに、よく似ている。」―「しかるに工業機械と共産主義の理念を生み出した19世紀は、10本の指さえも平等にしようとした。指の文化革命である」といっています。
「19世紀社会はあらゆるデコボコを均質化して区画整理し、さら地を作る奇妙な夢に取り憑かれていた。もともとムラのある身体をニュートラルに均してしまえば、その後は何でも可能になる。身体の再インストールだ。」「均質な夢の身体を作るには、動作をオン/オフの二進法に還元して、それを限りなく反復すればよろしい。」等々、「単純動作の反復による部分の強化ならびに均質化」、これこそ「体操や兵隊の教練などとも通じる、19世紀ピアノ教育の思考回路の基本構造であった」(19世紀のピアノ教育が目指したもの)といいます。

*利用者から寄贈いただいたのですが、北総ゆかりの森岡葉さん『望郷のマズルカ』(2008年)という本があります。「激動の中国現代史を生きたピアニスト」というサブタイトルがついており、上海生まれのピアニスト、フー・ツォン【傳聡】(1934.3.10-)の半生を追った評伝です。
彼は、1955年の第5回ショパン国際ピアノ・コンクールで東洋人初の三位入賞を果たし、マズルカ賞にも輝いています。その時二位だったのが、2007年8月までの3年間、NHK交響楽団音楽監督、首席指揮者(現桂冠指揮者)をつとめたウラディミール・アシュケナージ(1937-)でした。
かのショパン(1810-1849)は、若くしてポーランドを後にし、後半生はフランスで活躍しています。フー・ツォンもイギリスに亡命、ヴァイオリニストのメニューインの娘ザミラと結婚し、活動の拠点をヨーロッパに移しました。ちょうど中国は文化大革命の時代で、父(文学者)母は自殺に追い込まれるなどの悲惨な状況が続き、彼自身も離婚します。
このように、ショパンと置かれた状況が酷似しています。彼が未だ音楽愛好家から忘れ去られなかったのは、ピアノの詩人ともよばれるショパンの真髄を表現し、「彼の演奏が技術だけに偏らない何かをそなえていたからだ」と言えるようです。(文豪ヘルマン・ヘッセは、フー・ツォンこそショパンを正しく演奏できる唯一のピアニストであると絶賛したとか。)

この機会に、ぜひ一度フー・ツォンの演奏したマズルカとノクターンを試聴されることをお勧めします。

*1987年10月9日から21日まで、佐倉市民音楽ホールと臼井公民館で、オランダ国立自動演奏楽器博物館所蔵品によるオルゴールからストリートオルガンまでの『音のアンティーク展』が開催されました。また、2004年6月19日から7月4日まで、佐倉市立美術館で『音のアンティーク展~造形と音が織りなすピアノの世界~』が開催されています。特に、その時のピアノの展示は、国内にあるピアノの歴史を知るにふさわしい20台を集めたものであり、幸い所蔵家の協力で演奏ツアーも実現することができ、多くの人々と、とても幸せな時間を共有することができました。まさに画期的なことで、とても印象に残っています。詳細は、佐倉市民音楽ホールHPの「演奏会の記録」展示シリーズをご覧ください。

*岡田暁生 『ピアニストになりたい!』 春秋社 2008年
*森岡葉 『望郷のマズルカー激動の中国現代史を生きたピアニストフー・ツォン』 ショパン 2007年
仲町つれづれNO.237 2009年3月11日(水)
ジュニア俳句-神野さん、おめでとう!
俳人の石田波郷(1913-1969、小欄No.198を参照のこと)にちなんだ「第3回石田波郷記念館ジュニア俳句大会」(江東区砂町・砂町文化センター)において、応募作品4771句の中から、なんと佐倉市立臼井小2年神野詩乃さんの句が大賞に選ばれました。

   コスモスや友だちに言うありがとう   うたの

近所のコスモス畑で、友だちにコスモスをもらってうれしかったので俳句にした、ということです。評者によると「友だちの示してくれた優しさに、素直に『ありがとう』と言える優しさ」が評価されての、大賞だそうです。
佐倉に縁のある俳人の大会での受賞です。本当におめでとうございます!


*当市の図書館では、毎年、市民の皆さんから読書感想文等の作品を募集して「読者の広場 さくらおぐるま(市民読書感想文集)」を発行しています。今年は、第40号が発行されました(発行は佐倉南図書館)。現在、市内図書館で配布しております(先着順、在庫がなくなり次第終了します)。
例年、一般の方からの応募が少ないのが残念ですが、市内の小中学生の皆さんの作品が掲載されています(実は、神野さんの読書感想文の作品も掲載されています)。ぜひ手にとってご覧ください。
仲町つれづれNO.236 2009年3月10日(火)
香月泰男のこと
今日は、詩人金子みすゞ(1903-1930)の命日です。彼女の同郷(現在の長門市)に、香月泰男(1911-1974)という画家がいました。私の好きな画家の一人で、今から35年前、山口から益田へと雪舟の庭めぐりをしている途中、彼の葬儀の日に付近を通ったことがあります。
銀座の画廊では、彼の命日の3月8日をはさんで小さな展覧会が毎年開かれています。彼は、4年半に及ぶ戦争や、シベリア、クラスノヤルスク地区収容所での強制労働など抑留生活を原体験として、1947年に引き揚げてからは山口県三隅町(現在の長門市)を拠点にし、(教員生活をしながら)自然や生命への畏敬と愛情等が昇華された数々の名作を遺しました。
立花隆さんの『シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界』という本があります。この本は、立花さんが無名の頃(1970年)の、ゴースト・ライターとしての仕事がベースになっています。立花さんは「自著を語る」(『本の話』2004年9月号)で、最初に香月に会ったのは1969年の「シベリア・シリーズ57点のうち、41点しか描かれていなかったとき」だったといいます。彼は、文学でいえば、プルーストの『失われた時を求めて』のようなすごさがあり、「生涯の一コマの体験事実を、あれはいったい何だったのだろうと繰り返し問い返し、何度も記憶のその部分をより深く掘り返していくうちに、ついに、この世界全体、生の全体、時の流れ全体の把握にいたってしまうというような、とてつもない深さを持った作品だ」と語っています。
今回の展覧会では、『別冊文藝春秋』第81号(1962年9月)に掲載されたカット原画20点あまりが展示されていました。この号の目次を見ると、トップには水上勉の『五番町夕霧楼』(300枚書き下ろし)が掲載されており、丹羽文雄の『情事の試算』、今東光による「日本猛婦伝」シリーズ『女武者』、黒岩重吾『法王の牙』、柴田錬太郎『女官』、有馬頼義『検事の席には誰もいない』、司馬遼太郎『奇妙な剣客』などの作品が並んでいます。香月の墨で描かれたカット原画は、本当に小さな作品ですが、「群」や「二人」など、深く、力強く描かれていて、大きさが感じられます。
*香月泰男 『シベリア画集』 新潮社 1971年

*立花隆 『シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界』文藝春秋 2004年
*香月泰男 『私のシベリア』 文藝春秋 1984年
*古川薫・文 石井明・影絵
『シベリアの豆の木―香月泰男ものがたり』新日本教育図書 1996年

 銀座・瞬生画廊のDMより )
仲町つれづれNO.235 2009年3月5日(木)
確信が持てない時
芝居『DOUBT』は、2004年秋にニューヨークのマンハッタン・シアター・クラブで初演され、後に数々の賞を受賞し、ブロードウェイでも記録的なロングランを続けています。このたび映画化(ウォルト・ディズニー配給)されましたが、監督は、原作者でもあるジョン・P・シャンリィ(1950-)さんで、脚本も担当しています。
『DOUBT』、日本語で「疑い」という題名の物語の舞台は、カトリック系の教会学校です。登場人物は、神父と修道女と子どもの母親で、原作者の経験をもとに「学校内で起こったかもしれないある事件をめぐり、聖職者の衣を着た一教師の罪を告発する校長と、無実を主張する教師の対決」という形で構成されています。近年の「アメリカの教会内における小児性愛者の摘発件数の増大」など、時代の潮流の一片を感じさせる題材でもあるといえます。
この戯曲集の日本語訳が出版されていますが、シャンリィさんは序文で芝居の根底に流れているものについて、言及しています。その「根底には、何か言葉にならないものが流れて」いて、「どの社会にも誰も口にしない何かが根底にある」といいます。また議論していて、途中できまり悪くなったり、「自分が全面的に信じていない主義主張に追従した」り、「女の子に愛していると言いながら、確信が揺らいでいく気持ち悪さを感じた」りした経験はないですか、と問うています。彼にとっては、それらの瞬間が「一つのアイデアの始まり」だといいます。この芝居は彼の時代や人生の中の言葉にならないものの上に成り立っているというわけです。

「疑い」とはなにか?と、疑いの持つ効用についても述べています。疑いは「確信と同じぐらい強力で、長続きする絆に成り得る」(フリン神父)といいます。
この話の設定は1964年、ケネディ大統領暗殺事件のあった翌年です。公民権運動の最盛期、言い換えれば「世界全体がある種の果てしない思春期を通り過ぎているような時期」で、「行動、道徳観、世界観」など「それまでの自然な表現が、生気のない仮面のように、もう通用しなくなっ」た時代です。誰もが深い精神的混乱に陥り、絶望感のみ共有していた時代、また、カトリック教会に変革の波が押し寄せていた時代でもあります。
彼はブロンクスにあるカトリック系の教会学校に通っており、「修道女たちは黒い僧服に身を固め、「『地獄』の存在を信じ、修道僧に仕え」、生徒を教育していました。そこには同じことを信じ、同じ信仰を持つという社会の掟がありました。(今でも子供たちのありようは変わったものの、「子供たちを教えるということで神への愛を示す」ということは変わっていません。)

彼はその後「人生の苦い経験を通して、必然的に、古くから賢者たちが実践してきた手法に価値を見出すように」なったということです。それが「疑う」ということだったというわけです。「疑いは信念よりも勇気がいります。また、もっとエネルギーを要します。なぜならば信念は休憩地で、疑いは終わりがなく永久に続くー情熱の修練だから」(序文)といいます。「芝居を見終わっても、確信は持てないかもしれません。」それより「我々は適度に不確定な基準を持って生きることを学ばなければなりません。」そして結論はないと。訳者は「私たちの日常生活の中での気がかりなことを、心の平静が乱れるからと言って放っておかないで、絶えず疑問を持って対処していくことが重要だということではないでしょうか?」といいます。

巻末付録としてインタビュー記事(2005年7月)があり、映画化を引き受けたという話が出てきます。「映画には2年間くらいかかる。人生は短いのに、そのうちの2年間って長いと思う」と語っています。映画では主な登場人物はフリン神父(フィリップ・シ-モア・ホフマン)、「まるで氷のかたまりのようだ」といわれるシスター・アロイシス・ボービエ校長(メルリ・ストリープ)、「太陽のように明るい心」を持ったシスター・ジェームス(エイミー・アダムス)、唯一の黒人の親であるミラー夫人(ヴィオラ・ディヴィス)の4人で、特に神父と校長、校長とミラー夫人が対峙する場面など個性あふれる演技で観る者に深い感銘を与えることになります。いずれにしても映像と音楽が一体になった作品になっています。結局フリン神父は白なのか黒なのか?それは観てのお楽しみに。

*ジョン・パトリック・シャンリィ、鈴木小百合+井澤眞知子訳 『ダウトー疑いをめぐる寓話』白水社 2005年
*ジョン・P・シャンリィ監督・脚本・原案 
  映画『ダウト~あるカトリック学校で~』(ウォルト・ディズニースタジオ配給)
2008年3月7日より公開。
*芝居は、2008年4月に文学座アトリエの会公演として、吉祥寺シアターで望月純吉演出、清水明彦、寺田路恵、渋谷はるか他によって上演されました。
仲町つれづれNO.234 2009年3月3日(火)
三月三日 雛祭り雑感

お指折(ゆびおり)て うち算(かぞう)れば 如月も夢のごとくに 過ぎにけらしも  (良寛)

その昔、五合庵に籠居する良寛にとって春の訪れはまだまだ先のことだったのでしょうか。今年もあっという間に弥生、三月に入りました。今年の新潟は雪がなく、春を待つだけのようです。中国の言葉に「三寒四温」がありますが、このところの天気はまさにその通り、今日も雨模様で寒さが続いています。このような寒暖が三、四日の間隔で繰り返し、そして春を迎えるのでしょう。

三月は別れの季節です。ブルートレインといわれた寝台特急「富士」と「はやぶさ」が廃止になるということです。新聞報道によると、すでにラストランまでほぼ満席だとか。また、2005年3月で運行を終えた「さくら」という愛称は、今度2011年開業の九州新幹線新大阪=鹿児島中央間で復活するそうです。小欄でも何度か鉄道の話題-団塊世代は鉄道ファンが多い(No.41)、スローな旅の話(No.61)など-で触れましたが、まだまだ考えれば需要があるのではないでしょうか。

誰でも、どこかに遠くに行きたいという夢をもつものです。旅とは「家ヲデテ、遠キニ行キ、途中ニアルコト」(『大言海』)と定義されています。人生も、よく旅にたとえられますが、沢木耕太郎さん(1947-)『深夜特急』というすぐれた作品があります。産経新聞に連載された作品です。小田実の『何でも見てやろう』(1972年)にみられる文明批評とは違って「旅のなかで自分の底に降りてゆく、これは一つの文学作品である」(高田宏の評)と評価されています。沢木さんは「旅は旅をする人が作るものだ」といい、アン・タイラー(1941-)の『夢見た旅』(1987年)『アクシデンタル・ツーリスト』(1989年)という2冊にも、旅というものを考える契機を与えたそうです。
1974年、26歳の時、ユーラシアへの長い旅に出ることを思い立った沢木さんは、「デリーからロンドンまで乗合バスを乗り継いで行く」のです。その成果が『深夜特急』第一便(1986年)、第二便(1986年)、第三便(1992年)です。旅から帰って3年後に『ミッドナイト・エクスプレス』(1978年)という映画を見て、このタイトルでの紀行文が書かれたとか。
団塊世代の多くは、その昔、小田実の『何でも見てやろう』(1972年)に影響されたと思います。沢木さんも、小田実のその本に動かされて、「井上靖の『アレキサンダーの道』に背中を押され、檀一雄の『風浪の旅』によって自由な旅のスタイルを伝授された」と振り返っています。
新刊の『旅する力 深夜特急ノート』では、旅は出入り自由の「もうひとつの学校」でもあり、「教師は世界中の人々であり、教室は世界そのものである」といいます。だからこそ、若い人はおおいに旅に出てほしい、と。旅をしようかどうしようか迷っている人には「恐れずに」と、「しかし、気をつけて」、「旅に教科書はない。教科書を作るのはあなたなのだ」とアドバイスしています。そして、沢木さん自身は「旅から学んだことがあるとすれば、それは自分の無力さを自覚するようになったということだったかもしれない」といいます。

*沢木さんの旅から帰国後の最初の仕事は、佐倉市名誉市民である、巨人軍の長嶋茂雄監督を扱った『三人の三塁手』(『調査情報』1975年5月号)であったということです。TBSから発行されていたこの雑誌は、長嶋茂雄について直接書かずに、「長嶋がいたために三塁手になれなかった二人の選手を描くことで、結果として長嶋を描くこと」になるという手法がとられているそうです。

*沢木耕太郎 『深夜特急』第一便、第二便、第三便 新潮社 1986~1992年
*沢木耕太郎 『旅する力 深夜特急ノート』 新潮社 2008年
*井上靖・平山郁夫 『アレキサンダーの道』 文藝春秋 1986年
*檀一雄 『風浪の旅』(『現代の旅』シリーズ)山と渓谷社 1974年

仲町つれづれNO.233 2009年2月27日(金)
アーツ&クラフツ運動-先入観にとらわれず自分の眼でものを見ることの重要性

「自然から産みだされた健康な素朴な活々した美を求めるなら、民藝Folk Artの世界に来ねばならぬ。
私達は長らく美の本流がそこを貫いているのを見守って来た。併し不思議にも此世界は余りにも日常
の生活に交じる為、却って普通なもの貧しいものとして顧みを受けないでいる。―」
                             (「日本民藝美術館設立趣意書(1926.4.01付)」より)


1926年、冨本健吉(1886-1963)、河井寛次郎(1890-1966)、濱田庄司(1894-1978)といった陶芸家と、柳宗悦の4名の連名で発表された一文です。日本におけるアーツ・アンド・クラフツ運動を考える上で、この「民衆の工藝」=「民藝」運動を抜きにしては考えることはできません。
この運動をリードした柳宗悦(1889-1961)は、父が海軍少将で貴族院議員などを務めた人で、彼も東大で心理学や宗教哲学を学んでいます。当時あまり注目されていなかったイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクにも没頭していたようで、どこか既成の概念にとらわれない自由の精神の持ち主であったといえます。
彼は、学生時代から『白樺』の同人達との交流の中で、それまで眠っていた数々の庶民的な美(日用品の美)を発見し、「眼の巨人」とも称せられています。最初の出会い(我孫子に住んでいた頃)は、李朝(朝鮮王朝時代:14世紀末から20世紀初頭)の染付の壺であったと伝えられています。


アーツ・アンド・クラフツ運動は、19世紀後半(1880年代)、産業化や工業化が進む時代を背景にイギリスで興ったデザイン運動です。思想家のウイリアム・モリス(1834-1896)やジョン・ラスキン(1819-1900)が生み出した理念を、デザイナーで、詩人でもあったモリスが主導して完成させたものです。日本には約40年後の1920年代後半に入ってきました。自然や伝統に美を再発見し、シンプルで美しいライフスタイルを提案したものです。
上野の東京都美術館で、2005年ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館(V&A)で開催された「International Art and Crafts」をベースに再構成された「生活と芸術 アーツ&クラフツ展」が4月5日まで開催されています。V&Aは、装飾芸術のコレクションでは世界一を誇る美術館です。創立時にモリスがテキスタイルの収集アドバイザーを務めており、モリスのコレクションでも世界一を誇ります。

今回の展示品に、5点ほどの本も出品されています。モリスは常に本を収集していたと言われています。モリスの彩飾手稿本のうち、数少ない完成品の一つといわれる『詩の本』(1870年)は、マレー(1849-1919)が細密画17点、ラファエル前派の画家P・バーン=ジョーンズ(1861-1926)がドローイング1点を担当しています。
また、ウィルフリッド・スコーイン・ブランド(1840-1922)著『プロテウスの恋愛叙情詩と歌』(1892年)は、モリスが特別にデザインした「ゴールデン体」と呼ばれる活字が使われ、ブランドの考えで所々に大きな頭文字の活字に赤色を使った飾り文字が用いられています。しかし、モリスは気に入らず二度と同じ使い方をしなかったそうです。とはいえ、木版の飾り文字や挿絵がところどころにアクセントをつけるなど見るだけでも楽しいものです。
(写真で紹介できないのが残念です)
モリスが「縁枠や表題紙に優れたデザインを駆使した最高傑作」といわれている『狐のレナードの物語』(1895年)も出ています。解説によると、紙刷り300部、ヴェラム(上質皮紙)刷りが10部作られたとか。本の制作にあたってモリスは、常に最高の素材を使うよう気を配り、ヴェラムはウスターシャー州スタワブリッジ、紙はケント州リトルチャート、インクはドイツのハノーバーから取り寄せたそうです。また、翻訳の転写、編集、訂正に多大な時間を費やした、とも。
ここで紹介した本以外にも、日本で最初の民藝館『三国荘』(1928年)の主人室や応接室が調度類とともに再現復元されています。是非、実際に目で見て、アーツ・アンド・クラフツを実感してください。

*佐倉ゆかりの洋画家浅井忠は、パリから帰国後、1902年に設立された京都工芸学校の教授で迎えられています。ここから、新しい日本の工藝・デザイン教育が始まりました。
*『大阪人』(Vol.63、2009.3、(財)大阪市都市工学情報センター刊)の特集「続々古本愛」に、「天満天神・古本愛ツアー⑦」として、清水章弘さんの「愛と審美眼で一点突破」という一文があります。その中に、柳の月刊『工藝』(1931年創刊、通巻120号)に思いの丈を込めた和紙製和綴じ本の体裁、1号まるごとのテーマ特集などと、写真とともに紹介されていました。
*『柳宗悦全集』 全22巻(25分冊) 筑摩書房 1981-92年
*柳宗悦 『民藝とは何か』 講談社学術文庫 2006年

仲町つれづれNO.232 2009年2月22日(日)
出発に年齢はない-萩原葉子の場合
詩人萩原朔太郎の長女萩原葉子(1920-2005)の、60歳の時の文章を紹介します。「老人」とは、80代の自分の母親、上田稲子のことだそうです。

 「老人」特有の老化現象が始まり、身体の苦痛を他人に訴え、症状を聞いてもらいたくなったら、
 私はそれが寿命の来た日だと覚悟しようと思う。自分の身体のこと以外は外界を見ない老人から
 一歩進み、努力を重ねて勉強を怠らず、趣味も合わせて、死ぬ前日まで働けることを目標にしたい。
 この目標が見えなくなった時は、私の寿命がきたのである。人間の最後は厳しいものである。
 (『仮面舞踏会』中央公論社1980年


40歳前後の女性を「アラフォー」と呼び、60歳になると「アラ還」(アラウンド還暦)と呼ぶのが流行っています。私も先月60歳になり、還暦を祝われてみたものの、まだ若いと思っています。仕事でも趣味の世界でも、勉強は一生続くもの、日頃から何事も意欲を失ったら終わりだ、と思います。

萩原葉子の息子である萩原朔美さんの書いた本によると、母親が自宅にダンスの稽古場を作ったのは62歳の時だったそうです。この頃、帝国劇場での「樹座」のミュージカルでフラメンコを、自宅パーティや催事等ではデュエットダンスを踊ったりしているのです。まさに飛んでいる人生というか、青春真っ最中といった感じで毎日を送っていたようです。
彼女がモディリアーニの絵の世界に関して書いた一文では「私はダンスを披露する時、タンゴ『ラ・クンパルシータ』を踊る。ソシアルダンスは嫌いで、代わりに男性と組むアダジオダンスを踊る」と書かれていました。また「タンゴのリズムには人生の重みと悲しみ、人を愛さずにはいられない激しさが感じられて、幾度踊っても飽きない」(『出発に年齢はない』)とのことです。

もっとも、親の離婚などもあって、朔美さんが中学の時から別々に暮らしていたため、母親が「子供に最初で最後の頼み事をしたのが、たった百八十六日間の同居生活」で、「入院もわずか二日間」という短さで「まるで飛行機で海外旅行にでも出発するように、さっさと泉下の住人になってしまった」と振り返っています。詳細は、自伝的小説の『蕁麻の家』三部作『蕁麻の家』、『閉ざされて庭』、『輪廻の暦』、いずれも新潮社)をご覧ください。
孝行をしたい時分に親はなしとよく言われます。萩原朔美さんも、最後は「母親と同居している間中怒ってばかりいた」と後悔しています。母親は「私が」居ない時、連れ合いに「一緒に食べていい?」と訊いてから、一緒に食事をしたそうです。そして連れ合いに、力ない弱々しい文字で、ネコのイラストとともに『人生最良の日』と書かれ」た紙切れを渡したと。「母親にしてみれば、生まれて初めての平和な家族というものの食事体験であったのだ」とのことです。
亡くなる数か月前、近くのメガネ屋さんに行った帰りに一緒に食堂に入ろうというのを拒絶したことと、同居してすぐの時「少し身体が動くようになったら、(ダンスの)先生に来てもらいたい」というのを断ったことを「最も愚行だった」と後悔しています。誰にでもあることでしょう。「親は、子供が出来て親になっていく。子供は親が居なくなって、初めて子供を自覚するのである」と結んでいます。

*萩原葉子 『仮面舞踏会』 中央公論社 1980年
*萩原葉子 『出発に年齢はない』 岩波書店 1990年
*萩原朔美 『死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日』 新潮社 2008年

*「生活を単純化して生きむとす単純化とは即ち臥床なり 斎藤茂吉」
仲町つれづれNO.231 2009年2月20日(金)
『図書館 愛書家の楽園』 本は全世界の過去がしまい込まれた容器
昨年11月、豊島区立中央図書館で開催された「図書館サミット」は有意義な会議でした。仏文学者で世田谷文学館館長の菅野昭正さんの話によると、フランスの著名な哲学者ミシェル・フーコー(1926-1984)は、いつも一人の市民として並んで図書館の席取りをし、そこで本を読んでいたとか。フーコーの仕事(『言葉と物』(1966)、『知の考古学』(1984)等)は、図書館から生まれたという話です。
また、作家の澤地久枝さんの話ですと、日本でも石川啄木は帝室図書館で学び、菊池寛は高松市立図書館第一号の利用者であったということです。公立図書館の役割の大きいことを改めて感じています。

西垣通(東大教授)さんからは、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)の『バベルの図書館』という短編小説で、人間は有限だが、図書館は無限、永遠なものといった話もありました。この本の主人公は、「宇宙」と呼ぶ巨大な図書館、六角形の回廊ユニットが無限につらなっていて、この世のあらゆる書物が収められている図書館を思い描いています。世界の百科事典としての、無限の図書館は存在するということを先人たちは考えていました。
さらに、その時新刊だった、あちこちで放浪生活を経験したアルゼンチン人のアルベルト・マングェル(1948-)の『図書館 愛書家の楽園』(原題は『The Library at Night 』、著者は『自室をめぐる旅』とすべきだったかも、と書いています)についても触れられていました。Libraryとは、図書館に限らず、書斎や書庫など、複数の本が集まった状態、または場所をさすのだそうです。
アルベルト・マングェルは、若い頃にボルヘスの知己を得て、目の見えなくなったボルヘスの読み聞かせをしていたといわれています。現在はフランス西部の田舎に住み、自ら図書館=書斎を作ったほどの愛書家です。
この著書は、本と図書館をめぐるエッセイ、それも視点が多様で、根源的な問いが繰り広げられています。また、この本は「神話としての図書館」、「秩序としての図書館」・・「権力としての図書館」、「影の図書館」等々の章立てが魅力的です。実にいろいろなことが詰め込まれています。原題の『夜の図書館』にも、深い意味が込められています。今こそ、是非一読してみては如何でしょうか。

*ヴィッキー・マイロンの『図書館ねこデューイ』に出てきたスペンサー公共図書館はカーネギー図書館でした。しかしアルベルト・マングェルは、アンドリュー・カーネギーについて冷やかに書いています。
19世紀から20世紀にかけてのアメリカでは、巨万の富を得た成金たちはその金を学校や博物館、そして何より図書館建設のために投入しつづけたそうです。図書館は文化の中心として重要だった以上に、設立者の名前を残すモニュメントとして重視されたのです。そうした中の一人に、アンドリュー・カーネギーがいました。彼をめぐる物語は「単純な結論で片づけるわけにはいかない」複雑さがあるようです。彼は「地域社会に与えられる最良の贈り物はなんだろう?」そして、自分でその問いに答えて、「何といっても無料の公共図書館だ」と。
設立された図書館は、生まれ故郷のスコットランドから、フィジーやセイシェル諸島まで、英語圏の十か国以上に及び二千五百館を超えるということです。彼自身生まれは貧しく、13歳の時アメリカ、ピッツバーグに移住、そこで「学校に通えない徒弟のため」に作られた無料の公共図書館を見つけ、読書好きになり毎週本に没頭したと回想しています。このカーネギー図書館で読書にふけった愛書家にとって、彼の望みが何であれ、「学問を尊ぶ社会の中心を占める必要不可欠な叡智のよりどころ」であり、「文字を読めるすべての市民にとって、人としての基本的権利を与えてくれる場所である」といえます。

*奈良時代の764年称徳天皇は自らの治世の記録を残すために、百万塔陀羅尼を作ったこともでてきます。
*人間の虚栄心が望みうる最高の自信を与えるのにこれ以上ないものーそれは公共図書館である。(サミュエル・ジョンソンの言葉、1751年3月23日付『ランブラー』より)

*アルベルト・マングェル 野中邦子訳 『図書館 愛書家の楽園』 白水社 2008年
仲町つれづれNO.230 2009年2月15日(日)
バレンタインデーの贈り物の効果

昨日はバレンタインデーでした。その昔、17世紀から19世紀にかけて欧州ではバレンタインデーに絡めて恋を成就させるおまじないが数多く生まれたそうです。シェイクスピア(1564-1616)の代表作『ハムレット』(1600年頃)でも、第4幕第5場で、ヒロインであるオフィーリアの歌に出てきます。

  明日は聖ヴァレンタインさまの吉日よ、夜明けを待って早々に、
  あなたの窓辺に立ちましょう、ヴァレンタインさまに願かけて。

岩波文庫では「この聖人の祝日(2月14日)の朝、男が最初に見かけた娘が『まことの恋人』(“ヴァレンタイン”と呼ばれる)になるという俗信にもとづく。」という訳注がついています。
日本では、半世紀ほど前から「女性から男性にチョコレートを贈る日」となったようです。今年のバレンタインデーは土曜日で、一般的に企業関係は休みが多くて「義理チョコ」が減り、売上も減ったかもしれません(私は3個もいただきました。ありがとうございました)

昨日、佐倉市民の皆さんには、映像の贈り物がありました。昨夜の『出没!アド街ック天国』というTV番組で佐倉、とりわけ佐倉・印旛沼周辺が取り上げられたのです。ご覧になったでしょうか。城下町の佇まいが感じられる内容となっており、佐倉図書館のある新町通りの店も数軒紹介されていました。当館も一瞬チラッと写りました。映像から、改めて街を再認識された方もあったのではないでしょうか。

そして今朝です。新町通りは、毎月10日の金毘羅様(縁日)以来の賑わいになっていました(
写真は今朝9時過ぎの新町通りの行列風景。昨夜の番組で紹介されたある店のプレゼントのために2時間も並んだ、という方もいらっしゃいました。番組内で紹介された近所のお店のチョコレートもあっという間に完売してしまったとか。一昨日の春一番から続く奇妙な暖かさの影響もあるかもしれませんが、改めてTVの威力、宣伝効果の影響のすごさを感じました。

*福田節子・北井由起子著
 『魅惑のバレンタインカード』平凡社 1990年

*シェイクスピア・野島秀勝訳
 『ハムレット』岩波文庫 2002年
仲町つれづれNO.229 2009年2月13日(金)
不況の世の中で、町を幸せにしたトラねこの物語

「1988年1月、アイオワ州の田舎町スペンサーの朝は、その冬いちばんの冷え込みになった。(筆者注:前夜零下15度)スペンサー公共図書館の館長ヴィッキー・マイロンは、いつものように朝七時半に出勤して、返却ボックスを開けた。すると、本の山のあいだに子猫がうずくまっていた。」(『図書館ねこデューイ』訳者あとがきより)
この子猫はデューイ・リードモア・ブックスと名づけられ、それから幾多の困難を乗り越え、2006年11月末18歳で亡くなるまで「図書館猫として人々をなごませ、笑わせ、元気づけ、みんなに愛された」(訳者あとがき)存在だったのです。当時は、ちょうど今と同じように不況の時代で、心身とも荒廃しきった住民たちと昔ながらの町に活気を与えるとともに、ひいては、世界中の人々に生きる勇気と希望を与えました。
2003年NHKの番組(ドキュメンタリー:本のなかの子猫)で、「働く猫」というキャプションをつけられ、1分半出演したこともあり、「2004年の夏以降、(3年間で十五万人以上が訪れた中で)日本は合衆国の次に訪問者が多い国」となり、「デューイを頂点に押し上げた」ということです。もちろんデューイの死も、日本でも放映されたようです。
本の著者であるヴィッキー・マイロン(1948年―)さんは、夫のアルコール依存症が理由で離婚し、それから2つの大学で図書館学と人類学を修め、32歳で地元のスペンサーの公立図書館に勤務し、20年間館長を務めた人です。この図書館猫デューイは、病と人生とで奮闘している彼女の心の支えでもあったわけです。そして「誰もがデューイと過ごすことを楽し」み、「彼はわたしたちを幸せにしてくれる私たちの仲間なんです。人生にはそれ以上のものが必要でしょうか?」と言い切るほど大事な存在でした。デューイの死後1年後、彼女は自らの意志で退職し、デューイのためにこの本を書いたのです。
図書館についても、示唆に富んだことが書かれています。スペンサー公共図書館は1883年にH.C.ケアリー夫人の客間に開かれたのが起源で、1902年にUSスチールの創設者であるアンドリユー・カーネギーが町に新しい図書館のために一万ドルを寄付してくれたことにより、1905年3月6日に半ブロック離れた地に開館したということです。「カーネギーは古典的な様式とシンメトリーなデザインを求めたので」、スペンサー図書館も典型的なカーネギー図書館であったということです。「カーネギー図書館は司書に頼まず、利用者が自由に棚から本を選べる最初の図書館だった」り、革新的な試みがなされており、「学ぶことの聖堂で、1902年には学ぶことは本を意味した」ということです。この著者が1982年就職した頃、建物は新しくなっていた(1971年に壊してもっと大きくモダンで効率的な図書館を建設した)が、あらゆる面で大失敗であったそうで、1989年7月3週間かけて改装(活性化のプロセスと呼んでいますが)、1987年デューイがきた前年と、1989年の改装の年の間に「来館者は年に6万3千人から10万人に増えた」そうです。その年の「利用者の19.4%が」別の町から、「また18%が周囲の郡から」の人であったというように、「図書館が近隣の中心になっていること」が明らかです。そして、一番の変化の原因は「スペンサー公共図書館をただの本の倉庫ではなく、出会いの場所にしたのは、デューイだった」と。誰もが彼が町にいることを誇りに思っていたということです。
また著者は、(権力を持つ)地域社会の指導者たちにとって「本、図書館、猫のようなものは夢中になる価値がないのだ」と自問自答しています。「町は猫が必要だったのだろうか?」とも。「あなたを抱き上げ、きつく抱きしめ、大丈夫だといってくれる人が」いなくなってしまったのです。
終わりに、デューイから教わったということを紹介しておきます。「居場所を見つける。自分の持っているものに満足して幸せを感じる。すべての人によくしてあげる。いい人生を送る。物質的にではなく、愛のある人生という意味だ。ただし愛は決して予想することができない。」 ありがとう、デューイ。

*ヴィッキー・マイロン・羽田詩津子訳 『図書館ねこ デューイ』早川書房 2008年
*スペンサー公共図書館WEB: http://www.spencerlibrary.com

*音楽の殿堂として知られるニューヨークのカーネギー・ホールは、興行収入のほか年間約4千万ドル(約35億4千万円)超の寄付金で運営されています。10月からのシーズンの公演数を今季に比べて一割少ない180に減らすということです。これも、景気後退でスポンサーの影響が出てきているということでしょう。公演数の削減、職員の削減で400万ドル(約3億5千万円)のコストを圧縮するという・・・どこも文化事業は縮小です。(『日経新聞』夕刊・09.01.26付)
*『猫新聞』なるものがあるほど猫ファンは多いです。猫に生き方を学ぶことも多いということでしょう。
*銀座のギャラリーミハラヤで、猫好きによる猫好きのための第14回猫展が、3回に分けて3月14日まで開かれています。漫画家の大島弓子さんの『グーグーだって猫である』(角川書店)は昨年映画化されましたが、長い年月をかけて、現在4巻まで出版されています。
*アナウンサーの山根基世さんが「大往生」というコラム(『あすへの話題』(『日経新聞』夕刊09.01.27付))で、23年前拾って来た三毛虎の雌猫(チビ)が死んだ話を書いていました。・・・「ネコの寿命は長くて十八年」と聞いていて、心の準備はしていたものの、周囲は「人間で言えば百才を超えている、大往生だと」言ってくれるが、その悲しみは「じわじわ効いてくる」・・・。

仲町つれづれNO.228 2009年2月3日(火)
藤田嗣治と千葉との縁
1968年の2月3日朝10時から、フランスのランス大聖堂でレオナール・フジタの葬儀式が執り行われたそうです。昨秋から1月18日まで、上野の森美術館で「没後40年レオナール・フジタ展」が開かれていました。初期の幻の群像大作4点が初めて一堂で見ることができたほか、晩年の宗教画などが展示されていました。知名度不足で、残念ながら客足が伸びなかったようですが、レオナール・フジタとは、独特の乳白色の肌(地)に面相筆を用いた繊細な筆致で描かれた裸婦で、一躍エコール・ド・パリの寵児となった画家藤田嗣治のことです。
藤田嗣治(1886-1968)は、生涯のほぼ半分をフランスで暮らし、晩年(1955年)フランス国籍を取得(日本国籍を抹消)、1959年10月カトリックに改宗して、レオナール・フジタという洗礼名を名乗っていました。そこには、(従軍画家として)祖国から戦犯扱いされたという被害者意識が根強くあったのではないかと言われています。
藤田の父である嗣章(1854-1941)は、千葉県安房郡北条町(現在の館山市)出身で、陸軍軍医として日清、日露戦争で活躍し、陸軍軍医総監にまでのぼりつめた人でした。母の「実家は館山長尾藩の士族という由緒ある家柄だった」が、34歳の若さで亡くなっており、藤田嗣治は継母に馴染めず、長姉の嫁ぎ先である蘆原家(夫は士族で、陸軍軍医)に小学校を終えるまで預けられています
母方の祖母は南画の画家で、「その血を引いたのか、幼い嗣治のお気に入りの遊びはお絵かきだった」(湯原)とか。「12,3歳になる頃には、将来は画家に、という夢」を抱いていたようです。親族に、劇作家の小山内薫、劇作家の岡田八千代(薫の妹で、画家岡田三郎助夫人)、甥に音楽評論家の蘆原英了、建築家の芦原義信(佐倉市内では歴博、佐倉市民音楽ホールの設計)らがおり、芸術的感性に恵まれた環境があったといえます。
嗣治は、1910年に東京美術学校を出た(卒業成績は30人中16番)ものの、無名のまま、1913年6月父親の援助によってフランスへ留学します。その時、すでに東金高等女学校の教師だった鴇田とみ(通称登美子、1886-1932)と結婚(未入籍)していました。このことはあまり知られていませんでしたが、1980年末に加藤時男さんらの研究で、とみの実家に保存されていた、1913(大正2)年6月から1916(大正5)年11月にかけてのとみ宛の書簡(179通)などから「とみに対する愛、渡仏の催促、留学生活、画業への野心、抱負」(塚本庸、加藤時男)等々が語られていることが明らかになるなど、次第に無名時代の様子がわかってきています。
二人の出会いは「美術学校の卒業期の時」で、「卒業試験の大作を成すために房州の海岸に行」き恋に落ち、交際期間2年で、結婚の許しを父への手紙という形で乞うたということです。嗣治は、彼女は「旧家の資産家の秘蔵娘」で、「昔の草紙の挿絵にある様な、銀杏返えしの女」という表現をしています。そして「二人の父に手紙を置いて掛け落ちをして田舎へ逃げた」と書いています。
とみも女子美術学校を卒業しています。栃木県内の小学校から、1908(明治41)年東金高女が創設されると嘱託教師として赴任しました。そこの寄宿舎の舎監を兼務していた頃、嗣治に出会い、「二人のロマンスは女学生の間で大変なうわさになった」ということです。とみは1910(明治43)年8月に退職しており、二人の実質的な結婚生活は、嗣治の手紙などから「1910年秋か、翌年の春に始まっていた」と湯原さんはみています。
嗣治からの「残された手紙からは別れをにおわす文面は皆無」(一例:「あの苦しかった長い長いラブを成功さしたのだもの・・〈中略〉お前をすてる事は出来まい。今ここで又恋人を作ったとすれバ今までの恋も新の恋も恋にてなくて色慾になってしまう、人をもて遊んだ事になってしまう。大丈夫己れの事ハ安心しろ」〈1913年11月19日付のとみ宛の書簡〉)、にもかかわらず、1916(大正5)年には離婚しています。
彼女は嗣治の要請に応じて、結婚後退職したものの千葉県教育会女子部養成所に勤務して渡仏資金を準備していましたが、真相はわからないままで終わってしまいました。このころの嗣治は作品点数が少なく、現在確認できる1910年代の作品の大多数はとみと別れてからで、1917年以降急増しています。

とみはその後二度結婚をしましたが、1932(昭和7)年歌舞伎座に行くために定宿にしていた日本橋の旅館永田屋の玄関先で倒れ、東大病院に入院したものの、尿毒症を併発して3月10日幼い娘2人を残して亡くなってしまいました。一方嗣治は、1929(昭和4)年9月、フランス人妻ユキ夫人を伴って16年ぶりに帰国し、10月に個展を開催し大成功を収めています。
嗣治は1949年3月10日離日(渡米)してから、二度と日本の土を踏むことなく、(1965年から膀胱癌と闘った末)1968年1月29日13時15分、チューリッヒの病院で亡くなりました。享年81歳。当時、レオナール・フジタの死はフランスでも日本でも大きく報じられたということです。

*とみの東金での教え子の一人大高リウは、後にパリと日本で活躍した画家高野三三男(みさお)〈1900-1979〉の妻となり、パリで藤田と再会することになります。
*愛の在り方の類似例に、同じくフランスに学んだ高村光太郎がいます。光太郎も智恵子と犬吠埼や九十九里海岸に来ていますが、婚姻届を出さないで結婚生活をしています。

*林洋子『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』 名古屋大学出版会 2008年
*塚本庸、加藤時男「藤田嗣治書簡(妻とみ宛)-パリ留学時代初期の嗣治」『千葉県の歴史』33号 1987年
*「パリ留学初期の藤田嗣治」研究会編『藤田嗣治書簡―妻とみ宛―』1~4 2003-4年
*湯原かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』 新潮社 2006年


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