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図書館ホーム > 仲町つれづれバックナンバー > NO.156~NO.170(2008.4~2008.5)

仲町つれづれNO.156~NO.170 ~佐倉図書館通信

仲町つれづれNO.170 2008年5月27日(火)
横尾忠則の隠居宣言

「隠居とは、肩の力を抜いた生き方!人生をより楽しく、より創造的にする。」
  -横尾忠則の『隠居宣言』より

今、一番元気のあるクリエーターは、横尾忠則さん(1936年生)ではないでしょうか。この春には本業の画家として3か所で発表が続き、現在も、世田谷美術館で「冒険王・横尾忠則展」が開催中です(6月15日まで)。さらに、次々と本も出しています。その中から、『隠居宣言』(平凡社新書・2008)を紹介します。
横尾さんは、2007年春に「隠居」を宣言しました。2006年の誕生日に古稀を迎え、「ああ、これで老人になったのか」という声を発したそうです。別名「グラフィック廃業宣言」でもある、と語っています。要は「休息がしたかったからかもしれない」(あとがき)ということです。もともとグラフィックデザイナーとして時代をけん引してきた人ですが、過去にもいろいろな宣言をしています。宣言には「過去との決別というか自己埋葬の意味」があり、対社会的意味合いが濃いといえます。1980年に「画家宣言」をして、デザインの仕事が激減したものの、経済基盤の中心はグラフィックの仕事になっていたそうです。
この本は、2007年秋に編集部において、春に宣言した隠居の内容や背景、日常生活、健康・病気などについての108の質問に対し、著者がその答えを即興的に書いたものに、冬に行ったインタビューを「隠居のつぶやき」として加え、まとめられたものです。煩悩の数にちなんだ108の質問が、なかなかおもしろいです。
隠居は、江戸時代には、40代になるとみんな隠居になりたがるほどの「ステイタスだった」といいます。36歳で隠居した広重をはじめ、北斎、若冲、伊能忠敬なども、隠居後にいい仕事を残しています。アメリカ人のいう「リタイアの後のカントリー・ジェントルマン」が隠居に当たる言葉だろうが、「リタイア」は生活を単にエンジョイしたいということで、「自己実現っていうことをあんまり考えていないだろうけれど、隠居はそこに自己実現っていうビジョンがある」というわけです。
そして、彼が新しく始めたことは、写真と小説を書くことでした。「小説を書くことは想像以上に楽しいという事実に」驚いたそうです。『文学界』に発表し、今年4月には単行本(『ぶるうらんど』文藝春秋)になりました。瀬戸内寂聴さんは「純愛物語」と称賛しています。
彼は「小説を書くことで無心になれる。座禅は雑念に苦しまされるけれど、小説は陶酔」だといいます。ストーリーが決まっていて「少しずつ霧が晴れていくように見えてくる、それで行くべきところに着地する」、まさに「探検旅行」のような感覚を味わったといいます。今後も小説家としての活躍が期待されるのではないでしょうか。
また、団塊世代へのメッセージは、何もないそうで、思い思いに「わが道を行く」ことでしょうとのことです。若い人たちの中にも、「ドロップアウトしただけの無気力で非創造的な」隠居的な人がいますが、「メッセージは至るところにある」が、それを求めていない者には何も届かないのです。「今日は今日の風が吹く。」「明日のことは誰にもわからない。」今こうしているということ、刹那的ですが「今五感で感じ取っているものを味わう」ということが大事だといいます。これからの生き方のヒントが、たくさん詰まった本です。

*『本』5月号(講談社)の表紙に、横尾忠則さんの「想い出劇場」(2007)という作品が使われています。横尾さんはここ数年来、各地の温泉を訪れては作品化しています。この作品の舞台は山梨県の石和温泉です。単なる露天風呂の風景だけではなく、この画面の中にいろんなイメージが詰め込まれています。近くの山中湖畔にある、三島由紀夫の写真を貼り出した三島由紀夫文学館の案内板も登場しています。また、市ヶ谷自衛隊本部の屋上で演説する白鉢巻姿の三島の像も描かれています。これが、豊穣な横尾ワールドなのです。

*横尾忠則 『温泉主義』(画文作品集)新潮社2008年  『人工庭園』(画文集)文藝春秋2008年
         『ぶるうらんど』文藝春秋2008年        『横尾流現代美術』平凡社新書2007年
         『病の神様』文藝春秋2006年

仲町つれづれNO.169 2008年5月25日(日)
薔薇の話【その③】
佐倉草ぶえの丘のバラ園は、オールドローズを中心として、原種から現代バラまで、バラの歴史がわかるように植栽されています。それぞれの樹形を生かした立体的で風景的なガーデン作りは、一般のバラ園にはない特色となっているようです。(『ミセス』2008年5月号より)
このバラ園の歴史を振り返るには、最相葉月さん(1963年生)の『青いバラ』(小学館2001年)という一冊の本が参考になります。本の扉の裏に「日本のバラの父 鈴木省三に捧ぐ」と献辞が書かれていますが、出版を見ずして亡くなった鈴木省三(1913・05・23-2000・01・20)の、バラ一筋の人生が記録されています。
外国では優れた花の育種家にはナイトの称号や勲章が与えられるのが常だそうです。海外での受賞経験豊富な鈴木省三を最初に“ミスター・ローズ”と呼んだのも海外メディアであったとか。まさに「日本のバラの父」と呼ぶにふさわしい業績をあげた人だったようですが、その評価は園芸界の外へ出ることはなかったのです。
鈴木省三は20歳でバラ育種家としての道を志して以来、108品種を作出したといわれ、1978年には種苗法制定に尽力されたということです。この本は“ミスター・ローズ”と最相さんの対話を主軸に、たくさんのバラに関する書物をひも解き、特に、青いバラにまつわる物語が描かれています。
著者の「あなたは、青いバラをつくりたいとおもったことはありますか」という問いに対し、「青いバラができたとして、さて、それが本当に美しいと思いますか」という予想外の答えに戸惑いながら、「ミスター・ローズとの対話」が始まります。
バラというと、「バラ色の人生」(ラ・ビ・アン・ローズ)という言葉の持つイメージが定着しているようです。バラの花は何色?と聞かれると、男性はピンク、女性は赤、と答える比率が高いとか。では青いバラだと、「コバルトブルーの人生」となりますが、さて、どうでしょうか。
交配によって新しい品種ができるまでには、早くて5年、普通で10年かかるそうです。青いバラ作りを目指すためには、経済的かつ人的負担は相当なものだと予想されます。さらに、英和辞典(岡倉由三郎編『研究社新英和大辞典』1927年)などには、青いバラという言葉の意味には「不可能」という訳があり、到達し得ない何かの代名詞でもありました。そんな青いバラは、神話や伝説をはじめ、様々な文学作品において「死、恐れ、不安、希望、愛、永遠の夢といった多義的な意味を与え、与えられてきた」のです。すなわち「不可能という意味を持たされとき、青いバラは、数多の人々の想像力を喚起する、実に魅力的な禁断の花と化した」ということなのです。「鈴木にとって青いバラとは何だったのか」と、著者の最相さんは追い続けます。
1998年5月末、最相さんが3度目の取材で鈴木省三を訪ねると「ぜひ佐倉へ行ってみてください。」と、『魅惑のバラ オールドローズ』という1冊の本を渡されたそうです。その佐倉市下志津には、前原克彦さんが代表を務めるローズガーデン・アルパというバラ園があり、当時は350品種、370株が植えられていたということです。
正式には、バラ文化研究所付属ローズガーデン・アルパといい、2000年にNPOとして法人登記されて、最終的な目標は、バラの博物館をつくることだったということですが、2004年6月末で閉園されました。2005年に佐倉市が寄贈を受けて、佐倉草ぶえの丘(飯野820)にバラ園が整備されることになり、2006年から、開園しています。
現在約8、500㎡の敷地に、800種類、1、800本のバラが植えられています。

*青いバラは、とうとう不可能な夢ではなくなりました。2009年、日本企業により世界初の青いバラが発売されることになっているそうです。

*最相葉月 『青いバラ』小学館 2001年
*鈴木正彦 『植物バイオの魔法 青いバラも夢ではなくなった!』講談社 1990年
*高橋和彦監修 『魅惑のバラ オールドローズ』学習研究社 1997年
仲町つれづれNO.168 2008年5月23日(金)
薔薇の話【その②】
フランス皇帝ナポレオン1世の最初の皇后ジョゼフィーヌは薔薇をこよなく愛し、マルメゾン宮殿の庭園に300種程のバラを栽培させたり、ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ(1759-1840)を専属画家としてかわいがるなど、今日の薔薇栽培の基礎を築いたといわれています。
そのジョゼフ・ルドゥーテに8年の歳月をかけた『バラ図譜』という大著があります。『青いバラ』(小学館2001年)の著者である最相葉月さんによると、「複製といえども百万円は下らないとされる大判の稀覯本」ということです。

この本は、169枚の銅版画からなり、「バラのラファエロ」と称えられた巨匠ルドゥーテの生誕250年を前に、現在開催中の東急文化村ザ・ミュージアムの『薔薇空間』展(6月15日まで)において、1点ずつ額装して系統的に展示されています。
展覧会の監修には、「日本のバラの父」である鈴木省三の秘書をされていた、NPOバラ文化研究所副理事長の野村和子さんがあたられ、研究所が運営する佐倉草ぶえの丘バラ園も、写真パネルなどで紹介されています。
描かれたバラは、いずれも花首の微妙な傾け方、花弁の開き方ひとつで、その表情が変わり、ルドゥーテによる手の込んだ技法で、いずれも表情豊かに表現されています。美術的価値はもとより、植物学上も重要な資料であるといえます。また当時の彼は「パリ中の貴婦人を弟子にした」といわれるほど人気者だったとか。
この機会に、佐倉草ぶえの丘バラ園のバラとともに、ぜひご覧ください。


*鈴木省三
 『原色写真で見る 世界のバラ』高陽書院 1956年

 『ばら・花図譜 国際版』小学館 1996年


ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ
「ロサ・ケンティフォリア」
 (『バラ図譜』より 銅版画
 【コノサーズ・コレクション東京】)

仲町つれづれNO.167 2008年5月22日(木)
薔薇の話【その①】
今月2日付の「報知新聞」に、ファッションデザイナー桂由美さんの「YUMI KATSURA ローズ祭り」の記者発表会に、300輪の生花のバラが付いたドレスを着たローズクイーンが登場したという写真記事が出ていました。赤、黄、青、緑など色鮮やかな無数の薔薇が付いていました。
「薔薇の花は美しい。だが、そこにかぐわしい香りがひめばこそ、なおさら美しいと思えるのだ。」(ウィリアム・シェークスピア『ソネット集』第54番より)とか、「わが薔薇よ、きみがいなければ、私はこの広い世界を無と呼ぶ。この世ではきみが私のすべてなのだ。」(同『ソネット集』第109番より)というほど、薔薇の花は古来より人々の心を捉えてきたのです。洋の東西を問わず、人気があります。
吉田秀和は、著書『永遠の故郷―夜』で、ヨーロッパと日本の自然の違いとして、「陽の光の在り方」と「花の匂い具合の違い」が印象深かったと書いています。「ヨーロッパの花は実によく匂う。同じ花でさえ、匂い方が違う」とのことで、日本では「強い匂いよりそこはかとなく匂ってくるものの方が奥床しいとされ、好まれ、尊重されて来たのではなかろうか。それにひきかえ、ヨーロッパの花たちはお互い競いあうようにして、強烈な匂いを発散する」そうです。そうした自然環境は、音楽の世界にも如実に反映されており、ヨーロッパの歌曲には花の香りに因んだものが多く残っています。
人はなぜ香りにひかれるのでしょうか。以前小欄(NO.23)でも「パフューム」という映画のことを紹介しましたが、香水は古代ギリシャ・ローマ時代から使われています。中でも、薔薇の香りは「香りの中でイメージしやすい香りの代表」で、秘密めいた独特のイメージがあるといわれます。また、神経内科の医師で作家でもある米山公啓さんは「豪華だが、清楚といった言葉がぴったり」といいます。これは「あくまでもバラの花の持つイメージであるし、あの赤いバラの持つ色と花の感触が人に強いイメージを抱かせ」、同時に、その香りも記憶されるといいます。
ローズの主要な成分は、ゲラン酸、ゲラニオール等の有機化合物で構成され、1種類の香り成分で出来上がっているものではないということです。「脳内モルフィネを増やし、その分泌により、強い鎮静作用、リラックス感、催淫効果、至上の幸福感などをもたらす可能性」があるということです。「バラにひかれるのは、イメージだけではなく、香りそのものがどうも脳に影響して、人間の本能的な欲望を刺激するから」だと。「だからこそバラの花を見るだけで、人の脳の中はバラの香りに満ちてしまうはず」だそうです。

*米山公啓 『人はなぜ薔薇の香りが好きなのか 脳とアロマの素敵な関係』徳間文庫 2006年
*吉田秀和 『永遠の故郷 夜』集英社 2008年
仲町つれづれNO.166 2008年5月17日(土)
「ペリー&ハリス」を見て

今、江戸東京博物館において「ペリー&ハリス展」が開催されています。副題に「泰平の眠りを覚ました男たち」とあります。安政5(1858)年に日米修好通商条約が締結されてから、今年はちょうど150年、また奇しくも、米国海軍提督ペリーが亡くなって150年、という節目の年でもあります。
以前にも触れましたが、開国派の旗手として開国推進を基本方針とする老中堀田正睦のもと、岩瀬忠震ら幕臣たちはハリスと向き合い、開国後の日本の可能性と問題点を考えながら、困難を乗りこえて条約締結を実現したのです。
初代駐日総領事であったタウンゼント・ハリス(1804-1878)は、生粋の外交官ではなく、ニューヨークで陶器の輸入販売業を営み、1846年から2年間、市教育委員会の教育長として「フリーアカデミー」と呼ばれた学費無料の教育機関の創設(現在のニューヨーク市立大学シティカレッジの前身)に尽力した人でもあります。今回展示されている「ハリスの肖像画」や遺品類は、今も同図書館に展示、保存されているものです。

ペリー艦隊と江戸幕府が公式に最初に言葉を交わしたのは、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)でした。浦賀沖に投錨したサスケハナ号に、浦賀奉行の与力3人と通詞1人が船で近づき、「I talk Dutch.」と英語で呼びかけたのが始まりだそうです。その後の会話は、日米双方にとって外国語であるオランダ語を介して交渉が行われ、やはり、条約に誤訳が生じたり等の問題があったようです。(田中裕二「幕末開国と明治の文明開化再考」【展覧会図録所収】より)
この後、幕府はオランダ、フランス、イギリス、プロシア、ロシアの5カ国と相次いで条約を締結していきます。日英修好通商条約により、双方の国家間の公文書は5年の猶予を経た後、英語を用いることに決定されました。このことにより、オランダ語に代わって英語に対する重要性が高まっていくことになります。 

今回の展示品には、「日米修好通商条約」原本(米国国立公文書館蔵)はもちろんのこと、安政4(1857)年10月26日にハリスが堀田邸を訪れ、日米の利害に関する演説をした演説内容を記したもの(『続通信全覧』修好門より)や、条約締結を前にした「全権委員とハリスの対話」を書写したものなどの史料約250点が展示されています。その中に、岩瀬忠震の越前藩家老中根雪江宛の「書状」があり、「昨日愛牛ト錯邏ト 天帝ニ謁シ」という部分があります。この「愛牛」とは、よく「鈍牛」「彦根牛」などの蔑称でいわれた、井伊直弼のことです。また「錯邏」(さくら)とは、老中堀田正睦のことを指しており、この書状は井伊と老中との対立の状況など、閣内の様子を伝えたものとなっています。
*1960(昭和35)年6月、佐倉市主催で日米修好100周年記念式典が行なわれました。ちなみに時の市長は堀田正久氏でありました。
*この6月には、佐倉城址公園内にハリスの像が設置されるとか。上述の「ハリスの肖像画」は、1855年日本出発直前に教育委員会が画家ボーグルに依頼して描かれたものだそうですが、この絵は「やや尊大な印象があり、親族や友人には不評であった」そうです。さて、今度設置されるハリス像は、どんな姿なのでしょうか? 乞うご期待。

*カール・クロウ著 田坂長次郎訳 『ハリス伝』 東洋文庫 平凡社 1966年

仲町つれづれNO.165 2008年5月11日(日)
薫風の季節を迎えて


ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ うら若草のもえいづる心まかせに。

萩原朔太郎(1886-1942)の有名な「旅上」(『純情小曲集』新潮社1925年)という詩です。これは、懐郷の感傷に裏打ちされたものです。
萩原朔太郎は、1942(昭和17)年5月11日肺炎のため永眠しました。


萩原朔太郎をはじめ、多くの日本人があこがれたフランスですが、特に世界中の人々を魅了したのは19-20世紀の花の都といわれたパリでした。また多くの芸術家が才能を開花させた地でもあります。

そのフランスと、1858(安政5)年に日仏修好通商条約が締結されて、今年は150周年にあたります。幕末の頃の日本人にとって「仏蘭西」とはどんな響きを持っていたのでしょうか?

現在開催中の日仏交流150周年記念『芸術都市パリの100年展』(東京都美術館、7月6日まで)では、「ベル・エポック」、いわゆる「良き時代」の前後を含めた1830-1930年にいたる100年間に焦点をあてています。この時代は近代都市づくりとメディアの発達により、新しい市民のための芸術が生まれましたが、文学の世界でも絵画などの世界と影響しあったりして個性的なものが遺されました。
文豪という名にふさわしいのは、ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)、アレクサンドル・デュマ(1802-1871)、オノレ・ド・バルザック(1799-1850)の3人でしょう。ヴィクトル・ユゴーといえば、『ノートルダム・ド・パリ』(1831年)はロマン主義文学の代表作として全世界で愛読されていますが、彼は昼夜を徹して4か月半で書き上げたという話です。彼には『レ・ミゼラブル』(1862年)という傑作もあります。「晩年は文壇に君臨し」た彼の葬儀は200万人が見送る国葬だったとか。また彼は生涯に3500枚以上ものペンとインクによる淡彩画を遺しています。そこからはレンブラントの版画などオランダ絵画の影響を色濃く感じることができます。今回の展覧会には、「嵐の古城」(1837年)、「3本の木のある風景」(1850年)などが展示されています。
アレクサンドル・デュマ『三銃士』(1844年)や『モンテ・クリスト伯』(1844-46年)などの歴史小説や劇作家として知られ、多作(282巻)で一世を風靡しました。その個性的な風貌は、写真家ナダール(1820-1910)による肖像写真やリトグラフによって知ることができます。、また、彼の息子は『椿姫』(1848年)で知られています。
そのほか『悪の華』(1857年)で知られるシャルル・ボードレール(1821-1867)、ロマン派の小説家ジョルジュ・サンド(1804-1876)などの肖像写真、ユゴーを崇拝するオーギュスト・ロダン(1840-1917)の作品では『着衣のヴィクトル・ユゴー、記念像習作』(1894頃)や文豪オノレ・ド・バルザックの『修道服を着たバルザック像』(1893頃)なども展示されています。


* 西脇順三郎編 『萩原朔太郎詩集』 白鳳社 1965年
* 『芸術都市パリの100年展』図録 毎日放送・TBS 2008年
仲町つれづれNO.164 2008年5月2日(金)
「主婦の友」ファイナル!
「主婦の友」6月号が発売になりました。表紙のタイトルの上に「最終刊号 91年間ありがとうございました」と書かれています。すでに2月に休刊のニュースが流れましたが、子どもの頃から身の回りにあった雑誌の一つとして感慨深いものがあります。平成5(1993)年から、大きく誌面が変わったものの、未婚率の高さなど今の女性のライフスタイルの変化に対応できなかったようです。「主婦」という言葉ではくくりにくくなったということでしょうか。販売部数はピーク時の10分の1にまで落ちこんでいたそうです。本離れだけでなく、雑誌離れも進んでいるのでしょう。昨年休刊した雑誌は218点(出版科学研究所のまとめ)とか、販売額の10年連続の減少など雑誌不況が続き、出版界も相当厳しい状況にあるようです。しかし、創業者石川武美(1857-1961)の理念「家庭の幸福と女性の地位の向上」という役割は十分果たしたものと思われます。
6月号の最後の頁には、編集長の挨拶文がのっています。「91年というのは、人間でも相当な長命ですが、雑誌の場合、それ以上に驚異的な長寿といえます。」「テレビもインターネットもない時代、実用記事だけでなく、娯楽や教養まで盛り込んだ文字通り婦人総合雑誌であった時代に、家庭を守る主婦にとって、『主婦の友』がいかに大きなものであったか、当時のバックナンバーの数々を読んで、あらためてそう思いました。」と振り返り、「新たなスタートを切るための始まりだ」と書いています。

また、この6月号には、大正6(1917)年3月1日発行の第1号(当時は『主婦之友』・東京家政研究會発行)が復刻され、付録として付いています。定価は15銭と書かれています。その中に、今でも学ばなければならないことがたくさん詰まっています。
その一つに、佐治實然という人の「お金を上手に遣う五つの秘訣」というのがありました。

「第一‐大損を未然に防げ。第二‐不急の品を買う勿れ。第三‐保(もち)の悪い品を買ふ勿れ。第四‐坐して物を買ふ勿れ。第五‐金のかからぬ娯楽法。」
また、第一次世界大戦終結した大正7年(1918年)5月号には「物価騰貴難に際して我が家の安価生活法」があります。景気の悪化で物価が高騰して庶民の生活を直撃した時代に、インフレ時代を乗り切る主婦の知恵が特集されています。昭和14(1939)年11月号は「統制下の家庭経済号」と書かれ、戦争一色となっていく時代を反映して「燃料と光熱費の経済実験集」などが特集されています。
「毎日の積み重ねが大きな節約につながる」ということを、いろんなものが値上がりし、毎日の生活にも一層知恵を働かせることが求められている今日、あらためて実践したいものです。
す。

*吉田好一『ひとすじの道―主婦の友社創業者・石川武美の生涯』主婦の友社 2001年
仲町つれづれNO.163 2008年5月1日(木)
開国150周年!
佐倉市でも開国150周年記念事業が始まりました。この「開国」というのは、江戸幕府が日米修好通商条約に調印し、長く続いた鎖国統制を排して開国したという意味での「開国」ということになります。「開国」といえば、通史をのぞけば、津本陽さんの『開国』(日本経済新聞社)です。また、佐藤雅美さん(1941年生)の『開国 愚直の宰相堀田正睦』(講談社1995年)という本もあります。
津本陽さんの『開国』は、「小説新潮」の1990年2月号~1992年1月号に連載された「風と煙と」という作品が、改題されて単行本となりました。著者からサインをもらった時の本には、初版から1か月で3刷と書かれていますので、相当売れたのではないでしょうか。

最近の傾向を反映して通史でも対外関係が重視され、ペリー来航から開国にいたるまでがよく書きこまれるようになりました。「安政」という元号は「庶人、政ニ安ンズ」という古語が出典ということですが、しかし、幕末の激動期を迎えてしまったのです。その主役は、なんといっても井伊直弼でしょうか。
我が国の歴史において、歴史がどんなに大きく偶然性で動かされたかの実例は山ほどあります。「幕末における井伊直弼の登場はその最大の見本」で、「本来なら、直弼は近江のどこかの大きな寺の住職になっていて不思議はなかった人物」(野口武彦)だったそうです。 彼が、望外の運をつかんだのは、弘化3年(1846)に世子直元の病死という事態がおこったためです。売れ残りの彼が、本家相続の幸運をつかむことになったのです。「幕府で開国を推し進めている外国通の面々は、直弼が不学、無識である」として、「無智無能と侮られていた」(津本陽)ようです。彼はまた「彦根牛」といわれ、一見鈍重な外貌をそなえていたようです。また、幕末の志士からは「井伊の赤鬼」といって憎まれもしました。
堀田正睦らは「直弼の存在をほとんど無視していた」が、直弼は、堀田が公家の応対で悩まされている時、長野主馬義時(国学者)を京都へつかわし「公家堂上方への周旋をおこなわせようとした」り、「日頃、堀田が自分を軽んじているのを知っていたが、徳川家のためには彼を援助しその使命を達成させてやらねばならないと考えていた」ということです。
津本さんの『開国』は、天保14年(1843)3月末の上総富津の海岸風景から始まります。上総海岸の守備を命じられた武州忍十万石の藩主、松平忠国の眼を通して、物語が展開されていきます。忠国は長期にわたる海防の功により、その後下総守、江戸城溜りの間詰め、侍従となるなど破格の待遇をえていきます。実子は早世したので、水戸中納言斉明の九男九郎磨(忠矩)を養子に迎えています。早くから砲術の充実に努め、開明派諸侯らと交流し、西洋の新知識の吸収に努めています。
しかし、「直弼が最も危険人物と見ているのは、松平忠国であった。彼は直弼を大老に推した人物であったが、老中となってのち、我がつよく目に余る傍若無人の言動が多かった。」ということで、安政5年(1858)6月19日条約調印の後堀田正睦と共に登城停止にされ、23日老中を引退させられるのです。
そして、この『開国』は、桜田門の変、「万延元年(1860)3月3日」(正しくは安政7年)、井伊直弼が江戸城外桜田門外で襲撃を受けて暗殺されたことで終わります。積雪のなか井伊家の行列に、水戸脱藩者ら18人が襲いかかり乱闘の末、「直弼の首をとった」のです。
「彼は開国したのち、国力充実を待って攘夷をおこなう念願を抱く、幕府における最後の強力な保守派リーダーであった。」ということです。幕府の権威は衰退するばかりで、「日本の前途は風声ただならない闇にとざされ、暁はまだ遠かった。」というわけです。
歴史の激動期には、誰が政治権力を握るかが重要であり、それもよほどの個性がないと大波を乗りきれないのでしょう。今の世も、幕末から学ぶことが多いのではないでしょうか。

*津本 陽 『開 国』 日本経済新聞社  1993年
*佐藤雅美 『開国 愚直の宰相堀田正睦』 講談社  1995年
*野口武彦 『井伊直弼の首』 新潮新書  新潮社  2008年

仲町つれづれNO.162 2008年4月29日(火)
ラクダとともにやってくる!

アフリカのケニア東部ガリッサ近郊の村で、本を積んだラクダが学校を訪問する「ラクダ移動図書館」が子ども達に親しまれているという話が、4月18日付の「千葉日報」紙に出ていました。
朝8時に、本約100冊の本の入った木箱を4個、図書館が所有するラクダ3頭のうちの2頭に2箱ずつ載せ、もう1頭には子ども達が中で本を読むためのテントを積むのだそうです。そして、炎天下40度以上にもなる中、8キロ先の村まで砂道を歩いて行くそうです。ラクダは早足なので、ついていくのが大変とか。約2時間で着き、約2時間滞在してまた帰る、これを月曜から木曜まで、近郊の学校を1日1校ずつ回っているそうです。

この地域はソマリ民族の遊牧民が多く、就学率向上の意味からも、1996年からこのサービスを始めたとのことです。「子どもたちは月に数回のラクダ訪問を楽しみに待っている。」そうで、その効果は出ているようです。
こんな話を職員にしたら、アメリカでは図書館員がロバに乗って遠隔地に住む人々に本を届けて回ったという話もあるとか。移動図書館の原点が、このあたりにあるのでしょうか。

本館の移動図書館車「さくらおぐるま号」は、昭和54(1979)年7月24日から運行を始めました。当初はステーション8か所、積載冊数1、300冊でした。2年後に新車の導入により、ステーション12か所、積載冊数2,200冊。さらに平成2(1990)年10月4日から現在の「さくらおぐるま号」が導入され、積載冊数も3,000冊になりました。昨年度(2008年3月末現在)は、2,939人、15,458冊の利用がありました。(詳しくは「佐倉市の図書館」2007年版をご覧ください。)

*『ビッグコミックオリジナル』(5月5日号)の、欄外の「ミニ知識」に、有名人の逸話として、移動図書館のことが書かれていました。それによると、10世紀のペルシアの宰相、アプール・カッシム・イスマニエルは学問好きで、12万冊の蔵書をもち、旅行や遠征のとき4百頭のラクダに積んでいったそうです。
移動式の私設図書館といった風情でしょうか。

仲町つれづれNO.161 2008年4月25日(金)
絶望の中に差し込む光を求めて

『あの空をおぼえてる』(原題Wenny Has Wings、浅尾敦則訳)という小説は、無名の著者ジャネット・リー・ケアリーの初の翻訳書ながら、15万部のベストセラーとなり、今月、文庫本化もされました。この本が発売されるまでの経緯が『asta』の4月号(ポプラ社)に書かれています。
小説の内容は、妹と二人で買い物に出かけた際に交通事故に遭い、一人生き残った11歳の少年ウィルが主人公の物語です。幸せな一家を襲った突然の悲劇、妹ウェニーの死を嘆くばかりの両親のそばで、ウィルが行き場のない想いを妹への手紙として書くという形式で、物語が綴られていきます。家族がそれぞれに苦しみを抱えながらも、絆を回復していく姿が丹念に描かれ、そして、「生きていく」という大切さ、幸福を実感できるメッセージが書かれています。
原作者のジャネット・リー・ケアリーさんは「カリフォルニア州ミル・バレーで、古いセコイアの木々に囲まれた家で育った。夜には星々の下でセコイアが巨大なシルエットを作り、朝になると木々のあいだにたちこめた霧を切り裂いて太陽の光がさしこむー作家になるのを最初に夢見たのはそんな神秘的な場所だった。」とカバーに紹介されています。
そんな環境の中で育った著者だけに、読者は読み進む中に神秘的な光景を随所に思い浮かべることになります。彼女の話では、「書き始めるまで1年近くかかったのですが、臨死体験を物語に織り込むこと、そして手紙という形式で物語を書くことを決めたら、筆が一気に進みました。」とのこと。さらに「妹をもつ少年の視点で書いたことで、兄の立場が理解できるようになった」とも。(『asta』5月号の記事より)

この度『あの空をおぼえてる』(冨樫森監督/ソニー・ピクチャー配給)というタイトルで映画化されました。4月26日からロードショーされます。映画では、日本のとある地方で写真館を営みながら幸せに暮らす4人の家族という設定になっています。父親(竹野内豊)が自責の念から家族をいたわる余裕もなくなり、籠る姿とは対照的に、悲しみに一人で耐えようとする子ども(広田亮平)の優しさと逞しさが印象的でした。ジャネット・リー・ケアリーさんの体験したという、原作に出てくる「死のトンネル探検」のトンネルと、映画の中のそれはよく似ているなど、「まったく違和感がなかった」そうで、それほどうまく映像化されたといえます。ファンタスティックな映像美とともに、平井堅による書き下ろしの主題歌『いつか離れる日が来ても』という曲も、深く残るものでした。


*同じ日に、イラクから突然届いた妻の戦死の報に悲嘆にくれる父親が、娘たちにどう真実を伝え、どう家族として受け入れていくかという、類似なテーマの『さよなら。いつかわかること』(原題:『Grace is Gone』)/ジェームス・C・ストラウス監督/ザナドゥー配給)を観たので、重い一日となりました。


ジャネット・リー・ケアリー『あの空をおぼえてる』ポプラ社 2003年

仲町つれづれNO.160 2008年4月23日(水)
本が教えてくれること~広がる世界の喜び

新しい年度は始まりました。大人も子どもも、新学期を迎えて気持ちが改まる季節です。4月から5月にかけては子どもの本の運動月間で、世界中で活発な活動が行われています。未来を担う子どもたちが、一冊の本によって生きる喜びを見つけられたらと、今の時代は特に願わずにはいられません。
今日は「子ども読書の日」です。「子どもの読書活動推進法」という法律で定められたものです。昨年は当館が「子ども読書活動優秀実践図書館」として文部科学大臣表彰をいただいた日でもあります。さらに、今日はユネスコが制定した「世界本の日」でもあります。
どうしてか?というと、この23日は「サン・ジョルディの日」だからだそうです。日本でも本屋さんなどで目にする言葉ですが、もともとはスペインが起源で、男性は女性に花を贈り、女性は男性に本を贈るという、守護神サン・ジョルディを讃えるスペイン・カタルーニャ地方のお祭りからだとか。また、この日は、ウィリアム・シェイクスピアとミゲル・デ・セルバンテス(代表作「ドン・キ・ホーテ」)の命日であることから、ユネスコがスペイン政府の提案を容れて、1995年「世界本と著作権の日」と制定したそうです。翌1996年の世界出版連合(IPA)総会で「世界本の日」の施行を宣言し、読書の持つ意義を世界が共通して広めることを誓いあう日、とされました。

*スペインの文豪セルバンテスの代表作「ドン・キ・ホーテ」は聖書に次いで最も翻訳されている本で、世界の著名文学者の投票による「史上最高の文学百選」(ノーベル研究所)でも1位になっています。
4月2日は「子どもの本の日」です。IBBY(国際児童図書評議会)で、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの誕生日を「国際子どもの本の日」と制定し、日本でもJBBYが設立され、国内での普及をめざして「子どもの本の日」と命名したそうです。

仲町つれづれNO.159 2008年4月18日(金)
「感動の瞬間」、ひとはそこから歩きはじめる

小説は書き出しで決まる、とよく言われます。そのために作家は最初の一行に心血を注ぎ時間をかけます。それが決まると、その後もスムーズにいくのだそうです。先月亡くなった松永伍一さん(1930-2008)との出会いを振り返りながら、過日、書庫に埋もれている本を探していたところ、何冊かをめくっているうちに目にとまった本がありました。
「桜が満開のところに奇跡のように雪が降った。自然にはこんな予期せぬことが起きるのだと、その雪景色を眺めていたとき、『人生にもこれと似たようなことが、天の贈りものとして届けられる』と、気がついたのだった。」
このような一文で始まる、『感動の瞬間』(大和書房2001)という本です。

当時71歳の松永さんは「心がときめくようなこの光景に見惚れているうちに、人生における感動の意味を掘り下げてみたくなった。」と書いています。誰もがそうでしょうが、若い時は感動しても「感動は私の財産」とか「感動が人生の肥になっていた」と言えるところまでには至らないものです。松永さんは「年を取るとそういうことが、自然に、しみじみとわかって来るもの」で、金銭では買えないのだといいます。だから「若い人たちにも、ささやかだが、お裾分けをしてあげたい」ということで、この本には、謄写版刷りの「雨ニモマケズ」、映画『生きる』の志村喬、ランナー円谷幸吉の遺書、バスのなかの葡萄の一房、縄文杉の霊気に包まれた、等々の18章に亘る感動のエピソードが収められています。
例えば、1984年(昭和59年)4月7日、54歳の時の「縄文杉の霊気に包まれた」という話は、「やっとの想いが叶ったときの感動は忘れられない。そして今も。」というくだりではじまります。屋久島の縄文杉に会いに行った時の話です。標高六百メートルあたりから屋久杉が見えてくるのだが、道中は辛かったといいます。「一本の巨樹が呼んでいる。」とか、「この樹に宿っていて衰えることのない霊気が呼んだのだ。」とか。「そこで私は『引っ張ろうとする力』を感じ、それに吸われるように歩き出した。」とか。

そして屋久杉に会って、「海抜千二百数十メートルの『生きものたちの森』で、樹が樹であることの意味と私が人間としてあることの意味とを、肉が火花を散らすような形で関係すればいいのだろう。」といいます。「風景のなかの位置をしかと見定めた上で『杉の生き心地を読む』こと」、自然界の秩序に対して謙虚になること。その霊気によって、「永遠」というものと呼吸を一つにすることの重要性を書いています。


(高田の桜)

(神輿と桜)
仲町つれづれNO.158 2008年4月13日(日)
ちょっと、COFEE BREAK
あなたはお茶党?それとも珈琲党ですか?突然ですが、コーヒーのお話です。
9日付の『日経新聞』の「数字・すうじ」欄に、コーヒー豆(生豆)輸入量が載っていました。年間38万9818トン。2007年は前年比8%減で、これは相場高騰のあおりを受けて、手控える動きが広がったためだそうですが、アメリカ、ドイツに次いで日本は世界第3位の輸入国とのことです。
職場でも、ちょっと休憩となると皆コーヒーを飲みます。最近では、街でも電車内でもテイクアウトしたコーヒーカップを持った人を見かけます。我が国でコーヒーの飲料が広まったのは、1920年代以降のことだそうです。1950年代以降に一段と普及し、缶コーヒー、ペットボトルコーヒーの浸透、近年のカフェブームやエスプレッソブームといったように、時代によって多様化が進んできています。今では、中高年齢層や女性のコーヒー指向の拡大により、日本で最も多く消費される嗜好飲料といわれています。コーヒーは世界でも最も日常的な飲料ですが、石油に次ぐ巨大な国際的貿易商品ということになります。全世界での1日当たりの消費量は約20億杯にもなるといわれています。

*永井荷風に、住まいから千葉街道周辺を散策した様子などを描いた『葛飾土産』(1947年)という小品があります。「菅野に移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。」で始まるこの一文の中に、「銀座通りの繁華が京橋際から年とともに新橋辺に移り、ついに市中第一の賑いを誇るようになったのも明治の末、大正の初めからである。ブラジルコーヒーが普及せられて、一般の人の口に味わわれるようになったのも、ちょうどその時分からで、南鍋町と浅草公園とにパウリスタという珈琲(コーヒー)店が開かれた。それは明治天皇崩御の年の秋であった。」(昭和22年10月)というくだりがあります。
ここに出てくる南鍋町は現在の銀座6丁目にあたり、1909(明治42)年の春、誕生した3階建てのコーヒーハウス(パウリスタ)で、後の日本の喫茶業の原型となったといわれるものです。この店の出現によって、庶民が気楽に本格的なコーヒーを味わうことができるようになったといわれています。一杯5銭という安い値段だったとか。

*マーク・フランシス&ニック・フランシス(英)によるドキュメンタリー映画『おいしいコーヒーの真実』(原題:Black Gold)【アップリング配給】が5月末からロードショーされます。
コーヒーは赤道をはさんで北回帰線と南回帰線の間の約70カ国で生産されています。この映画は、コーヒーの原産国で、世界でも高品質のコーヒーを産出するエチオピアの農民と農協の代表が主演して、不公正なコーヒー産業の実態を描いています。エチオピアでは5人に1人がコーヒーで生計を立てているとのことですが、農民たちが国際市場で高品質で取り引きされるコーヒー豆の収穫のために働いても、その代価は低く、多くの農家は困窮し、農園を手放さなくてはならないという現実があります。いつも何気なく当たり前のように飲んでいるコーヒーが、どのように生産、加工、流通されているかを知ることができます。
「トールサイズのコーヒーが1杯330円。コーヒー農家が手にする金額は3~9円。あなたが飲む1杯のコーヒーから、世界のしくみが見えてくる。」(チラシのコピーより)というわけです。

*『日本の文学19 永井荷風(二)』 中央公論社 1965年
*「コーヒーと日本人」②(『Coffee Break 』Vol.68 全日本コーヒー協会 2008年)
仲町つれづれNO.157 2008年4月10日(木)
10日の賑わい
ここ仲町界隈は、毎月10日は多くの人々で賑わいます。佐倉の金毘羅様の縁日(正式には甚大寺金毘羅縁日)が開かれ、近郷近在から善男善女が集まって見えるのです。毎月4の日に開かれる「巣鴨とげぬき地蔵尊」の縁日の賑わいとまではいきませんが、残念ながら、ここ2カ月は、雨の縁日になってしまっています。
天台宗安城山の甚大寺は佐倉藩主堀田氏の菩提寺です。寺内に安置されている金毘羅尊は寛政年間(1789-1800)に勧請されたといわれています。

佐倉在住の作家笙野頼子さん(1956年生)に『金毘羅』(集英社2004年)という作品があります。 「越してから二年程は佐倉の地図で見た神社に闇雲に出掛けました。そして神社という概念を破壊されました。」と書かれているこの作品は、『すばる』2004年4月号に発表されたものに加筆訂正をおこない、単行本化されたものです。笙野さんの作品は、小説なのか自伝なのか区別がつけにくい内容が多いのですが、巻末には「この小説は異端、或いは反主流の学説を多く根拠にした空想の含まれる作品です。その他も研究書、論文の通りにはなっていませんのでご注意下さい。・・・」と著者自身あえて記しています。本のカバーは、雑誌『夜想』や『文藝』の表紙でおなじみのミルキィ・イソベという人のCG技術を駆使した装幀で、とても魅力的なデザインになっています。
一般的に「金毘羅」には、金比羅、琴平、事毘羅などいろいろな漢字があてられています。金毘羅といえば、ヒンドウー教のガンジス川の神クンビーラが仏教にとりいれられたもので、「鰐の神で、今は大物主という、奈良の大神神社の祭神としてもその名を知られる、蛇系の神と一体化している神様」(笙野)です。元来水神ゆえに、日本では海上交通の守り神として信仰されています。
作品の主人公は、金毘羅です。1956年3月16日深夜に生まれてすぐ死んだ赤ん坊(女の子)に宿り、生きている性別のない魂で、今47歳ということです。笙野さんの小説だから当然のごとく図書館の近くの金毘羅様も出てくるのではと短絡的に思いながら頁をめくっていたところ、「弐」章以降に出てきました。
「四十越えてから千葉に越して」きた私は、佐倉は「金毘羅にはふさわしい土地」というか「習合的土地」といいます。佐倉中の神様を拝み歩いた結果、「行ってみると完全に『仏様は神様です』の世界に突入していました」と。
彼女は「金毘羅受難の地、伊勢で育った」人だけに限界もあるようで
「伊勢の神社は全部本当に神社らしい。」形式は、神仏分離の端正なもので、「その清潔さや完成度が私には無理だった。拝みながら微妙に嫌われていると感じる」のだと。
ここでは、金毘羅のいろいろについて詳しく書かれています。「元々日本の神は習合し易いのです。しかし何かあると国家神に結局乗っ取られ纏められます。だから纏められにくくわけの判らない、つまり伊勢神宮の支配下に置き難い存在である金毘羅こそ、カウンター神として向いていたのである。」「その上に侵入した寺社を金毘羅は乗っ取ります。」「金毘羅はその権力志向を押え付け食ってしまうのでした。」金毘羅を克服しようとしながらも「金毘羅は判らない。だけど金毘羅にはなんでもある」といいます。そして、最後は「金毘羅だ!私は金毘羅になった!」と叫びます。
筆者の真意を読みこなしていないだけに、ここまで来るのにも、なかなか疲れる大変な作業でした。

*本書の中から―研究書によると「金毘羅参りは伊勢参りに匹敵する程さかんだった」そうで、「金毘羅には何とも言えぬ神秘があるという事」なので、「要は歴史の表に出てきてから比較的日が浅いのだ。根が古いのにルーツが判らん。研究も後発、でも親しみが持てる。」ということです。

*佐倉地域文庫連では、金毘羅縁日当日、10時半から11時15分まで佐倉市立美術館ロビーにおいてお話し会を行います。どうぞお出かけください。
仲町つれづれNO.156 2008年4月4日(金)
気高く咲く「山桜」
「木は少し傾いていて、傘のように道の上に枝をひろげていた。花弁のうすい山桜だったが、その下に立つと、薄紅いろの花が一面に頭上を覆って、別世界に入ったようだった。」
「清楚な花も、これだけ折り重なって咲いていると豪華な趣がある。花はかすかに芳香をはなっていた。」
藤沢周平(1927-1997)の短編集『時雨みち』(青樹社1981年)に収められている『山桜』という作品の一文です。文庫本で、わずか21頁ほどの短編です。『山桜』は昭和55年2月に発表されました。ちょうど厳寒の中、故郷を想いながら春を待望して書かれたものでしょう。
今年、桜はあっという間に満開になりました。日本人は、ただ花見をして楽しむだけではなく、古来より桜に様々なことを投影してきました。「桜の中で一番は?」と問われたら、ちょっと遅れて咲く「山桜」と私は答えます。あくまでひっそりと、気高く咲いています。
最近、篠原哲雄監督(1962年生)により、田中麗奈主演で映画化(東京テアトル配給)もされました。ここ数年、『蝉しぐれ』など藤沢周平作品が次々と映画化されて話題を呼んでいますが、この『山桜』のプロデューサー小滝祥平さん(1957年生)は、9年間あたためて満を持して製作したということです。(藤沢作品の映画化は5作目になります。)
舞台は、郷里の鶴岡をモデルにした海坂藩です。春の雪解け水のシーンから始まり、夏の雲、秋の紅葉、冬の雪と四季折々の自然の映像が美しい限りです。山桜の映像も藤沢の文章そのものです。藤沢は多くの作品において、武家社会の主流ではなく、傍流の男たちが、柵(しがらみ)の中でも人間らしくあろうとする姿を描いていますが、この作品の主人公、野江(田中麗奈)は2度の不幸な結婚を経験し、3つの家を行き来します。嫁という女性の立場から「義」を通します。もう1人の主人公は正義感と誠実さに満ちた武士・手塚弥一郎(東山紀之)です。映画で演じたこの二人は、いずれも凛として、こんなにいい役者だったのかと思うくらい見事に演じています。この映画には庄内平野の風景ばかりではなく、「佐倉のあるところ」がでてきます。ぜひお見逃しなく。
篠原監督は、藤沢周平の作品から「人は簡単には幸せになれない。互いに想う気持ちを持ちながら、我慢に我慢を重ねた後にとめどなく心を震わす瞬間こそ幸せへの出発なのだ」と教わった、といいます。

*藤沢周平 『時雨みち』 新潮文庫 1984年


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