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仲町つれづれNO.171~NO.184 ~佐倉図書館通信~
| 仲町つれづれNO.184 2008年7月30日(水) |
| 孤高の作家小川国夫の死 |
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「ただよふ小舟波を枕、われはいづこ・・・」(カトリックの讃美歌)
今年4月8日に80歳で亡くなった小川国夫さん(1927-2008)の遺族によると「生涯読み続けたフランス語のぼろぼろになった聖書が死の床にも置かれていた」ということです。小川国夫さんの生涯は聖書との結びつきが深く、20歳でカトリックに入信し、神との対話を通して神の問題や「魂の奥底を描き続けた人」といわれています。言葉(文学)との孤独な格闘に人生を捧げたともいえる人です。
小川さんは、1953年東大生の時に客船ラ・マルセイエーズでフランス留学をしたり、1955年にはバイクで40日間もイタリア・ギリシャを旅行したりしています。その体験が、後に島尾敏雄の「私に創作への刺激を与えつづける一冊の本」という一文によって注目された私家版『アポロンの島』(1957)のモチーフになっています。そして、1956年帰国した翌年に本格的に作家としてデビューすることになったのです。寡黙で寡作、ほとんど生まれ故郷の藤枝での生活を続けた小川さんは「考えに考え抜いた果てにさらに道を求めてやまない」求道者だったのではないでしょうか。
小川さんが亡くなってから『虹よ消えるな』と『止島』という2冊の本が出版されました。中沢けいさんは『群像』7月号の書評で、2007年の暮れに「虹」の話をしたとき、小川さんは「虹は消えてしまうけれども、確かにそこにあったのを多くの人が見ているんだ」と、当たり前のことを当たり前の口調で静かに話していたと書いています。小川さんの、削ぎ落とされた文章と平明な言葉、それも「です、ます」調で書かれている世界は、余計に優しく、何ともいわれない人の思いやその姿が描き出されることにもなります。そこには透徹したまなざしで、自己や対象をきびしくやさしく見つめる目があります。それが特別な魅力を放ち、読者の内面の奥へとひろがっていくのでしょう。また、おそらく最後の文章と思われる「随筆に関する随筆」という一編が入っています。作者として目ざすところは、「ものを見る目を高めること、そして、読む人がハッとするほどの表現力を養うことです。」等と書かれています。
また、『止島』には10の短編が収められています。タイトルになった『止島』では、幼いころの小川さんと祖父母の姿を描いています。その他の短編も1編以外は小川さんと思われる「私」の郷里の情景、出来事、故人への想いが物語化されています。
この2冊を併読するかぎり、小説と随筆との区別はないようにも受け取れます。高橋英夫さんは日経新聞(7月13日)で、「『小説とは何なのか』という小川国夫的意識(疑問)を、読者も分担して読んでゆく必要がありそうなのである。」と書いています。小川さんが私小説的な書き方で実現したのは、冒頭の訃報時の代名詞のように、人間の生死にまつわる神話的な世界だったのでしょうか。
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*小川さんの教会式の前夜祭では、文庫版の小川国夫自選短編集『あじさしの洲/骨王』が遺族から配られたということです。この機会に併せて一読をお勧めします。
*代表的な13の謡曲を素材にして小川さんが能について語った『天の花 淵の声』(1976)という本があります。序にかえて『夢見る僧』という一文で「能は時空連続体の劇」であり、「能もまた宗教と芸術が未分の時代の遺産」であり、「夢という窓」を知りたくて能に関心を持っていると書いています。当時、その本の扉に書いてもらった言葉が、写真の「彼らには破滅と逸楽の音楽があった」です。
*小川国夫 『虹よ消えるな』『止 島』 講談社 2008年
*小川国夫 『天の花 淵の声』 角川書店 1976年 |
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| 仲町つれづれNO.183 2008年7月24日(木) |
| ブリューゲルの魅力 |
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六本木の国立新美術館でウィーン美術史美術館所蔵品による『静物画の秘密展』が9月15日まで開かれています。この展覧会は、16~18世紀の、ルーベンス、ヤン・ブリューゲルなどの作家の作品75点によって構成されており、全体に地味ですが、生のはかなさと虚栄(ヴァニタス)を考える良い機会となっています。強いて挙げれば、ヤン・ブリューゲル(父)の『青い花瓶の花束』(1608)が目立ちますでしょうか。
ウィーン美術史美術館というと、ハプスブルグ家が収集した世界最大の十数点のブリューゲル・コレクションがあります。今回は来ていませんが、16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル(―1569)の『バベルの塔』(1563)は、映画『バベル』(2007)のタイトルにも使われましたが、旧約聖書の「創世記」にあるバベルの塔を主題にした、天に届くような、山のような塔です。その重量感に圧倒されます。
安部公房(1924-1993)の小説『バベルの塔の狸』(1951)では、塔の中にエホバという老人がいます。この絵の塔の中には、何があるのでしょうか。読み取り方はいろいろでしょうが、ここには寓意があります。主題としては、人間の思い上がりや愚行に対する神の罰が示されているのではないでしょうか。
17世紀のハプスブルグ家の皇帝は、ネーデルランドの画家たちに熱い視線を注いでいたようです。その中で、ブリューゲルの評価はというと、息子のピーテル二世(1564/5-1638)の工房のコピーが市場に出回ったりしたこともあり、厳しいものがあったようです。ブリューゲルの作品には、民衆の祝祭、諺、遊戯などいろんなものが描き込まれ、美的感動というより、見れば見るほどその魅力に取り付かれてしまうのだと思います。
ブリューゲル研究では世界的な権威がいます。明治大学名誉教授・森洋子さんです。1988年には、ブリューゲル研究によりベルギー国王から王冠勲章シェヴァリエ賞が贈られています。ブリューゲルに関する著作も多く、自らの「人生の一部になっている」といわれるほどです。単に美術史のみではなく、幅広く民俗学、比較文化、文化史などの面からも取り組まれたものです。
今冬刊行された『ブリューゲル探訪―民衆文化のエネルギー』は、今までにあちこちで書かれたものに加筆訂正してまとめられた本です。自らの研究の歩み、交遊、研究余滴なども含んでおり、これから美術史を勉強しようという人にも、大事なことを教えてくれるはずです。
20世紀後半の西洋美術史研究には、大きく分けて二つの方法があるといわれています。それは「芸術家とその作品をそれ以前ないし同時代の周辺の芸術家との比較から伝統の継承とそのオリジナリティを明確化する様式分析と、同時代の文字資料(文学作品、説教集、年代記、思想史的な著述)から、作品の意味を解釈する図像学的研究」です。
森さんは言います。近年は、図像学的研究が盛んになったが、これらは決して別個に行われるべきではない。「芸術家があるイメージを構成するとき、伝統的な表象世界とともに、同時代の文化や思想からの影響を受けているから」と。
この本では、16世紀、17世紀のフランドルの彩飾写本、稀覯本などを探し求めて歩かれていますので、欧米の図書館、美術館がたくさん出てきます。図版もたくさん掲載されています。森さんは「人間の本質を衝いたブリューゲルの作品には、われわれが加齢とともに、その意味をより深く解釈できる、奥深い、不思議な魅力がある。」(あとがきに代えて)と書いています。例えば『ネーデルランドの諺』(1559年・ベルリン国立絵画館蔵)という作品には、「百近い諺によって、人間の愚行、弱点、失敗、虚偽に対する諷刺や教訓、また民衆の知恵などが表現されている。」として、その価値観はそのまま森さんの「人生の指針となっている」ということです。
*安部公房『バベルの塔の狸』【『現代日本文学大系76』筑摩書房 1969年所収】
*森 洋子『ブリューゲル探訪―民衆文化のエネルギー』未来社 2008年
*森 洋子『ブリューゲルの《子供の遊戯》 』 未来社 1989年
*森 洋子『ブリューゲルの諺の世界』 白鳳社 1992年
*森 洋子『シャボン玉の図像学』 未来社 1999年
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| 仲町つれづれNO.182 2008年7月15日(火) |
| 奈良屋杉本家の屏風-京都祇園祭に寄せて |
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朝日新聞社発行の『國華』という東洋古美術の研究雑誌があります。このタイトルは、創刊の辞の「夫レ美術ハ國ノ精華ナリ」からとられ、明治22(1889)年に岡倉天心(1863-1913)と高橋健三(1855-98)が中心になって創刊したものです。今や世界で最も古い美術雑誌として、高い国際的評価を得ているようです。その創刊120周年記念として「対決 巨匠たちの日本美術」展が東京国立博物館で開催されています(8月17日まで)。国宝10件、重文約40件を含む百余件が一堂に会するという、今年一番の見ごたえのある展覧会になっています。また、巨匠に対決という形で、ペアを組ませて比較の視点を加えて展示にメリハリを持たせるという点がおもしろく、絵画、工芸、彫刻の各分野での12組が選ばれています。
このうちの一組を紹介します。江戸初期の宗達と光琳。二人の「風神雷神図屏風」対決(8月11日から17日の展示)をはじめ、まばゆいばかりの「黄金の対決」で代表作揃いです。ここに、奈良屋杉本家で所蔵されている俵屋宗達の『秋草図屏風』(八曲一隻)が展示されています。この作品は、『國華』1353号(2000年)に掲載されたことがあります。
17世紀前半期、金地に草花のみを描き、「伊年」という朱文円印(俵屋派のブランドマーク)が押された屏風や襖絵は、通称「伊年印草花図」といわれ、町衆の間で大人気を博し、今でも数多くの遺品が確認されています。
この宗達の『秋草図屏風』は、秋草が乱れ咲く秋野の様を描いた中屏風で、右半分には中間色を多用した菊や梗が、左半分には右に大きく撓む萩や芒が、画面下方には秋海棠、山帰来、藤袴、姫薊等の背の低い草花、中ほどには菊や萩、さらにその上には芒が描かれています。所々に厚く土坡が引かれ、手前から奥へと広がる深い空間を感じさせます。
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奈良屋杉本家には、昔からたくさんの名品が収蔵されていたようです。9代目当主の杉本秀太郎さん(1931-)によると、現在も「売立目録」や8代目の書かれた「売立日記」が残されていて、昭和10年前後に「土蔵四棟のうち一棟をすっかり空にした大売立が」行われたそうです。昭和12(1932)年の2月、「父は34歳、家督相続して2年目」の大阪美術倶楽部での入札大売立については、「杉本同族整理顛末」と題して詳しく記述されており、「本家の危難を払うことに用いられた」ということです。
杉本秀太郎さんの『柳橋水車』(初出『考える人』2006夏号)の一文に書かれている、8代目の言葉が心を打ちます。「大売立のときに見納め逸品は、全部よくおぼえているよ。上物はあらかた手放したが、手放してから、かえって血となり肉となったものが、ほんまもんだ。あれから以後、何ひとつ、欲しいとおもう絵も無し、道具も無し。良いものはもう見てしまっている。それだけのことだよ。」
もう1点、奈良屋杉本家に収蔵されている『未草の屏風』(17世紀初め)については、あちこちで書かれ、写真でも見ることができます。この『未草の屏風』は、俵屋宗達の流れを汲む京の町絵師が描いたもので、八曲の腰屏風ということです。銀泥で描かれた「汀が左上から右下へ一くねりして縁取っている沼には、迫る夕やみの水面に、半ばとじた未草の白い花が点々と散らばっている。」というものです。「夏の午後もようやく未の刻、午後二時前後に開花するために未草と名付けられたこの水草の花は、八月立秋前後の夕刻六時には早くも花をとじ、開閉を三回、すなわち三日間くり返したのち、固い萼に包まれた小さな青い珠となって水面下に没し、やがて結実する。」「すでに閉花の刻限間近かな未草のこころを知り分けた絵筆の運びが見える。」(『蟻ヶ池』より)と書かれています。
*京都の八坂神社の祭礼として知られる祇園祭ですが、「山」と「鉾」、つめて「山鉾(やまぼこ)」が32基も出て、7月17日に巡行が行われます。それ見たさに、多くの人が通りを埋め尽くします。町衆の祭りともいわれます。この期間(7月14~16日まで)、杉本家住宅では「祇園会屏風祭」展が開かれています。
*杉本秀太郎 『京都夢幻記』新潮社 2007年、『神遊び』展望社 2000年
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| 仲町つれづれNO.181 2008年7月10日(木) |
| 正解は・・・! |
当館にこのお花を持ってきていただいた方によると、「西洋アザミ」という名前だそうです。さっそく、植物図鑑をのぞいてみたところ、朝鮮アザミという呼び方もあるようでした。しかも、なんと欧米では「アーティチョーク」という、かなりポピュラーな食材として、食べられている種類でもあるようです。
野菜として食べるのか?どう調理するのか?等、謎はつきませんが、しばらくの間、館内に飾らせていただき、話題にすると共に、目を楽しませていただきました。
*現在は、ものすごく長くまっすぐ伸びた「グラジオラス」とともに、その涼やかな色合いで、不快な空気をしばし癒してくれる存在になっています。 |
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| 仲町つれづれNO.180 2008年7月8日(火) |
| これは、いったい何でしょう? |
大人の握りこぶしくらいの大きさのこれ、何だと思います?
パイナップルの赤ちゃんかな? |
上のほうを見ると、鮮やかな色の、細長い触覚
のようなものが、ニョロニョロと伸びている!?
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真上から見ると・・・、あれ?青いヒマワリ!? |
真横から見ると、こんな感じです。
さて、その正体は?(・・・次号に続く。)
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| 仲町つれづれNO.179 2008年7月6日(日) |
| オチのある話-落語 |
今の世の中、閉塞感がまん延していてオチがないせいでしょうか、落語がブームです。日本の伝統芸能である落語に対する固定観念も崩れたのか、ファン層も、高齢者中心から若い女性層へと、ジワジワと裾野が広がり、浸透してきています。家の中や車で移動中、ラジオ、テープ、CDで落語を聞いている人もいますが、千住のある落語教室では英語落語まで行われているとか。このブームは日本語の魅力、音読や話芸の魅力のせいでしょうか?
東京には、上野鈴本演芸場、新宿末広亭、浅草演芸ホールなどたくさんの専用施設があり、「ぴあ」で見ても、首都圏で今月開かれる落語会は400本ほど。そんな中、新宿三丁目にある末広亭などは若い人たちで大入りとニュースで取り上げられていました。ここ新町の市立美術館でも今日は寄席が開催されていましたが、先月には県立房総のむらで柳家三三落語会がありました。集客に苦労している博物館や美術館ならではの、落語の力を借りた策なのでしょう。
落語ブームの発端は、2005年に放映されたTBSテレビの連続ドラマ「タイガー&ドラゴン」だそうです。2005年3月に林家こぶ平が9代目林家正蔵を襲名した際、上野でのパレードには10万人以上が集まったとか。今月開催される「大銀座落語祭08」(17日~21日)では、林家正蔵、笑福亭鶴瓶、桂三枝などのほか、日本テレビのアナウンサー6人がデビューするそうです。芸能界でも、風間杜夫や南原清隆は高座に上がるほどの腕前で、映画などで落語家役をやった人はそれなりにできるので、「真打ち」には無理でも、「二つ目」を目指して頑張っているようです。
*古典落語と呼ばれる演目は、矢野誠一さん(1935-)の本によると、海賀変哲『新編落語の落(さげ)』には、375篇の演目が収められ、武藤禎夫の『定本落語三百題』でも300~400篇、東大落語会編『増補落語事典』(青蛙房)には、「なんと千二百からの落語が収載されている」ということです。演劇評論家として活躍されている矢野さんの『人生読本落語版』でも81篇の演目が登場します。「学校じゃ教えない」30編にわたる見事な人生読本になっています。落語について「けっして世のため、ひとのためにはならないが、貧しいながら楽しく人生を送るすべを学んできた」という矢野誠一さん(1935年生)は、「昨今の地に堕ちた世情を見せつけられると」「こころ豊かだった落語の世界から、あらためて人生を学びなおしてもいいのではあるまいか」ということで、生きることの意味を『人生読本 落語版』としてまとめたとのことです。
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*昨夏は三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』(岩波文庫)、今年2月には立川志の輔さんの新作落語『歓喜の歌』が映画化されました。今度は永田俊也さんの『落語娘』が映画化されます。正統派落語を目指す香須美がついた師匠は、のろわれた噺に挑む異端の師匠で、その噺を演じると死人がでるという幻の噺を発見した人でもあります。映画『落語娘』(日活配給)では、ミムラ、津川雅彦、益岡徹などが出演して見ごたえのある作品に出来上がっています。8月下旬から公開されます。
*矢野誠一『人生読本 落語版』(岩波新書) 岩波書店 2008年
*永田俊也『落語娘』講談社 2005年
*武藤禎夫『定本落語三百題』岩波書店 2007年
『落語三百題』(上・下 東京堂出版1969年)の改題改訂
*海賀変哲『新編落語の落』1・2(東洋文庫)平凡社 1997年 |
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| 仲町つれづれNO.178 2008年7月1日(火) |
| 「はんなり」と「こうと」-奈良屋杉本家のしきたり |
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最近の京都は、街なかの風情もすっかり変わってしまったようです。関東では「京都は住みにくい」といわれますが、リタイヤした知人で、京町家に住みたくて東京から引っ越した人もいます。昔から京都は「始末な土地柄」といわれているそうで、矢野誠一さんによると、「始末」の意味は「浪費せず、つつましいこと。倹約」とあり、辞書(『広辞苑』)の用例に『世間胸算用』の「貧家又は(始末)なる宿には、是を買はずに祝儀をすましぬ」というくだりが引かれているそうです。
矢野さんは、京都はもともと「生産都市というより観光都市で、よそから来た他人にはふんだんに金を使わせるけど、自分たちは質素を旨とする暮しになれてきた」ために、「京都人の始末は、それに甘んじるというよりもむしろ、美徳なのである。」と書いています。そんな京都人の始末ぶりを揶揄した落語に『京の茶漬』というのがあります。これは、大阪人の眼から見た京都人が描かれているそうです。
奈良屋杉本家9代目当主杉本秀太郎さんの二女で、杉本家住宅を保存管理されている杉本節子さんの本に「はんなり」という言葉が出てきます。「落ち着いたはなやかさを持つさま」(『広辞苑』)を表している京ことばですが、この「はんなり」に対して「こうと」という言葉があるそうです。意味は「地味で上品な、質素な」ということです。京商家のかつての日々の暮らしは『はんなり』というよりむしろ『こうと』な感覚が大切にされていたようです。
奈良屋のことを調べていて、一年の暮らしとしきたりを書いた『歳中覚(おぼえ)』というものが残されていることを知りました。これは寛政2(1790)年3代目によって書き始められ、天保12(1841)年に5代目によって書き改められたものが、今日まで代々伝えられてきているのだそうです。そこには、親戚づきあいのことや、西本願寺の門徒であり、本山勘定役を務めた家としてのしきたり、先祖代々の命日と仏事のこと、祇園祭のこと、五節句などの年中行事のことなどが事細かく書かれているということです。
『歳中覚』の冒頭で、特別に大事なことが箇条書きされている中に「主人旅立」というのがあるそうです。前号(NO.176)でも触れましたが、当主が勘定月の3月と9月のうち年一度、3月に自ら千葉の店に出張していました。旅立ちの前日と当日には、お決まりの献立が用意されたということです。前夜は「夕飯には三つ組の盃で酒」。「5代目は6代目を伴って佐原への道中三島宿で急逝して」いるので、「道中の安全ともしもの時の別れの盃という心情もあった」ということです。出立の朝は、「汁は蕗、向付はいつもの干物とじゃこ」。続いて「後見衆旅立」、本店と佐原、佐倉支店の「若衆旅立」(5年目の奉公人の里帰り)が記され、彼らにも「前日の昼、夕飯には酒がつけられ」たということです。 そして無事帰ってきたら、「出立の時と同じ献立、三つ組盃での酒を用意するのが『しきたり』だった」ということです。
8月5日の創業記念日には、床の間に、当主の出張の時身に付けた遺品を飾るということです。勘定日は3月5日と9月5日で、「現金掛け値なし」を看板に商売をした奈良屋にとって最も大切な日だったようです。(『奈良屋弐百廿年』によると、3代目が定めた店則としての「教文記」、「店務要項」というべき「定例書」が伝えられ、「毎決算の際に朗読披講」され遵守されていました。)
今日の杉本家は、敷地500坪にわたる京都市最大規模の町屋建築で、京商家としての矜持を持ち続けられ、平成4(1992)年2月より「住宅の保存と町衆の文化を継承することを目的」に財団法人奈良屋記念杉本家保存会を設立され、維持管理されているわけです。
こうした御労苦に頭が下がる思いです。今月の祇園祭の際に、ぜひ出かけてみてはいかがでしょうか。
*創業記念日の献立は鱧皮、浅瓜(しろうり)の酢の物、小芋と蒲鉾の煮合わせ、焼鱧とはじかみ、ぼたん鱧のすまし汁、白飯ということです。鱧がよく食べられています。夏の味覚の代表格なのでしょう。鱧は関東ではあまり消費されませんが、今では高級魚で、ほとんど京都でいってしまうといわれるほどです。「京都の鱧は山で獲れる」という言葉があるほどで、京都ではちょうどこれからの時期、祇園祭に食べる風習があるようです。江戸時代は蒲鉾などの練りものの材料にする下魚だったとか。鱧は関西と関東の文化の違いが如実に表れた食材のひとつといえるのではないでしょうか。
*矢野誠一 『人生読本 落語版 』岩波新書 2008年
*杉本節子 『京町家のしきたり』 光文社 2008年
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| 仲町つれづれNO.177 2008年6月29日(日) |
| 杉本家と奈良屋② |
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杉本家8代目の杉本郁太郎さんについて、触れておきます。
杉本家本家(7代目)に子どもがいなかったこともあり、分家米三郎の長男だった郁太郎が養嗣子として迎えられました。杉本郁太郎(1902-1989)は、分家の長男として京都で育ち、中学は東京の府立四中に入ったものの、実父が病気になり、4年から京都府立一中へ転校し、以後京都で生活、昭和4(1929)年前後に本家の8代目を継ぎました。当時は佐原が本店で、佐原にいたり佐倉にいたり、京都に戻ったりの生活を1年半ぐらいやっていたということです。会社になってからは、京都は居宅のみで、本店は千葉になりました。
8代目は、戦後千葉に定着され、経営者として商工会議所会頭等の要職もされ活躍されました。筆者の知る8代目は北柿と号し、俳句をやり、南画を描き、千葉県美術会会長でもあり、粋人という印象でした。
そして、9代目が日本芸術院会員の杉本秀太郎さん(1931-)ということになります。杉本さんは京都生まれの京都育ち、フランス文学を専攻されていますが、日本の古典をはじめ、幅広いテーマで様々なエッセイも書かれています。最近出版された『ひっつき虫』ですが、主に絵と草花をテーマにした52編のエッセイが収められた本の中に、平成14(2002)年2月佐倉市立美術館に「浅井忠の図案展」を見に来た時のことが描かれています。
そこには奈良屋のことは触れられていませんが、「いつもそこにいたる道中にこだわるという習癖をもっている」という杉本さんは、初めて訪れた新町界隈で「とある民家の破れ塀から伸び出た枝先に接骨木(ニワトコ)の花を見た。こまかく泡立って、ほのかに古風な香りを放つ淡黄色の花。この木を町なかの庭に見ることはめずらしい。」とか、日常生活しているものでも気がつかないところにも触れられています。
現在、京都の杉本家本家は京都市指定有形文化財に指定され、財団法人奈良屋記念杉本家保存会をつくり、保存管理に努められています。
*杉本郁太郎 『寧楽』 原人社 1972年
*杉本秀太郎 『ひっつき虫』 青草書房 2008年
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| 仲町つれづれNO.176 2008年6月26日(木) |
| 杉本家と奈良屋佐倉店① |
昔、佐倉図書館の地に、奈良屋(呉服店)全盛の頃の番頭たちの住宅が何棟かあったという話を書きました(仲町つれづれNO.1を参照)。今の佐倉市立美術館の脇から裏側辺りに、奈良屋佐倉店があったのですが、昭和6(1931)年8月、株式会社に改組を機に閉鎖されています。
『奈良屋弐百年』(1952)によると、二代杉本新右衛門は毎年二度常総地方に行商し、明和元年(1764)11月3日に佐原に店舗を開業しましたが、三代杉本新左衛門はさらに佐倉に出て(始めは奈良屋重太郎名義で)、文化4(1807)年12月7日には新町に出店を設けた、と書かれています。
天保6年(1835)1月15日には火災に遭い、たまたま「四代新左衛門佐原にあり、直ちに佐倉に赴き、時宜の処置を以て1月19日に焼残った土蔵にさしかけをして開業し、引続き新築に着工」、4月1日に新店舗を開いています。まさに「驚異に値する」ことです。さらに明治19(1886)年夏にも再度類焼の厄に遇い、土蔵店を新築して12月15日開店しています。
明治42(1909)年夏、店頭に飾窓を設けて陳列場を置くための工事期間中、新町に仮営業所を新設、そこで「移転売出し」を7月1日から行っています。そこが今の佐倉図書館の場所にあたります。(この仮店舖を後に千葉吾妻町に移築して千葉店としています。)今までの座売りから陳列式になり、新装記念売出しは、11月3日より行われました。 |
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「新佐倉真佐子『佐倉お茶の間風土記』」(1979)によると、「正面より真中に通路があり、両側に呉服反物などが並べられ、客は自由に店内で品定めができるようになっていた」ということです。最盛期には使用人が30人位いて、「番頭小僧に至るまできちんと角帯を結び、前がけ姿で言葉が京都弁であったのが面白い」。商品は呉服類が主で、2階には楽器や玩具、唐物などもあり、「今様にいうならばミニ百貨店というところ」で、夕方になると「表看板はイルミネーションに映え、当時流行の蓄音器から歌が流れ、賑やかなものであった」と回想されています。
8代目杉本郁太郎の話によると、昔は参勤交代制のように、本宅の京都から当主本人だけが佐倉に下ってきたりしていたということです。京都は仕入れ専門で、直接商売をする佐原や佐倉は、別家や番頭に任していたとか。主家は年2回しか佐原や佐倉へは来ていなかったようですが、道中だけでも往復で2か月かかったという話で、となると、京都では半年ほど勤めて、すぐ一年たってしまうことになります。扱っていた品物の中に、「佐倉地買物」というのがあります。これは百姓の野良着に使う紺の無地のもの(織紺)で、よく売れたという話です。(『商業回顧談』千葉敬愛経済大学経済研究所1967年)
『奈良屋弐百年』(1952)では、佐倉店の業績は他の二店と比較して「甚だ振はず、佐倉町亦京葉方面への交通の利便化と共に漸次衰微の兆を呈するに至ったので、昭和六(1931)年株式會社に改組を機として閉鎖、千葉店に吸収合併する事」になったと書かれています。これに対して、「佐倉町長以下各區長は連署を以て、佐倉店の存置方を京本店へ願出」たものの、叶わなかったということです。そこでは「佐倉町民各位の御厚志は永久に忘れられない所である。」と結んでいます。
*明治45(1912)年の役付を見ますと、取締役に富田勘三郎という名前があります。大正4(1915)年の役付ではには取締役佐倉主任になっていますが、この方は、今の新町にある富田呉服店の先代にあたります。
*『千葉県商業史談』第一集 千葉敬愛経済大学経済研究所編 1967年
*杉本郁太郎 『奈良屋弐百年』 奈良屋 1952年 |
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| 仲町つれづれNO.175 2008年6月19日(木) |
| もうひとつの本の魅力 |
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本の装幀に魅せられて、本を買ったことはありませんか。「衝動買い」さにあらず「装幀買い」というようです。いつも何気なく手にしている本ですが、本を手に取って、その手触りから「いい本だな」と感じ、読んでみたくなる時もあるでしょう。そういう出会いをもたらしてくれるのが、装幀の仕事といえます。
昨年の書籍販売部数は前年比で横ばいというデータがあります。これは、装幀がシンプルな新書の売上が数を稼いだにも関わらずの結果ですが、非紙媒体の電子書籍は、毎年倍の勢いで伸びているようです。このことは、装幀家にとっては深刻にならざるを得ない現実であるといえましょう。(東京新聞3月22日付夕刊)
菊池信義さんは、装幀家として意識的な変革をもたらした、志の高い、哲学を持った人です。「オブジェとしての本」づくりをしてきた人とでもいいましょうか。その著書『新・装幀談義』でも、その奥深さを語っています。
彼は、「本は人の心をつくる(鍛える)道具」であり「心をささえる杖」といいます。「幼児の絵本から学校の教科書、そして文芸書へ。心は読むことで形をなしていきます。人というものは、生まれた瞬間から両親に、その家庭に、ひいては社会全体につくられていくものです。」と語り始めます。
「すぐれた文芸作品とは、読んでいるときだけ、ある緊張感があって、読み終えたときはいったいなにを読んだかわからなくなる。言葉のつくり出す空間や時間に引き込まれ、読むという体験を生きているのです。」
しかしそれで終わることなく、読むということは「それを通して知識を得ることと、知識から自由になるといった二面性」があり、「たとえば、『人とはそういうものか』と思うことと、『人とはわからぬものだ』といった正反対の感想によって、心に幅が生まれるのです。固まっていた心が掘り起こされ、風が通るのです。」
「人は、それぞれの現実の一瞬一瞬を生きています。知識だけでは生きられません。一瞬を抱き止める心の奥行きが大切で、それを形づくるのが読むという体験を生きることだと思います。」等々。単なる談義ではなく、読書や活字文化に関する鋭い言葉が散りばめられていました。
*NHK「美の壺」という番組で、明治から昭和初期にかけて出版された名著の装幀について取り上げられたようで、今春、その内容が単行本になりました。見極めのツボとして「壱のツボ・木版画の彩りを味わう。弐のツボ・挿絵に物語の神髄あり。参のツボ・特装本は素材を楽しめ。」とあります。ここでは、先人たちの書物に対する愛情と知られざる美の世界を垣間見ることが出きます。今、書店に出回っている本と、本棚の片隅でホコリをかぶっている本を、改めて眺め比べてみてはいかがでしょうか。
*菊池信義 『新・装幀談義』 白水社 2008年
*NHK「美の壺」制作班編 『文豪の装丁』 NHK出版 2008年
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| 仲町つれづれNO.174 2008年6月10日(火) |
| 今こそ、ボローニャ方式を! |
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「イタリア半島は、長靴をはいた脚にみえるが、では、その長靴をはいているのは男か、女か」。答えはどちらなのでしょう。2003年12月初旬、井上ひさしさんは「30年間の机上の勉強でいまでは恋人よりも慕わしい存在となった」ボローニャに、「ボローニャ名産品の、秘蔵のテストーニの鞄を肩にかけて颯爽と」成田を発ちます。その旅行記でもある『ボローニャ紀行』ですが、単なる紀行文ではないのが、井上作品ならではです。
ボローニャは、イタリア北部の人口約37万の都市です。2000年にEUの「ヨーロッパ文化都市」に指定されましたが、ミュゼオ(美術館、博物館など)が37、映画館が50、劇場が41、図書館が73あるそうで(数字は井上さんによる)、市民の文化消費額はイタリアで一番といわれています。
ボローニャの駅を降り、歩き始めるとすぐに柱廊(ポルティコ)が見えてきます。現在、総延長距離は42キロにも及びます。このゴシック様式の軒の下で、市民はお茶を飲んだり、買い物をしたり、話し込んだりしています。夏には日差しから守ってくれるなど、貴重な中世の遺産が見事に現代に再生されています。
1970年代に文化による街の再生が集中的に行われ、その手法が都市再生の世界的モデルになり、「ボローニャ方式」として世界に喧伝されました。そのボローニャ方式とは「成長すれば都市部の環境が悪化する、そこで郊外へ人口が流出する。つまり都心は荒れ果てた畑になってしまう。その荒廃した畑をもとの豊かな稔り多い黄金の花畑に戻す試み」ということだそうです。
図書館を例に見てみると、旧王立タバコ工場は世界的な映画の保存・修復センターに生まれ変わり、そこには3つの映画館、フィルムライブラリ-などのほかに3つの映画、写真、グラフィックの専門図書館があります。また「旧い証券取引所を座席数900席の図書館に改造し、だからといって今ある市立図書館も廃止しない。女子修道院を(ヨーロッパ一の)女性図書館に改造し、さらにそこをヨーロッパの女性問題研究センターにする」など、修復保存した歴史的建造物の外観が活用されています。モノと人との再生を図る、新しい価値の創造ともいえます。
ボローニャの名前は日本でもよく知られています。サッカー・セリエAの名門チームがあり、中田英寿選手が一時在籍していました。また、ボローニャ・ソース(ミートソース)の発祥の地、生ハムなど豚肉文化の中心地、小型精密機械製造の中心地でもあります。さらに、ボローニャ国際絵本見本市・絵本原画展、「黒猫のタンゴ」という曲で子ども音楽祭などがありますが、これらは「住民と大学が発案し、憲法で保障された社会的労働組合という制度を使いながら行政に協力させ」ているのです。そして国の内外からたくさんの人を集める結果になっています。ボローニャの名前を、広く知ってもらうことにつながっているのです。
企業は、本来、利益は地元に戻すという企業倫理をもっていました。日本のメセナ活動は景気と共に静かになってしまいましたが、井上さんは「日本の銀行が地域と共に生きる決心をするのがまず先かもしれませんが。」といいます。
最近のイタリアは、貧困の固定化により格差社会が形成されるなど、日本に似てきているようですが、ボローニャの場合は、戦後の最悪の状態から「社会的協同組合という手法で」立ち上がったのだという経験談が出ています。井上さんは「問題を乗り越える手を持つ」だけ「ボローニャはいいな、と思うのもやはり美しい誤解でしょうか。」と筆を置いています。
私自身、ボローニャにはたくさんの思い出があります。30数年前初めてヨーロッパに行き、イタリアの成人教育について勉強したのが、ボローニャのカーサ・デル・ポポロであり、ヨーロッパ最古の大学といわれるボローニャ大学でした。『神曲』を書いた詩人のダンテ(1265-1321)、『愚神礼讃』を書いたエラスムス(1466頃-1536)、地動説のコペルニクス(1473-1543)、『薔薇の名前』(1980)というベストセラーを書いたウンベルト・エーコ(1932-、元教授)など、錚々たる卒業生達がいます。4年前にも再訪し、美しい出会いもありました。井上さんの熱い語りを読み終えて、4年前の初夏のボローニャ、路地奥にあるリストランテで、白ワインに指輪型の生パスタ、トルテッリーニより大きいトルテッローニ、リコッタやカボチャの詰め物などを入れセージ風味に仕上げたものを食べたことを、再び思い出しています。そこにはズッキーニの花が添えられていました。
イタリアはまず食べてから-マンジャーレ、カンターレ、アモーレ。これも、やはり美しい誤解でしょうか。
*井上ひさし『ボローニャ紀行』文藝春秋 2008年 (初出は『オール讀物』2004年2月号~2006年10月号)
*星野まりこ『ボローニャの大実験』講談社 2006年
*ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』東京創元社 1990年
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| 仲町つれづれNO.173 2008年6月8日(日) |
| 薔薇の話【その⑤】 |
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「花の女王」と称えられる薔薇は、その魅力ゆえにあらゆるところに登場します。ご存じの印象派画家ルノワールの人物画や静物画には、よく薔薇が描かれています。
また、西洋ばかりでなく、東洋でも古くから描かれています。一例をあげると、出光美術館で6月1日まで開催された「柿右衛門と鍋島」展においては、中国・景徳鎮で焼かれた器『五彩龍文角鉢』(明時代末期~清時代初期)に、龍の周囲に蘭や朝顔と共に、薔薇の花が散らされていました。鍋島では、『色絵薔薇文皿』(江戸中期)があり、薔薇の花の表現がとても面白く感じられました。
佐倉在住の少女漫画家高橋真琴さんは今年デビュー55周年を迎えられ、銀座で7日まで開催されていた個展を見ても、「薔薇色の夢」、「ローズ・プリンセス」、「バラ祭りのプリンセス」、「野ばらのメロディ」などのタイトルとともに、半数以上の作品に薔薇が描かれています。薔薇の色は、少女に合わせてか、ピンクが使われています。赤は、やはり大人のイメージということでしょうか。
薔薇の話はつきませんが、このように、いろんな分野に薔薇の花が使われています。先日も、神戸の友人がきて酒を飲み交わすうちにドイツ語で「野バラ」を歌いだしました。ドイツ語の勉強にもなるのでよく歌うのだと言っていました。
しかし、いざ自分で育てるとなると、なかなか難しく手がかかるものです。そして、この「薔薇」という漢字、書くとなると、これまた難しいことです。さらさらと書けるようになるまでには、毎日何回も書かなければ覚えられません。現在、国の文化審議会で漢字の改定作業が進められていて、常用漢字1,945字に、新たに加える候補として220字が発表されましたが、その中には入っていませんでした。
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ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ
「ロサ・ケンティフォリア・ブラータ」
(『バラ図譜』より 銅版画、
【コノサーズ・コレクション東京】) |
ところが、5月16日付の『産経抄』に、「憂鬱」という漢字の話で、「作家の伊集院静さんが、故夏目雅子さんの心をつかんだきっかけは、目の前で「憂鬱」と漢字でさらさら書いてみせたことだという“伝説”がある。」という話が書かれていました。この「鬱」という字もなかなか書けませんが、今回の新たに加える候補の中に入っています。パソコンや携帯メールでは、気軽に何でも表現できてしまいますが、そこが落とし穴なのでしょうか。
「薔薇」という漢字の意味は、とげのある木の総称ということで、「薔」はいばら、「薇」はぜんまいを意味するようです。伊集院さんの伝説にあやかって、さらさら書けるようになりたいものです。多くの人々を魅了してやまない「薔薇」の花ですが、何かの時の薔薇頼みは、気持ちをこめれば、たくさんでなくていいようです。1本の薔薇が決め手になることもあるし、最近は、「自分の気持ちは枯れません」と、赤い薔薇のプリザーブドフラワーを贈って女性を射止めた、という逸話もありました。 |
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| 仲町つれづれNO.172 2008年6月8日(日) |
| 薔薇の話【その④】 |
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1871(明治4)年9月、北海道開拓使が東京で官園を開園したところの一部に、旧堀田正倫邸4万7506坪余がありました。アメリカの農法に感銘を受けた津田仙も、帰国後に北海道開拓使の嘱託となり、青山の開拓使官園で農事研究を行っています。以前小欄NO.120でも取り上げましたが、津田仙は、後に私立学農社を設立します。バラも栽培していたようです。
1870(明治3)年、アメリカから個人的に大量にバラを入手したといわれている、(元祖)和歌山県(士族)の山東一郎(1840-1904)という人がいます。国会議員の山東昭子さんの曾祖父だということです。山東は、たまたま遊説に来ていた尊皇攘夷派の儒者松本奎堂と意気投合し、大阪に出て、本格的に攘夷運動の渦に巻き込まれていくのですが、1863年に仲間が病気になり駆け込んだのが幕府医学所頭取松本良順のところだったというわけです。
良順に「夷を攘(はら)はんには、先づ夷を知る事を勉むべし」と諭され、海軍の重要性を説かれたとあります。
また、山東は、ここで良順の弟である林董にも会っています。これがきっかけで彼の人生は変わります。不思議な縁故で、林も山東の明治義塾で英語を教えることにもなります。林董は『後は昔の記』で、「氏は計画に巧にして営業に迂なりしが故に、皆失敗に終れり。」と記しています。
いずれにしても、何かと佐倉ゆかりの人々とのかかわりがあり、驚きます。
*林董『後は昔の記 他 林董回顧録』東洋文庫 平凡社 1970年
*クララ・ホイットニー『勝海舟の嫁 クララの明治日記』中公文庫 1996年
*依田学海『学海日録』第2巻 岩波書店 1991年
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ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ
「ロサ・スルフレア」
(『バラ図譜』より 銅版画、
【コノサーズ・コレクション東京】) |
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| 仲町つれづれNO.171 2008年6月7日(土) |
| 『西の魔女が死んだ』が映画化されました。 |
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ちょうど梅雨入り宣言したばかりの時期でしょうか、雨が強くなり窓越の景色が見えにくくなってきた車内で、ママが「魔女が倒れた。もうだめみたい」と言うシーンから、映画は始まります。原作は、梨木香歩(1959年生)さんの小説『西の魔女が死んだ』です。1994年に児童書として発刊され、以来100万部のロングセラー作品です。10数年にわたり多くの読者に愛されている本とは知りませんでしたが、今回の映画化で姪などに「チケットないの?」と言われて驚きました。幼い頃に読んだ本として「何か」が残っているのでしょうか。また、『こどもの本』5月号の『心に残る一冊』欄に、声優の佐久間レイさんが、この本は自分と「娘の読み聞かせ卒業作品」「卒業証書」だった、と取り上げています。
原作は、「西の魔女が死んだ。」という一文から始まっています。「英国人と日本人との混血であるママ」と、その娘まいとの間では、おばあちゃん(英国人)のことを「西の魔女」と呼んでいます。中学に進んで間もない頃、まいは学校が「苦痛を与える場でしかない」といい、学校を休んで田舎のおばあちゃん(西の魔女)のところで1か月余りを過ごしました。2年前の、季節が初夏へと移り変わる頃のことです。
魔女とは「身体を癒す草木に対する知識や、荒々しい自然と共存する知恵」を代々受け継ぎ、物事の先を見通す予知能力を持つ人、のことのようです。まいは自分も魔女になりたいと願い、魔女になるための修行を始めます。修行とは、まず早寝早起きをし、食事はしっかり取り、よく運動し、規則正しい生活をすることをいいます。何事も「自分で決める力」「自分で決めたことをやり遂げる力」をつけるということで、「一番大切なのは意志の力」ということです。こうして、まいは料理、掃除、洗濯、庭づくりなどに励んでいきます。
映画では、少女の心の揺れや、祖母と孫との関係がうまく描かれていきますが、この物語は、児童書といえども、子供達だけに向けたものではないようです。「それぞれの年代がそれぞれの営みの中で、人と人、人と自然との存在の間でこそ生じている事々から、『生きている喜び』を感じられるための素晴らしい『レッスン』の物語」(プロデュサー柘植靖司さん)であり、原作者の梨木さんは「静謐で暖かい、けれどもひそやかな生命力を感じさせる、日だまりのような映画」となり、観た人の心の中で「何か不思議な、生命の力のひとつとなって、働いていきますように。」と語っています。
最後は、初夏のまばゆいばかりの映像美と、サチ・パーカーさん等の個性的なキャストの見事な演技のせいでしょうか、隣席の女性は泣いていました。今の時期にあわせて、ぜひ原作もご一読ください。
*梨木香歩 『西の魔女が死んだ』(新装本) 小学館 1996年
*映画『西の魔女が死んだ』(長崎俊一監督作品・ アスミック・エースエンタテインメント配給)は、サチ・パーガー、高橋真悠(初出演)、りょう、高橋克実、木村祐一、等の出演で、6月21日からロードショーされます。
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