| 仲町つれづれNO.198 2008年9月26日(金) |
| 石田波郷と佐倉 |
先月カウンターにて「波郷が佐倉に来たということがわかる記述がないか」という質問を受けました。調べたところ、波郷は1943(昭和18)年9月23日に召集令状を受け、佐倉連隊に入ったということがわかりました。しかし、波郷が佐倉へいわゆる吟行に来たかどうかはわからず、今の時点ではそれらしき句も見当たりません。県内では、鈴木真砂女の出身地である鴨川や我孫子などには来ているようで、沼の句がありましたが、残念ながら印旛沼ではなく、手賀沼でした。
石田波郷(1913-1969)は、松山の出身で、松山中学の同級生である俳優の大友柳太朗の勧めで俳句を始めました。その後上京して水原秋桜子(1892-1981)に師事し、1937年俳誌「鶴」を創刊・主宰して、戦後の俳壇をリードしています。(松山は、前号で紹介した正岡子規や寒川鼠骨、高浜虚子、河東碧梧桐などを輩出した、近代俳句のメッカであります。)
波郷が佐倉連隊に入った当時は31歳、「結婚一年余の妻と生後四か月の子を残し、俳句への強い思いを抱いて」の入隊であったということです。9月末に佐倉連隊に入りますが、10月には北支(山東省臨邑)に派遣されてます。戦地で左湿性胸膜炎を発病し、1945年1月22日に博多に帰還して同年6月17日兵役免除となりました。以後、生涯を闘病と療養で過ごします。「波郷を一言でいえば、俳人であり、病人であった」(石田修大)とのことです。
波郷が残した句集16冊のうち、1943(昭和18)年前後の句集は『風切』(昭和14年から18年の318句)と『病鴈(びょうがん)』(昭和18年から20年の111句)です。波郷の代表的な句集の配列には「重複する部分はほとんどなく、かつ、脱落する期間もない」(村山古郷)ということです。『病鴈』の巻頭で「病鴈の夜さむに落て旅ね哉 芭蕉」を掲げて序句とし、集名もここから取っています。戦病の身をも意味しているようです。
波郷が召集令状を受けた時、「留別」と前書きして詠んだ句があります。
雁や のこるもの みな美しき
また、その時「此の刻に当たりて」という一文を鶴の人たちに遺して応召しています。そこでは「新興俳句の功罪を茲に今一度詳述するいとまはないが、俳句の生命である『新しさ』を、散文的な西洋的リアリズムに求めて失敗した新興俳句」について、袂を別けた理由を述べて、「我々の俳句の韻文精神徹底道はこの日から始まったのである」と書いているようです。弟子の星野麥丘人(1925-)は「人も物もすべて美しく見えてきた波郷ではあったが、なおかつ現代俳句に対して韻文精神の徹底を唱えてやまなかったのである」と解説しています。(『波郷俳句365日』)
佐倉連隊に入隊する前日(9月29日)、別離の挨拶にきた同人たちと盃を酌み交わした時の句もあります。
鶏頭に隠るゝ如し昼の酒
「繁りっぱなしの鶏頭で足の踏み場もない庭に雨催ひの空が暗かった」と書いているようです。波郷はどこにいても俳句のことを考えており、この句も、戦線で入院中に訂正されたものだということです。
また、入隊後2、3日して、波郷は中隊の見習士官室に呼ばれたそうです。週番の根岸見習士官は「雲母」の俳人であり、君は波郷であろう、ついては俳句の話を聞きたいといってお茶まで出してくれたとか。また、中国へ出発する前夜に「途中ながいですから、読みながら行ってください」と餞別に虚子編『新歳時記』と一茶の『七番日記』をもらい、大切に持っていたが、読んでみる暇はなかったということです。
芋の秋七番日記読み得るや
息子の修大さんの本によると、「日本を去る前、家族の面会が許され、母は私を背負って連隊を訪れ」、最後の別れをしたそうです。「連隊の片隅であろう、丸いテーブルに差し入れの果物や飲物を広げ、親族が椅子にかけた写真」が残っていると書いています。内地を出発する時に詠んだといわれる句もあります。
出発つや 疾風の如く稲雀
輸送中の車中からのものでしょうか。慌しい出発、「内地の山河はこれで見納めになるかもしれない」、そういう境地になるのが普通なのに、この句は「そういった思いはいっさい排除して、句のリズムを強く全面に押し出す叙法」をとり、「自身の感情に捉われず、きっぱりと言い放っている態度に波郷俳句の真骨頂をみる」(星野麥丘人)、「非常に際しての自分の思いを巧みに吐露していることもわかろう」と解説されています。
『波郷俳句365日』のあとがきで、星野さんは、波郷の片言隻語の中で最も有名なものとして「俳句は文学ではないのだ。俳句はなまの生活である」とし、「俳句を作るといふことはとりも直さず、生きるといふことと同じなのである。」(『鶴』昭和14年1月号初出)という一文も「記憶されてよかろう」としています。袂を別けたホトトギス派の花鳥諷詠に対し、人間探究の俳句を深化させたことが、波郷の大きな功績といえるのでしょう。これを機会に、波郷の文章を読み、句に接し、より深く鑑賞ができればと思います。
* 『石田波郷全集』全9巻 角川書店 1970年―1971年
* 星野麥丘人編著 『波郷俳句365日』 梅里書房 1992年
* 石田修大 『わが父波郷』 白水社 2000年 |
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| 仲町つれづれNO.197 2008年9月18日(木) |
| 子規と佐倉②-糸瓜(へちま)忌に寄せて |
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(前号より続く)
子規と浅井忠の二人は、1892(明治25)年前後に、陸羯南(新聞『日本』社主)が引き合わせたようです。東京は下谷区上根岸町63番地(現・根岸小)と82番地(現・子規庵)に住む近所同士でした。「双方で同じ根岸を二度三度引越すつど段々に近くなり、しまいには小さな四つ角を二つ折れて互いに家の裏手へ廻って行くともう庭づたいに声を掛け合って済む仲だった。」のです。
浅井は「子規さんと同日に死にたい」と洩らしていたが、3日早く、1908(明治41)年12月16日に容態が変わったということです。そして偶然ながら、子規の「糸瓜忌」と同じ19日に南禅寺金地院墓地に葬られました。子弟は「黙語忌」と呼んでいます。秦さんの作品『糸瓜と木魚』では、「誠忠院黙語端然居士の墓碑は、『木魚先生』を記念して愛らしいような木魚を彫刻した御影の台石上に据えられ、香花は後を絶たない。」で終わります。
1900(明治33)年1月26日には、子規庵で浅井の渡欧送別会が開かれました。そして、1902(明治35)年9月19日、子規享年36。その時フランスから帰って間もなかった(8月19日神戸港に着き、8月27日子規宅を訪問)浅井忠は47歳でした。因みに漱石は36歳、俳句の高浜虚子が29歳、河東碧梧桐が30歳、短歌の伊藤左千夫は39歳、長塚節は24歳でした。
*現在の台東区根岸には、子規を中心として、中村不折、香取秀真、夏目漱石、伊藤左千夫等々の交友関係がありました。以前に、この欄No.107で漱石と浅井忠について書きましたが、この二人もこの地で友情ができたのです。
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*以前、子規の自筆稿『寒山落木』巻三を読んでいて、佐倉と前書きされた「常磐木や冬されまさる城の跡」という句を見つけた時は興奮しました。そして当時根岸の子規庵に住む弟子の寒川鼠骨(1875-1954)の親族に自筆の使用の許可を得ようと通った末、なんとか写真のような句碑を佐倉城址公園に建てることができたのです。碑自体は数多くあれど、本来自筆でなければと考えていた私にとっても、様々に思い深き子規なのです。
*秦恒平 『月皓く』(「糸瓜と木魚」所収) 集英社 1976年
*正岡子規 『子規全集』第1巻~22巻・別巻1~3 講談社 1975~9年 |
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| 仲町つれづれNO.196 2008年9月18日(木) |
| 子規と佐倉①-子規の命日「糸瓜(へちま)忌」 |
図書館近くの民家前に、朝顔とともに植えられて、見事に育った20センチほどのナタ豆がぶら下がっていました(写真参照)。そのナタ豆を見て、19日が正岡子規(1867-1902)の命日「糸瓜忌」だと思い出しました。この「糸瓜」は、1902(明治35)年9月18日に書かれた絶筆3句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」からとられたものです。
初物好きの子規は、明治27年、開通したばかりの総武鉄道で佐倉に来ていますが、浅井忠、香取秀真など佐倉ゆかりの人々との交遊もありました。
秦恒平(1935-)さんの『糸瓜と木魚』(『すばる』21号、1975年9月)という中編の作品があります。秦さんは、1969年『清経入水』で太宰治賞を受賞、東京工業大学教授も勤められました。自著のうち絶版になったものを「湖(うみ)の本」として刊行されていて、以前に直接買いもとめたことがあります。 |

(2008年9月17日撮影)
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この『糸瓜と木魚』は、正岡子規と佐倉ゆかりの浅井忠(1856-1908)について書かれた小説です。主人公の「私」の大学時代の卒論テーマが「浅井忠と正岡子規」という設定であり、「傘が重いような雨だった。」という出だしで始まります。K大学工芸学部図書館で開かれていた三日間だけの洋画展覧会の最終日に出かけた「私」は、会場いっぱいにざあざあと雨が鳴り、「どの画家のどの画面も一様に鈍色に沈んで見える中で」、浅井忠の絵の前を動けなかった、とあります。その絵は「病子規が床に腹這い枕辺の花や果物籠を写生している姿を見入れて描いた」もので、『子規居士弄丹青図』という「小品画と言うも当たらない略筆のスケッチ」だったとしています。
主人公が見た絵は、雑誌「ホトトギス」子規追悼集(第6巻第4号、1902(明治35)年12月27日発行)に掲載された木版刷りの『子規居士弄丹青図』の下絵に相当するものだったようですが、浅井の絵に心を惹かれていた「私」には、当時黒田清輝の絵に比べて旧派と呼ばれ、古いとされていた浅井の絵より、「黒田の絵こそもうどこか古びて見えた。」ということです。
「私」が最初に浅井忠の名を聴いたのは中学1年の秋であり、当時、近所の家で見た短冊に、浅井忠の「雨の日の雨うつくしき秋ざくら」という句が書かれていて、「私には、忘れえない一句だった」と書いています。
この作品は、この絵の絵解きを通して「画家浅井忠のいわば正岡子規論」という形式で、あくまでも「フィクション」として展開されています。もう一つのテーマである「写生」の徹底についても、子規文学の眼目といわれる「鶏頭の十四五本もありぬべし」(1899)という句と、浅井忠の「鶏頭」の絵が重ねられるのは、しばらくしてからのことになります。(次号に続く) |
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| 仲町つれづれNO.195 2008年9月14日(日) |
| アメリカの魂をみる「荒野へ」 |
=Happiness is Only Real When Shared.=
映画『イントゥ・ザ・ワイルド』(ショーン・ペン監督、2007)は、大自然の映像美に圧倒されっぱなしの148分で、長さを感じさせない見事な作品でした。かつてアンカレッジ経由でヨーロッパへ行った時代に、機内や飛行場からみたマッキンレー山(6191m)の美しさに感動したことも思い出しました。
原作は、ノンフィクション『荒野へ』(原題:『INTO THE WILD』1996)という作品です。作者のジョン・クラカワーは、シアトル在住の登山家であると同時にジャーナリストで、アラスカにも20回ほど行った経験を持つ人です。冒頭の「作者ノート」によると、「1992年、東海岸の裕福な家庭に育った若者が、ヒッチハイクでアラスカまでやってきて、マッキンレー山の北の荒野に単身徒歩で分け入」り、4ヶ月後に彼の腐乱死体が発見されたことについて、「アウトサイト」誌の編集長から原稿依頼がきたのがきっかけだそうです。
1993年1月号に原稿が掲載された後、1年かけて綿密な追跡調査をしてまとめた作品は、「若者が餓死した顛末」と、著者の人生に似ている点があることが気になり、「アメリカ人の想像力をかきたてる荒野の魅力」「若者たちを惹きつけて止まないきわめて危険な行為」「父と息子の絆」といったような「広範な問題へと広がっていった」ということです。また「公平な伝記作者であろうとするつもりはない」あくまでも「個人的見解」であると書いています。
この若者は、1990年夏にエモリ―大学を優等で卒業したクリストファー・ジョンソン・マッカンドという名前で、実在した人物です。卒業直後に名前を変え、預金を全額慈善団体に寄付し、「自分の車と持ち物を放棄して、現金も燃やして、全く新しい人生、社会の末端に身を置き、新鮮なすばらしい体験をもとめて北アメリカを放浪するという生きかたに身を投じた」そうです。ロシアのレフ・トルストイ(1828-1910)の著作に心酔していた彼は(この本にも引用文が出てきますが)、「禁欲主義的なモラルに厳格な」生き方をまねるようになり、「彼がもとめていたのは、まさしく危険であり、逆境であり、それにトルストイ的な克己であった」ようです。彼は決して人生に絶望して、自ら死を選んだのではないのです。つまらない1、2のミスがなかったら、森から出てきたであろうと思われます。
彼は、最後まで日記(ほぼ採集した植物と殺した獲物の記録)を書いていました。最後はルイス・ラムーア(ウエスタンの大御所で国民的作家)の回想録『放浪男の教育』の最後の頁を破り取り、白紙の部分に『ぼくの一生は幸せだった。ありがとう。さようなら。皆さんに神のご加護がありますように!』という短い別れの挨拶を書いていたということです。彼が読んだ最後の本は、ロシアのボリス・パステルテーク(1890-1960・ノーベル文学賞受賞)の『ドクトル・ジバゴ』(1958)だったとも。彼の「真の人間への『巣立ち』であったにちがいない」(訳者あとがき)人生に対しては賛否両論あるでしょう。事実アメリカにおいては賞賛と非難があったわけですが、その評価は読者に委ねられています。
*映画『イントゥ・ザ・ワイルド』について、ショーン・ペン監督は、マドンナの元夫で、2003年『ミスティック・リバー』でアカデミー賞主演男優賞を受賞するなど、俳優としても評価されています。この作品は、監督として4作目ですが、ショーン・ペンは10年前に一度映画化を試みたものの、クリスの母親の反対で企画が立ち消えになったということです。その時レオナルド・ディカプリオを主役候補にあげたそうですが、今回のクリス役はエミール・ハーシュという期待の23歳です。彼は4ヶ月間の監督との生活で多くのことを学び、ロケでは「アメリカの魂」の断片を目のあたりにすることができた、とインタビューに答えています。(『NEWSWEEK』08/9/10)
*ジョン・クラカワー・佐宗鈴夫訳『荒野へ』 集英社 1997年 |
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| 仲町つれづれNO.194 2008年9月7日(日) |
| 英治忌にちなんで② |
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吉川英治を偲んで、
『わたしの吉川英治―その書簡と追憶』(1963年)を取り上げます。
池島信平のあとがきによると、この本は、吉川英治の百か日に謹呈版として「千五百部刷って吉川さん有縁の方々に配ったもの」が好評で、一部改訂を加えて市販版(340円)が作られたそうです。
昭和19年から昭和37年の間に、作家や編集者、画家などとやり取りされた手紙文、弔辞、親子で交わされた手紙類、そして、70枚に及ぶ文子未亡人の「お父さま、ごめんなさい」という一文、最後に石川七郎主治医の「病歴と解剖所見」と年譜が添えられています。なかなか良い本です。
文子未亡人の一文の、終りの部分を紹介しておきます。
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―みずからを『生涯、一書生』と称しておりました通り、いつまでも書生っぽみたいな人でしたし、身体は実に大切にし、良いといわれることはたんねんに続けるたちでしたので、主人に置いてゆかれてしまうなどとは、まだ夢にも、思っていなかったわたくしなのでございます。
主人は言っているでしょう。「日常の生活の中で、ぼくが示して来た行為、ぼくが語った言葉・・・、それがぼくの“心”なのだよ。その、ぼくの“心”を時々は思い出し、ぼくの言葉通りに、これからも生活していっておくれ」と・・・。この主人の気持ちのように、子供たちへの愛の中で、わたくしはわたくしの残された生命を、懸命に生きぬいてゆくつもりでございます。
*わたしの吉川英治刊行委員会編『わたしの吉川英治―その書簡と追憶』 文藝春秋 1963年
*松本昭 編 『われ以外みなわが師―私の人生観』 大和出版 1992年 |
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| 仲町つれづれNO.193 2008年9月6日(土) |
| 英治忌にちなんで① |
「いざさらば暑さを忘れ 盆踊」 良寛
「ゲリラ豪雨」という新語を生みつつ、ひと雨ごとに秋の気配が感じられるようになりました。長月になると思い出すのは、7日の吉川英治の命日です(泉鏡花の命日も同じ日です)。1962(昭和37)年9月7日午前9時9分、「あえぐように、大きい呼吸を四つ五つしてから、永久に、その呼吸を止められた。同時に心臓は、永い酷使から開放されたように、その働きを止めた。」(主治医石川七郎)という吉川英治は、満70歳で亡くなっています。今年は第30回英治忌で、46回忌になります。青梅市の吉川英治記念館では企画展「吉川英治の家族愛」が開かれています。この日、普段は入れない草思堂母屋で茶会も開かれます。 |
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吉川英治(1892-1962)は横浜の人ですが、佐倉ゆかりの人でもあります。吉川家は代々小田原藩士で、英治の母いくは旧佐倉藩士で、臼井町長をしていた山上弁三郎の娘(四女)でした。「娘時代は、親戚先の芝新銭座の攻玉舎近藤真琴氏に預けられて、勉学教養など」の生活を送った、と英治自筆の年譜に書かれています。(写真は佐倉市江原台にあった山上家跡に建てられている碑です。)
母いくは、芝新銭座に海軍兵学校を創始した近藤真琴の姪にあたり、肌は白く、7人の子供を産んでなおしみ一つなく、「自分は塩をなめている貧乏の底にあった日でも、長い袂と紫の袴で育った山の手の一明治の娘のゆかしさは失っておられなかった。」ということです。「山上家は吉川家にくらべて相当家格が高かったらしく、夫婦喧嘩などがはじまると、英治の母は泣きながら、私は仲介口にだまされて来たのだ」とも。(仲町つれづれNO.93でも、英治忌について書いていますので、ご覧ください。)
後に文学者となっている人は、たいてい早熟で、幼少の頃から多読の習慣があるようです。吉川英治も6歳の頃から、母の感化もあり、巌谷小波の『世界お伽噺』を読み始めています。小学校(8歳)で放課後に英語を習ったり、近所の塾では漢学を学び、『詩経』『十八史略』などを読んでいます。また11歳の頃には、近所に子供向きの貸本屋があり(一冊一銭)、英治は常連で、後に一銭持って行って一冊借り、歩きながら読んで、読み終えるとすぐ引き返して、「おばさん、これもういつか読んだ本だからほかの本と取り換えてくんない」といって、別の本を借りていたそうで、「あんただけは一銭で二冊貸してあげるから、あたしを二度も立たせないでおくれね」と言われた、という話です。学課以外の読書欲はますます盛んになり、大阪本といわれる粗末な講談本で、『自転車お玉』、『鼠小僧』、『田宮坊太郎』等や、その他何でも手当たり次第に読んだようです。「これらは普通低俗な本ということになっているが、実は日本人の文学的常識の根幹をなすもので、たいていの文学者はこういう本を濫読することによって、教養の基礎を築いている」(杉森久英)と言われています。英治の場合、半年もたつと貸本屋には少年の読む本がなくなってしまったということです。また、この頃から投稿熱が高まり、雑誌『少年』に作文が入選するなどしています。
英治が小学校を終える頃、彼の家は悲境のどん底に落ちて、奉公に出されてしまうのです。彼は「丁稚の着る絣の着物に角帯をしめたときほど悲しかったことはない」と、後年記しています。また「母は育ち盛りの子供を6人(末子は死亡)も抱えて、生活にあえいでいた。彼女は若いときから身だしなみがよく、起きぬけに手早く化粧して、素顔を人に見せぬ人であったが、このころはその習慣もなくなった。それでも、もともと色が白かったので、近所では際立って美しく見えた」と描写しています。英治の母の父が危篤になったという電報を受け取っても、「父は母が駆けつけることを許さず、母は『お母さん』は親の臨終にも行けない罰当たりなんだよ」と終日泣いていたとも。成人になる頃まで貧窮の経験をもっている英治は、苦しんでいる人や悩んでいる人に対する同情心が厚く、財布をはたいて分かち与えることが常であったそうです。
1956(昭和30)年正月から、『文藝春秋』に『忘れ残り記』を執筆しています。これは21回に及び、「四半自叙伝」というサブタイトルの示すとおり、作家として自立するまでの苦闘の足跡になっています。
英治が30歳の時、母いくは1921(大正10)年6月29日亡くなりました。致命的な病原は腸結核で、英治は「母の死は、なお語るに忍びない。」と書いていますが、母の最後の言葉は「よけいな事をお云い出ない。」という「叱咤であった」ということです。それまで「母に叱られた覚えは、二度か三度しかない」のに、やはり最後まで母は母でありつづけた人だったのです。英治は「今も骨身にこたえている」と書いています。
結びに、英治が書斎の短冊かけに自分の言い訳としてかけていた歌を(自らの自戒の意味も込めて)―
ちゝはゝの 忌もおこたりて働けど やすらぎ給へよき子とならむ
*『吉川英治全集』全48巻、別巻6巻、補巻3巻 講談社 1966~1970年
*吉川英治 『忘れ残り記』(新装版) 六興出版 1979年
*杉森久英 『吉川英治伝』(『現代日本文学館32 』文藝春秋 1967年所収) |
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| 仲町つれづれNO.192 2008年8月31日(日) |
| 林芙美子と建築家白井晟一 |
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」
尾道駅の近くにある「林芙美子像」のしゃがんだ姿が思い出されますが、身長143センチの小柄ながら、林芙美子のパワーはすさまじいものだったようです。単に家(住居)に関することに留まるものではなく、従軍記者として、パリをはじめ、中国、南方へと飛びまわってもいました。
太田治子(1947-)さんの本『石の花』(筑摩書房)は、サブタイトルに「林芙美子の真実」とあるように、林芙美子の評伝です。そもそも、太田さんは太宰治と愛人(「斜陽」のモデル)との間の子ですが、昭和23年秋に太宰が入水して間もなく、「養女に欲しい」と思ってやってきた「林芙美子に抱っこされたことがあった」ということです。そのためもあって、林芙美子に親近感を持っていたということです。
太田さんは、彼女が太宰に特別な感情を持っていたのではないかと見ています。敗戦後、「持病の心臓弁膜症が次第に悪化していく中での芙美子の死の予感は、太宰の死と共にいよいよ深まって」自分を「養女にして太宰の分までふんばって生きていきたいという思いが、強くわいてきたとも考えられる。」と書いています。男女の心のありかが、たえず死に向かっている様を描いた『浮雲』は、養女を断念した翌年(1949年)から連載が始まっています。太田さんの林芙美子への熱い思いは、ここから始まったということでしょう。
林芙美子のデビュー作は『放浪記』で、昭和5年にベストセラーになりました。林芙美子の作品や彼女自身の生涯は、3人の男との恋愛が大きく影響しているとしています。それは建築家の白井晟一であり、新聞記者で『晩菊』のモデルといわれる高松棟一郎、同じく新聞記者で歌人の坪田耕吉だとして、綿密な取材を重ねながら、パリ時代の作品や、中国、南方での従軍ルポ、書簡などを読み解きながら物語的に展開しています。
林芙美子のパリ滞在記『巴里日記』に出てくる「恋人S氏」にあたるといわれる建築家白井晟一(1905-1983)は、ドイツに留学しで実存主義の哲学者カール・ヤスパースに学んだ哲学者でもあります。彼の作品に、銀座三越から晴海通りを歌舞伎座に向かった角に黒御影石に覆われた親和銀行東京本店(1963年)がありました。残念ながら一昨年取り壊されてしまいました。今東京周辺で体験できるのは、渋谷区立松濤美術館(1960年)のみです。この建物は、高級住宅地にあるために地下を2層にして高さを抑え、中央部を外部の吹き抜けにして池に水を張り、空中に橋がかけられています。材料にもこだわりがあって、外壁は赤味を帯びた韓国産御影石を積み上げています。展示室は地下1階と2階にあります。全体的に重厚で、象徴的で、芸術的な形態、そして窓が少なく、光に対する独特の感覚が感じられます。拙い言葉を連ねても始りません、彼本人が言うように、そこへ行ってみて体感してください。
また、彼は「顧之昏元」の号を持ち、書の個展が開かれるほどの書家でもあります。彼の書は、余計なものを捨て去った力強い、墨跡のような書で、個人的には好きです。さらに、山本有三の『真実一路』や、何気なく読んでいる中公新書の装幀などでも知られています。
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*太田治子 『石の花 林芙美子の真実』 筑摩書房 2008年
*『白井晟一の建築』 中央公論社 1974年
*磯達雄、宮沢洋 『昭和モダン建築巡礼 東日本編』日経BP社 2008年
*写真は、渋谷区立松涛美術館の建物写真です(08・08・28撮影)。今、松涛美術館では、60歳で絵を描き始めた異色の画家大道あや(1909-)の生誕100年記念展「けとばし山のおてんば画家・大道あや展」が開かれています(9月21日まで)。大道あやの母は丸木スマ、兄は《原爆の図》で知られる丸木位里、ともに画家です。彼女の「こえどまつり」(1976、第6回ブラティス・ラヴァ世界絵本原画展優良賞)、『ねこのごんごん』(1975)、『あたごの浦』(1984)、『たろうとはなこ』(1987)などの絵本原画を中心に展示されています。 |
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| 仲町つれづれNO.191 2008年8月30日(土) |
| 『古里を持たない』-林芙美子 |
夏は、戦争を振り返る時期ということもあり、「大岡昇平全集」などを読んでいたら、大岡昇平の近くに林芙美子がいたこと、大岡昇平が「かよわい女性の身でありながら、この世紀の大進撃に参加したいという熱意に燃えた・・」(『北岸部隊』を読んで・1965)と評価していることを知りました。ちょうど、林芙美子について書かれた太田治子さんの本も併読していたところで、さらに偶然にも、東京新聞の「TOKYO どんぶらこ」という連載(08.08.09付)で、関川夏央さんが「中井」を取り上げていて、林芙美子の旧邸が出てきました。
この旧邸は、西武新宿線中井駅を降りて「妙正寺川の谷から山手へのぼる坂道が、北へ八本並んでいる。その四の坂と五の坂の間に」あり、今は新宿区生涯学習財団・林芙美子記念館になっているそうです。林芙美子はこの土地300坪を買うために、有り金すべてをつぎ込み、1941年(昭和16年)にこの家を建てています。そして、1951年6月28日にこの家で死んでいます。48歳でした。
「私は古里を持たない」(『放浪記』)と書いている彼女について、関川さんは、彼女が執着すべき故郷を持たないのは当然として、生き方を束縛するモラルという「古里」からも自由であったと書いてます(多くの人の話では、彼女は性格的にも、彼女の「わがままや意地悪に悩まされなかったものはまれだった」といわれています)。また「彼女はあらゆる意味で、「生まれながらの庶民」であったが、この家の趣味のよさは、尋常ではない。」と。
そうして最後の「古里」づくりのために、「彼女は書きに書いた。そうしながら住宅建設の本を二百冊近くも読んだ」ということです。
太田さんの本によると、1950(昭和25)年の『芸術新潮』新年特別号に、彼女は『昔の家』というエッセイを寄稿しています。家を建てるのに足かけ6年の準備がかかったそうで、設計は山口蚊象に依頼し、2年かけて「大工と一緒に京都郊外の民家を見てまわったりして作った家は、茶の間と台所が中心だった。」そうです。「調理台の手元が白々と明るくなるように出窓をできるだけ大きくした」り、目に見えない部分に心配りがあるということです。(続く) |
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| 仲町つれづれNO.190 2008年8月26日(火) |
| 古典再読の意味②-ポスト『蟹工船』!? |
手元にある『あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史―』(朝日新聞社)は、1968(昭和43)年10月に書き下ろしで出版され、1969(昭和44)4月第11刷とあります。その後35回増刷され、昭和47年に新版が出されてからも15回増刷されています。この本も『蟹工船』同様、当時から多くの人に読まれてきたことがわかります。
「野麦峠」は、かつての飛騨と信州(今の長野と岐阜)の境にある重要な道ですが、「標高1672メートルの頂上は、いまは県立自然公園に整備され、気候の荒々しさだけをのぞいて、過去をたち切ってしまったかにみえる」(鹿野政直「思想史を歩く」絹の道と青春 1979・7・9付『朝日新聞』)とあるように、今ではすっかり忘れ去られてしまい、「あゝ野麦峠」という碑(1968年)のみが建つ道になってしまったようです。
「野麦」は、麦ではなく「峠一面をおおっているクマザサ」のことで、このササの根元にできる実を「野麦」といい、飛騨の人々はこの実をとって粉にし、団子をつくって食べていたということです。会津の民謡に「笹に黄金がなりさがる」というフレーズが出てきますが、その意味と同じものだろうといわれています。
養蚕が日本を支えていた時代、「明治政府が強力に押し進めていた、生糸を軍艦に変える富国強兵政策」(カバーより)を底辺で担うため、「おびただしい数の飛騨の糸引き(製糸工女)たちが50人、100人と群をなして越え(中略)諏訪湖畔の岡谷、松本方面の工場へ向かった」そうで、それはすごかったようです。そしてその陰には、若き工女たちの悲惨な生活があったということです。 |
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山本茂実は「野麦峠を越えた老女を通して明治百年を肌で感じとろう」(あとがきより)として、何足ものズックがボロボロになるほど飛騨の村々を歩き回ったそうです。そうして「まるで山男か物売りのように思われながら」(あとがき)足かけ5年も飛騨を歩き、380人に及ぶ聞き取りをして書き上げたのが、この作品です。
それは、あたかも名もなき無数の小話の集積のように、自らの作品というより「おびただしい飛騨の婆さまたちの群像が、高らかに歌いあげた叙事詩だということができるであろう」(あとがき)としています。何といっても、この本の魅力はその聞き取りにあるといえます。「下積みの不幸な女性たちの確かな存在を洗い出し、すさまじいリアリティをつくりだしている。さらには、彼女たちがいまではそういう体験をすら彼女たちの青春としてなつかしがって意外な事実に及んでいる。こういう比類少ない徹底性によって、記録文学として極めて優れたものになっている」(小田切秀雄)と評価しています。
先に引用した新聞で鹿野政直は、富国強兵と青春との相関関係について、「“奪われた青春”を象徴している」が、彼女たちはかけがえのない青春をもったのであり、「女工哀史への道であったとともに、それからの青春回復への営為につながる道でもあった」と述べています。同じ工女でも、官営富岡製糸工場(群馬)の工女には「文明開化の先駆的誇りに満ちた士族の工女がいた」りして、当時のエリートコースであったようです。
*1979(昭和54)年6月、山本薩夫監督作品として映画化され東宝系でロードショーされました。これには、大竹しのぶ、原田美枝子、古手川祐子、三國連太郎、北林谷栄、西村晃らが出演しています。
*『蟹工船』や『女工哀史』を想像させるドキュメンタリー映画があります。その名も『女工哀歌(エレジー)』(2005・米国・原題=China Blue)。ミカ・X・ペレド監督(1952年・スイス生まれ)は今や“世界の工場”とまで呼ばれる中国の内情を探るため、ブルー・ジーンズの製造工場で働かされる十代の少女たちの日常生活に迫っています。中国ではおよそ1億三千万人(全人口の10%)が地方農村からの出稼ぎで、最低の賃金(時給7円以下)で、安全も法的保護もない状態におかれているということです。もう一人の主人公はこの工場経営者(元警察署長)で、中国の経済成長の象徴ともいえる起業家の一人です。その先には、製品を安く買いたたく巨大な多国籍企業の存在があります。私たちが日常何気なくはいているジーンズにまつわる衝撃的な話ですが、私たちに「本当の人間の値段」を考えさせる作品になっているといえます。アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭でアムスティ・ヒューマン・ライツ・アワードを受賞し、すでに世界8カ国で公開されています。日本では9月27日から、渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開されます。
*山本茂実 『あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史―』朝日新聞社(1968年)、角川文庫(1977年) |
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| 仲町つれづれNO.189 2008年8月23日(土) |
| 古典再読の意味①-今『蟹工船』ブームって、ほんとカニ? |
小林多喜二(1903-1933)の『蟹工船』(1929)が、フリーターや派遣労働などで働くワーキングプア層の現代の若者を中心に読まれているそうです。仕事柄、休日は本屋さんを回っていますが、確かに山積みにされていました。
新潮文庫の『蟹工船・党生活者』の奥付をみますと、1953(昭和28)年6月28日刊、2003(平成15)年6月25日91刷改版、2008(平成20)年5月30日99刷と明記されています。今年に入って41万7千部が増刷されたということです。この現象には書店側の戦略があったようにも思われますが、何よりも、今までずっと売れ続けてきたという事実に驚きました。
この本では、大正から昭和初期の労働者の苦悩が浮き彫りにされています。また、著者の小林多喜二自身は警察で拷問を受け、獄中死したという時代の作品です。当時と今では、歴史的背景などが違いますから、ただ読んで共感して納得する、というだけではいけないと思います。そこから、何を学びとるか、でしょうか。
さらに、この現象は、細井和喜蔵(1897-1925)の『女工哀史』(1925)か、さらには、山本茂実(1917-1998)の『あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史―』まで広がっていくものなのか、興味深いところです。
いずれにせよ、今の『蟹工船』ブームは、古典が改めて読まれているという点では、良いことでしょう。他にも、『源氏物語』『徒然草』『歎異抄』やカントの『純粋理性批判』等々が注目されているようです。亀山郁夫さんの新訳『カラマーゾフの兄弟』(全5巻)は、80万部のベストセラーになっているという状況もあります。これからの秋の夜長に向けて、改めて古典に挑戦してみてはいかがでしょうか。 |
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| 仲町つれづれNO.188 2008年8月14日(木) |
| 蘭友亭-堀田正睦の書 |
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先日、堀田正睦(初めは正篤・1810-1864)揮毫の軸物を見せてもらう機会がありました。「庭有喬松三徑古」(庭に喬い松ありて三徑古し)と書かれたもので、「戌子夏日 蘭友亭」と署名してあります。戌子から文政11(1828)年と判断すると、正篤が10代の時に書かれたもののようです。
「三徑」といえば、佐倉城址公園内にある茶室の名前が「三逕亭」です。昭和58(1983)年3月に堀田正久氏により命名されました。ちょうど「二の丸本丸への逕と、椎ノ木曲輪へとゆく逕と、本丸下を巡る逕の三逕が合する所」でもありますが、これは六朝東晋の詩人として有名な陶淵明(365-427)の『帰去来の辞』の一節「三徑就荒 松菊猶存」(三徑荒に就けど 松菊猶お存す)に由来するものです。「庭の小徑は荒れかけていたが、松と菊とはまだのこっている」という意味ですが、この三本の小道は隠遁者の庭を象徴するようです。漢の趙岐の『三輔圃決録』に「舎中の竹下に三逕を開き、・・」というのがあり、この小道にも松と菊が植えられていたと訳注に書かれています。堀田正久氏の由来書きには「松は操の緑をたたえ、菊の花は燦として露霜の中に咲き誇っていた。これらは世の浮沈栄枯盛衰に関わりなく誠を表している」と書かれています。
この『帰去来の辞』は堀田正俊が最も愛誦した詩ですが、堀田家代々好まれてきたようです。堀田正久氏の『堀田家三代記』によると、正俊は「日頃愛誦する『帰去来の辞』に見入り、沈思し、そして何かを書きつけている。かつて正俊は狩野常信に命じて『帰去来の辞』に部分を幾枚かの絵にかかせ、その絵に、文士狛庸をして讃をさせ、屏風に仕立てさせてあった。公事の余暇にはこの堂に入って屏風を眺め、かつ『帰去来の辞』を誦するのが常であった」と。
『帰去来の辞』の序には「私は家が貧しく、田畑仕事では自給自足といかず、遠方の町に採用されたが、淋しくて、帰りたくなり、生まれつきの性格は矯正できるものでもなく、やがて妹が死んで、葬式に駆けつけたい気持ちがつのり、自分から勝手に職を辞めた。仲秋から冬まで官位にあったのは80日余り。義煕元年(405)11月のこと。」というようなことが書かれ、「帰りなんいざ、田園将に蕪せんとす、胡(なん)ぞ帰らざる」で始まる長詩ですが、酒をうたい、田園生活への憧れ、田園生活をうたっています。
堀田正俊は、この詩の感想を『芥説余録』に書いており、『堀田家三代記』でも紹介されています。「正俊は、無弦の琴を抱いて、このまま(浜の中屋敷)淵明堂に籠って隠退してしまおうかと考えたが」、二人の子供「正仲、正虎を呼んで『帰去来の辞』の感想をいわせた」とか。弟正虎の論は「無弦の琴を抱いて松菊を愛するのが、忠信を重んずる人のあるべき姿だという」ことです。朱子学の権威である幕府の儒官などの意見も求めたりしたということです。当時の大名家の精神的基礎をなしていたのが、陶淵明の心に見られる忠義観だったようです。正俊が思索と反省に明け暮れた結果の答えは、「隠退すべからず」でした。
堀田正睦は蘭学を奨励し、「開国の先鞭を着けたるは、実に曠世の偉業たり」(千葉県内務部『堀田正睦』1911年)と評価され、蘭癖大名とまでいわれましたが、すでに10代のころから蘭学に親しんでいたと見ることができるのではないでしょうか。また、「蘭友亭」と署名されたものは数少なく、ごく身近な人にしか書かなかったのではないでしょうか。
また、堀田家で所蔵されているものには「海闊(ひろ)く天高し 其れ器宇(きう)」と書かれています。なかなかいい詩です。「海闊天高」とは海や空がきわまりなく広がっていることで、心が広々して人品(度量)が高く、何のわだかまりもないことの例えでもあります。「器宇」とは心の広さ、度量を意味しますが、例えば晋書に「風度宏(ばく) 器宇高雅」、現存する最古の日本漢詩集『懐風藻』(751)の中で大津皇子の説明として「器宇峻遠」という類句を見ることができます。この書は『堀田正睦と幕末の政局』の口絵として掲載されており、「世界の大勢に通じ、西洋の導入を説いた正睦の気迫が見える」と説明されています。
*伊藤正文・一海知義編訳『中国古典文学大系 23 』 平凡社 1970年
*堀田正久 『堀田家三代記』 新潮社 1985年
*『堀田正睦と幕末の政局』 佐倉城研究会 1994年
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| 仲町つれづれNO.187 2008年8月13日(水) |
| 夏の雨と「天の夕顔」~一夜だけの花 |
7月28日、神戸市灘区の都賀川(俗称:大石川)で川遊びをしていた児童ら4人が鉄砲水にさらわれて亡くなるという事故がありました。河川モニターカメラによる事故当時の連続写真が報道されましたが、わずか10分間で1.3メートルも水かさが増す、川の豹変ぶりに驚きました。こうした都市型河川は、川床川岸ともコンクリートで固められており、自然の流れが作り出す川本来の姿ではないために余計に加速するのでしょうか。いずれにせよ、もう決して自然の恐ろしさを忘れてはいけません。
中河与一の代表作である小説『天の夕顔』(1939)に、この都賀川(大石川)のほとりを歩いて向こう岸へわたるというシーンがあります。「わたしたちは強く寄りそって、川のほとりまで歩いてきました。そして橋がなかったけれども、そこを渡りたいと思い、・・・(略)・・彼女が先に裾をからげて水に入りました。・・・小石の上を流れてゆく水の中で、あの人の足が白く魚類のように見えました。永い間、浅いところを選って、二人は流れの中を歩きました。」かつての都賀川(大石川)は、六甲山系を水源として大阪湾へ注ぐ総延長1.79キロ、川幅が今よりはるかに広い川で、都会では珍しい清流だったことがわかります。
中河与一(1897‐1994)は、川端康成、横光利一、今東光等と共に、新感覚派として活躍した作家です。
『天の夕顔』は、大学生の〈わたし〉と京都の下宿屋の娘で7つ年上の人妻〈あの人〉とのプラトニックラブ、ストイックな恋愛を描いています。〈わたし〉の人生は一人の女性を思うことに費やした人生であり、23年目にしてようやく恋が成就しようとした日、女性は病で天に召されてしまいます。天の国にいるあの人に消息する方法として「あの人がかつて摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向って華やかな花火として打ち上げ」て、小説は終わります。
この本は、戦中から戦後にわたり「おおよそ45万部を出した」そうで、「その読者の数からいっても、またその作が喜ばれてきた歳月の久しい持続からいっても、近来文壇において珍しい作品の一つである。」(保田与重郎:文庫本解説)と評価されていますが、発表当時は、中河の思想的な問題もあったようで「文壇は黙殺した」ということです。しかし、永井荷風は発表して数日後に手紙で激賞した(「ギョーテのウェルテル、ミュッセの世紀の児の告白、この二篇に匹敵すべき名編を得たる心地致し、・・」)ほか、与謝野晶子、倉田百三、徳富蘇峰、相馬御風等も賛辞を送ったようです。海外では、まず1952年にフランス語に翻訳され、フランソワ・ギヤール、アルベール・カミュから絶賛されたということです。『クレーヴの奥方』や、『若きウェルテルの悩み』に比較される浪漫主義文学の名作として、6カ国で翻訳出版されていることも、珍しい事実です。 |
中河与一は、1984(昭和59)年5月19日、縁あって佐倉市を訪れています。2年前に再婚した歌人の久仁子夫人と共に、終日印旛沼周辺で楽しんで帰っています(写真参照)。この時、河童伝説に興味を持つ人々の集まりである河童村(中河与一を村長に、当時の大内銚子市長、大橋船橋市長などもメンバーで、1985年に銚子で河童村10周年が開かれています)の話が出て、後日「利根川の子子子(ねねこ)河童の住みつきし 印旛の沼は天国ならし」という歌が送られてきましたが、それを生かしての碑も結局は作れずに終わってしまいました。
その折、中河与一に「城下町佐倉」と揮毫してもらい、観光ポスター(1986年)などを制作しました。ポスターには明記されませんでしたが、実は彼の書なのです。画家志望でもあった中河さんは、絵も書もうまかったのでした。
当時の国鉄のキャンペーン「エキゾチック ジャパン!」(CMに起用された郷ひろみの『二億四千万の瞳-エキゾチックジャパン』(1984)はヒット曲となりました)の時代に、佐倉市としては画期的なポスターでした。自画自賛ながら、今見ても迫力満点で新鮮な印象を受けます。
*『天の夕顔』については、ちょうど佐倉に見えた年から書き始められた自叙伝『天の夕顔 前後』(1986年)の「第三章『天の夕顔』の波紋とその渦中で」に詳しく書かれています。
*中河与一 『天の夕顔』 新潮文庫 1954年
タイトルの次に、枕として和泉式部の
「つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天くだり来むものならなくに」という歌が添えられています。
*中河与一 『定本 天の夕顔』 雪華社 1975年
*中河与一 『天の夕顔 前後』 古川書房 1986年 |
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| 仲町つれづれNO.186 2008年8月7日(木) |
| あなたは何年待てますか? |
宮崎県高鍋町の「百年の孤独」という麦焼酎は、なかなか手に入らない焼酎ですが、今の時期、オンザロックで一人こっそり飲むような酒とでもいいましょうか。
「世界傑作文学100」(ノルウェイ・ブッククラブ選定)に、『百年の孤独』という作品があります。ガブリエル・ガルシア・マルケス(1927-)により1967年に刊行されました。日本では1972年翻訳出版されています。この作品は、マコンド村の創設から滅亡するまでの百年間を舞台に、愛の欠如の中に生きる孤独な人間の生と死、希望と絶望などを含ませながら、孤独の運命を描いています。世界的ベストセラーとなり、ラテンアメリカ文学ブームを巻き起こし、彼は1982年にノーベル文学賞を受賞します。
マルケス58歳の時の作品に、『コレラの時代の愛』(木村榮一訳、1985)という作品があります。一昨年にようやく邦訳されたのですが、翻訳が大変だったであろうと察せられます。帯に「51年9ヶ月と4日、男は女を待ち続けていた・・・」と書かれているように、『百年の孤独』同様、時間というものが重要になってきます。
「コレラの時代」とは、即ちコレラという熱帯特有の疫病に悩まされる時代、1860年代から1930年代にかけての時代設定となっています。主人公フロレンティーノ・アリーサ(私生児)の、フェルミーナ・ダーサ(亡命者の娘)に対する「片時も忘れること」のない、一途な愛を縦糸にして、内戦の続くコロンビアの地方都市(カルタヘナ)とそこに生きる人々の姿を、無数のエピソードを交えながら、その時代と社会をもまた鮮やかに描き出しています。
タイトルになぜ「コレラ」?と不思議に感じますが、コレラと恋わずらいは症状が似ているというわけだそうです。読み進めて感じるのは「写実的な記述と描写がどこまでも続き、しかも会話らしい会話がほとんど出てこない」のです。しかし、語り口の巧さから、引き込まれていきます。それこそが文学の力なのでしょうか。
まず、チェスの名手でもある写真家ジェレミア・ド・サン・タムール(亡命者)の自殺から始まります。「20世紀が始まったころ、その年の1月23日に彼は満60歳になった。」とあり、「六十になったら、どんなことがあっても自分の命を絶つつもりだ、と」言っていたとおり命を絶ったのです。彼の最後の言葉は「一輪のバラと一緒に私のことを思い出してくれ」であります。それから時間が経過し、コレラ発生を告げる黄色の旗を立てて船がマグダレーナ川をゆっくり上る、そしていつまで航海するのか、という船長の質問に、フロレンティーノ・アリーサは「命の続く限りだ」と答えて終わる最後のページまで、それはじつに長大な人生の旅でもあります。
フロレンティーノ・アリーサは、51年9ヶ月と4日待ち続け、フェルミーナ・ダーサは彼を捨てて別の男性と結婚し、孫までいる年齢になっていましたが、周囲の「わたしたちくらいの年齢になると、愛だの恋だのというのはばかげているけど」とか、「あの人たちくらいの年だと汚らわしいわよ」(娘)という会話も出てきますが、それでも待ち続けたわけです。普通なら待てない、現実にはあり得ない話でもあります。後半「丸一年の間に三、四日毎に一通ずつ届いた」りするほど、手紙も沢山やりとりされます。「手紙には人生、愛、老年、死に関する見解」が書かれています。
「天性の物語作家、現代の語り部である」(訳者)と言われているマルケスだけに、この『コレラの時代の愛』はマルケスの手の込んだ手法により「幻想的としか言いようのない恋をリアリズムの器に盛りこもうとして、創作を行い、見事に成功している」(訳者)と評価されています。
*この作品がマイク・ニューウェル監督によって映画化されました。映画のタイトルも『コレラの時代の愛』(2007年・米国・GAGA配給)です。マルケスは英語での映画化を渋っており、3年を要して説得することに成功したそうです。プロデューサーとオスカー受賞の脚本家は「原作の中に生きている精神性を反映した」作品にするという約束をしたということです。プロデューサーは、草稿をみたマルケスは「原作にあまりにも忠実すぎることだ。原作から離れるほうがいい」といったと回想しています。
「時の過ぎ行くにまかせたらどうでしょう。そうすれば時が何かもたらしてくれます。」猛暑の夏(8月9日より公開)、乞うご期待です!
*G・ガルシア・マルケス 『コレラの時代の愛』木村榮一訳 新潮社 2006年 |
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| 仲町つれづれNO.185 2008年8月3日(日) |
| 松本清張への召集令状ー『遠い接近』の原点 |
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松本清張の作品『遠い接近』(1978)は、本欄のNO.142でも紹介しましたが、「従来の清張ミステリーと一線を画する異色の作品」とされています。いわく「作者自身を投影した、すさまじい怨念の復讐劇」だということです。
主人公の山尾信治(32歳)は、一家7人を支える自営の色版画工。ある日一枚の召集令状が届きます。11年前の徴兵検査では第二乙種で、その時は補充兵として、兵営入りは免れたのですが、30代になり、自分には関係ないと思っていたところに、召集令状がきたのです。そして佐倉の歩兵第57連隊に入隊します。「佐倉部隊は一個連隊より成り、教育訓練が主で、古兵は数えるほどしかいない。だが、その古兵たちによって、山尾信治はすぐさま内務班の恐ろしさを身にしみて味わわされることに」なります。古兵の安川一等兵による凄惨な私的制裁、そして「召集令状に潜む権力の不正や腐敗のカラクリ」が明らかになり、敗戦後に内地帰還してからは、一転本格的ミステリー仕立ての展開となり、復讐劇になっていきます。
この小説の原点は何だったのでしょうか?出版社時代に松本清張担当だった森史朗さんの著作『松本清張への召集令状』によると、松本清張は「自分のことは滅多に小説に書いていない。いわゆる私小説というのは自分の体質に合わない。そういう素材は仮構の世界につくりかえる」(『半生の記』あとがき)と書いていますが、『遠い接近』で語られている内容は「松本清張の軍隊生活そのもの、衛生二等兵としての実体験以外の何物でもない。」そうで、「仮構の世界と装うことで、実は自分の言いたいことや感情を強調している」といいます。
松本清張は「昭和19年6月、臨時召集として久留米の第86師団歩兵第187連隊に二等兵として入隊、第78連隊補充隊に転属。敗戦までの1年間を衛生兵として勤務した」(年譜)そうです。「私は32歳で兵隊に取られた」が、兵長が「ここに入ってからはいっさいの感傷を取らなければならぬ、感傷に陥るな、感傷を殺せ、と言ったことを憶えている。」(『実感的人生論』より)とも書いています。松本清張はわずかの期間で「国家権力の実態を骨の髄まで思い知った」わけで、その具体的なエピソードが『遠い接近』の中で次々と語られている、と森さんは指摘しています。
『遠い接近』では「誰が召集令状に自分の名前を書いたのか?」という犯人捜しへと進みます。その最終部分では「作家松本清張の、執拗な召集令状への追及」がなされ、その根本的な疑問について少しずつ事実の核心が明らかにされていきます。『遠い接近』は私的体験に止まらず、「召集令状の背後にある不正のカラクリを摘発」するとともに、「国家権力とは何なのか」という大命題に取り組んだ作品であるといえます。
*森史朗さんが「『ぼくには時間がないんだ。やりたい仕事が多くてね』と、口ぐせのように語っていた言葉が思い起こされる。」(まえがき)と書いている松本清張は、ちょうど16年前の平成4年8月4日、東京女子医大病院で死去しました。脳出血で倒れ、リハビリテーションを続けながらの病状急変、死因は肝臓がんであったということです。「この巨人は、著書750余、作品約千点を遺して超多忙の人生を閉じた。享年82」と書かれていますが、大抵の作家なら忘れ去られるところを、巨人だけに依然として本屋の棚を占拠するほど人気があるようです。
*松本清張は32歳で兵隊に入りましたが、『俘虜記』(1948)や『レイテ戦記』(1969)を書いた大岡昇平(1909-1988)がフィリピンのミンドロ島に派遣されたのは、昭和19(1944)年7月、35歳の時だったそうです。昭和20(1945)1月に米軍の捕虜となり、マラリアと心不全のためレイテ島タクロバンの俘虜病院に収容されたりしましたが、このときの体験が後の『俘虜記』(1948)等の素材になるわけです。まもなく終戦となり、昭和20(1945)年12月に帰還して家族の疎開先明石市に着き、小説家として執筆活動をスタートさせることになります。
*「社会戯評」などで世相風刺した漫画家の横山泰三(1917-2007)は、大岡さんとよくゴルフをしたといいます。「私は或る日のゴルフの帰途、大磯の大岡邸に立ち寄った。門を入るとひどくやせた犬がひょろひょろと歩いてきた。『この犬、ブリューゲルの絵に出てくるやつにそっくりだなあ』と私。昇平さん高笑い。それから、『泰三がブリューゲルの犬だと言いやがった』と、自分の愛犬のことを吹聴して回った。私はこういうジョークを喜ぶ昇平さんが好きだった。」―横山泰三『ブリューゲルの犬』《『大岡昇平全集』21月報(筑摩書房・1996年6月)所収》
*『松本清張全集』34(半生の記・ハノイで見たこと) 文藝春秋 1974年
*森史朗 『松本清張への召集令状』 (文春新書) 文藝春秋 2008年
*「遠い接近」 週刊朝日 昭和46年8月6日号~47年4月21日号に連載。
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