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図書館ホーム > 仲町つれづれバックナンバー > NO.199~NO.212(2008.10~2008.11)

仲町つれづれNO.199~NO.212 ~佐倉図書館通信~

仲町つれづれNO.212 2008年11月29日(土)
「庁舎」か「シティホール」か
建築は、公的な性格をもつ、時代のモニュメントでもあります。有名建築家の、それも節目となるような建物が佐倉市内に点在していることは喜ばしいことです。小欄No.27でも紹介しましたが、下りの京成電車に乗って印旛沼を見ながら、鹿島川に架かる鉄橋をわたって京成佐倉駅に入るまでの右側の台地上に、あたかも船のように見えるのが、佐倉市庁舎です。この建物は黒川紀章(1934-2007)の初期の作品(1971)です。今は周囲の景観も変わり、内部もできた頃の面影はなくなってきています。竣工当時は建築を学ぶ学生や外国人も見学に来ていました。驚いたことに、筆者が出会ったフランス人らが手に持った本には日本の代表的な建築として佐倉市庁舎が掲載されていました。

この黒川紀章とともに、東大建築科丹下健三教授(1913-2005)のもとで勉強し、1958(昭和33)年に東京都庁総合計画に一緒に携わったのが、磯崎新(1931-)です。国際的にも知名度が高い磯崎新は、建築設計活動ばかりではなく、幅広く評論活動をする、非常に「言葉」にこだわる建築家でもあり、著書は30冊を超えています。国内での作品としては、初期の代表作として大分県立大分図書館(1966)、北九州市立中央図書館(1974)、群馬県立近代美術館(1975)、つくばセンタービル(1983)、水戸芸術館(1990)などがあります。

平松剛(1969-)さんの『磯崎新の「都庁」』は、磯崎新が主人公で、西新宿2丁目にある東京都庁舎の設計コンペ(1985)が行われた頃の話が書かれています。この本は評伝ではなく、「戦後日本最大のコンペ」というサブタイトルが物語るように、磯崎新の師匠であり「建築界の天皇」とも称された大御所丹下健三との闘いが軸になっています。
1985年秋「電話が鳴ったのは朝10時を少し回った頃だったろうか」といった調子で始まり、都庁舎のコンペを取っ掛かりに、様々な事柄がわかりやすく語られていて、ドラマのように大変面白く、筆者のような建築を知らない者でも、平松さんの筆力と構成力で450頁余を一気に読むことができました。
大都市東京の顔でもある都庁舎のコンペには、9つの設計事務所が指名されました。丹下健三、日建設計、日本設計、前川國男、坂倉、山下設計、松田平田坂本設計、安井、各事務所、そして磯崎新アトリエ。国内で高さ100メートルを超える超高層建築の実績ということで絞られて、磯崎以外は大組織事務所です。磯崎は国際的に評価されて活躍しているという基準の中から選ばれたもので、黒川紀章は指名されませんでした。
前川は丹下の師匠であり、前川、坂倉とも近代建築の巨匠ル・コルビュジエの弟子と、「かつての師匠も弟子も、今の丹下には敵」ということになります。
磯崎は「都庁舎は超高層ビルにするべきではない」ということで、3か月半で出した結論は「低層案」だったそうです。
この磯崎の結論は「タテ割りの官僚機構への批判から、タテに長い樹状構造の超高層ビルを否定し、低層でヨコの複雑な連絡にスムーズに対応できる新しい建築形式を探る」というコンセプトから、「○×△□、単純至極のプラトン立体が提案された」ということです。

今、世界の建築家のリーダーと目されているオランダ人建築家レム・コールハースは、1995年、磯崎と車で横浜に移動中、しばらく走ってのこと(お台場で)「おい、磯崎、あそこに君の都庁が建ってるじゃないか。コンペには負けたんじゃなかったのかい?」と言ったそうです。磯崎は「え?…ああ…いや、違うんだ。あれは丹下さんの仕事なんだよ(笑)」。この会話は磯崎をからかっての発言でしょうが、筆者にも彼が指摘した建物は磯崎のコンペ案によく似ていると思います。(はて、どこの建物でしょうか?)
磯崎は、都庁舎を含め、バブル期に相次いで建てられた都の公共建築、東京芸術劇場、江戸東京博物館、都現代美術館、東京国際フォーラム、これらをバブル東京の「五大粗大ゴミ」と命名しています。都と建築家共に「計画をコントロールする術を見いだせないままに、無様な巨大建物群が姿を現わす結果となってしまった」と。磯崎には「東京は、経済的には、あの<偉大なるローマ>と肩を並べられる千載一遇のチャンスに恵まれながら、文化的にはそれをみすみす見逃してしまったのではないか。」という気持ちがあったということです。貴重な歴史遺産である丸の内の旧都庁舎(丹下健三・設計)は壊され、今はラファエル・ヴィニオリ(1944-ウルグアィ生・米国)の東京国際フォーラムが建っています。

磯崎は朝日新聞(9月21日付)読書欄の「たいせつな本」のなかで、ゲーテの『イタリア紀行』(岩波文庫)をあげて、この『磯崎新の「都庁」』での敗北した挿話に触れています。「その遠い理由を2世紀前の本のなかにみいだしていただけるかも知れない」と書いています。また、レム・コールハースは、「建築という存在自体に徹底的に否定的、批判的」(隈研吾「建築のハムレット」『ちくま』No.452)な立場をとっている建築家で、先月『コールハースは語る』が刊行されました。これらをあわせて考えてみてください。

*平松剛『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』文藝春秋 2008年 (11月12日、第30回サントリー学芸賞を受賞)
*レム・コールハース他、瀧口範子訳『コールハースは語る』筑摩書房 2008年


 西新宿に聳え立つ「東京都庁舎」
〈11月6日撮影〉
仲町つれづれNO.211 2008年11月21日(金)
本当に「見る」ということ
「だれが信じただろう。一見したところ男の眼は健康そのものだ。虹彩はきらきらと輝き、白眼は白い磁器のように固まっている。その両眼がまんまるに見ひらかれ、(略)だれの眼にも、男が半狂乱になっているのはあきらかだった。ついさっきまで視野にあったものが、あっというまに消え失せていた。(略)目が見えない、目が見えない、と絶望的にくりかえした。」
この小説は「黄色がついた。赤信号にならないうちに、前にいる二台の車が加速した。」で始まります。ある男が突然、町の交差点で失明するのです。部屋で突然巨大な虫に変身した男の物語もありましたが、この小説では、恐ろしいことに、原因不明のまま無差別に失明が伝染していき、やがてはすべての人間が視覚を失っていきます。舞台も特定できない、登場人物すべてに名前も経歴もない、という設定です。
作者は1988年のノーベル賞作家であるジョゼ・サラマーゴ(1922-、ポルトガル)で、「訳者(雨沢泰さん)あとがき」によると、彼はレストランで食事中に「『もし、われわれが全員失明したらどうなる?』という問いが、無意識の淵から忽然と頭に浮かんで」きて、その問いかけに対して「だけど、われわれは実際にはみんな盲目じゃないか」と考えたそうです。この文明社会でそういう状況に陥ったらどうなるのか、ジョゼ・サラマーゴは「極めて暴力的な、私自身をぞっとさせるくらいの真に恐ろしい暴力的な状況」が起きると考え、「奇抜な着想」ながら、人間の冷淡さを整然と理詰めで暴いていく『白い闇』(1955)という物語を完成させたのです。
貧しい家庭で育った彼は、様々な職業を転々しながらも、旺盛な知識欲を、リスボンの公立図書館に通って、そこでひたすら本を読み続けることで満たしていました。その結果、25歳で『罪の土地』という小説を書いたということです。しかし、その後は「自分が言わねばならない非常に重要なことなどなにもない」として、約20年間作品を発表しなかったそうです。このような経歴(自らの人生を切り開いてきた人の世界観)が彼の文学に反映していると見ることができます。
この原作を基にした映画『ブラインドネス』(フェルナンド・メイレレス監督、GAGA配給)が劇場公開されました。『コレラの時代の愛』の原作者G・ガルシア・マルケス(小欄No.186を参照)と同じく、ジョゼ・サラマーゴは97年の交渉時から「映画は想像力を破壊する」と、映画化を拒否し続けたということです。メジャー・スタジオが関与しない等の条件で、最終的にはカナダ=ブラジル=日本合作という形をとって出来上がりました。ブラジル人のフェルナンド・メイレレス監督は『シティ・オブ・ゴッド』(02)でデビュー、『ナイロビの蜂』(05)などで話題をさらい、今「最も俳優たちに、その作品への出演を熱望されている監督のひとり」だそうです。
この作品は、今年のカンヌ国際映画祭のオープニング作品としても話題になりました。日本も酒井園子さんが製作に参画し、伊勢谷友介、木村佳乃らが出演しています。幕開けで、とある都会の交差点で車を運転していて視力を失うのは日本人の男という設定です。観る前に相当の覚悟を決めて、そしてこの作品から何かを学んでほしいものです。


*「闇が不安や恐怖を生かすと歌う言葉でもあります」と、訳者が投げかけるフランスの詩人シュベルヴィエル(1884-1960)の詩を引用します。
夕べ、死にかけている鳥のように ゆっくりと閉ざされるその瞼、・・・
人は自分を凝視めるが、自分を知らない。一本の手を掴んだかと思う、と、それはつぎの日の白さだ。
人は夜明けにむかって身をかがめる。(清水茂訳)


*ジョゼ・サラマーゴ『白い闇』 雨沢泰訳 NHK出版 2001年
仲町つれづれNO.210 2008年11月13日(木)
言葉と沈黙-重松清『青い鳥』
良寛(1758-1831)に「戒語」の小編があります。20種、1041項目に及ぶといわれる中に、「ことばのおほき」という戒語があります。「言葉数が多いのは要注意だ、ということ」ですが、興福寺貫首多川俊映さんは「人間いかに言葉のまちがいが多いかということに他ならない」と言います。「言葉数が多くなると、そこにはどうしても不実が混じる」そうですから、日頃から言葉は選びながら、短く語らなければならないのです。「言葉そのものに対応するものなぞ、実はどこにもない。言葉はどこまでも手がかりにすぎず、ほんとうのものは、その言葉を超えたところにある。それがわかれば、言葉のあとは沈黙するしかない。その意味でこそ、実に、沈黙は金なのではないか。」と。世も人も浅薄で深みがないなぞと揶揄される、まさに饒舌の時代、良寛の戒語は「饒舌はいかがなものか、ということ」としてうけとめたいものです。(『Kei』No.82(2008年8月)より)

2001年の直木賞作家の重松清(1963-)の『青い鳥』(『小説新潮』06・12月号)という短編があります。東ヶ丘中学校でいじめ問題に取り組んだ先生と生徒たちの話です。主人公の村内先生は、二学期が始まって9月半ば過ぎに、いじめにあっていた野口君が自殺未遂して転校し、担任が休職してしまったクラスに赴任した臨時教員です。物語は、野口君と一番仲の良かった園部君の視点で描かれています。「村内先生は言葉がつっかえる。国語の先生なのに、『カ』行と『タ』行と濁音で始まる言葉はぜんぶだめだ。」という、いわゆる吃音というハンディをもつ先生は、そういう先生だからこそ、一番大切なこと(本気のこと)だけ、本気の言葉で語りかけるのです。まず、村内先生は自殺未遂した野口君の机と椅子を元の位置に入れさせて、毎朝「おはよう」と声をかけ続けました。次第に「もう誰も笑わな」くなり、それは「先生の言葉が胸に染みたのではなく、どうしていいかわからなくなってしまった沈黙だった。」といいます。「ひとが本気でしゃべっていることを本気で聞くのは、あたりまえのこと」で、さらに、先生の一番大切な仕事は、ただ「そばにいること」、「ひとりぼっちじゃない」ということを伝えることだといいます。この村内先生の言葉は、我々が大人として人として責任をもって、子ども達に言ってやらなければならないということではないでしょうか。
校内には、チルチルとミチルの『青い鳥』(モーリス・メーテルリンクの代表作)から命名された、いじめ相談ポスト『青い鳥BOX』が設置されています。『青い鳥』は「幸せとは自分たちの身近なところにある」のに、それに気づいた直後青い鳥はカゴから飛び去ってしまうという話ですが、村内先生もわずか一カ月で、青い鳥のように遠くへ行ってしまいます。終りの部分で、園部君は「先生を見る。目が合った。先生は黙ったまま、ほほ笑んでくれた。」そして、「いまから書く作文は、わすれない。自分がなにを思い、なにを書いたか、一生忘れずにいたい。」と。それほど、村内先生が生徒たちに残した足跡は大きかったのです。

中西健二(1961-)という俊英の監督が、この『青い鳥』をベースに映画化してデビューします。見終わって、まず「言葉と沈黙」という言葉が浮かびました。俳優の阿部寛が村内先生役を自然体で演じていることに感動もしました。映画では原作にない部分が何か所かありますが、気になったのは石川啄木の詩集です。映画の冒頭、バスの中で文庫本を読む顔の見えない男、それが村内先生とわかるまで、相当時間をかけて始まります。そして終幕部、冒頭同様に、一人バスに乗って文庫本を読みながら帰っていきます。今度はその文庫本が石川啄木の詩集であることがわかります。それも『一握の砂』で、その一編を映し出して終わります。
因みに、石川啄木(1886-1912)は数え13歳で盛岡中に入り、15歳から短歌を作っています。有名な「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」が巻頭を飾る『一握の砂』の中で、「煙」という章がありますが、そこには中学生活の回想が日記の断片のように綴られています。例えば「不来(こず)方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」、「夏休み果ててそのままかへり来ぬ 若き英語の教師もありき」等々。中西監督の意図は何なのでしょう。子どもは昔も今も何も変わっていないということでしょうか。何れにしても、映画は原作の心をつかみ、原作にない部分を持って映画ならではの独自の世界を構築するものなのでしょう。この映画『青い鳥』(日活配給)は、11月29日よりロードショーになります。乞うご期待。


* 重松清 『青い鳥』(8編) 新潮社 2007年
* 谷川敏朗 『良寛の愛語・戒語』 考古堂書店 2000年
仲町つれづれNO.209 2008年11月09日(日)
島尾敏雄の命日に因んで
9月初め、作家島尾敏雄の旧宅が解体されるというニュースを知り、奄美に住む友人に写真を撮って欲しいと依頼しましたが、どうも奄美市が「当面、現状のまま残し(あり方を)再検討する」と方向転換したようです。
この旧宅は、鹿児島県立図書館奄美分館の旧分館長住宅で、1965年に建てられた約60平方メートル木造平屋造りです。初代分館長だった島尾が、1975年に退職して転居するまでの10年間、家族で住んでいました。
島尾敏雄(1917-1986)は横浜出身ですが、第18震洋特攻隊隊長として奄美群島の加計呂麻島に赴任した時、島で小学校の先生をしていた大平ミホと出会って結婚し、以後、奄美との付き合いが始まり、1955(昭和30)年10月に移住しています。
島に本格的な図書館がなかったため、島尾はその誘致に努め、1958(昭和33)年奄美日米文化会館を母体に鹿児島県立図書館奄美分館が設置されました。初代館長になった島尾は、熊本商大で司書講習を受けて資格を取得しました。その時の鹿児島県立図書館長は、作家で椋鳩十という筆名で有名な久保田彦穂です。彼から「地方文化保存のための保存図書館」「調査研究のための参考図書館」「量、質共に備えた貸出図書館」という三つの課題を与えられた島尾は、当時としては先駆的な日曜日開館、港の待合室や船内での読書室の設置、自ら船に乗って離島への移動図書館業務の充実などに尽くしました。まさに、執筆活動と峻別して、図書館人の大先輩として大きな功績を遺しているのです。
島尾は、1976(昭和51)年名瀬市から指宿市に、1977(昭和52)年には茅ヶ崎市に住みますが、1983(昭和58)年娘のマヤさんが鹿児島純心女子短大図書館司書に就職したのを機に、鹿児島県に移住しています。1986(昭和61)年に鹿児島市宇宿町に自宅を購入し、亡くなる三日前に自宅で、書籍の整理中に脳内出血を発症し、意識が戻らぬまま、1986年11月12日に死去しました。
息子で写真家の島尾伸三さん(1948-)の新著『小高へ』(2008)によると、「おかあさんはおとうさんが倒れたという書庫へ私を連れて行くと、おとうさんがこうやって倒れたと言いながら、本の詰まった段ボール箱の上に腰を落として、身体を斜めにしながら、(略)真似てくれました。その足下にはサンダルが放りだされたままで、おとうさんの足が履き直しに現れるのを待っています。最期の言葉は『ミホ、もういやだよ』と、言ったのだそうです」。「本は常に邪魔物にされ」、それを分類と整理して立て直すのは小学校低学年の頃からの自分の仕事だったはずで、「おとうさんがやってはいけなかったのです」、そして、父母の「世界が混同しないように、一階にはおかあさんのものだけ、二階はお父さんと妹のものだけ」と分けていたにもかかわらず、「おかあさんの浸食力が無限大であることを知らされ、自分の配慮の足りなさを」嘆いたということです。さらに大量の本について、「『もう、全部売り払おうか』と、おとうさんが言ったこともありましたが、売ることはいつでも出来る、というのが私の考えで、おとうさんが死んだら古本屋さんをやって生活する、というのが妹の考えでした」とあります。
タイトルにある「小高」は島尾敏雄の故郷です。今の福島県南相馬市にあり、島尾とつきあいのあった作家埴谷雄高(1909-1997)の祖父(相馬藩士)の地でもあります。ここに祖父、父母、妹のマヤが眠っています。この本は写真とともに、その足跡を訪ねる旅が描かれていますが、父、妹、叔父叔母等々への思い出が赤裸々に書かれています

1951(昭和27)年から1955(昭和30)年まで、島尾は小岩に住んでいました。妻の体調が悪く、桜咲く4月7日佐倉へ転居(並木町85)しますが、わずか一か月もしないうちに池袋に移ります。『小高へ』では、「昭和30年4月下小岩小学校に入学して数日で佐倉へ引っ越した」とわずかに書かれています。佐倉での印象は薄いのか、あまり記述はありません。別の本では「丸坊主だらけの池袋第二小学校へ転校した時は、千葉県の桜小学校へ転校した時よりも田舎へ来たような気がしました。」(『月の家族』)とあります。(残念ながら佐倉が「桜」になっています。よくある間違いです。)

*島尾伸三 『小高へ 父島尾敏雄への旅』 河出書房新社 2008年
*島尾伸三 『月の家族』 晶文社 1997年
*日本図書館文化史研究会編『図書館人物伝』 日外アソシエーツ 2007年
仲町つれづれNO.208 2008年11月5日(水)
本のタイトルに惹かれて

草森紳一(1938-2008)の『随筆本が崩れる』(文春新書)を読みました。個人的にも家人に「本が崩れる、病気になる」など言われ続けています。すぐあちこちを占拠してしまい、居間にも本や資料などを床積みして「見っともなくて他人を招けない」と。物書きの人の家で玄関から山積みになっているのを見たことがありますが、「本はなぜ増えるのか。買うからである。」ということでしょうか。
草森さんはというと「とつぜん、崩れる。地震で崩れる。何万冊もの蔵書が、凶器になって、ふりかかる。これは読書の快楽への罰なのか。崩れた瞬間から始まる抱腹、超絶、悪夢の本との格闘技。(カバー)」という状況であり、「これは本が崩れたわけではない。壁の四囲にめぐらした本棚は、入居した時から満杯であったが、部屋のスペースとしてはまだまだ余裕があった。テーブルや椅子をよけて、本や雑誌を乱雑に積みあげていったので、自然現象に近い。」とのことです。
「数年前、風呂場の中に閉じこめられたことがある。」で始まる本文でも、おもしろい話がたくさん書かれています。プロフィールにも「古今東西、硬軟自在、あらゆる分野にわたって書く」とありますが、未刊、未完の帝王といっても過言ではない人です。
雑然と積んである様子は確かに見苦しいでしょうが、当の本人は何がどこにあるか、頭に入っているものなのです。しかし、もしもの時はどうだろう、と考えた場合、「主人が入浴中であって、総崩れした大量の本が浴室のドアをふさいだとしたら、さらに、その人がひとり者で、風呂はマンションの一角、とりわけ奥まったところにあったとしたら、どうなるか。身の毛のよだつような『やわらかい本殺人事件』が生じるのではなかろうか?」(池内紀『〈跋〉やわらかい本』)と、本書では結んでいます。

草森さんは、今年の3月、本当に『随筆本が崩れる』にあるように、本の谷間に横たわって亡くなっていたそうです。「あまりの本の多さに、安否を確認に訪れた編集者でさえ、初日は姿を見つけることが出来なかった」(『読売』7・30付)とか、何か嘘のような、でも本当の話なのでした。
*草森さんの作品は、単行本化されていないものが多いのですが、最近『夢の展翅』も読みました。「展翅」(てんし)とは、昆虫の標本を作る時に内臓を取り除いて、翅(はね)を広げた状態にすることをいうそうです。
この本には9編からなる唐代の詩人「李賀の夢の詩」からなっていますが、あちこちに草森さん自らの夢も挿入されており、プロ野球横浜ベイスターズの仁志選手なども登場します。草森さんは10代の頃から李賀の詩を読み、30代から40年を経て書き残してくれたということになります。中国古典への言及もあり、一種の読書論としても参考になります。

*草森紳一 『夢の展翅』 青土社 2008年
*草森紳一 『随筆本が崩れる』(文春新書472) 2005年 (初出は「文学界」1997年10月号)

仲町つれづれNO.207 2008年11月5日(水)
四季の移ろい

菊香る「文化の日」、平塚市美術館で日本画の「菊花図」屏風などを見てきました。その道すがらの神社では、「七五三」参りの家族の風景が目に入りました。地球温暖化で暖かいとはいえ、旧暦の10月はもう冬です。読書週間も今週で終わりますが、高山や北の地から雪のたよりが届くようになり、ちょっとしたところでも四季の移ろいが感じられます。今日は鷲神社の酉の市(一の酉)です。今年は三の酉まであります。
一昨日見た「菊花図」(4曲1双)は、速水御舟(1894-1955)の描いたもので、金地に花の部分が細密に凛として描かれています。父方が茂原市出身という速水御舟は、早くから才能を開花させた近代日本画の巨匠の一人です。今回の展覧会は15年ぶりの本格的なもので、御舟の生涯でも全700点ほどの作品から、110点ほどが展示されています。見なきゃ損といった展覧会(11月9日まで)です。
佐倉市民音楽ホールの緞帳の原画『佐倉の春』(1983)という作品をご存知でしょうか(右下の写真を参照)。その制作者である伊藤彬さん(1940-)の展覧会も、御舟展と同時に開かれていました。伊藤さんは墨と木炭で、朽ち果てていく枯野、たき火、流れる水などをモチーフに、執拗に移ろいゆく自然を象徴的に表現しています。今回の展覧会は、「モノクロームによる現代の表現」というサブタイトルで、かつて市民音楽ホールと臼井公民館において開催した展覧会(1990)の出品作品以後のものが中心でしたが、『風媒花』第4号(佐倉市教育委員会発行)の表紙に使われている『帰林鳥語』(1989)『春心』(1989)にも、18年ぶりに対面することができました。

*本欄のNo.205で紹介しました浅井忠の『読書』(1902)という作品が、今、上野の東京国立博物館平成館企画展示室で展示されています。特集展示「高野コレクションー浅井忠の作品」として、フランスで描いた油彩画や水彩画の作品20点が展示されています。中でも一番大きく目立つ作品が『読書』でした。『婦人像』(1901)も飾られています。12月7日まで展示中ですので、どうぞお出かけください。
仲町つれづれNO.206 2008年10月31日(金)
移動図書館車「さくらおぐるま」号

10月15日の読売新聞『気流』欄に、佐倉市民の小坂さんの「腰の痛みも忘れる楽しい移動図書館」という投書が掲載されていました。小坂さんの意見は、担当職員にとって大変元気の出るもので、ありがたく受け止めております。
移動図書館車「さくらおぐるま号」は、季節を意識した図書を中心に、約3,000冊の本を載せて、市内10ヶ所のステーションへ月2回づつ巡回しています。(移動図書館の運行について詳細は、こちらをご覧ください。)
例えば、2006年6月には「日本におけるドイツ年」事業の一環として、ドイツ文化センターの協力を得て、ドイツ関連図書を載せて「移動図書館がドイツを運んでくる」プロジェクトを行ったり、利用者の読書傾向に合わせた本を次回までに載せていくなど、利用者に喜ばれる「さくらおぐるま号」でありたい、と日々努力しています。

11月9日まで「読書週間」です。小坂さんのように、秋の夜長にたくさんの本を読まれるということは大変すばらしいことです。今後も、図書館の本をぜひ利用していただければと思います。
図書館は、どんな好奇心でも満たしてくれる、そして日常では味わえない感動をもたらしてくれます。いつまでも読書する姿勢を忘れず、人生を深めて生きたいものです。小坂さん、ありがとうございました。
仲町つれづれNO.205 2008年10月25日(土)
読書あれこれ②-「読書」というタイトルの絵
いつの世も、画家は「読書する姿」を描いています。特に、日本人画家の留学時代の作品に多くみられます。
まず、佐倉ゆかりの浅井忠の滞欧時代の作品に『読書(婦人読書)』(1902、東京国立博物館蔵)があります。この作品は、『婦人像』(1901頃、東京国立博物館蔵)や『編みもの』(1901、京都国立近代美術館蔵)などと同様、当時のオーソドックスな描き方で、光の効果を意識しながら、油絵というものを正面から取り組もうとした姿勢が感じられます。和田英作(1874-1959)の『読書』(1902、石橋美術館蔵)は、浅井忠のそれと色調も構図も異なっていますが、同じモデルを描いたものといわれています。

浅井に対し、外光派の旗手として日本洋画界をリードした黒田清輝(1856-1924)の滞欧時代の代表作にも、『読書』(1890-1、東京国立博物館蔵)があります。10月からの東博の「展示・模様催し物のご案内」の表紙に使われている作品です。朱赤色のブラウスと紺色のスカートを身につけた19歳のマリア・ビヨーをモデルにした、柔らかな光に包まれて、鎧戸のある室内の片隅で本を読みふけっている姿が描かれています。真剣なまなざしでページを捲ろうとしている彼女の表情が、色彩豊かに、かつ、丁寧に描かれています。この作品は、師のラファエル・コランの勧めで1891年のサロンに出品して入選した、彼のパリ画壇デビュー作品であり、日本の美術界にも彼の名を知らしめた記念碑的作品といわれています。
ほかにも、山下新太郎(1881-1966)の『読書』(1908、ブリヂストン美術館蔵)などをあげることができます。
今、六本木の国立新美術館とサントリー美術館の2会場で、日仏交流150周年記念イベントとして『巨匠ピカソ・愛と創造の軌跡』展が開催されています。ピカソ(1881-1973)は、パリのマレ地区に居を構えており、この建物は、ピカソの死後、国立ピカソ美術館として活用されています。今回、2011年までの改修と拡張工事のために、世界巡回展として東京に約170点もの作品がきています。これらは最後まで手元にあった作品で、遺族によって物納された作品が多い上に、これだけまとまって見る機会は、もうないといえるでしょう。
ピカソの作品は、彼自身の自伝であり、彼自身、日記に例えていました。ピカソといえば、特に『画家とモデル』(1926頃)というモチーフが思い出されます。彼の人生は、主に9人の女性の霊感により、たくさんの作品が創造されてきています。今回の展覧会では、5人に主眼がおかれており、彼女らとの愛によって、リアルな表現であったり、官能的であったり、そのつど変化しています。
このピカソにも読書する女を描いた作品があり、今回も4点ほど見ることができます。明るい色彩の『読書』(1932)は「顔や乳房ばかりか、肩や腕などすべての要素が丸みを帯びたマリー=テレーズの特徴的な肢体を巧みにとらえながら、同時に流麗な曲線によって画面を構成しています」。そのほか『読書する女』(1935)、『横になって本を読む女』(1939)、異形の人物のような『読書する大きな水浴の女』(1937)などがあります。
仲町つれづれNO.204 2008年10月25日(土)
「読書」あれこれ①-「読書」という地名
長野県木曽郡南木曽町に、「読書(よみかき)」という地名(元々は予川、三留野、柿其を合わせた当て字?)があります。そこには、近代化遺産に指定されている読書発電所があります。
電力王と呼ばれた福沢桃介(1868-1938、福沢諭吉の養子・女婿)の大同電力により、1923年に水力発電所が建設されました。戦後、関西電力に水利権が継承され、1960年に再開発によって読書ダムが完成したもので、今では読書発電所施設一体(本館、柿其水路、桃介橋、土地)が国の重要文化財になっています。
読書発電所建設のために木曽川に架けられた全長247メートル、日本最大級の木製の吊り橋は、桃介の名を取って桃介橋と呼ばれています。今では、周辺は公園として、また、日本で最初の女優といわれた川上貞奴としばしば逗留した桃介の別荘は福沢桃介記念館としても整備されており、見学が可能なようです。
これからの時期、紅葉が美しいこと間違いなしの場所でしょう。


*小島直記 『福沢山脈 上・下』 河出文庫 1982年
*宮寺敏雄 『経営の鬼才福沢桃介』 五月書房 1984年
仲町つれづれNO.203 2008年10月23日(木)
読書の秋の文化祭
「読書の秋」、文化祭や学園祭、読書週間(10月27日~11月9日)など行事が続きます。
2002年の芥川賞作家である長嶋有さん(1972-)の小説『ぼくは落ち着きがない』を読みました。学園小説で、桜ケ丘高校という学校の図書室が舞台です。この図書室を取り仕切るのが、クラスから一名ずつ選抜される「図書委員」と「教師にかけあって、自発的に図書室の管理運営を執り行う」ためにできた「図書部員」です。扉の見返しいっぱいに「図書室イメージ」という俯瞰図が描かれています。図書室に入ると、まず左側にカウンターと新聞台があり、「隣には円形のディスプレイ台」(テーマ別に本が飾られていて、今月は「オカルト特集」)、「さらに右手には大きな柱を巻くように漫画の棚が四面。奥に書棚が五列と、閲覧の机」があります。細いアルミの柱で支えられた仕切りの壁には『壁によりかかり禁止 薄くて壊れます』と貼り紙があり、その奥は書庫で、図書部の部室でもあります。部屋は細長くて狭く、「手前にテーブルが二つ、縦にくっついていて、図書部員は横並びに座る」しかなく、その空間の中で話が展開していきます。
高校時代、女性が多い文芸部に最終年だけ身を置いたことを思い出しながら、この小説の舞台が文芸部ではなく図書部というところが面白く感じました。著者と同様「少し昔の漫画や学園小説を読むと、学級委員長や生徒会長が学校のエリートやスターのように描かれていることが多く」「いつも違和感をおぼえ」ていたからでしょう。
小説の中の彼女たちは、登校してまず二階にある図書室に寄り、弁当、雑誌や漫画、携帯電話、果ては「ゲーム機やデジカメや、私服やネイルセットやドライヤー」などを置いて行きます。そして多くの部員は「ここで昼食を食べ」、放課後も貸出があって、集まります。多くの高校生にとって、学校で一番大切なのは教室ではなく、部室だったのです。これは、今も昔も変わっていないのではないでしょうか。

「図書館というものは、断じて、人気のある本をてっとりばやく読むための施設ではない。たとえそれが少数でも、どこかの誰が読みたいと願うあらゆる本を、長く保存して未来の読者に託す場所なのだ。」と著者は書いています。また「人って、生きにくいものだ。みんなみんな、本当の気持ちを言っているのかな?」(光文社「新刊案内」のコピー)「誰もがテレビや本や、あるいは先人たちのふるまいや、それぞれの心の中に降り積もった情報を参照して、言葉を外部に発しているんだ」。「上手にふるまえない人は、しんどい。当意即妙に冗談がいえたり、余計なこといわなかったり。『空気読めない』のは生きにくい」。だから『ぼくは落ち着きがない』ということになるのでしょう。
この小説は、光文社のPR誌『本が好き!』に連載されたものです。どこかで聞いたことがあるようなタイトルも、長嶋さんが「青春小説の金字塔、島田雅彦の『僕は模造人間』(’86年)、山田詠美の『ぼくは勉強ができない』(’93年)の偉大なる二作に続く」(光文社「新刊案内」のコピー)ということからのようです。


*長嶋 有 『ぼくは落ち着きがない』 光文社 2008年
仲町つれづれNO.202 2008年10月20日(月)
歴史のかげに「グルメ」あり

昨年末、日本では『MICHELIN GUIDE東京2008』が話題になりました。日本人は何でもランクを付けるのが好きなようで、来月下旬には2009年版も発売されます。辻芳樹さん曰く「百年近くの続いている『ミシュランの基準』という土俵に、自分の味覚の基準を持ち込んであれこれいうのはいかがなものでしょうか」(『本の話』08.2)ということですが。
「歴史のかげに女なり」といいますが、歴史的な事件と食の関係も、まさに「歴史のかげに食あり」(黒岩さん)だそうです。いつの世も、美味い食事で接待すれば、政治も外交もうまくいくというわけで、ある意味では豪華な食事が歴史をつくってきた、ともいえるわけです。
19世紀初めに『美味礼賛』を著したブリア・サヴァランは、「食事は政治の手段となり、人民の運命は宴会において決せられた。これは逆説でもなければ新奇の説でもない。見たままの事実である。ヘロドトスから現代にいたる間のすべての歴史の本をあけてみたまえ。供宴において構想され準備され命令されなかった重大事件というものはいまだかつてなかったこと、謀反すらもその例にもれなかったことがわかるであろう」といっています。

黒岩比佐子さん(1958ー)には、すでに『「食道楽」の人 村井弦斎』など、食についての著作があります。今回取り上げる『歴史のかげにグルメあり』では、幕末から明治までの様々な事件の主役、ペリー米国海軍提督をはじめとした12人について、何を食べたかを追っています。
稀代の美食家で、文士招待会「雨声会」を開いて「風流宰相」といわれた公卿の西園寺公望(1849-1940)は、京都に生まれ、「幼い時から洗練された京料理を食べて育」ち、「最初に触れた外国がフランスで、そこで十年もの歳月を過ごした」結果だといえます。若さもあるだろうが相当な食いしん坊で、給料は「右から左へと、カフェーや料理屋へ流れ去るやうになつた」という記録もあります。1887年に西園寺は「37歳にして、ヨーロッパの要人からグルメのお墨付きを得」たり、国内で活躍してからも、料理と酒への飽くなきこだわりを持ち続け、「グルメぶりを伝える逸話にはこと欠かない」といわれています。晩年、約40年ぶりに第一次世界大戦の講和会議の全権委員としてフランスへ行きますが、その時数人の料理人を同行しています。この目的の一つに「日本料理の饗応による“美食外交”があったことがうかがえる」といいます。結果として「最後の元老」として、時局の対応に当たることを余儀なくされました。太平洋戦争が始まる一年前に91歳で亡くなっています。
「ガーター勲章と宮中晩餐会―明治天皇(2)」という章では、佐倉藩蘭方医の佐藤泰然の五男、林董(1850-1913)が登場します。林董は、1902年、駐英公使として日英同盟を結んだ外交官(後に外務大臣)ですが、明治天皇にガーター勲章が授与されるよう働きかけを行っており、1902年2月20日、国王の名代としてアーサー王子が来日し、明治天皇にガーター勲章が授与されました。
明治政府は、天皇に“皇室外交”という新しい役割を期待し、宮中晩餐会では日本料理ではなくフランス料理を供するようになりました。当日のメニューは不明ですが、西園寺公望首相主催のアーサー王子への饗応のメニューは、雑誌(『月刊食道楽』)に掲載されているということです。それは、日本橋浜町の花屋敷常磐屋製の「王子の口に合うように献立から刺身は除」いた日本料理とゲイシャの宴席だったそうです。前述した西園寺が、フランス料理ではなく日本料理で接待したというところに彼の美学が感じられます。

*黒岩比佐子 『歴史のかげにグルメあり』(文春新書) 文藝春秋 2008年
*ブリア・サヴァラン・関根秀雄訳 『美味礼賛』 白水社 1996年 
*ブリア・サヴァラン・関根秀雄訳『美味礼讃』上・下(ワイド版岩波文庫)1984年  
*『MICHELIN GUIDE東京2008』 日本ミシュランタイヤ 2007年
*辻芳樹 『美食のテクノロジー』 文藝春秋 2008年 

仲町つれづれNO.201 2008年10月17日(金)
まて火箸わたしてサンマ焼いて食い 柳多留(1828)

秋といえば、さんまの季節。さんまはスマートな魚で、背中は青く腹側は銀白色、体形に少々そりがあり、日本刀を思わせることから、「秋刀魚」とあてて書かれます。直火で焼くと、火に落ちて燃えた脂の香りがさんまに移って、風味が増すそうです。塩焼きにすれば難しい骨まで食べられ、これがまた長寿効果を高めているとか。
今年のさんま漁は、燃料高騰と9月に入ってからの豊漁の影響で、卸売価格が8月の約四分の一に急落するなどの問題を抱えて「悲鳴の秋」だそうです。(さんまの年間漁獲量は約30万トン〈農林水産省統計〉、一人あたりのさんま消費量は年間約4匹とのこと。)

その昔、コロンビア大学の大学院生であったジェラルド・カーティス(1940-)が、日本語の勉強(1年間)のために初めて日本の土を踏んだのは、1964(昭和39)年7月、ちょうど東京オリンピックの年でした。今振り返って「不思議に食べ物の記憶が多い」といい、まず、日本のカレーライスで洗礼(食べ方)を受けたそうです。杉並区西荻の四畳半の下宿生活、外食で頻繁に通った大衆食堂では、鯖や秋刀魚を食べて口に合ったといいます。その後、彼の食生活は革命的に変わり、「今でも高級料理より、焼き魚、ほうれん草のお浸し、味噌汁、お新香と御飯があれば幸せだ」ということです。
そんな彼が「40数年の体験をもとに、日本がどういうふうに変わってきたか、この社会にどういう注目すべき特徴があるのか、それにちょっと変わった経歴を持つ外国の『知日派』の学者として、どういう経験をしてきたか」を語ったのが、『政治と秋刀魚』という本です。
(さんまの旬が始まった頃本の予約をしたのですが、やっと手元に届いて今読んだところです。)
混迷の度を深める日本の政治について、わかりやすくその死角を指摘しています。欧米から輸入した概念が必ずしも日本の現実に合わないというようなことも、例えば「小さな政府」のために公務員数を削減するというのは的外れで、「ほかの国と比べて日本の国家公務員の数は少ない」と。「問題は人数ではなく、官僚の権限である。」といいます。「日本は規制の多い社会で」、日常生活のなかでも、(一例を挙げるなら)あちこちで歩きタバコの禁止などが広まったように、「マナーからルールへ」と社会構造がかわっていくことによって、ルールが守られているかどうかを監視するために、逆に数を増やさなければならないといった分野もでてきます。
彼には、衆議院選挙の立候補者の選挙事務所に入り、舞台裏を活写した『代議士の誕生―日本保守党の選挙運動』(1971)など、日本の政治についての著作もあります。与野党の政治家対決ではなく、「どのリーダーにとっても有権者を説得することが一番大事な仕事であって」、そのための努力と戦略が必要で、「新しい競争力のあるダイナミックな政治をつくることが必要である」。そのためにも、「思考の改革」を行い、「もう一度構造改革を考えるべきだと」いいます。今「日本人は日本に自信を持って、思い切って日本を変えていくべきだ」と締めくくっています。

*ジェラルド・カーティス『政治と秋刀魚―日本と暮らして四五年』日経BP社 2008年
仲町つれづれNO.200 2008年10月10日(金)
西脇順三郎にとっての故郷とは
 或る秋の午後 小平村の英学塾の廊下で 故郷にいとはしたなき女
 「先生何か津田文学に書いて下さいな」といった その後その女にあった時
 「先生あんなつまらないものを下さって ひどいわ」といはれて がっかりした  ・・・(略)・・・

 むさし野に秋が来ると 雑木林は恋人の幽霊の音がする 
 檪(くぬぎ)がふしくれだった枝をまげて 淋しい 古さびた黄金に色づき
 あの大きなギザギザのある 長い葉がかさかさ音を出す

 ―〈『旅人かへらず』 より〉

1947年に発表された西脇順三郎の第二詩集『旅人かへらず』の43章に所収されている一篇です。津田塾がでてくる部分を取り上げてみました。自分の内面に潜むもう一人の人間、「通常の理知や概念では割り切れない人間」を「幻影の人」と呼び、「女」に近い存在である、と「はしがき」に書かれています。全編にわたり、哀愁感、無常感、寂静感といった、人間にまつわる知情意の世界があります。
西脇順三郎(1894-1982)は英文学者で、日本現代詩の黎明期にモダニズム文学をいち早く紹介するとともに、「西洋的教養と日本的感性を融合させた独自の詩境を築き上げた」詩人でもあります。(西脇は絵の才能にも恵まれ多くの作品が遺されています。)
西脇順三郎の詩的活動は40年以上に及ぶものですが、最初は40歳の時ロンドンで英文詩集を刊行しています。第二詩集『旅人かへらず』が書かれるまで、14年間のブランクがあります。戦争中に郷里の新潟県小千谷市に疎開し、鍵谷幸信によると「日本文学の古典を読み漁る」とともに「日本の風土自体についても、深い関心と愛着を寄せるように」なり、168章からなる長編組詩『旅人かへらず』の構想が生まれたといわれています。戦後、普通の詩人なら詩想が枯れてしまい止めてしまう時期から、西脇の創作力は旺盛を極め質量ともに充実しています。
太田昌孝さん(1959-)は、2002年から約5年半の間に計12回にわたり、小千谷でフィールドワークを試みて、「西脇が故郷、小千谷から滋養として吸収したと考えられるものとは何か?」を『西脇順三郎と小千谷』という本にまとめています。サブタイトルに「折口信夫への序章」とありますが、西脇と民俗学者(柳田国男の高弟)で歌人(釈迢空)でもあった折口信夫(1887-1953)は、昭和初期の慶応義塾の教授同士という接点があり、太田さんは「西脇の民俗性が折口との関係の中で如何に揺らぎ、そして符合して行ったか」を明らかにし、「その相関の中でスパークしたある種の閃光を見出」していこうという考えも持っています。この本は、その意味ですべての始まりといえます。
西脇にとって
故郷とは、まさに〈日本の再発見〉に好都合な、スローライフの時間だったのでしょう。

*小千谷市は、東京から約203キロに位置し、人口約四万人。八海山系の山ゝに囲まれ、信濃川が流れ、河岸段丘上に発展した街で、小千谷縮の産地でもあります。西脇家も縮の販売で尾張、美濃に重要な販路を有していたということです。代ゝ当時の小千谷銀行の頭取も務めています。西脇の大叔父が福沢諭吉の弟子になって以来、慶応義塾へ行くようになったということです。ここの雪深い里が内包する豊穣な祭祀や伝承といった民俗的要素、そして越後三山の威容が埋蔵する、山岳信仰(修験道)に連なる宗教的文化が西脇の精神的基層のように考えられます。
西脇順三郎は西脇本家の分家「西清」、西脇清一郎は10代目を継ぐ立場であったが、分家したということです。詳しくは、父親が西脇と同郷で、10代の頃から接している工藤美代子さん(1950-)の『寂しい声・西脇順三郎の生涯』を参考にしてください。
*偶然ながら、姫路文学館において、10月3日から特別展『永遠の詩人 西脇順三郎―ニシワキ宇宙とはりまの星たち』が開催されています。

*太田昌孝  『西脇順三郎と小千谷ー折口信夫への序章』 風媒社   2008年
*西脇順三郎 『定本西脇順三郎全集』全12巻・別巻   筑摩書房  1993-4年
*西脇順三郎 『日本詩人全集23』     新潮社   1962年
*工藤美代子 『寂しい声・西脇順三郎の生涯』      筑摩書房  1994年
仲町つれづれNO.199 2008年10月4日(土)
今東光夫人-今きよさんの訃報
去る9月19日、今東光夫人であるきよさんが亡くなられました。享年86歳でした。
先月25日に、さくら斎場にて、寛永寺一山圓殊院住職が導師を勤められ、中尊寺、天台寺、天台院等の住職、弟子の瀬戸内寂聴尼も列座され、参列した方の話ですと、ごく内輪の葬儀が行われたということです。
毒舌和尚をして「この世で一番畏いのは、かあちゃんだよ!」と言わしめた、糟糠の夫人きよさんでしたが、1977年9月19日に和尚が入寂されて後も、ずっと佐倉の自宅を守り支えて31年、そして、今東光(1898-1977)の祥月命日と同じ9月19日という日に、夫の元へ旅立たれたのです。何とも見事な、潔い往生であったといえます。法号は「慈観院闊朗清妙大姉」だそうです。
当時交友のあった画家の関根正二、東郷青児、川端康成などの作品に関心があった私は、友人に連れていってもらって、一度だけお宅におじゃましたことがあります。入るなり、昼間からコニャックを出され、それを頂きながら話をしたことを、今、思い出しています。
今東光が、生前に佐倉市長選などの応援演説に立たれたことや、瀬戸内寂聴さんとの交流について、以前に紹介しました(小欄No.72を参照)が、今東光は、直木賞も取った作家、天台宗大僧正の僧侶、政治家(参議院議員)、そして画家として、八面六臂の活躍、博覧強記で幅広い交友関係で知られた和尚でした。
きよ夫人はというと、私の友人は佐倉の自宅に月に1度は訪ねており、2年前に入院されて、次第に記憶が遠のかれてからは、アルバムを持って出かけていました。「奥さまは大変磊落な方でした。先生にお線香を手向けた後は必ず酒盛りとなり、奥さまは庭の菜園などから肴をつくり、今家に送られてくる各地の銘酒を各種の酒器に注いで味わうのが常であった。奥さまはいつも健康であり、『80年余、歯医者以外に医者に行ったことがない。健康保険税は何のために払っているのだろうか??』とおっしゃっていた」と思い出を語ってくれました。

市では、かつてきよ夫人から香典の一部を寄付いただき基金として積み立てて、郷土資料の購入に充てていた時期もありました。また、今東光文学館設置の動きもありましたが、残念ながら実現しませんでした。このまま幻に終わってしまうのでしょうか。
今東光は、大阪府八尾市の天台院住職として四半世紀を八尾で過ごしたこと、いわゆる「河内もの」で作家としての不動の地位を築いたこともあってなのでしょう、今東光が第二の故郷と呼んでいた大阪府八尾市では、何かと熱心に今東光の業績を称える事業を進めてきているようです。
生前から今家とおつきあいのあった編集者の島地さんのコメントなどが、週刊新潮の「墓碑銘」欄に掲載されました。遅まきながら、拙文を添えさせていただきました。改めまして、ご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。在りし日のお姿を偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌

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