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図書館ホーム > 仲町つれづれバックナンバー > NO.140~NO.155(2008.2~2008.3)

仲町つれづれNO.140~NO.155 ~佐倉図書館通信~

仲町つれづれNO.155 2008年3月29日(土)
桜の美しさに死を見たもの

「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」。桜といえば必ずと言っていいほど引用される小説は、この強烈な一文で始まります。天才と呼ぶにふさわしい作家、梶井基次郎(1901-1932・3・24)の『桜の樹の下には』という短編(1927年10月)です。「桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかし今、やっとわかるときが来た。」、冒頭のフレーズについては「これは信じていいことだ。」と書いています。そして「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。」で終わっています。
この花の美しさは「真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。」、それは「音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない。不思議な、生き生きとした、美しさだ。」と書いています。梶井は桜の奥深い美しさに生命の極みである「死」を見ています。


*この作品は、1927(昭和2)年に病が悪化した梶井が、転地療養にきていた伊豆・湯ヶ島の湯川屋(当時旅館は3軒)で書いたものです。梶井は「読み返して見れば見るほど不備な」作品だと手紙に書いたほどで、あまり乗り気ではなかったそうですが、1928(昭和3)年12月発行の『詩と詩論』第2冊に散文詩として掲載されました。これには「あれは小説だ」と後に苦情を漏らしたとか。また『檸檬』に収録の際は、四つの断章からなる作品の最後のひとつが削られたということです(鈴木貞美)。
また、伊藤整との付き合いは短いものでしたが、当時飯倉片町の下宿で『桜の樹の下には』のイメージを聞いたとか(伊藤整『若い詩人の肖像』(1955)より)。一方「三好達治は、自分が話したところ、基次郎が一晩で作品に仕上げた、と語った」そうです(鈴木貞美)。

*当時の社会状況や、梶井が出会った書物や人々などを併せて知ると、面白いことがわかります。梶井はわずか20篇のごく短い作品を残しただけにもかかわらず、没後次第に高い評価を得ていきます。彼が湯ヶ島に来たのは、尊敬する川端康成(湯本館)がいたからで、川端の『伊豆の踊子』の素材になった旅芸人の一行を観たのも、この頃のことでした。
また、桜を扱った作品もある宇野千代(1897-1996)に初めて会ったのは、湯ヶ島の路上だったと言われています。宇野は、湯ヶ島には川端康成が逗留していたことが機縁で、尾崎士郎との別れ話が出るような倦怠状態の最中、息抜きを求めて訪ねるようになったとか。梶井は次第に好意を抱くようになっていきます。その後頻繁に手紙などを出したり、宇野が神戸に住むようになると泊りがけで訪ねて行ったりしています。
宇野の『私の文学的回想記』には、梶井が散歩の途中、さっと着物を脱いで橋の上から川に飛び込んだ話が出てきますが、「この人は危い、と私が思った最初でした。」と振り返っています。また、梶井を尊敬していたのか、恋していたのかとした上で、「恋しているものしか持たない心持ちを持っていた」とか、男と女の間には「恋情に似た感情が混じらないと、友情もまた、成立たないもののように」思う、とも書いています。
さらに、宇野の『自伝的恋愛論』に収められている「「残された者の悲しさとは何か」という一文の、「Kという文学青年」が梶井のことだとすれば、「その作品に恋いしていたのかも知れません。いや、やはり精神的に恋いしていたと言うのかも知れませんが、自分に恋愛の自覚症状がないものですから」等と書いています。
ある編集者の話では、生前に宇野が墓参りに行ったのは、尾崎士郎と梶井のところだけだったとか。
いずれにしても、華やかに情熱的な一生を送った宇野ですが、「私にとって桜は幸福の花」と書くほど桜を愛していました。特に、『薄墨の桜』(1975)のモデルでもある、岐阜県根尾(現在の本巣市)にある樹齢1500年余の「淡墨桜」の保護・再生を訴えて活動もしました。


*梶井基次郎 『檸檬』 武蔵野書院 1931年 (新潮文庫、1967年)

*鈴木貞美 『梶井基次郎 表現する魂』 新潮社 1996年
*宇野千代 『私の文学的回想記』 中央公論社 1972年
  『思いのままに生きて 私の文学的回想記』 集英社文庫 1998年
*宇野千代 『自伝的恋愛論』 大和書房 1984年

*宇野千代生誕111年の特別企画展として、4月3日から15日まで銀座ミキモトホールで「宇野千代銀座スタイル展」が開かれます。宇野は雑誌『スタイル』(1936年創刊)を発行したり、着物会社を設立して自らデザインもやっていましたが、それらの資料が展示されます。右の写真のように「花より団子」の方も、この機会に、小説とは別の魅力の一端に触れてみてはいかがでしょうか。
仲町つれづれNO.154 2008年3月25日(火)
今も継がれる「郷中教育」-映画『チェスト!』を見て
鹿児島には「郷中(ごじゅう)教育」と呼ばれる薩摩藩の伝統的な縦割り教育があり、400年以上受け継がれてきています。この「郷中」とは、今でいう町内会のようなもので、4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基礎にした自治会組織のことで、当時は約30の郷中があったといわれています。
「郷中」では、勉学、武芸などを通じて、先輩が後輩を指導して強い武士を作ろうとしたそうです。稚児と呼ばれる武士の子供たちが先輩である地域の15歳から25歳ぐらいまでの青年たちのところに行って、読み書きや剣、槍、弓、馬術等の稽古をしたようです。そこには「負けるな!うそをつくな!弱い者をいじめるな!」という掟、基本精神がありました。異年齢の集団の中で、心身を鍛え、人として身につけるべき大切な素養を学んでいくのです。大人は口出しをせず、見守るのみだということです。
最近、この伝統的教育を扱った『チェスト!』(雑賀俊郎監督・ティ・ジョイ配給)という映画を観ました。「チェスト!」とは「自分を乗り越えるための合言葉」だそうです。主人公の吉川隼人はやんちゃで正義感が強いクラスの人気者でしたが、彼は「カナヅチ」、泳げないということを隠しています。毎年開かれる「錦江湾横断遠泳大会」、桜島から対岸までの4.2キロを泳ぐものですが、彼は病気やけがとうそをついて欠席していました。今年は小学校生活最後の大会ということで、周囲の大人たちに支えられながら困難を克服していく姿を追っています。この「錦江湾横断遠泳大会」は大正時代から続いている伝統的な鹿児島の行事で、子離れの儀式でもあるということです。
映画の主役は1550人という応募者の中からオーディションで選ばれたとのことです。そして一か月の合宿生活に耐えて、30度を超える気温と日差しにも負けない子供たちであったということです。ぜひご覧ください。

*この「郷中」は幕末を舞台にした小説などで紹介されることも多いようです。それほど密度が濃いものだったということでしょうか。例えば、西郷隆盛の育った加治屋町(方限)は当時約70戸。そこから、西郷隆盛、西郷従道、大久保利通、吉井友実、伊地知正治、篠原国実、村田新八、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛などたくさんの偉人がでています。

*薩摩出身の海軍大将、政治家樺山資紀(伯爵)を祖父に持った白州正子(1910-1998)は、『白州正子自伝』(新潮社、1999)の中で祖父の若き日の姿に見る郷中教育の教えにふれています。祖父樺山資紀は、示現流(剣術)の達人で、「橋口覚之進と名乗っていた時代に『郷中』の年長格として、人間を一人殺しています。相手は同朋の指宿藤次郎をみすみす見殺しにした人物」で、「卑怯者を制裁したその太刀はまことに素早いものだった」(馬場啓一)そうです。津本陽さんの『薩南示現流』(文藝春秋、1983)にもでてきます。
*白州正子は東京生まれ、東京育ちですが、自らのルーツである薩摩をどうしても書かねばならなかったのです。馬場啓一さんの『白州正子の生き方』(講談社、2000)によると、ここで取り上げた「郷中」の中で育まれた男と男の肉体の交わりが彼女の中に知識として入っていて、その知識の上にいくつかの要素を加えて著したのが『両性具有の美』(新潮社、1997)という晩年の著書になるということです。

*今年は北京五輪の年ですが、高さ10mから飛び込む飛び込み競技を扱った「DIVE!!(ダイブ)』(熊沢尚人監督・角川映画配給)という映画もあります。飛び込み競技は日本ではマイナーですが、欧米では非常に人気の高いスポーツで、過去3度のオリンピックで最も高い視聴率をあげているそうです。近年中国の選手が台頭して上位独占しているようです。日本のエースは寺内健選手で、この映画にも特別出演しています。
原作は直木賞作家・森絵都さんのベストセラー小説(2000)で、彼女自身も脚本協力で参加しています。出演者は3か月の猛特訓を経て、見事なアスリート体型に変身して10mからの飛び込みもこなせるようになったということです。わずか1.8秒という、一瞬で勝負が決まる競技だけに、ダイナミックな迫力を表現するため、映画『スパイダーマン』などで使用された“スパイダーカム”という最新キャメラを使用しています。
6月14日公開、出演者―林遣都、池松壮亮、溝端淳平、瀬戸朝香、蓮佛美沙子、光石研、江守徹)
仲町つれづれNO.153 2008年3月21日(金)
野村胡堂『三万両五十三次』の話
堀田備中守正篤(1810-1864・3・21)は、安政3(1856)年10月1日、篤姫が御台所になるということで、その名を避けて正睦に改名しています。
安政4(1857)年末期、堀田正睦は老中首座でした。当時の江戸では、表面は通商条約締結の問題が沸騰しつつあり、裏面は将軍継嗣問題の暗闘最中でありました。その中において堀田正睦は、ハリスとの折衝や、国内の合意形成に励んでおりました。「彼は比較的心を秉(と)る公平にして、偏党の見なく、しかも他の閣僚、もしくは諸大名に比して、もっともよく海外の大勢に通暁していた。」(徳富蘇峰)といわれるゆえに、開国家であり、やがて安政の大獄ということになります。
『銭形平次捕物控』の原作者として知られる野村胡堂ですが、『三万両五十三次』(上下巻、中央公論社、昭和9(1934)年)という作品があります。元々は報知新聞の連載小説(1932年3月-33年8月)として書かれたもので、話の内容は安政5(1858)年1月から始まります。変転きわまりなき幕末の江戸、老中堀田正睦が通商条約勅許のために、公家懐柔の費用として京へ送られんとする三万両をめぐる話です。堀田正睦は、浅草の娘手妻浅若一座の用心棒で、実は公儀隠し目付の馬場蔵人に大任を申しつけます。京までの道中、この三万両を力づくで奪おうとする倒幕の志士達をはじめ、様々な人々が登場し、複雑に入り組んだ人物関係の中でストーリーが展開していきます。昔の東海道五十三次の旅の模様も浮かび上がって、今流にいえば、ロードノベルということになります。
この「堀田備中守が、三万両の公卿買収費を携えて京都へ行く―」という話、実は、全く嘘とは思えません。歴史学者の書かれたものにも、贈物の他に「三万両を用意していたと噂された」という表現があります。結局は、堀田正睦の上京もむなしく、失敗に終わりました。幕府側が公家側の複雑な内情に通じていなかったり、勅許獲得を安易に考えていたことがわかります。
当時大ヒットしたこの作品は、1933年清瀬英次郎監督(日活京都)、1952年木村恵吾監督(大映京都)、1959年小沢茂弘監督(東映京都)によって映画化されています。

*堀田家歴世の事蹟を記述した熊田葦城著『佐倉史談』(国書刊行会、大正6(1931)年、昭和61(1986)年復刻)や千葉県内務部の『堀田正睦』(昭文堂、大正11(1922)年、千葉県郷土資料刊行会、昭和47(1972)年復刻)などにも「黄金50枚を献し、関白、太閤、及び両傳奏に白銀若干づゝ贈り」しという話が出てきます。

*野村胡堂による当時50代の堀田正睦像は、「色の黒い、長身肥大の人物、その頃の殿様らしい、ノッペリした上品さはありませんが、その代り、精力絶倫で、自尊心が強く、その上申し分のない賢さの持ち主」というふうに表現しています。「これだけの要職にありながら、学問慾がさかんで、蘭学は自慢であったというくらいですから、この人の開港主義にはかなり根強い拠り所があったのでしょう。もっとも、肥大な中年過ぎの権力家にありがちの、性格の弱さはあったらしく、一方将軍継嗣問題では、水戸の意を迎えながら、一方公卿を買収して、開港意見を押し通そうといった、矛盾した目論見を立て、開港論者からも、攘夷党からも、あまりよくは思われなかった人物」と書いています。
堀田正睦は佐倉市や千葉県の先覚者の一人として顕彰されていますが、今回は堀田正睦に対するマイナス評価の一例を取り上げてみました。

* 野村胡堂 『三万両五十三次』 全4巻 中公文庫 1982年
* 徳富蘇峰 『堀田正睦』 近世日本国民史 全5巻 講談社学術文庫 1981年
* 日本史籍協会編『竹亭回顧録維新前後』(高瀬真卿編)東京大学出版会1982年復刻
仲町つれづれNO.152 2008年3月19日(水)
ある女性の生き方-NHK大河ドラマ『篤姫』に見る

今年のNHK大河ドラマ『篤姫』の原作は、宮尾登美子さんの小説『天璋院篤姫』(講談社1984)です。元々は日経新聞の連載小説でした。昨年3月に文字を大きくして出された講談社文庫の新装版は、1月19日に12刷が出版されたとか。上下巻合わせて96万部、単行本も上下巻で2万8500部と好調だということです。TVドラマ化により、篤姫の「夫を助け、聡明で凛とした生き方」が女性のハートを射止めたのでしょうか。
薩摩藩島津氏の分家で生まれた天璋院(篤姫・敬子、天保6-明治16年(1835-1883))は、幕末から明治への激動の時代を生きた人です。19歳の時に藩主島津斉彬の養女となり、さらに22歳で近衛家の養子となって、徳川13代将軍家定の正室として嫁ぎます。夫の急死後、24歳で若き14代将軍家茂の養母として、江戸城大奥の頂点に立つ御台所となり、徳川家の存続に奔走しました。
江戸城大奥の女たちが時勢にどう反応を示したかを知る作品には、有吉佐和子の『和宮様御留』(講談社1978)という著書もあります。宮尾登美子の作品は、和宮の姑にあたる天璋院を主人公に、歴史小説に必要な時代背景も編年体風に書かれていて、予備知識のない人にもわかりやすく、女性の側から徳川家崩壊の様を描き出しているともいえます。
作家阿井景子さんは「男性作家の及ばぬ心のひだに光をあて、天璋院の気持を焙り出している。」「政略の具として“弱き夫”に嫁いだ篤姫は、負の人生を持ち前の利発さでプラスに転じ、誇り高く生きているからである。全編に漂うしなやかさ、潔さ、艶やかさ、力強さは筆者の投影であろう。」と述べています。(『宮尾さんのプロフィール』全集月報10、1993年8月)

江戸東京博物館では、4月6日まで特別展「天璋院篤姫」展が開かれています。篤姫と彼女を取り巻く人々のゆかりの品、華麗な調度品、幕末の騒乱を伝える歴史資料が展示されています。
天璋院の病状、死去について記した『海舟日記』巻十七(明治16(1883)年11月条)によると、天璋院の病気は佐倉ゆかりの松本良順、林研海、橋本綱常等の名医が診察に当たり、中風とされていましたが、ベルツは血栓と診断したということです。
天璋院が御台所であった期間はわずか1年半余りでしたが、ちょうど幕府が条約勅許問題、将軍継嗣問題に大きく揺れ動いていた時でもあります。書状類では、前後がないとわかりにくいのですが、薩摩藩主島津斉彬の意向などが絡み合ったりしながらも、徳川家存続への思いが強く出ているのがあって興味を引きます。
今年はちょうど通商条約締結150年ですが、当時米国が英や仏の来日前に通商条約を結ぶよう迫るなど、対外問題に苦慮していましたが、老中の対応に立腹する家定の様子を伝える敬子(天璋院)の近衛忠煕宛の書状(安政5(1858)年)の中には、堀田備中守や松平伊賀守の罷免(6月23日)のことも書かれています。
また、将軍継嗣問題に関して、薩摩や越前等の藩士が、一橋慶喜を家定の継嗣に据えようと朝廷に働きかけていることに対し、「いずれ家定との間に子供もできるからと、継嗣について朝廷から御沙汰なきよう願っている」(作品解説より)という内容の「敬子(天璋院)書状 近衛忠煕宛 安政五年」があります。
一方、その書状は「自らの意志で書いたものではなく、歌橋(家定の乳母)など大奥の人々の意向に配慮したものであると弁明している」(「つぼね(幾島)書状 近衛家宛 安政五年二月」)とするものもあります。このような面従腹背の書状からも、大奥での激しい攻防の様子を窺い知ることができます。


*『宮尾登美子全集 第10巻』朝日新聞社 1993年
*徳川和喜 『天璋院篤姫徳川家を護った将軍御台所』新人物往来社  2007年
*畑尚子 『幕末の大奥天璋院と薩摩藩』岩波新書 2007年
*鈴木由紀子 『天璋院篤姫と和宮』幻冬舎新書 2007年

*阿井景子さんは編集者を経て作家になられましたが、『わが心の師清張、魯山人』(中公文庫)も書かれています。

仲町つれづれNO.151 2008年3月12日(水)
春は、別れの季節・・・
今日、市内の中学校では、卒業式が行われました。
3月は、卒業シーズンです。個人的には、「別れ」というより「新たな旅立ち」というイメージを持っていたところ、その気分にぴったりの詩に偶然出会いました。

出発するのです 山本瓔子(やまもとようこ)

出発するのです
知らないところが いっぱいあるから
出発するのです
朝日が 梢を はなれるように
風が 林を 吹きぬけるように
出発するのです

暗い土の中から
つき出た 草の芽
とじこめられたものを
はねのけていくたのしさ

出発するのです
知らないところが いっぱいあるから
出発するのです
よろこびが 波を 打ち上げるように
雲に向かって 舟が 進むように
潮鳴りが 空を かけめぐるように

   「しあわせの角度」山本瓔子詩集Ⅰ心のメッセージ
                    (新風舎2003年) 所収


*この詩には、メロディもつけられているようです。山本さんは、このほかにも、たくさんの詩を書いています。また、「詩と童謡館ポエムビレッジ 山本瓔子・詩のギャラリー」館長さんでもあります。興味のある方は、ホームページ等をご覧になってみてください。



訪問おはなし会をしていた佐倉東保育園の年長
組の園児さんから、手作りのプレゼントや手紙を
いただきました。たまねぎさん、卒園おめでとう!
仲町つれづれNO.150 2008年3月11日(火)
「女は海、男は舟」池田満寿夫の命日に
休日に、河津桜を見に伊豆へ行ってきました。そこで思い出すのは、晩年熱海に住んでいた池田満寿夫(1934-1997)です。佐倉にも二度ほど来てもらったことがあり、この新町通りのお蕎麦屋さんにも色紙(1994年)が飾られています。1997年3月8日に63歳で急逝、熱海の海を一望するところに自作をもとにした墓碑があります。パートナーの佐藤陽子さんの書かれたものによると、二人とも桜が好きで桜の木をたくさん植えたが、「9年目の花見頃に満寿夫はわずかながら間に合わなかった」ということです。
池田満寿夫は従来の芸術の枠にとどまらず、多彩に活躍した芸術家でした。「何よりも義理人情に厚く、人の裏切りを最も嫌い、あまりにも純だった人」(佐藤陽子さん)で、1980年の佐藤陽子さんとの新しい門出を祝う会に出て以来、私にも気軽に話しをしてくれ、酔えば肩を組んで歌ったりもしました。「子弟関係は一生持たないと言い切っていた」池田ですが、亡くなった年の4月から多摩美術大学教授として後進の指導をすることになっていました。新たな展開が期待された矢先の死でした。残念至極。
今年の正月に、銀座の路上販売で、池田満寿夫の最初の小説集である『エーゲ海に捧ぐ』(角川書店1977)を見つけ、きれいな状態だったので、再び購入してしまいました。池田は、この作品で第3回「野生時代」新人文学賞(1976年4月号で発表)、さらに第77回芥川賞(昭和52(1977)年度上半期)を、三田誠広とともに受賞しました。

     (河津桜-2008年3月3日撮影)
なぜ文学にはまりこんだかということについては、この本の「後記」に、当時アメリカ東部の田舎町に住んでいて「ほとんど日本語をしゃべるチャンスのない状況」にあり、「頭のなかで日本語のひとり言をいうようになる。いつも頭のなかが言葉でいっぱいになってくる」ので、「日本語で何か書かずにおれなくなった」ためだと記しています。この作品は自らメガホンを撮り、映画化(東宝東和配給、1974年)されました。主演はのちにイタリアの国会議員になったチッチョリーナことイローナ・スターレルで話題になりました。
佐藤陽子さんは「小説家としては、例の芥川賞を受賞した『エーゲ海に捧ぐ』以外は大して売れなかった。しかし売れようが売れまいが、少なくとも彼の短編の中に満寿夫らしいキラリと光る傑作がある。もともと彼の思考は、時代より先走るきらいがあった。10年、時としては30年くらい先。」(「池田満寿夫について」図録所収)と書いています。
今、池田が若い頃住んでいた淀橋の近くにある東京オペラシティアートギャラリー(初台)で、「池田満寿夫―知られざる全貌展」が開かれています。(23日まで。4月には千葉市美に巡回されます。)
池田は、版画以外に挿画でも一流でした。著書『コラージュ アフォリズム』(創樹社1986)には300点強のカットやコラージュがまとめられていますが、当時、岩波書店の『図書』や『世界』、『朝日ジャーナル』などのほか、池田自身によると「様々な雑誌で使ったカット類はざっと800点」ということです。初期のものの大半は毛筆を使用して、人物や動物をモチーフに様々な姿態を素早いタッチで描いています。これらのほとんどは文章と関係なく描かれているということです。
子母沢寛の『曲がり角の人生』(読売新聞20回連載、1964年)の挿画も担当していました。『池田満寿夫 愛の瞬間』(美術出版社1987年)の中で、元読売新聞美術記者田中穣の描写によると「子母沢氏のナマの原稿をさらりと一度読んだだけで、たちまち描き終わるまでに5分とはかからなかった」ということが書かれています。また「そのデッサン力のすばらしさは勿論、テーマのつかみ方のうまさ、イメージのゆたかさにしても、なんともいいようがなかった。」「まさしく天才だなあと感銘した」ということです。(浜田重幸「池田満寿夫の線描と墨 池田満寿夫の陶とピーター・ヴォ―コス」(図録所収)より)


*池田満寿夫『エーゲ海に捧ぐ』 角川書店 1977年
* 『池田満寿夫―知られざる全貌展』図録 毎日新聞社 2008年
仲町つれづれNO.149 2008年3月11日(火)
柳原和子さんの訃報

柳原和子さん(1950年生)が3月2日に亡くなりました。彼女を有名にしたのは、足かけ4年、テープレコーダーを片手にアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパ、中東の40カ国65都市を歩き、在外日本人(本書に登場するだけでも108人)に取材し、700時間を超えるテープ、3万枚に及ぶ語りからまとめ上げた『「在外」日本人』(晶文社1994)という本です。
戦後50年。当時海外で暮らす日本国籍を持った日本人は約70万人。北・中・南米大陸に住む三世までの日系人は約200万人。そのほか国籍を変えた人びとなどを含めれば300万人をくだらない。彼女の関心は、「彼らは外国人としてどのような体験をしているのだろうか?」「彼らはかつてない新しい視線を獲得したのではないか?」ということにあり、「彼らの経験をつなぎあわせれば、日本に閉じこもってきた私たちには想像もできなかったこの半世紀の地球の重みが見えるにちがいない」、そして、彼女は旅に出たのです。
この本の中に、私が以前オランダで知り合った一人の女性が登場したというので、当時読んだことがあります。「日本を出てから十四年間、着たきりスズメだったわ。」というルイゼ・弘子・ローゼンダールさん(当時65歳、在外17年)です。本書では「生々流転」というタイトルがつけられ、「さあ、きもの着て、葬式用の写真を撮りに行くわ」というサブタイトルが付けられています。オランダのハーグで下宿屋のおばさんとしてホームスティの受入をしていましたが、昨年3月日本に帰国されています。彼女自身は、子ども時代をドイツで過ごし、戦後スイス人と結婚したがベトナム戦争で夫を亡くし、その後イギリスに渡ったが、ビザの期限切れ、そしてオランダに、そこでアメリカ系オランダ人のローゼンダールさんの家に住みこみで働き、子どももよんでハーグでの生活が始まったわけです。大変な生活をしていた人で、当時よく話を聞きました。時がたち、主人亡き後の事情で、疲れ果てて息子さんと共に帰国されたわけです。

人の何倍もの好奇心と熱い志を持った柳原さんでも、がんには勝てなかったのです。自ら2度の再発を体験、10年以上の闘病生活から、『がん患者学』(晶文社・2000)、『百万回の永訣―がん再発日記』(中央公論新社2005)なども遺されています。

訃報の翌日、表紙に初めて男性(市川海老蔵)を起用した『婦人公論』(3・22号)の最新号を見て驚きました。おそらく最後の対談でしょうが、詩集『求めない』がベストセラーになった加島祥造さんと柳原さんの対談が掲載されていました。これは、柳原さんの強い希望により加島さんに伊那谷から東京に出てきてもらって実現した企画だと書かれています。なかなか深い実相が語られていますが、柳原さんは「最近、『治る』ということを求めていく自分をとてもさもしく感じるようになった」こと、そして「治ると思うことをやめよう」と思い、「何もしないこと」を始めたそうです。「自然の営みは、人間の社会で見えないことを教えてくれる」等々、それが「次はぜひ伊那谷で」とのことでしたが、実現しなかったのです。

仲町つれづれNO.148 2008年3月2日(日)
SLファン待望の写真集『国鉄・蒸気機関区の記録』
『九十九里浜』(木耳社1972年)の写真集も出している小関与四郎さん(1935年生)の『国鉄・蒸気機関区の記録』(アーカイブス出版2008年)が、今年1月に出版されました。昭和40年代前半に国鉄・佐倉機関区において撮影された写真から構成されたこの写真集は、SLファンに「貴婦人」と呼ばれ人気の高い「C571」ナンバーの機関車ばかりではなく、社会派らしく「蒸気機関車が『歴史』ではなく、人びとの生活の一部であった時代の、機関車と喜びや悲しみを共にし、それを陰で支えた男たちの記録」として出版されたものです。
青年時代にプロのカメラマンをめざしていた小関さんは、「先行き機関車は廃止になる」という噂を聞いて、機関車の写真を撮ろうと思い立ったということです。蒸気機関車といえば、とかく黒煙を長くたなびかせて驀進する姿に感動しますが、巻頭の「蒸気機関区思慕」という一文によりますと、小関さんは「ある日、汽車の窓から目にした機関区で働く人の姿が強く印象に残って」いて、それが「汽車が走る裏には、それを支える多くの人たちが機関区で油まみれになって修理点検していること」を知ることになり、「自分を恥じた」そうです。それから、視点を機関区で働く人々に据え、佐倉機関区やそこに働く人々の全面協力を得て、自分の商売を投げ出してしまうほどのめり込んで取り組んだそうです。
かつての佐倉機関区においては「成田国際空港の建設で資材運搬のための赤いディーゼル機関車が五十六、七両も並んだ姿が実に見事で、仲間たちとまるで紅葉のようだと話し合った」時代もあったようです。この本によると、1969年ごろに佐倉機関区所属の蒸気機関車は廃止され、1987年に国鉄がJRに移行したことによって、JR貨物の管轄となり、1997年3月に佐倉機関区は廃止されたということです。
*千葉県内で最後まで走っていた(佐倉―銚子間)蒸気機関車も、昭和44(1969)年9月30日で廃止されました。これを伝える「蒸気機関車最後の日」(昭和44(1969)年)の写真は「国鉄佐倉駅機関庫」(昭和58(1983)年4月)の写真と共に、『佐倉市制五十周年記念写真集・写真で見る佐倉』(佐倉市2004年)に掲載されています。
*白土貞夫 『ちばの鉄道一世紀』 崙書房 1996年
仲町つれづれNO.147 2008年2月29日(金)
「春動く」 東大寺の修二会(お水取り)

このところ、まさに三寒四温の天気で、季節の移ろいを感じます。もうすぐ、春到来です。
私事で恐縮ですが、我が家で初めての子供が生まれようとしていたのが、閏年の2月29日か3月1日かという時でした。弥生という名前を考えていたところ、結局、3月1日に男の子が生まれましたので、奈良の東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)から取って、修一と命名しました。
この修二会は、3月1日(旧暦2月1日)から2週間にわたって行われるもので、「お水取り」「お松明」という名前で知られています。天宝勝宝4(752)年から途切れることなく行われており、今年で1257回を迎えることになります。
3月12日の深夜(13日の午前1時半頃)、「お水取り」として、二月堂の本尊十一面観音にお供えする「お香水」を、若狭井という井戸から汲み上げる儀式が行われます。この行を勤める練行衆の道明かりとして、夜ごと大きな松明に火が燈されます。例年、その火に魅せられて、多くの参詣者が足を運びますが、まず炎の大きさに圧倒させられ、またその勇壮感に大いに心沸かせるのです。

*今年の3月25日から上野の国立博物館で開かれる『国宝薬師寺展』で、初めて「日光・月光菩薩立像」が2体揃って公開されますが、薬師寺の修二会は「花会式」の通称で知られています。

 
*入江泰吉『東大寺とお水取り』 集英社 1981年

仲町つれづれNO.146 2008年2月28日(木)
フィンランドを第2の故郷に!?

私の故郷では、住民をシルバー特派員というかたちでフィンランドへ派遣したりして交流がありました。個人的にも、フィンランド大使館の文化担当と付き合いがあり、恩師が指揮者の故渡邊暁雄先生で、北欧音楽協会との付き合いがある関係で、大変親近感のある「フィンランド」ですが、一般的にはまだ遠い国でしょうか。
フィンランドは「森と湖の国」、日本よりやや狭い程度(33万8千平方キロ)の面積に人口20万人と、彼らも言うように小国ですが、経済レベルは高く、「福祉政策の行き届いているおかげで社会的経済的格差があまりない国」のようです。成田空港からの直行便ではヨーロッパの玄関口として、9時間半で行ける一番近い国といえます。近年ヒットした映画『かもめ食堂』(群ようこ原作・荻上直子監督作品・2005年)の舞台にもなりましたが、すぐ思い出されるのは「サウナ」「ムーミン」「サンタクロースのふるさと」、そして音楽の世界ではジャン・シベリウス(1865-1957)、建築家・デザイナーのアルヴァ・アールト(1898-1976)、携帯電話で世界一のシェアを誇るノキアなどのハイテク産業が代表的なところでしょう。

最近は教育国としても有名です。OECD(経済協力開発機構)の15歳を対象とした国際学習到達度調査(PISA)では、教育大国を自負していた日本を震撼させています。仲町つれづれNO.137でも取り上げましたが、2月9日付『週刊KODOMO新聞』(読売新聞・夕刊)でも、「教育先進国フィンランド」という見出しで「自分で学び、考える」フィンランド教育について紹介されていました。

実川真由・元子共著『受けてみたフィンランドの教育』(文藝春秋2007年)を紹介します。この本は、2004年8月から05年6月まで、AFS(財団法人)の交換留学生としてフィンランドのヘルシンキにある公立のヘルトニエミ高校へ留学した娘とその母親との体験記です。実川真由さんは高校2年生に編入しましたが、結論的には、教育パパ・ママがいる国でもなく、「塾も、偏差値も、まったくなかった」ということです。
その一部を紹介してみますと、まずフィンランドの学校は基本的に全て無料、授業料も無料、昼食と軽食もタダということです。受験もなく、中高一貫の学校で、日本の中学よりは少し規模が大きいようです。日本のように、朝から晩まで勉強することは考えられないとのこと、その代り、学校は「学びの場所」という意識がしっかりしていて居眠りすることは絶対にないそうです。校則はないし、学校に来る来ないは「特に誰にも強制されていない」、学校は単に学ぶ場所であって、学校=生活の場ではないということです。
彼女が忘れられない先生という国語のエヴァ先生は、フィンランド教育の優れている点について「先生の質が高いことと、義務教育を九年一貫制にしたこと」と答えています。『週刊KODOMO新聞』でも、「フィンランドの教育では教師の力が大きく問われる」とありました。教師には大学院で修士号取得が義務付けられている上に、ほとんどが教職以外の仕事を経験したことがある人ということです。授業については母親も指摘していますが、多様な言語を学ぶことを教育の基本理念にしており、指導要領でも言語が占めるページが多いそうです。「授業は教室のなかで終わるもの」ではなく、「言葉を通して社会と文化への理解を深めること」を重視して、「話す力」に重点を置いているとのことです。また、九年一貫制になったことで「勉学面での優劣をつける競争に子供が巻き込まれなくなっただけでなく」「早い段階から職業選択にもつながる振り分けがなされなくなった」ということです。
この本は、留学から帰国した後、ちょうど一年前に親子で第二の故郷を訪ねて、「『第二の故郷を持ちたい』という人たちの、海外に目を向けるきっかけになれば」ということで、書かれたそうです。ご一読ください。

仲町つれづれNO.145 2008年2月27日(水)
魯山人の魅力とは

漫画『美味しんぼ』(雁屋哲原作・花咲アキラ作画)をご存知ですか。その主人公の山岡士郎の父、希代の美食家海原雄山のモデルの一部は、北大路魯山人だそうです。漫画では、雄山は魯山人の孫弟子で、魯山人こそが最大の目標という設定になっていますが、魯山人は、今でも陶芸家、書道家としても絶大な人気を誇っています。
茶懐石「辻留」の3代目主人は、21歳の時に修業として1年余り鎌倉の魯山人の家に住み込みました。当時の魯山人は70歳を超えていたが「朝食は簡潔、しかしいつも新鮮に」と細かく指示したり、死ぬまで店に通うなど、食事への執念は衰えていなかったそうです。(朝日新聞『ニッポン人脈記』07・11・21より)

北大路魯山人(本名は北大路房次郎、1883-1959)は、明治16(1883)3月23日京都北区上賀茂藤ノ木町で生まれています。生前に父親が自殺し、すぐに農家に里子に出され、二転三転のうえ6歳で福田房次郎になります。母を知らずに育ち、10歳の時に丁稚奉公にでます。明治36(1903)年に書家を志して上京し、苦労を重ねながら頭角を現していきます。そして今日では、書、絵画、陶芸であれ、果ては美食を飽くなき追求した、スケールの大きさと懐の深さをもった芸術家として、多くのファンをもっています。
『知られざる魯山人』は、「魯山人会」の発起人であった父の下、幼少より魯山人の作品に親しんできた著者が、『諸君!』に2003年11月号から2007年7月号に連載したものをまとめて刊行したものです。何といっても「現存する資料のほぼすべてに目を通し、魯山人と接した人たちやその遺族、関係者など約80人に取材して書き上げたもの」で、取材後「新たに1千点ほどの魯山人作品を手に取った」とのこと、「注」も詳しく、十分な資料価値があります。
著者によると、「少年の頃私のもとを去った私の分身」で「最も鮮烈な記憶を与えた、美の象徴ともいうべき」『紅志野塩筍茶碗』だけは出会えなかったそうです。さらに、「眼前の器の美よりも脳裡に刻まれた美の絶対を確信することができた者には、器はもう不要である」とも。「記憶の所有に徹する真の美術家と、物の所有にこだわる蒐集家との差」であるといっています。
著者の父は、すべてを売り払って涙しながら痛飲していたが、たった1点だけは手元に残したとか。それは扁額「不知雲雨散」(杜甫の詩、相手に会えなくなったことを知らぬまま、今も慕っているという意味)という作品で、いつも見上げてそうです。その父は、昭和52(1977)年の夏の昼下がり、銭湯で倒れて亡くなりました。常々「人間、裸で生まれて裸で死ぬもんや」「人生、有無一線。生死の間は一線やちゃ」等々言っていたとのこと、実際そのとおりになってしまったわけです。魯山人と同じ76歳だったそうです。著者は最後に、この扁額を「父と魯山人の友情の形見とした」と結んでいます。

山田和 『知られざる魯山人』 文藝春秋 2007年
*漫画『美味しんぼ』では「食の安全」シリーズを連載中ですが、第588話(08・01・15号)に成田市の有機農法で「野菜の生産、販売と同時に、自分で種を採ることを広める活動をしている」ところが登場しています。本当の意味での安全性を考えれば、無農薬で、自分で採った種が一番でしょう。「日本で売られている種の90%以上が、中国やタイなどで作られた外国産」ということです。この漫画では「種が農業の基本」といっています。(平成17年度のデータでは、国内農産物の中で、有機農産物は0.16%ということです。)

仲町つれづれNO.144 2008年2月21日(木)
わかっちゃいるけど、やめられない!
「スーダラ節」(1990年)の大ヒットや映画「無責任男」シリーズでおなじみの植木等(1926-2007)は、昨年の3月27日10時41分、都内の病院であっさりと逝ってしまいました。享年80歳。「無責任男」のイメージがあまりにも強い植木さんですが、実像は逆で、とことんまじめな「一貫して芸能界的虚飾とは無縁に生きた」人で、それ故に暮らしぶりは地味で質素だったといわれています。『植木等伝』の著者戸井十月さんは、晩年の1年間にわたる長時間インタビューを通して植木等の一生を描いており、植木等について「ダンディーな人」、「思慮と知性を合わせ持った人」、「軽妙洒脱にしてモダン」、「実に新しくて愉快な人でもあった」といいます。
植木等は寺の息子で、大正15年12月25日名古屋の病院で生まれたそうです。この25日はキリストの誕生日ですが、大正天皇が48歳で逝去した日でもありました。昭和という時代は植木等の誕生と共に始まったということです。
「しかし、植木の人生は誕生からズッコケて」います。本書に紹介されているエピソードでは、出生届を弟に頼んだのに忘れられてしまい、2ヵ月くらい放ったらかしにされてやっと届けを出したのが2月25日だったとか。植木等が生まれた日に大正天皇が死んだので、翌日から昭和元年になり、昭和元年は6日間しかなくて、年が開けたら昭和2年です。「かくして、植木の実際の生年と戸籍上のそれとの間に2年のずれが生じてしまった」そうです。「この稀有にして奇妙な父子の関係ならではのエピソード」から、編年体で構成されています。
結局、檀家相手にお経をあげることはなく、父親の規格外れの血をひいた植木等は、実像とは違う「無責任男」となって、既成の秩序や常識の欺瞞にうんざりする人々の心(団塊世代)をつかんで時代のヒーローになりました。人生は皮肉なものです。しかし、「華やかな芸能界にいても品格がある価値観と美学が揺るがなかった」(戸井さん)ということです。
今日、植木等のような人も少なくなったのではないでしょうか。こういう世の中こそ、破天荒なパワーとエネルギーが必要だと思います。圧倒的に印象に残るフレーズに、次の歌があります。
♪銭のない奴ぁ 俺んとこへ来い! 俺もないけど心配すんな 見ろよ 青い空 白い雲 そのうち何んとか なるだろう♪
植木等の主演第1作である『ニッポン無責任時代』の主題歌からのつきあいの青島幸男さんの作詞「だまって俺について来い」ですが、彼も昨年亡くなっています。天国から「お呼びでない?」と来たなら、「とんでもないですよ。植木さん。今も、みんながあなたを呼んでいるのです。こんな世の中だからこそ、あなたの、あの笑い声が聞きたいのです。」

*戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』 小学館 2007年
*植木等『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』 朝日新聞社 1984年
  植木等の父、徹誠はキリストの洗礼を受けた後、得度して僧侶になったそうです。

*小林信彦『植木等と藤山寛美』 新潮社 1992年
仲町つれづれNO.143 2008年2月17日(日)
松本清張と佐倉③

松本清張の『天保図録』(1964)という作品は、週刊朝日編集部から「時代小説を」と依頼を受けて、徳川の時代のどのあたりにしようかと考えた結果、江戸の事件はほとんど書き尽くされているが、天保改革があまり人に知られていないのではないか、今までに「天保改革そのものと正面から取り組んだものはなかった」ということで始められた一作です。週刊朝日の1962年4月6日から1964年12月25日の3年間にわたって連載された作品です。
あとがきに「初め、だいたい1年ぐらいで書き終えるものと思っていた。」が、「三年費やしても全部書き切ったわけではない」「心満たない結果になった。」とあります。意外に大きな内容だったため、3年もかかったということのようです。

天保改革は、天保12(1841)年に老中水野越前守忠邦に実力者の地位が与えられた時から始まります。不健全な財政を立て直すため、生活統制や勤倹節約を中心に極端なデフレ政策がとられます。「徳川氏のつくった封建土地制度が貨幣経済の発達により矛盾し破綻を来たした」時代だったのです。松本清張は「彼は天保改革のために生まれあわせたような男だった」と書いていますが、この「改革の動向を上流からだけ捉えずに、下級役人の立場からも眺めてみたい。」「そのほうがはるかにリアリティーがあり、現代意識に照応するから」ということで、本庄茂平次という道化者などを使って書き進めています。
清張の佐倉での講演(仲町つれづれNO.139を参照)の中では直接語られていませんでしたが、「あとがき」に「本稿を書くに当たっての取材旅行といえば、桑名と印旛沼に行ったにすぎない。」「だいたい、史実に沿って書いてきたが、一ヶ所だけ、わざと違えて書いたところがある。」と自ら書いています。さて、それはどこの部分のことなのでしょう?
また、水野忠邦の目指した事業の一つが、天保14(1843)年6月に始められた印旛沼の開鑿工事でした。これは「水田開発と利根川の氾濫防止と、米穀の運送路を拓くために」行われたのですが、費用分担の問題もあり、失敗に終わります。そして、このことが水野忠邦の失脚理由の一つでもあります。

*水野忠邦は京都所司代時代に本居宣長門下の村田春門に和歌を学び歌集まで出していますが、和歌に
利根川の ながれの末の 代々までも 清き心は くみてしられん 
というのがあります。 〈『印旛沼開発史』より〉
*天保4年に書かれた佐藤信淵(1769―1850)の『内洋経緯記』(1833)は、「印旛沼の開鑿利用については、いいことずくめで埋まっている」本です。松本清張は作品の文中で、水野忠邦はこの本を手放したことがないと書いています。

*松本清張『天保図録』 朝日新聞社 1964年
*松本清張『松本清張全集27、28』 文藝春秋 1973年 
*栗原東洋『印旛沼開発史第1部上巻』 印旛沼開発史刊行会 1972年

仲町つれづれNO.142 2008年2月16日(土)
松本清張と佐倉②

今年度の芸術祭賞テレビ部門の大賞に、昨年の11月に2夜連続で放映されたビートたけし主演の『松本清張 点と線』(テレビ朝日)が選ばれました。原作の小説『点と線』(光文社1958)は、日本の社会派推理小説の原点といわれる松本清張の代表作です。映像化にあたっては、大金をかけて昭和32(1957)年当時を完全再現したそうで、2夜とも23%超という高視聴率を記録して話題を呼びました。この正月にも再度放送されていましたし、ご覧になった方も多いことと思います。

松本清張の千篇にも及ぶという作品の中に、『遠い接近』(1978)という小説があります。1971年8月6日から1972年4月24日まで、「週刊朝日」に『黒の図説』という通しタイトルで連載された連作の一篇です。
この作品は、昭和17(1942)年の戦局が悪化していた頃の東京で、自営の色版画工の山尾信治(32歳)に召集令状が来た話から始まります。<教育ノタメ召集・・期間三カ月・・入隊、歩兵第五十七聯隊(佐倉)・・入隊期日、九月十五日・・東京聯隊区司令部・・>ということで、山尾信治は「佐倉聯隊」に入隊するのです。「軍隊の内部は、小学生のころ軍旗祭か何かで一度見学にきたことがあるが、そのころと今は少しも変っていなかった。その軍旗は現在満州に出動していて聯隊にはなかった。つまり、ここは留守部隊であった。」と書かれています。

そして、山尾信治はあれよあれよという間に本入隊となり、軍隊での生活が始まります。両親も妻も子どもも縁故を頼って広島に疎開し、被爆死してしまいます。そんな中、ふとした折に「赤紙」は役人によって不公平に発行されていることを知った山尾は、「すべての不幸がそのときに決まった。」ということで、ここからが清張の本領発揮、「復讐」という物語の展開になっていきます。不公平に対して、山尾はとことん立ち向かっていくのです。
清張作品に見られるこの特徴について、社会心理学者の石川弘義さんは「この自己防御・自己防衛というのは清張文学の要であり、そこには「母の気の強さは絶えず自己防禦から出ている。」(『実感的人生論』より)という母の影響、母親への愛着が反映されている」と分析しています。(解説:『松本清張全集』39所収・1982・文藝春秋)


松本清張は、少年の頃からたいへんな苦労を重ねています。それをバネに、作家としては42歳からのスタートでしたが、旺盛な執筆力や構成力で、ミステリーのほかにも、『清張通史』(講談社1976-83)に代表される古代史の論考から『昭和史発掘』(文藝春秋1965-72)など現代史まで領域を広げた、松本清張ならではの独自の世界を構築しています。
さらに、千葉を題材にした作品に『天保図録』(朝日新聞社1964)があります。天保時代の印旛沼の開発を書いたもので、佐倉での講演(仲町つれづれNO.139を参照)でも、取り上げられていました。次の回に、続く。)

仲町つれづれNO.141 2008年2月12日(火)
良寛さんと貞心尼
良寛に関する本はたくさんありますが、昨秋出版されたノンフィクション作家の工藤美代子さんの『良寛の恋 炎の女貞心尼』(講談社)を取り上げます。
これまでに良寛の性生活について調査したものはありませんが、「良寛がセックスしていたほうが魅力的」「あんまり悟り澄ました良寛よりも、少し人間らしい良寛のほうが好ましい」という工藤さんは、良寛と彼の最晩年を支えた貞心尼(1798-1872)との話を、『恋雪譜』というタイトルで、2006年から翌年の6月にかけて「新潟日報」等の地方紙に連載しました。この本は、それを加筆・修正して刊行されたものです。

70歳の良寛と29歳の貞心尼の絆については、相馬御風(1883-1950)の『良寛と貞心』(1938年)という本もあります。貞心尼の最後の弟子だった高野智譲尼が77歳で健在であった当時、御風は彼女を取材し、その談話を紹介しています。また、瀬戸内寂聴さんも、貞心尼をモデルとした小説『手毬』(1991年)を書いています。
貞心尼は、どんな人だったのでしょうか?御風の解釈によると「信仰心の篤い薄幸の美女」で、「二十五六の若い盛り」の出家の理由は、「愛する夫に死に別れた悲嘆の極の厭世から」と、「彼女自らのやむにやまれぬ要求から」、と書かれています。良寛と貞心尼は、彼女のほうから一途に会いたいと願い、手毬の歌でアプローチして会うことになります。御風の筆力により「二人の純愛は限りなく神聖なものとして位置づけられることに」なったのです。そして、柏崎市立図書館が所蔵する『蓮の露』が、貞心尼自身の愛の記録ということになります。

工藤さんは、当時を知る佐藤瑠衣(1921―2006)という老女の話をベースに、二人の真相を解明していきます。この老女の旦那の祖母の実家が、貞心尼のいた不求庵の近くで、よく評判を聞かされたそうです。貞心尼を「とんでもない女狐」「尼でありながら60歳になっても女であり続けた女」等々、根深い憎悪感をもって語られています。ロマンスの真相は?ですが、本日2月12日は、貞心尼の命日、二人にとっての幸せは、春と共にやってきます。

* 天が下にみつる玉よりこがねより 春のはじめの君がおとづれ 良寛

* おのづからふゆの日かずのくれゆけば まつともなきにはるはきにけり 貞心尼

*東郷豊治『新修良寛』 東京創元社 1981年
*相馬御風『大愚良寛』 春陽堂 1918年 (校註新版 考古堂書店2001年)
*水上勉『良寛』 中央公論社 1984年
*加藤僖一『良寛百科』 新潟日報事業社 2004年
*貞心尼筆『蓮の露』 野島出版 1992年
*中村昭三編『良寛と貞心:その愛とこころ』 考古堂書店 2000年
仲町つれづれNO.140 2008年2月8日(金)
「三里四方の野菜を食べろ」地産地消の実践

ここ一週間、中国製の冷凍食品問題で日本中がパニック状態になっています。佐倉市の学校給食等では一切使用していないということでした。今回、自宅の冷蔵庫の中身を改めて確認してみました。「自分が食べるものを自分で作り出せない」「食の根底から崩れている」という、なんとも悲しい現実がありました。これほどに、日本の食料自給率(2006年度は39%)は危機的ということでもあります。改めて、「スローフード」「地産地消」運動の実践の重要性を感じました。仲町つれづれNO.39を参照ください。)

明治時代に書かれた『食道楽』(1903)という小説があります。1903年1月から12月まで報知新聞に連載されたものですが、「これと並行して、春夏秋冬の4巻の単行本が自費出版で順次刊行されると、飛ぶような勢いで売れ、春の巻1冊だけで4万5千部以上、4巻では軽く十万部を超えた」そうです。
村井弦斎(1863-1927)が書いたこの小説は、大原満という主人公と親友の妹お登和との結婚話なのですが、それ以上に「料理が主役」だそうです。研究者の調査によると、630種もの料理が登場するといわれています。
村井弦斎はこのベストセラーの収入で、平塚に約1万6千4百坪の土地を購入して、家屋、野菜園、果樹園、温室、鶏舎等々をつくり、自給自足に近い食生活を実践したり、料理法の開発や研究も行ったそうです。
また、弦斎は「報知新聞」に足かけ6年(1896-1901)連載した『日の出島』(11巻13冊・春陽堂)という、明治時代では一番長い小説も書いています。当時、幸田露伴(1867-1947)や尾崎紅葉(1867-1903)などでさえ途中断念した「新聞連載」ですから、新聞連載小説を書くということは、大変な負担だったことでしょう。他にも、家庭小説や歴史小説など様々な小説も発表していますが、今日では“食道楽の弦斎”ということで、かろうじて知られている程度です。

黒岩比佐子さんの書かれた評伝によりますと、『食道楽』という作品は、今日でいう料理のレシピだけでは決してなく、「食生活の重視、家計の中の食費の見直し、台所と台所道具の改善、料理と食事の合理性の追求、栄養学・生理学・衛生学等の科学知識の重要性など」啓蒙的なことが込められた内容であり、当時の新聞小説の「娯楽を与える」「読者を楽しませる」ことが重要な使命という中でも、「食の楽しみ」というより「教訓小説」という一面のほうが強い内容だったということです。しかし、村井弦斎の思いとは別に、当時はグルメ小説として大衆にもてはやされ、読まれたといってよいでしょう。
弦斎の娘さんによると、中華料理の達人・楊家達に「中華料理の研究は他のどの本よりも深い」といわれたことがあるとか。また、村井弦斎の一番の趣味は釣りだったそうで、『釣道楽』(新人物往来社)とか、『酒道楽』(岩波文庫)、『女道楽』などの作品もあります。この機会に一読をお勧めします。

*阿川弘之の『食味風々録』(新潮社2001)によると、嫁入り道具と一緒に『食道楽』は阿川家にきたそうです。

*黒岩比佐子『「食道楽」の人 村井弦斎』岩波書店 2004年
*村井弦斎『食道楽』上・下 岩波文庫 2005年


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