| 仲町つれづれNO.139 2008年1月30日(水) |
| 松本清張と佐倉① |
先日、神戸の方から「おたくの開館10周年記念講演会で松本清張さんが講演したそうだが」と問い合わせの電話が入り、あわてて昔の文書綴や録音テープなどの所在を確認しました。松本清張(1909-1992)の講演会は、1987(昭和62)年3月5日の夜6時半から8時まで佐倉市民音楽ホールにおいて開催されました。当時の図書館は、その前年からコンピュータを導入し、新しいサービスを始めた頃のことです。
講演会の演題は「小説の取材」ということで、小説のテーマを選ぶ前に材料が先に浮かぶケースと、まずテーマが浮かび、それを小説にするために材料を探すというケースがあるという話から始まりました。「およそ小説というものはいきなり頭に浮かぶものではない。先ずヒントが浮かぶ。それからアイデアというか、もう少し形になったものが、そして最後に小説としての骨子ができてくる。その材料の取り方は自分の体験や経験からとったり、新聞・雑誌の記事、人の話とかちょっとした噂が耳に入って、それからヒントをとる場合もある。ただ話を聞き、活字を読むだけでは小説は生まれない」ということを語っています。そして森鴎外の短編『電車の女』を例にして話が進められていました。この講演内容は、活字化されずに終わっています。とりあえずご了承ください。
年末に、NHK・TVで「ドキュメント考えるー石田衣良の場合」という番組がありました。彼は1ヵ月に平均300枚の原稿を仕上げるそうですが、この番組では、与えられた課題から、頭に次々と思い浮かぶアイデアを紙に書き留めて図式化し、それを行きつけのカフェでくつろぎ、音楽を聴きながら熟成させていくという彼の思考・思索のプロセスが密着取材されていました。
松本清張の出身地に、北九州市立松本清張記念館があります。1月に入り、松本清張の北九州市小倉北区の旧居を購入して保存公開しようと地元ファンらが募金運動を進めている問題で、遺族は保存運動に自粛を求めて云々、という記事が載っていました。
作家の記念館や展覧会では必ず書斎が復元されています。「書斎は人なり」です。本を読み、発想し、考えを膨らませ、原稿を書く。そういう空間の重要性は、何も作家に限ったことではありません。それぞれ自分にあった、自分の時間を認識できる空間を確保できればよいと思います。自分自身の「まず部屋ありき」で何も生まれてこない現状を反省しつつ、これからの人生をより豊かにするために、各自の「空間」を確保することが必要ではないでしょうか。 |
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| 仲町つれづれNO.138 2008年1月30日(水) |
| プチ・プチ・リニューアル(ほんの少しですが) |
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佐倉図書館正面の道路前のガラスの壁の前で、
2人の業者の方が、腕組みをして何やら思案中です。
いったい、何が始まるのか!?

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図書館の正面道路は、旧国道296号(成田街道)ですが、
道幅も歩道も狭いため、たとえ一時的なものでも、
路上に駐停車された車があると、とても危険です。
そのため、改めて「駐車場のご案内」の看板を設置しました。
図書館の建物の裏にも駐車スペースがありますが、
駐車可能台数も10台と少なく、また、裏道もかなり狭い道路です。
お車でご来館の際は、同じ通りにある「佐倉市駐車場」をご利用ください。
ご不便をおかけしますが、ご協力をお願いいたします。 |
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| 仲町つれづれNO.137 2008年1月29日(火) |
| 北欧に学ぶ!? |
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日本は今「格差社会」といわれ、様々な難問に直面しています。そんな中、成長と平等を両立する異端の国として、「実験国家」といわれる北欧諸国が注目されています。『週刊東洋経済』(08・1・12)の特集では、「北欧を読み解く5つのキーワード」として「1.高い国際競争力、2.高福祉・高負担、3.民主主義の高度化、4.人材、5.女性の社会進出」があげられていました。人材では、デンマーク教師1人当たりの児童数は10.8人(日本は19.6人)、語学力では「デンマーク2位、スウェーデン6位、ノルウェー9位(日本は51位)」と見事なデータがありました。
また、フィンランドの子どもたちの学力は世界一であるとよくいわれます。反面、日本は低落傾向にあるため、それがきっかけで学力低下論争が起こり、「フィンランドに学べ」と日本の教育関係者の視察団が殺到するという話を聞きます。北川達夫先生(日本教育大学院大学客員教授)は、フィンランドで言う「学力」と、日本でいう「学力」には違いがあり、フィンランドから何を学んだところで、それが単純に日本の子供たちの学力アップにはつながらないといいます。OECDのデータの求める学力とは、「問題を見いだし、解決する力」であり、フィンランド教育の一つの特徴である就学前(6歳)から徹底して「問題解決力」を養っているということです。フィンランド教育のもう一つの特徴は集団での問題解決を重視しているということです。そのために必要不可欠な力であるコミュニケーション力、それも価値観の共有を前提としない中でのものだそうです。文化や言語や伝統を異にする集団同士、すなわち国際的なコミュニケーションにおいては、価値観の共有を前提としてはならないのだそうです。グローバル化した世界においては様々な価値観の人々と対話して、共に問題を解決して生きていかなければならないわけで、この問題解決力とコミュニケーション力は次世代を担う子どもたちが最も必要とする技能であるというわけです。
『中央公論』2月号の特集「崖っぷち、日本の大学」に、蓮實重彦さんの談話『本当は教育が嫌いな日本人へ』があります。学力低下について「日本全体の知的な水準が、ある時期までは逆U字のカーブを描いていた。中間層は優れているけれど、優秀な人たちは世界的に見てそうでもない。それが社会の大衆化によって、U字型になった。ほんの少しの優秀な人たちが非常に優秀になった一方で、中間層のレベルが低くなった。OECDの調査を見ると、英、仏、米も順位が低い」と語っている蓮實さん、「やっと日本は大国なみになったと読みました」とのこと。「これからは優秀な人たちをどう伸ばすかを考えないといけません。」「そのためにも、現状を正確に把握することが必要でしょう。」
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| 仲町つれづれNO.136 2008年1月27日(日) |
| テオ もうひとりのゴッホ |
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昨秋、画家であり絵本作家でもある伊勢英子さんとその妹の京子さんによって『もうひとりのゴッホ テオ ヴァン ゴッホの伝記』(1999年)が訳されました。『ひまわり』等の絵で日本でも人気のある画家ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90年)は、『ファン・ゴッホ書簡全集』によると、37歳で亡くなるまでに650余通の手紙を4歳違いの弟テオに宛てて書いたそうです。そのテオの生誕150年を記念して翻訳出版されたこの本は、ゴッホ財団管理のテオの両親などに宛てた98通にもおよぶ未公開書簡を駆使することにより、これまで「ゴッホの弟」として伝えられてきた画商テオ・ヴァン・ゴッホ(1857-91年)の実像に光を当てた、初の評伝となっています。
ゴッホは、弟のテオがいなければ画家として存在しなかったといわれています。テオは兄が画家になることを支持し、どんな状況でも兄が制作に専念できるように自らは画廊に就職し、経済面で支え続けたのです。
本書では、弟テオの「過剰な繊細さと複雑さはあまりにも痛ましく」、かえって兄の「シンプルで虚飾のない人間性」が浮き彫りにされています。「兄の持ち得なかったものの全てを手に入れたが、その重さは彼の人生の短さと無縁ではなかった」ということです。
テオは、結婚をして息子ヴィンセント・ウィレム・ヴァン・ゴッホ(1890-1978)が生まれたものの、1891年1月25日、兄の死後ほぼ半年後に、梅毒感染による麻痺性痴呆を患い、ユトレヒトの精神病院で亡くなりました。33歳でした。当時、たくさんの芸術家たちが「彼の善意、彼の清廉さ、彼の勇気と博識を誉め称えた」ということです。
テオが死んだ時点では、残念ながらゴッホの作品はまだ世に知られざる存在でした。パリの人々の興味を引くようになったのは、1901年に画商ベルネイム=ジュヌが開いたゴッホ展が最初だということです。その後1962年、テオの息子によって大部分の作品がオランダ政府に譲渡され、現在のゴッホ美術館(新館の設計は黒川紀章)ができることになりました。
現在、この稀有な兄弟は、一時の投機的狂乱とは無縁に、オーヴェールの麦畑のそばの墓地に眠っています。
*『ファン・ゴッホ書簡全集 1~6』 みすず書房 1984年
*マリー=アンジェリーク・オザンヌ&フレデリック・ド・ジョード『テオ もうひとりのゴッホ』 平凡社 2007年
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| 仲町つれづれNO.135 2008年1月26日(土) |
| 「からだでよむ」ということ |
我が故郷は、浄土真宗の宗祖である親鸞が流されてきた地方であり、親鸞の長女「小黒女房」がきたといわれる地です。寺が四寺もある町内で、葬儀や法事などでは親鸞の「和讃」が読誦されます。
そのため普段から親鸞に関心を持っており、「親鸞745年の眠り解けた」という見出しで「教行信証」に書入れが見つかったという新聞記事(『毎日新聞』12月21日付)が目に留まりました。2003年からの修復作業を終えてとじひもが掛けられる直前のこと、光の当たり具合によってかすかに浮かび上がる細いへこみ傷から、その存在に気がついたそうです。その後の調査で、親鸞自筆の国宝「坂東本」に漢字の脇に角筆(木や竹などの先端を尖らせた筆記用具)による書入れが700ヵ所にわたってあったということです。親鸞研究の新たな展開に期待するものです。
ちょうどその頃、昨秋出版された山折哲雄さん(1931年生)の著書『親鸞をよむ』(岩波新書)を読んでいました。宗教学者で、元歴博教授でもあった山折さんは、親鸞についてはすでにいろいろと書かれていますが、この本では、親鸞を頭で読むのではなく「からだでよむ」ということを提言されていました。
「よむ」という行為には深い意味があるのではないかと思います。例えば、英会話にしても「頭」で読んでいるから、何年やってもうまくできなかったり、ものを見聞きするのも「頭」中心だと、本当のことが見えてこないのが常なのではないでしょうか。
山折さんは、親鸞の『歎異抄』ではなく『教行信証』という主著と晩年(70代後半から80代前半)の『和讃』、そして親鸞の妻・恵信尼の文書に注目してアプローチされています。序章と終章が書き下ろしで構成され、「親鸞のテキストや伝記を中心とする体系的な記述」ではなく、「歩く親鸞、書く親鸞」「町のなか、村のなかの親鸞」といったように、旅と日常生活、恵信尼との交感等を手がかりに90歳を生きた親鸞の思索と苦闘に迫りながら、親鸞その人と向かい合って多元的に書き記されており、そのことが新鮮に感じられました。
*山折哲雄 「悪と往生―親鸞を裏切る『歎異抄』」 中公新書 2000年
*山折哲雄 『親鸞の浄土』 アートデイズ 2007年 親鸞の人間像とその浄土思想に焦点を当てた作
*今日の傾向として、宗教的な作法や習慣はそれ自体が一つのライフスタイルになってきています。知り合いにも、四国八十八ヵ所に夢中という人がいますが、霊場札所を回る巡礼や遍路に出る中高年が増えているといわれています。これは、団塊世代の定年退職時代と閉塞化した現代社会で自分はどう生きるか迷っている人が多いということなどが理由として考えられます。巡礼や遍路の形を借りた自己発見の旅といえるでしょうか。 |
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| 仲町つれづれNO.134 2008年1月18日(金) |
| 「モーツアルトは私たちの感性、そして魂の鏡である」 |
1756年1月27日の夜8時、オーストリアのザルツブルクの宮廷音楽家ヨハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルト(1719-87)と妻アンナ・マリア(1720-78)の間に、第7子が生まれました。その子は「ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モーツァルト」と命名されました。ちょうどこの日は“聖ヨハン・クリュソストムス”の祝日で、また、テオフィルスはギリシャ語(ラテン語ではアマデウス)で「神に愛された者」という意味があります。成長を祈り、おめでたい名前が付けられたということです。
というのも、当時第4子の3女(4歳半)しか生き残っていなかったため、なんとか生き延びてほしいという願いがこめられてのことだとか。とにかく長い名前ですから、彼自身、14歳からはイタリア語で「ヴォルフガンゴ・アマデオ・モーツァルト」、21歳ころからは「ヴォルフガング・アマデ」と署名するようになったといわれています。
神童といわれたモーツァルトは、4歳からクラヴィーア(ピアノの前身の楽器)のレッスンを始め、5歳で作曲をはじめました。そして、最初の3曲の交響曲は1765年、9才の時にロンドンで初演されています。
モーツァルトの生涯は35年という短いものでした。彼の死は、関節リウマチ説、梅毒説、毒殺説等々の謎があり、映画や戯曲、芝居にもなっています。また、旅の音楽家ともいわれ、旅をしていた期間は十年にも及びます。
現存する手紙は400通あまり。引越しは十年半に14カ所。生涯書いた曲はK(ケッヒェル番号)626の絶筆「レクイエム」まで626曲のほか未完成曲などがあり、700曲超。どれをとっても記録的な数字ばかりです。しかし音楽そのものは美しい限りです。やはり、モーツァルトは天才なのでしょう。
「美は人を沈黙させる」といいますが、モーツァルトに関する著作はたくさんあります。小林秀雄の『モオツァルト』(創元社・1947)という古典的著作が思い出されますが、河上徹太郎、辻邦生なども書いています。そのほか、高橋英夫さんは『疾走するモーツァルト』(1987)で「モーツァルトには人間性を超えたものがある」というモーツァルト論、モーツァルトをめぐる小林秀雄論を展開しています。
この機会に、思い込みや先入観を捨て、自分のからだ(耳や眼など)で、モーツァルトに触れてみてはいかがでしょうか。 |
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*2006年は「モーツァルト生誕250年記念イヤー」ということで、世界中でイヴェントが行われました。佐倉でも市民音楽ホールにて7本ほどの記念事業が行われました。特に、オリジナル楽器による鈴木雅明指揮の「レクイエム」は印象に残った演奏でした。昨年の1月27日には「旅の日のモーツァルト」というコンサートもありました。今年は、3月9日に「モーツァルトからの手紙」というコンサートが開かれます。
*市民音楽ホールと同じ施設にある臼井公民館図書室には、特に音楽図書資料や楽譜(4095点)などを収蔵しております。ぜひご利用ください。(今月22日から25日まで蔵書点検のため臨時休館します。)
*石田衣良 『I LOVE モーツァルト』 幻冬舎 2006年
第2回「熱狂の日」音楽祭にちなんで出版されたもので、人気小説家石田さんのモーツァルトへの想い、彼が選んだ10曲にちなんだ話などが書かれています。
*樋口隆一 編著『進化するモーツァルト』 春秋社 2007年
*海老澤敏 『変貌するモーツァルト』(岩波現代文庫) 岩波書店 2001年
*武川寛海 『エピソードで綴るモーツァルトの生涯』 講談社 1991年 |
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| 仲町つれづれNO.133 2008年1月17日(木) |
| 初雪の朝に |
今朝、佐倉は雪の朝を迎えました。初雪で、2cmほどの積雪でした。銚子気象台によると午前1時に1ミリ、午前2時に1ミリの降雪ということですが、朝6時すぎにもひと降りあり、佐倉の最低気温は氷点下0.8℃でした。初雪を喜んだのは、子どもだけでしょうか。
小欄NO.2で書きましたが、昭和59(1984)年1月19日佐倉で積雪25㎝という日があり、翌日の20日は最低気温氷点下12.7℃を記録しました。当時は、いろいろな面で大混乱したようです。
そして、平成7(1995)年1月17日。今から13年前の朝5時46分、阪神大震災が発生しました。震度7の激しい揺れで、6434人が犠牲になりました。昨夜も電話で話した神戸の友人には、あの日も消息を尋ねて公衆電話から電話をしました。国の試算によると、首都直下地震では1万3千人という犠牲者が想定されるそうです。起きてからでは遅いのです。「いつか来るその時」のための備えが大切です。やっていない方は、今からでもやっておきましょう。
なお、養老孟司さんによると「『危機管理』が行き過ぎれば、想定外の出来事に弱くなる。」そうです。今「待てない」親と子が増えているという話から、性急に答えを求める世の中の現象に対し、「人間の手に負えないはずの自然をコントロールしようとする傲慢さの表れではないか。」とも。いずれにしても「忘れているのは『仕方がない』という言葉だろう。」と締めくくっています。
(『養老孟司の大脳博物館』-『アエラ』NO.3 2008.1.21より)
*右の写真は、裏町のセンリョウに積もった雪と、新町雪景色です。
(本日午前9時50分撮影) |
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| 仲町つれづれNO.132 2008年1月9日(水) |
| 初釜にちなんで-三逕亭と小堀遠州 |
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一月は「初」に満ちています。わが家人の初釜は11日とのことですが、佐倉市茶道連盟の初釜も11日のようです。初釜は、その一年の最初の茶会のことです。例年、佐倉城址公園の三の丸付近にある茶室「三逕亭」において行われています。
この茶室は、昭和29年に京都の臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の一坊、孤篷庵(こほうあん)の茶室「忘筌(ほうせん)」を模して東京の乃木神社境内に造られていたものを、佐倉市が譲り受け、昭和57年7月末より移築して建てられたものです。今でも週末には佐倉市茶道連盟の皆さんがお茶会を催されています。
この孤篷庵の茶室「忘筌」(重要文化財)は、小堀遠州(1579-1647)の作です。小堀遠州(本名・正一)は江戸時代の大名茶人で、生涯で催した茶会は約400回といわれています。大名としても活躍しました(徳川家康から遠江守に任じられたのが、遠州と呼ばれる由縁です。)が、寺社や城郭、庭園の造営にも才能を発揮して「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」ともいわれた総合芸術家であったといわれています。
孤篷庵の茶室「忘筌」は、彼が65歳のときの作で、寛政5(1793)年に焼失しましたが、やはり大名茶人で彼を崇敬していた松江藩主の松平不昧公により、寛政12(1800)年に再建されたものです。
この茶室は、開口の取り方が見事です。にじり口のない12畳の広々とした空間で、天井は木目が浮き出た「砂摺り天井」、床脇の手前座の壁の腰や庭園に面した広縁に明かり障子をはめ込み、特に広縁の方は下半分のみが吹き放しになっていて露地の景色が額縁に入れたかのように見える、書院式茶室という革新的な仕事で彼の美の集大成といわれています。
佐倉の堀田家と松平家にも不思議な縁があり、不昧の娘幾千子(1805-1863)は堀田第八代正愛(1799-1825)に嫁し、また曾孫政子(1854-1882)は第十代堀田正倫(1851-1911)に嫁いでいます。
因みに、孤篷庵には小堀遠州の墓がありますが、彼の代表作でもある鶴亀の庭がある南禅寺の金地院には、佐倉ゆかりの洋画家浅井忠の墓があります。
佐倉城址公園の三逕亭とともに、冬や秋の特別公開の機会に訪ねては如何でしょうか。
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*今年は、小堀遠州が徳川家康により遠江守に任ぜられてから400年に当たるということで、銀座松屋で14日まで「小堀遠州 美の出会い展」が開催されています。そこでは遠州茶道宗家の正月の一端から、多彩な遠州好みといわれる品々が展示されています。利休の「わび」、師匠である織部の「ゆがみ」の形と違って、遠州の「綺麗さび」といわれ、明るくシャープな線で、均整の取れた美しさと明るい色彩を好みました。安定感のある洗練された美意識が全てにわたって発揮されています。
*有吉玉青 『お茶席の冒険』 講談社 1999年
*岡倉天心 『茶の本』 岩波文庫 1929年
*正月の銀座の街には獅子舞が出ていました。この写真は「小堀遠州展」会場入り口でようやく撮ることができました。 |
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| 仲町つれづれNO.131 2008年1月6日(日) |
| オランダから里帰り |
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「凱風快晴」の赤富士や「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の大波でよく知られる浮世絵師の葛飾北斎(1760-1849年)。その作品は海外でもたくさん所蔵されており、このたびオランダ、フランス、イギリスなどから里帰りし、江戸東京博物館で今月27日まで展覧会が開催されています。
北斎が「冨嶽三十六景」などの名作を生み出したのは71歳の時でした。それ以前は、版本類や摺物の分野で活躍しており、今回の展覧会は、洋風表現に徹した怪しい迫力をもつ肉筆画や、私家本として製作された摺物といわれる絵入りの一枚摺りなどが主体となって構成されています。お正月にぴったりの、極端な遠近法を取り入れた、空高くあがるたこを背景にした『年始回り』(1824~26年頃、ライデンのオランダ国立民族学博物館蔵)という作品も、里帰りしています。この機会にぜひ鑑賞してはいかがでしょうか。
また『元禄歌仙貝合 ほら貝』(1821年、オランダ国立民族学博物館蔵)という色紙判の摺物も展示されいます。三十六歌仙になぞらえて選んだ三十六の貝を歌仙貝といい、この摺物は36枚シリーズで、1枚にひとつの貝が取り上げられています。狂歌の内容から、巳年と亥年に行われた江の島弁天のご開帳に合わせ、江の島での潮干狩りをイメージして作られたと考えられています。北斎は貝の名前や狂歌から着想を得て、静物、風景、庶民の生活などを自由な発想で描いています。摺物らしく全体に芳しい気品が漂っています。
この作品は、シーボルトが自国に持ち帰ったものです。シーボルトとオランダ商館長が1820年に長崎から江戸へ江戸参府を行った際、日本橋本石町3丁目にあった長崎屋で北斎に会い、買い求めたものといわれています。
その中の一点に「下総佐倉」という文字の出ているものがありました。
下総佐倉櫻菴美種 「鶯のねくらの竹のほら吹て 月待月待ふれる村長」
四方歌垣真顔 「鶯の出たるあとにのこる夜を 我ものにして眠る青柳」
言葉遊びこそ日本の誇る文化です。狂歌は、この時期に狂歌界を二分していた勢力(四方真顔と宿屋飯盛)のうち、四方側のグループによるものです。
元禄期に出版された歌仙貝の歌合せは、『歌仙貝』『六々貝合和歌』『新撰三十六貝倭歌』の三種があり、元禄3(1690)年刊の『六々貝合和歌』(国会図書館蔵)の貝の種類が、いわゆる後歌仙貝の種類で、この北斎の揃物と一致している、と解説してあります。
*佐倉図書館の近くにある佐倉町役場の跡地に、明治後期から大正初期にかけてのわずかな期間ですが、淡貝に細工を施し、工芸品としてヨーロッパに輸出していた「佐倉淡貝美術品商会」の工場がありました。この会社を起こした人は、佐倉順天堂の佐藤瞬海の子息である佐藤梧朗です。大叔父である林董と同じく外交官の道を歩んだ人で、海外体験が生んだ事業であったと思われます。(内田儀久「印旛沼の淡貝工芸―印旛沼コレクションⅡ―」(『印旛沼―自然と文化―第2号』印旛沼環境基金 1995年 所収)
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| 仲町つれづれNO.130 2008年1月5日(土) 睦月 |
| 年の初めに-初詣 |
新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくご愛顧のほどお願い申し上げます。 佐倉図書館職員一同
年の初めに神社仏閣に出向いてお参りをする初詣は、古来、家長が大晦日の夕方から氏神の杜にこもって新年を迎えた「年ごもり」に由来するといわれています。いずれにしても、今年一年の無事と決意を神様や仏様の前で自分自身に問いかけること、それが本来の意義かもしれません。
初詣の歴史は意外に新しく、19世紀の江戸時代後期に、年神(歳徳神)や福の神が来るのを待つのではなく、自ら出向いて福を獲得しようという人が出てきて、年神のいる方角(恵方)にある寺社に参拝する(恵方参りをする)ようになりました。これが初詣の原型と考えられています。
明治時代になって鉄道の発達普及により、さらに風習が広まるのに大きな役割を果たしたようです。初詣という言葉が新聞で確認できるのは明治中期からで、そのほとんどが川崎大師関連の記事だということです。
この近くで言えば、成田山新勝寺には毎年たくさんの人(07年は約290万人)が参拝に訪れます。広告の中には「東京より恵方 成田山」というコピーもあったとか。成田山に成田鉄道(今のJR成田線)が開通したのは1897年。実業家と共に新勝寺の住職も設立の発起人になっています。京成電気軌道が乗り入れるのは1926年。この時も寺社の資金援助を受けて何とか開通したといわれています。今年は成田山開基1070年にあたり、記念事業も行われるようです。
*今年の正月三ガ日に成田山新勝寺に初詣した人は、298万人(8日、警察庁発表、延べ人数)でした。 |
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| 仲町つれづれNO.129 2007年12月28日(金) |
| もういくつ寝ると・・・ |
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年末の大掃除やお正月の準備は順調でしょうか。
市内の図書館も28日より年明けの4日まで年末年始休館となります。
例年、身ひとつで、上越にある別宅で新年を迎えます。家は津本陽の小説にも出てくる大きな寺の門前にあるため、凛と静まりかえった深夜、唯一聞こえるのは「除夜の鐘」の音だけです。しかし、毎年、最後まで聞くことなく眠りについてしまいます。
「正月」は、「修正する月」の略でもあり、大晦日には一年の歪みを修正し、ニュートラルに戻らなくてはならないと言われています。仏教の世界では、元朝早々にする儀式を「修正会」と呼ぶそうです。
その修正のために一年間の煩悩を祓いましょう、ということで百八回梵鐘を打つ、それは誰が考えたか「除夜の鐘」と言われているものです。
通常、大鐘は、儀式の前に場の空気を清浄にして、その開始を知らせるために、18回ほど鳴らすそうです。六根、六境、六識の十八界が根拠という説もあり、その6倍が百八という考えもあるようです。また「煩悩は四苦八苦のもと」だから、四九=三十六、八九=七十二で、合わせると百八、とも言われています。寺によっては年内に百を打ち、年が明けてから八回鳴らすところや、明けてから一つだけという年内百七回というところもあるようです。
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臨済宗の僧侶で芥川賞作家の玄侑宗久さん(1956年生)は「煩悩がなくなったら我々は死んでしまう」としています。煩悩とは辞書的には悪い心のはたらきであり、執着心のことで、生きていくためのエネルギー(生命力)そのものであり、「横溢する生命力が邪魔になるときが我々にはあり、そんなときだけ煩悩と呼ぶのである。」と書いています。
「煩悩」をつきまとって離れない犬にたとえた「煩悩の犬は追えども去らず」という言葉もありますが、飼い犬には罪はありません。三毒(三垢)は、むさぼり(貪)・いかり(瞋)・おろかしさ(癡)をいいますが、玄侑宗久さんは「これだって調子がよければ熱情とか義憤、または専門的と褒められたりするだろう。元々同じ生命力なのだから、忌避せずに調えるだけでいい」と書いています。
私たちは、自分の煩悩と共に生きるしかないということでしょう。
玄侑宗久さんの教えとしては、調えるには「念仏」「坐禅」「読経」等々の方法があるが、「何も考えない状態を初めから目指すのではなく、ひとつの感覚に意識を集中するのがいい。聴覚が最も有効ではないか」と書いています。梵音(梵鐘の音)に耳を傾ける除夜の鐘は、かなり有効ではないでしょうか。
年に一度のこの機会、今年こそ、ぜひしみじみと聞いてみたいものです。
*玄侑宗久『ボンノーと梵音』(『遊歩人』No.68 2007年12月号所収) |
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| 仲町つれづれNO.128 2007年12月27日(木) |
| ふたたびの、ゆず! |
先週21日(金)に行ったわくわくおはなし会当日のことです。冬至も近づき、ゆず三昧の日々(仲町つれづれNO.125を参照)も、そろそろ終わりかなと思っていた矢先に、なんとも巨大なゆずにお目にかかりました。
表面がデコボコとしていて、見た目の大きさのインパクトのわりには持ち重りはしません(写真の右下が通常サイズのゆず)。「おにゆず」「ししゆず」などと呼ぶようです。
こんな巨大なゆずが、木からぶら下がっているなんて!
ささやかな日常の出来事でも、「感動する」という体験が脳の活性化につながる、と脳科学者の茂木健一郎さんも言っています。
写真ではなく、ぜひ実物を見て、脳に刺激を与えたいところです。
*茂木健一郎『感動する脳』PHP研究所 2007年 |
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| 仲町つれづれNO.127 2007年12月27日(木) |
| 冬のわくわくおはなし会! |
☆☆☆本日のプログラム☆☆☆
★絵本「ウィリーのそりのものがたり」
★絵本「こうさぎのクリスマス」
★すばなし「おいしいおかゆ」(イギリス昔話)
★すばなし「すもうをとったびんぼう神」(日本昔話)
★絵本「とのさまサンタ」
冬のおはなし、そしてクリスマスのおはなしをみんなで楽しみました。
おはなし会の後は、「ぐらぐらタワーにチャレンジ!」をして遊びました。「♪いちじく♪にんじん♪さんしょに♪しいたけ♪ごぼう・・・」と数えながらペットボトルのキャップをラップの芯の中に積んでいき、キャップが倒れないように芯をぬけるか?という遊びです。
それから、折り紙でクリスマスの飾りを作ってツリーに飾りました。 |
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| 仲町つれづれNO.126 2007年12月26日(水) |
| めざせ!教養立国ニッポン |
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日本は、市場原理に基づいた改革を進めています。しかし経済回復もなかなかうまくいかないようで、国際情勢のなすがまま、糸の切れた凧のようにふらふらしているようです。私たちは日本人としての誇りと自信をすっかり失ってしまったのでしょうか。
ベストセラーとなった『国家の品格』の著者である藤原正彦さんは、経済至上主義では人心乱れて国が滅びてしまうと、教養主義の復活を『文藝春秋』12月号に発表しています。その中で「教養とは直接何の役にも立たないような文化、芸術、学問などである。こういったものの創造を振興し、全ての国民が享受するような社会にする」ということを提言しています。
かのマックス・ウエーバーは、資本主義の最終段階では「精神のない専門人、心情のない享楽人、など無なる人々が、自分達は人間性のかつて達したことのない高みに登りつめた、と自惚れるだろう」と、百年余り前に予言しています(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。事実、現代社会はこのよう自惚れと傲慢に浸かった人々で溢れかえっています。そして「腹の足しにもならない教養などはヒマ人の時間潰し」などと見下されているような気もしています。
何故、教養が人間にとって、経済と並立するほど大切なのでしょうか。藤原さんは、教養とはなにか5点に分けて考察しています。まず、大局観とか長期的視野(多面的思考により物事を判断する)、人間的魅力を高めること、日本の国柄といえる知的好奇心の強さ、愉しみ、誇りということです。こうした教養を積み上げていくことで、何物にも替えがたい「自分が一歩一歩内面的に豊かになって行く充実感と愉悦」を得ることになります。
また「衣食住の向上安定や労働の軽減を達成」することでもあります。そうすることで得られた自由や余暇もまた教養の充実に向けるためのものということになります。
教養を獲得するための主たる手段である読書は、一層重要な役割を担うことになります。読書離れが指摘されていますが、読書は「時空を越える愉しみ」、「知識を得る、感動を得る愉しみ」であり、何らかの形で読書の醍醐味を知っていてほしいものです。今、日本人の失った誇りと自信を回復するには、「文学、思想、芸術、古典芸能、学問などに触れることであり、特に圧倒的な質と量を誇る文学を手にすることである」とのことです。
同じく『文藝春秋』12月号に、東谷暁さんの「団塊世代 新・知的生産の技術」という実践的ガイドが載っています。東谷さんが実際に『藤沢周平作品を楽しく読む」というテーマを設定し、楽しみのための情報整理法に取り組むということがわかりやすく書かれています。「まず公立図書館へ」ということで始まっており、さらにインターネットをフルに活用すれば、たくさんの情報を手に入れることができ、時間の節約にもなるそうです。
どうぞ、図書館をご利用ください。
経済だけで人生を終えるのは、あまりにも寂しくありませんか、自らを豊かにしてみましょう。
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| 仲町つれづれNO.125 2007年12月21日(金) |
| ゆず万歳!(そして祝・2年目!) |
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今年は豊作だったのでしょうか、11月下旬より、あちらこちらから、見事に実ったゆずをたくさんいただきました。
そのため、早速刻んで砂糖漬けにして食べたり、ジャムにしたりジュースにしたり、と、すでに冬至の前からゆず三昧の日々を送っております。
おかげで、この頃はめっきり寒くなりましたが、体調万全です。この調子で、年末年始の各種イベントも乗り切り、インフルエンザも撃退したいところです。
この「仲町つれづれ」も、本日をもって開始してから2年目に入りました。まだまだ稚拙ですが、少しづつながら試行錯誤しつつ、今後も継続していきます。引き続きのご愛読をお願いいたします。
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| 仲町つれづれNO.124 2007年12月20日(木) |
| いざ、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界へ |
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京極夏彦(1963年生)の 長編推理小説群「百鬼夜行シリーズ」は、現在9冊まで刊行、累計500万部を超える人気シリーズです。中でも最高傑作との呼び声が高い作品『魍魎の匣』(もうりょうのはこ)が、この度映画化されました。
京極作品の主人公、「拝み屋」としての顔も持つ古書店「京極堂」の店主が、いわゆる「探偵」として謎を解明していくのではなく、その語りによって登場人物の背負った業が救済されるという、いわく「憑きもの落とし」という形で事件を解決していきます。この点、従来のミステリの枠組みには納まらないといえるでしょう。
原作の冒頭に「魍魎―形三歳の小児の如し。色は赤黒し。目赤く、耳長く、髪うるわし。このんで亡者の肝を食ふと云。『今昔続百鬼巻之下』」と書かれています。魍魎というのは「屍を食らう毛むくじゃらの小鬼の妖怪」だそうです。京極作品の魅力は、時代設定や多彩なキャラクター造形はもとより、その筋書きのダイナミズムにあるといえるでしょう。
また、ある京極作品のファンいわく「登場人物が持つ暗い情念や旧社会の因習そのものが、〈妖怪〉というイメージをまとって現実/非現実の境界を飛翔するとき、確かにそこに得体の知れないものの存在を感じる」と。
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それにしても、この長大な作品を、今回2時間13分に脚本・映画化した監督の力量には感服です。『金融腐蝕列島呪縛』(1999年)、『突入せよ!「あさま山荘」事件』(2002年)などの、社会派の作品で知られる原田眞人監督です。キャストは、前回の『姑獲烏(うぶめ)の夏』(実相寺昭雄監督、2005年)でも京極堂を演じた堤真一のほか、阿部寛、宮迫博之、田中麗奈などの顔ぶれが再結集し、さらに椎名拮平、黒木瞳、柄本明、宮藤官九郎等々個性的な俳優も参画しています。また、上海をはじめ、千葉の鋸山、茨城県庁、栃木県大谷石の石切り場、静岡県など各地でロケをしています。全2,300カットを駆使し、スピード感あふれる演出と迫力ある映像で魅せてくれます。
さてこの映画、ハコの中身は・・・? 脚本も書ける監督ですから、期待できるのではないでしょうか。12月22日より公開です。 |
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| 仲町つれづれNO.123 2007年12月9日(日) |
| 『本当の私はどこに?』寺山修司 |
中山競馬場で一年の競馬の総決算である「有馬記念」がまもなく開催されます。「演劇実験室・天井桟敷」の劇作家で歌人の寺山修司(1935-1983年)は、若いころから競馬を愛し、死に至る最後の入院の5日前にも、皐月賞の行われた中山競馬場へ行ったといわれます。寺山は競馬予想から、ヒーローとなった勝者ではなく、敗者や、個性あふれる馬たちへの愛に満ちた評論も手掛けています。
寺山修司は、「自叙伝らしくなく」と副題した『誰か故郷を想はざる』という作品の中で、「私は1935年12月10日に青森県の北海岸の小駅で生まれた。しかし戸籍上では翌36年の1月10日に生まれたことになっている。」と書いています。母からは「お前は走っている汽車のなかで生まれたから、出生地があいまいなのだ」といわれたとか。このように、寺山についてはある時期までは謎に満ちていて、最近では「事実と脚色のコラージュ」(『朝日新聞』‘07・07・08)と評されています。それだからでしょうか、寺山の人生は「片時も一つ所に定着すること」なく、「まるで嵐の内を駆け抜けるような生涯であった」(栗坪氏の評伝より)といえるようです。
ずば抜けて豊かな感受性を持ち合わせていた寺山は、13歳にして俳句表現に眼を開き、10代の俳句雑誌『牧羊神』を創刊し、全国学生俳句会議を組織するなど、早くから自己を確立していきました。早稲田大学に入学してから本格的に短歌を作りはじめ、18歳で「チエホフ祭」50首で「短歌研究」新人賞を受賞しています。古式ゆかしい世界の中では、たいへんなことだったでしょう。
*映画キャメラマンたむらまさき(1939年生)と映画監督青山真治(1964年生)の『酔眼のまちーゴールデン街』(朝日選書2007年)によると、たむらまさきは弘前の生まれで、父親が鉄道員だったため県内のあちこちを転々して育ち、学校も寺山の後輩だったそうです。しかし当時は転校生だったため、「詩を書くやつが来た」「南部のやつがきた。有名な詩人だ」ということは知っていたけれども、寺山とは知らず、東京に出てからも、噂は聞こえてくるものの接点はなかったとか。寺山の伯父(13歳からの育ての親)が青森市内で経営していた洋画系の映画館・歌舞伎座に、寺山が入りびたっていたことは有名ですが、当時たむらも足繁く通っていたということです。寺山の『草迷宮』(1979年)、『田園に死す』(1974年)などの作品を通して、「ずうっと寺山を意識していた」「ライバルのような気分にさせてもらえたのは、幸せだった」と回顧しています。
*早稲田短歌会の後輩で、短歌絶叫コンサートで知られる福島泰樹さん(1943年生)は、石川啄木との比較のなかで、「彼が死するまでライバル意識を燃やし続けた石川啄木は、人生に敗れて短歌に帰ってきた。だが、寺山修司は『私性の拡散と回収』という短歌理論をもって、あらゆるジャンルを席捲した」と書いています。寺山は昏睡に入る前、最後の原稿(歌人文庫『寺山修司歌集』)がまだ出ないのかと再三にわたり催促していたそうで、その中の「歌論はすべて啄木論だった。寺山さんは石川啄木になりたかったのか。」寺山は近代を生きた啄木ほどにはうまく、歌をもって時代の証人にはなれなかったということでしょうか。
福島泰樹さんは、寺山の死後、歌集『望郷』(思潮社)を献じたり、寺山修司追悼短歌絶叫コンサート「望郷」をやったりしています。今でも毎月10日吉祥寺のライブハウス「曼荼羅」でコンサートをやっています。
*栗坪良樹「評伝寺山修司」(『寺山修司』(新潮日本文学アルバム56)新潮社1993年所収)
*福島泰樹『寺山修司の墓 夭折者の系譜』 彩流社 2001年
*『寺山修司全歌集』沖積舎1982年 *『寺山修司全歌論集』沖積舎1983年 |
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| 仲町つれづれNO.122 2007年12月5日(水) |
| ジョン・レノンの死から27年 |
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1980年12月8日午後10時50分、ロックバンド「ザ・ビートルズ」のメンバーであったジョン・レノン(1940-1980年)は自宅のあったNYのダコタ・ハウス前で車から降りたところを、25歳の男に5発の銃弾を浴びて殺害されました。この衝撃的な出来事に対し、世界中が涙して悼みました。
その男マーク・デヴィッド・チャップマンは、一丁の拳銃のほかにJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を手にしていたそうです。警官が現場に来るまで、その場でその本を読んでいて、「なぜ殺したか?」と聞かれても、この本を読めばわかると答えるだけだったといわれています。
また、その4ヵ月後に当時のレーガン大統領を狙撃した男も、この本の愛読者だったそうです。そのためか、アメリカでは未だに有害図書に指定しているところもあるとか。
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ちょうどその4、5時間前に、女性写真家アニー・リーボヴィッツ(1949年生)によって一枚の写真がとられました。裸のジョンが黒いセーターとジーンズを着た妻のヨーコにしがみつく姿の写真です。即興的なやりとりから生まれた作品のようですが、ジョンの最後の一日を永遠に留めた有名な写真です。ご存知の方もいらっしゃると思います。ポップカルチャーの最先端を行く『ローリングストーン』誌(335号、81年1月22日)の表紙を飾った写真です。
『ライ麦畑でつかまえて』という作品は「サリンジャーが最初に持ち込んだ出版社からは、主人公が『クレージー』だと評されて突き返された」そうです。基本的な主題は「子供の夢と大人の現実との衝突」(訳者・野崎孝)とし、「子供にとって、夢を阻み、これを圧殺する力が強ければ強いほど、それを粉砕しようとする反発力は激化してゆくだろう。」さらに主人公の言葉や行動は「仮面が身についた大人の常識からすれば、たしかに正気の沙汰とは思えぬ所業であり、ひんしゅくすべき野卑な言葉をまきちらす要注意人物かもしれない。」と解説されています。
今年はジョン・レノンに関した映画が3本ロードショーされます。12月8日から、ドキュメンタリー作品の『PEACE BED アメリカVSジョン・レノン』と、ジョン・レノン殺害までの衝撃の3日間を映像化した『チャプター27』(J・P・シェファー監督・アスミック・エース配給)が公開されます。また2月からは、女性写真家アニー・リーボヴィッツのドキュメンタリー作品『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』が公開予定となっています。この映画では、1970年代当時無名のアニーに優しく心を開いたジョンとの出逢いが、彼女の後の生き方を決定付けたといわれ、「死にゆくその日も写真を撮っていたい。なぜって、写真は永遠よ。」と語っています。オノ・ヨーコは彼女について「魂を撮りたがっていた。それが伝わった。」と語っています。
先日12月3日、オノ・ヨーコさんがさいたま市中央区にあるジョン・レノン・ミュージアムを訪れ、願いごとの短冊をつるすミカンの木に「みんなで楽しく暮らせるような世界を造りましょう」と平和への願いを書いてつるしたそうです。
*J・D・サリンジャー・野崎孝訳 『ライ麦畑でつかまえて』(新装版) 白水社 1985年
*フェントン・ブレスラー・島田三蔵訳『誰がジョン・レノンを殺したか?』音楽之友社 1990年
*ジョン・レノン、オノ・ヨーコ 池澤夏樹訳『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』中公文庫 2001年
死の2日前(12月6日土曜日の夜)に行われたインタビュー(3時間15分)の記録です。 |
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| 仲町つれづれNO.121 2007年12月2日(日) |
| 『田園讃歌』自然との共生-落花生「ぼっち」に想う |
佐倉周辺の畑では、晩秋から初冬にかけて、積みわらではなく、落花生の「ぼっち」と呼ばれる茶色の山々をみることができます。季節の風物詩として、なんとなくわれわれの心を和ませてくれる、日本の原風景です。
「ぼっち」は、落花生の収穫作業の一工程です。株を引き抜いて逆さまにして2週間ほど天日干しにした後、株の根(豆がついている)のほうを円の中心側にして円筒状に積み上げて1ヶ月ほど野積み乾燥をさせているのだそうです。このことによって、実の苦みが抜けて甘みと油がのってくるのだそうです。
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ボウガケ、ワラニョ、ワラボッチ、ススキ、マルボンサン、ワラグロ、ヨズクハデ、トシャク、ワラコヅミ、・・。これは写真家の藤田洋三さんの『藁塚放浪記』(石風社・2005年)に取り上げられた稲積み(藁塚)の各地域での呼び名を列挙したものです。それぞれの地域の風土にあった独特の工夫が加えられ受け継がれて来たものです。
埼玉県立近代美術館で、積みわらを描いた作品を中心とした田園風景をテーマにした展覧会『田園讃歌―近代絵画に見る自然と人間』が開かれています(12月16日まで)。担当者によれば、ミレーの『落穂拾い、夏』(山梨県美蔵)とモネの『ジヴェルニーの積みわら、夕日』(埼玉近美蔵)の名作2点を核にスタートしたもので、農耕・収穫を主題とした19世紀西洋絵画と同時代の日本絵画の流れを概観し、「大地と人間の関わりの変遷を通して、現代的な観点からささやかながら自然と人間の関係を再考する契機となれば」ということです。
日本の近代洋画では、やはり佐倉ゆかりの浅井忠(1856-1907年)が注目されます。ここでは、日本の原風景ともいえる、早春の麦畑を耕す農夫の家族を描いた『春畝』(重要文化財・展示終了)、『藁屋根』(千葉県美蔵)、『農夫帰路』、『農夫とカラス』、積わらが並ぶ田舎道で荷車を押す農婦が描かれた『収穫』(重文の同名作品ではない・宇都宮市美蔵)が展示されています。浅井の親戚で、門下生でもある倉田弟次郎(1871-1894年)、倉田白羊(1881-1938年)兄弟の写真や油絵、市川に住んでいた頃描いた林倭衛(1895-1945年)の『積藁』(1933年)も展示されています。
浅井忠の作品以後、時代が進むにつれて、多くの画家の日常からは農耕生活がうすれていき、次第に写実に基づきながらも、主題に象徴性を持たせるようになってきます。次々と西洋からもたらされる画風の受容によって、田園を主なモチーフとした風景画等も抽象表現へと発展していきます。
今日、近代化と都市化の果ての農村の過疎化、地球規模の温暖化など大きく変化しました。かつて浅井忠が描いた農耕風景やモネが描いた積みわら、ミレーが描いたような落穂を拾う人などは見ることがありません。
しかしながら、われわれは浅井忠等に一貫して流れる自然に対する愛着ともいうべきもの、これらの作品から発せられるメッセージに耳を傾けなければなりません。
*『田園讃歌―近代絵画に見る自然と人間』展 図録 読売新聞東京本社他 2007年 |
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