| 仲町つれづれNO.120 2007年11月28日(水) |
| 津田家と青山学院 |

青山学院大学構内(11月26日撮影) |
津田梅子(1864―1929年)は、津田塾大学の前身である「女子英学塾」を開きましたが、その父である佐倉藩士の津田仙も、青山学院や東京盲学校の草創期における功労者の一人でした。
津田仙(1837-1908年)は、早くから「蘭癖」藩主の堀田正睦の影響を受けて西洋に対する関心を深めていました。苦労して蘭学から英語の勉強を続け、通訳として渡米したり、ウィーン万博(1873年)にも出かけたりして活躍します。明治維新後は近代農業のパイオニアとして、『農業三事』(1874(明治7)年)、『農業雑誌』(1876(明治9)年)の創刊など農学者としての一面だけではなく、1876(明治9)年には学農社農学校を設立(1883(明治16)年廃校)して人材育成にもつとめたり、西洋野菜、果物、樹木の普及者(アスパラガス、リンゴ、イチゴ、柿、街路樹等)としても活躍しました。
わが国最初の通信販売に従事し、地方産業の振興にも尽力しました。さらに青山学院の前身であるメソジスト派の学校の創立にもかかわり、自ら洗礼を受け東京で最初のメソジスト派信者となり、キリスト教界の指導者としても活躍しました。 |
青山学院の歩みを見ますと、1874(明治7)年、ドーラ・E・スクーンメーカー女史が麻布に「女子小学校」を開校(後に海洋女学校と改称)。そのほか築地に「耕教学舎」(1878(明治11)年、後に東京英学校と改称)、横浜に「美會神学校」(1879(明治12)年、後に東京英学校と合同)など、アメリカのメソジスト監督教会が日本に派遣した宣教師によって創設された3つの学校をその源流として、女子系、男子系の学校が合同し、1927(昭和2)年に今日の青山学院の土台が作られたとされています。11月16日が創立記念日でした。
津田家子孫の津田守さん(大阪大学教授)の「津田仙と青山学院」(「青山学院高等部同窓会報」VOL.54)を見ますと、一家を挙げて物心両面で協力していたことがわかります。1874(明治7)年11月16日、女子小学校が開校したが、“女子に教育とは”という風潮もあって「なかなか生徒が集まらず、成人女性も男の子も机を並べることになった」ために、曾祖母(当時31歳)、祖父(5歳)、大叔父(8歳)、大叔母(12歳)等が最初の生徒になったということです。そして「曽祖父である津田仙(名義上の(『校主』)の、現在の港区南麻布にあった自宅の隣の岡田邸一室を間借りして、始まった」が、「岡田邸が売却されることになり、一時やむなく津田邸の客間」が使われたということです。
津田仙の妻である初が生徒になった理由は、次女の津田梅子が日本最初の女子留学生として米国に滞在していて、届く手紙が英語で書かれていたために、それを理解するためだったということです。また津田梅子は帰国直後「海洋女学校」の英語の教師を約2ヶ月間勤めています。
津田仙は1908(明治41)年4月24日に亡くなり、葬儀や追悼会は青山学院講堂で行われました。津田仙は極めて起伏と変化に富んだ人生を送っていますが、「天賦といおうか、生来の進取的気性に生きて、自己の望む方向に自らを存分に駆使した」(都田豊三郎)人であったといえます。
来年はちょうど没後100年にあたります。来年4月26日(土)午後に「津田仙没後100年記念プログラム」として青山学院大学において講演会が企画されています。
*都田豊三郎 『津田仙-明治の基督者-』 (非売品) 1972年
*古木宜志子 『津田梅子』(人と思想116) 清水書院 1992年
*『青山学院総合案内 2007』 学校法人青山学院 2007年 |
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| 仲町つれづれNO.119 2007年11月20日(火) |
| 昭和とともにあった三島由紀夫 |
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三島由紀夫(1925-70年)は、1970年11月25日に市谷の陸上自衛隊で檄文をまき、総監を縛りあげ、総監室のバルコニーで憲法改正を目指しての行動を促す演説をしたが果たせず、割腹自殺を遂げました。その日、45歳の衝撃的な死は世間を驚かせました。私も、その時近くの文京区民センターにいたため興奮したことを記憶しています。三島の言動に関心を持っていた人ならば「予測できなかったことではなかったはず」の出来事といわれています。
嵐山光三郎の『追悼の達人』(新潮社)によりますと、当時の首相佐藤栄作は「まったく気が狂っているとしか思えない」と発言、朝日新聞の社説は「彼の哲学がどのようなものか理解できたとしてもこの行動は決して許されるべきではない」、毎日新聞の社説は「狂気の沙汰というより他はない。反民主的な行動は断じて許されない」としています。ドナルド・キーンは「『豊饒の海』最終稿を見せられたときこの死を予感していた」そうで、外国文学者は、概して三島に好意的であったということです。三島が真正面から戦後民主主義社会に投げつけたものは何だったのでしょうか?この機会に、遺された作品に触れて、考えてみることをお勧めします。
*三島由紀夫の文学は「美」、「美とは何か?」の追求であるかと思います。三島は、戯曲においても遺憾なく才能を発揮していますが、今秋相次いで上演されます。1970年10月22日に三島の希望で初日が上演されてから実に37年ぶりに、村松英子主演・演出「薔薇と海賊」(紀伊国屋ホール)がすでに上演されました。12月4日からは宮田栄子演出「朱雀家の滅亡」(東池袋・あうるすぽっと)が上演されます。三島作品は国家体制や社会のあり方などにまつわる問題を含んでいるので、俳優も演出家も難渋するといわれています。
ドナルド・キーンは、「三島の一番優れた戯曲は近代能(『近代能楽集』)である」としています。これは日本的なものですが、欧米でも何回となく上演されるほどの普遍性を持ち合わせているようです。「三島の達者な筆と能のがっちりした構造のおかげで、そこには現代的な幻想の世界が築かれている。」(『日本の文学69三島由紀夫』解説)と評価しています。
*『三島由紀夫全集』全35巻・補巻1巻 新潮社 1973-6年
*『日本の文学 69』 中央公論社 1965年
*新文芸読本『三島由紀夫』 河出書房新社 1990年
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| 仲町つれづれNO.118 2007年11月18日(日) |
| ゆく秋のあはれ~良寛の俳句より |
先週の雨上がりの休館日に、上越の里へ行ってきました。まだ予想以上に暖かく、紅葉もハッとするような美しさではありませんでした。昼食に「この辺で一番美味い蕎麦を食べたい」と郵便局で尋ねて入った店は、メニューに天ざるとざるそばしかない処でした。そこで天ざるを注文したら、なんと小欄(No.112)で紹介した「むかご」をはじめ、ホップ、みぞそばやあんにんご(上不見桜)の花々、げんのしょうこ、まいたけ等々の天ぷらが出てきました。薬味には、殻付きのくるみやカラッと揚げた豆味噌などもプラスでついていました。説明付きの、まさに旬の味わいでした。
越後の五合庵に定住した良寛和尚(1758-1831)は、今年生誕250年を迎えています。ゆかりの地である倉敷では、長岡市木村家伝来の作品を中心に約100点を展示した「市制40周年記念事業・『良寛―生誕250年記念―』展」(倉敷市美)が、18日まで開かれていました。
良寛といえば、歌や詩、書が有名です。しかし、あくまでも、詩人の詩、歌人の歌、書家の書を忌避してきた人です。そのせいか、良寛の俳句は百句前後あるようですが、あまりなじみがないようです。『良寛のウイットー俳句のある風景』という本から、いくつか紹介します。
「 ゆく秋のあはれを誰にかたらまし 」
秋が過ぎ去ろうとする、晩秋の夜は冷え込んでくる。1人暮らしのじいさんをあわれんでくれる者もいない。ああ、このあわれを、一体誰がきいてくれるというのだろうか。
「 うらを見せおもてを見せて散るもみぢ 」
良寛の句かどうか疑問とされていますが、良寛の弟子でもある貞心尼の『蓮の露』にも出てくる句で、いかにも良寛が好んで口にするような句であります。裏を見せ、表を見せつ、舞い落ちる美しい色の紅葉だったのでしょう。
「 もみぢ葉の錦のあきや唐衣 」「 柿もぎのきんたまさむし秋の風 」
村山砂田男さんの解説によれば、俳句の世界では、俳聖の芭蕉、俳人の一茶とするならば、良寛は無為の境地において俳句を楽しんだ「俳遊」という存在ということです。遺された作品はいかなる系譜にも属さず、むげそのものの中から生まれたものばかりです。そういう意味では、良寛は「永遠の自然人」ともいえるのではないでしょうか。
*『新潟日報』(11月8日付け)に、良寛遺墨としても極上の作品といわれる、紅葉の葉を漉き入れた和紙に書かれた良寛の三連記の歌が紹介されていました。
秋の雨の日に日に降れば唐衣濡れこそまされ干るとはなしに
秋山をわが越えくればたまほこの道も照るまで紅葉しにけり
ひさかたの雲のあなたに住む人は常にさやけき月を見るらむ
*小林新一・村山砂田男 『良寛のウイットー俳句のある風景』 考古堂 1989年
*松本市壽 『良寛の詩歌 その心のひだを読む』第2部(17)(『新潟日報』掲載)」
*谷川敏朗 『校注良寛全句集』 春秋社 2007年
*『定本良寛全集』1~3巻 中央公論新社 2006年 |
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| 仲町つれづれNO.117 2007年11月15日(木) |
| 自然からの贈り物 秋~冬編 |
裏新町にある移動図書館の倉庫の脇で発見しました。
建物の影になっているため、ひっそりと静かで暗い中なのに、その実の鮮やかさがとても見事でした。
さて、何の実だか、おわかりでしょうか。
大きい方がカラスウリ、小さい方がセンリョウ(千両)です。
あんな物陰でも、鳥が見つけて食べて、どこか遠いところに運ばれて、いつか芽を出して、また実をつけるのでしょうか。
本当に、植物なのにすごいですね。一時、植物の不思議に想いをはせました。
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| 仲町つれづれNO.116 2007年11月15日(木) |
| 大塚信一と山口昌男 |
普段、当たり前のように読んでいる雑誌や本ですが、かつて「風媒花」の発行をしてきた経験からしても、一冊の本を出版するということは、本当に大変だということを実感しています(どこの世界もそうかもしれませんが)。中でも、編集という仕事はなかなか難しいものです。そのせいでしょうか、まわりの編集者を見ても皆個性豊かな人たちが多いです。『山口昌男の手紙』という本の著者である大塚信一さんは、編集とは「基本的に一冊一冊、一人一人の著者との人間関係に基づく仕事」と書かれています。
私の知る当時の大塚さんは、岩波書店で創刊された文化雑誌『季刊・へるめす』(1984年)の編集長でした。大塚さんによると、『へるめす』という誌名は山口昌男さんの提案であり、自ら「学問と芸術に架橋する」というコンセプトの実践をしていて、「ギリシア神話のヘルメス神さながらに活躍する山口氏ならではの発想であった」と書かれています。編集同人として、山口さんのほかに、磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎が参画していました。この雑誌はもう休刊になっているようですが、当時としては新鮮な知的体験ができる雑誌でした。
最終的には岩波書店社長で終わられた大塚さんの仕事の全体については、昨年出版された『理想の出版を求めてー編集者の回想1963-2003』(トランスビュー)に詳しく書かれています。この本には「次代を担う若い世代の編集者たちに捧げたい」と書かれています。
文化人類学者である山口昌男(1931年―)と大塚さんのつきあいは、大塚さんの学生時代(ICU)、山口邸での読書会に始まり、その後40年余にわたることになります。「山口昌男の手紙」では、山口さんからの80余通の手紙(私信)を通して、彼との知的交流を綴っています。そこには烈しい言葉遣いなどもあり、伏字や何行削除といった箇所もあります。一時期の思想界を席巻した山口さんの「日本の文化人類学界・民俗学界にこの上なく強烈なパンチを与える」ような論考が生まれた背景、世界を股にかけた、スケールの大きい活躍の舞台裏を垣間見ることができます。しかし国際的に著名になってからは、「何とも味気なく、かつての山口氏はどこにいってしまったか」と思うようになり、1990年代以降は疎遠になったとか、そのあたりのいきさつなどもおもしろく、かつて取り上げた四方田犬彦さんの『先生とわたし』を思い出すスタイルをとっています。
*大塚信一『山口昌男の手紙』トランスビュー 2007年
*大塚信一『理想の出版を求めてー編集者の回想1963-2003』トランスビュー 2006年 |
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| 仲町つれづれNO.115 2007年11月11日(日) |
| 寒い季節となりました。 |
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今年の読書週間も、先週末の9日で終わりました。何か一冊でも本を手にとられましたでしょうか。
昨日の家路の途中、いつもの飲み屋の赤提灯ではなく、おとりさまの提灯の灯りが目に入りました。もう「酉の市」の季節なのです。今年は、11日が「一の酉」で、鷲(大鳥・凰)神社の祭礼で、市が立つようです。今でも、東京・埼玉・神奈川など40か所ほどにも及んでいるとか。
年の暮れが近いことを知らせる「酉の市」は関東の風物詩ですが、鷲神社の総本家は意外にも堺市の大鳥神社だといわれています。江戸時代には、葛西村(足立区花畑)の鷲明神の酉の市が盛んで、農具や古着、農産物などいかにも農村的な品物が売られたということです。農具の熊手が「掻き込む」ということから客商売の人々に人気があり、やがて縁起物で飾った独特の熊手となったということです。(岡田芳朗「暦のことば・23」(『言語』11月号)より)
今では下谷竜泉寺町(台東区千束)の鷲神社の酉の市が有名です。また「三の酉のある年は火事が多い」という言い伝えもあります。今年は「二の酉」(23日)までなのですが、これからの季節、火の元には十分注意したいところです。
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佐倉図書館では、先月初めに臨時休館をさせていただき、蔵書点検を行いました。あわせて、棚にある本をチェックし、不特定多数の方の利用に耐えない汚破損本を中心に、除籍するという作業も行いました。
その除籍本を、佐倉図書館を利用された方に提供する「ブックリサイクル」を現在行っています。先週9日より始めて、23日までの予定ですが、なくなり次第、終了とさせていただきます。
写真は、初日9日の様子です。
10日の金比羅様の日は、あいにくの冷たい雨模様で人通りも少なく、図書館の利用も芳しくありませんでした。
本日11日も、同じく冷たい雨でした。図書館の本として使用するのは難しいけれど、個人としては「まだ読める!」本と出会えるかもしれません。どうぞご来館ください。 |
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| 仲町つれづれNO.114 2007年11月6日(火) |
| (読書週間です④) 「ノンフィクションinフィクション」パート2 |
「車で外に出る。S倉名物の風車の前、道の上、お花畑の中、田んぼの畦の上、遮断機の横、地蔵さんの前、畑の中、公園の小さな丘に上る、斜面に立つ、橋桁の上、橋の下の水際、光のご機嫌伺い。」
この独特の雰囲気を持って表現された文章は、誰によって書かれたものかお分かりになりますでしょうか?『おはよう、水晶―おやすみ、水晶・16~水底からの落下』(『ちくま』2007・10)という連載から引用しました。この作家の作品の主人公は、ほとんどの場合、作者をモデルとした文筆家の姿をしています。容姿や財力に恵まれない中年のさえない独身女性で、猫をパートナーとして描かれています。
「近所のイタリアンレストランで打ち合わせを始める。ランチを共にする。どの皿も店の庭の無農薬ハープと新鮮な魚介をふんだんに使ったもの。『鴨とウサギがだめなので』と言わなくてもいい。鹿の彫刻や木々に囲まれた店内にいると、山の中に思えるけどすぐ下は街道だ。」
「つぶ、つぶ、とボートの横で暗い水が揺れている。石鹸の泡も含んでいそうな沼。白いボルゾイのいる自然食レストランの流しの水と、いつもカーテンを閉ざしたフィリピンバーの流しの水の、流れる沼。ヒトトンボはもうこの沼の自然の一部だった。」
「一昨年の猛暑、空飛ぶ沼から彼が落ちたのは、そして地上に叩きつけられてそれでも死ななかったのは、コンクリートの多い勝田台の駅近くを沼が飛行していた最中であったにもかかわらず、卵の落ちた場所が、たまたま、境内に札所もある八坂神社の土の上だったから。」
市内のどこの場所のことなのか、思い当たる方も多いのでは?このS倉に住む作家とは、笙野頼子さんです。『S倉迷妾通信』(集英社2002年)という作品にもありますが、安心して猫が飼える千葉県S倉市に引っ越してこられた、とのことです。ほかにもたくさんの作品があります。ぜひ読んで、「笙野ワールド」を体感してみてください。
【笙野頼子さんの作品受賞歴】
1981年『極楽』で第24回群像新人文芸賞を受賞し、自らをアヴァン・ポップ作家と称する。
1991年第13回野間文芸新人賞、1994年第7回三島由紀夫賞、1994年『タイムスリップ・コンビナート』で第111回芥川賞を受賞し、「三冠王」とよばれる。
2001年『幽界森娘異聞』で第29回泉鏡花文学賞、2004年『水晶内制度』で第3回センス・オブ・ジェンダー賞大賞、2005年『金比羅』で第16回伊藤整文学賞を受賞。 |
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| 仲町つれづれNO.113 2007年11月1日(木) |
| (読書週間です③) 「ノンフィクションinフィクション」パート1 |
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何気なく読んだ小説(フィクション)の中に、現存の人物や場所が(ノンフィクション)が登場してびっくりした、という経験はありませんか。今回は、佐倉に関連する実在した人物が登場する小説を2冊紹介します。
伴野朗著『霧の密約』(1995年 朝日新聞社)
明治時代、日本全権駐英公使として日英同盟を締結させた林董。董は順天堂創設者佐藤泰然の実子で、佐倉の本町に生まれた。幕末に英国に留学し、明治になって外交官の道を歩む。
董は、近代日本となった我が国が独立国家として歩むためにはヨーロッパの国と同盟を結ぶ必要があると考え、その相手国に英国を選ぶ。この同盟を潰そうと暗躍する謎の人物「朱雀」。ロンドンを舞台に朱雀の度重なる襲撃が始まる。ロンドン警視庁は董を守れるのか。
祖父江一郎著『幕末士伝 中居屋炎上』(2002年 集英社)
開国前夜、日本橋の書籍問屋で薬種、砲種も扱う店があった。主人は中居撰之助という。彼が老中首座阿部伊勢守正弘の懐刀といわれる松平河内守近道に頼まれて、攘夷か開国かと揺れ動く各藩を巡る。
時代に翻弄される藩の一つに佐倉藩があった。これまで描かれることが少なかった木村軍太郎や平野縫殿などの佐倉藩士が詳細に描かれている。幕末の佐倉藩を思い浮かべるのに良書である。
このほかにも、まだまだ小説の中に登場する「佐倉」は、たくさんあります。知らずに読むと、とっても不思議な感覚におそわれること間違いなしです。ぜひ、いろいろ読んで「ノンフィクションinフィクション」見つけてみてください。
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| 仲町つれづれNO.112 2007年10月31日(水) |
| 自然からの贈り物~秋編 |
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この季節は、木の実、キノコなどの山の幸、アジ、イワシ、サバなど青肌の魚などの海の幸、そして果実や新米など、文字通り、実りの秋です。
今週は、移動図書館関係の蔵書点検を行っておりますが、昨日、和田公民館図書室へ行った時、敷地内で「むかご」を発見しました。当館のほとんどの職員は初めて目にしたとのことです。4年前に木曽へ行った時、珍しいものだなと思って買ってきたことがあります。
「むかご」(「零余子」)とは、自然薯(山芋)が蔓の途中(葉の付け根)につける小さな芋(珠芽)のことで、この見栄えながら食用可能です。「むかご」を用いた料理は、素朴で野趣に富み、昔は茶人に好まれたようです。塩でゆでたり、煎ったり、和えたり、汁の実、炊き込みご飯にして食べます。(つい最近、飲み屋で天ぷらにして食べました。)
この蔓をたどって根を掘り出すと、自然薯が発見される、ということになります。自然薯の方は誰もが食べたことがあると思いますが、今では掘るのも難しく、掘る人も少ないようで、なかなか高価な食材といえます。
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歳時記をひきますと、「零余子」は俳句の世界では秋の季語です。古名は「ぬかご」。『俳諧初学抄』(寛永18年)では「むかご」とするほかは、すべて「ぬかご」と掲出されているということです。
いくつか俳句をご紹介しますと、まずは、木曾の縁で、
木曾人に木曾の酒あり炒零余子
西尾桃子(恵那)(『角川俳句大歳時記』秋)
それから、
菊の露落ちて拾へばぬかごかな 芭蕉
うれしさの箕にあまりたるむかごかな 蕪村
ほろほろとむかご落ちけり秋の雨 一茶
零余子一つ摘まんとすればほろと落つ 小沢碧童
触れてこぼれひとりこぼれて零余子かな 高野素十
いずれも、露よりもろく、ほろほろとこぼれ落ちるさまが表現されています。 |
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| 仲町つれづれNO.111 2007年10月27日(土) |
| (読書週間です②) 「読書家だった徳川家康」 |
東京国立博物館で、徳川将軍家、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家、さらに久能山・日光・紀州の東照宮、寛永寺、増上寺など徳川家ゆかりの地に伝えられた宝物を一堂に集めた展覧会が開かれています(12月2日まで)。徳川家康(1543-1616年)は、3歳で母と生き別れてからの、苦労の連続の人生を送った経験から生まれた質素・倹約の教えが天下統一の原動力になっているといわれ、展覧会では、260年以上続いた徳川家の時代の武具類、調度品、着物類等々が展示されています。
また、読書家であった徳川家康は、文治の要として儒教を広めるため、大出版事業にも意欲を燃やし印刷史上に大きな足跡を残しています。安土桃山時代から江戸初期には朝鮮から銅活字、西洋からは活版印刷が入ってきましたが、日本の出版文化は版木を中心として展開しました。再び活字が印刷の手段として用いられるようになるのは幕末になってからといわれています。こうしたなか、徳川家康は日本初の銅活字印刷である駿河版『大蔵一覧集』(1615年刊)などをやっています。時の権力者、徳川家康であるが故にできたことだったといえます。
将軍の権威を紹介するために、朝廷や諸外国との交流を印した資料も何点か展示されています。佐倉藩主堀田正睦(1810-1864年)は、1837(天保8)年に老中になりますが、彼自身攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であり、1843(天保14)年に辞職します。しかし、1855(安政2)年再び老中になり、さらに老中首座になり、外国掛老中も兼ねることとなりました。1858(安政5)年アメリカ総領事ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の許可を得ようとしますが、天皇は攘夷派であったため、失敗に終わりました。
今回の展示には、『勅答之書付写』<1858(安政5)3月20日>、勅答を受けた堀田正睦が衆議すべき箇条を朝廷に問うたことに対する回答書である『通商条約締結につき衆議箇条書』<1858(安政5)年3月24日>、京都から持ち帰った勅答とともに老中堀田正睦が諸侯に意見を求めた『老中申渡書』<1858(安政5)年4月25日>があります。堀田正睦はこれらのことが原因で辞職に追い込まれることになり、その後佐倉での隠居処分になり、1864(元治元)年に55歳で亡くなります。
堀田正睦のあと井伊直弼が大老になり、天皇の勅許がないままに独断で日米修好通商条約締結に踏み切ります<1858(安政5)年6月19日に締結>。今回は、1859(安政6)年6月に、前年アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5ヶ国と条約を結んだことを達した書面『達書』も展示されています。
来年は、ちょうど日米修好通商条約締結150周年という区切りの年に当たります。記念事業の準備が国やゆかりの地、それぞれのレベルで行われています。佐倉市でも記念展の準備が進められていますので、どうぞお楽しみに。
*千葉県内務部『堀田正睦』 1972年
*佐倉郷土の先覚者『堀田正睦』佐倉市教育委員会 2005年
*『堀田正睦と幕末の政局』佐倉城研究会 1994年
*徳富蘇峰『近世日本国民史堀田正睦』1~4 [講談社学術文庫] 1981年 |
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| 仲町つれづれNO.110 2007年10月27日(土) |
| (読書週間です①) 「江戸の町の図書館」 |
大きな書店に行くと、江戸に関する本が山積みにされています。戦略なのかもしれませんが、様々な種類の本がいろいろ出版されています。歴史の中でも、江戸時代は現代人に最も人気があるといっても過言でないようです。それは「江戸時代がおもしろい時期、魅力のあるエポックであり、また思いっきり手を伸ばせば届きそうな、身近に感じられる時代」ということのようです(北嶋廣敏『江戸人のしきたり』)。
江戸時代は、1603(慶長8)年徳川家康が江戸に幕府を開いてから始まり、15代(265年間)続きましたが、その人口は100万人以上ともいわれ、その時代でも世界一の大都市であったのです。その人口のほとんどが、サムライ(武家)と町人からなる都市であったといえます。またおもしろいことに、「江戸は世界中でただ一つ『お江戸』と敬語つきで呼ばれた都市」(『江戸学事典』の序より)でもありました。
『江戸人のしきたり』は、「将軍から長屋住まいの庶民まで、江戸人の暮らし方・生き方など」について、原稿用紙250枚に書き下ろしされたものです。その中に、『江戸の町に図書館はあったのか』という一篇があります。
江戸には多くの貸本屋があったことからも、江戸の人々が本をよく読んでいたことがわかっています。あの徳川家康も大の本好きで、多くの書物を収集していました。これらの書物は、1640(寛永17)年に、本丸と西の丸の間の紅葉山の霊廟に隣接する蔵(書物蔵)に移されています。これが後の紅葉山文庫であり、国立公文書館内閣文庫の前身であると言われています。すなわち、これが江戸における最初の図書館ということになります。
しかしながら、それは徳川家の私設の図書館であり、一般の人は利用できませんでした。このほか幕府直轄の昌平坂学問所付属の文庫(図書館)、ともに5万巻を超す蔵書を持っていた江戸後期の国学者屋代弘賢(ひろかた)の文庫(不忍文庫)や小山田与清(ともきよ)の文庫(擁書楼)も、一般には貸し出されなかったようです。
となると、江戸では、一般には、貸本屋から借りて読むか、買って読むしかなかったのです。今日のような「気軽に利用できる図書館」に相当するものはなかった、ということになりますね。
*北嶋廣敏『江戸人のしきたり』幻冬舎 2007年
*西山松之助他編『江戸学事典』弘文堂 1984年 |
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| 仲町つれづれNO.109 2007年10月26日(金) |
| 読書の秋! |
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家の庭の金木犀の黄色の花も散り、強烈な香りも何処へやら消え去ったところです。「秋は月」といいますが、過日23日は、旧暦の9月13日の「十三夜」でした。「後の名月」とも呼ばれる二回目の名月です。かつては、片方の名月だけを見るのは「片身月」として忌み嫌われたとか。今年は、両方の名月をきれいに見ることができました。
10月27日は、文字・活字文化の日です。これは、2005年7月に「文字・活字文化振興法」が施行されたことにより定められました。また、27日から11月9日までは、第61回読書週間となっています。この機会に読書をして、その感想などを書きとどめてみては如何でしょうか?図書館にも、どうぞお出かけください。
(小欄においては、つれづれなるままに「本に係わる話」を綴っていく予定です。お楽しみに。)
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| 仲町つれづれNO.108 2007年10月24日(水) |
| 琥珀の女王ジョセフィン・ベーカーと日本人 |
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大磯町にあるエリザベスサンダースホームをご存知でしょうか?
旧三菱財閥の岩崎家の長女で、外交官の澤田廉三と結婚し、海外生活も送った澤田美喜は、戦後日本の混血児問題に心を痛め、混血児の捨て子を育てる決意をし、1948年2月にエリザベスサンダースホームという混血児の乳児院を創設して運営にあたりました。このホームから千人を超える子どもたちが巣立ち、多少姿を変えながら、今も百人近くの子どもたちを養育しているようです。
「二つの恋」などのヒット曲を持つ歌手ジョセフィン・ベイカー(1906-1975)が、1954年に来日しました。彼女は、ダンス、演技、歌など「トータルな舞台演技」において天才といえる偉大なるパフォーマーでした。一方では彼女自身「アメリカの黒人」として育ったがため、「ママン・カドー〈贈り物を持ってくるママ〉」とよばれるほど孤児院訪問を続けました。果てはレ・ミランド城を購入して理想郷づくりをした人道主義者、理想主義者であり、また、人種差別との闘いなど政治活動にも参加した闘士でもありました。
彼女の初来日の目的は、エリザベスサンダースホームの混血孤児慈善興業のためでしたが、本当の目的はこの乳児院から養子を迎えることで、結局2人を養子に迎えています。のちに、レ・ミランド城での世界各地から迎えた12人の養子からなる新しい人類家族(虹〈天のアーチ〉の部族)を作り出すことになりますが、地域も文化も宗教も肌の色も異なる12人の最初の2人が日本から選ばれることになったのです。
この二人の出会いは、1932年パリでのパーティでした。ジョセフィンが定期的に孤児院を訪ねていることを知った澤田美喜自身、パリに来る前のロンドンで孤児院を見学していることもあって、「ひとつのひらめき、本能的な人道主義、あるいは啓示」があったのではないでしょうか。その後澤田美喜はニューヨークへ移りましたが、そこでも二人は出会います。こうして、全く異なる社会的背景の二人でしたが、使命と理想を共有していたということです。
ジョセフィンの、そのほかの日本人との関係を見ますと、1925年パリで、ジョセフィンは画家藤田嗣治のモデルをやっています。藤田を「友人の画家」と呼んでいます。歌手の石井好子も、1950年留学先のサンフランシスコで公演を聴いています。ジョセフィンの姿に感動して、毎日通っているうちに劇場の支配人の目に留まり、楽屋でジョセフィンに会うことができたそうです。そのことが石井好子の人生の転回点となり、シャンソン歌手として、パリデビューすることになったのです。彼女は日本でシャンソンの普及に努めましたが、その後エージェントとして、ジョセフィンを何度か招聘しています。
ジョセフィンが「人間としての生きる姿勢を強く押し出し、そのメッセージを声高に伝達した時代」に、童話絵本『虹の部族』(1957年)という本が書かれました。荒このみさんは数年がかりで捜し求めたそうで、「驚くほどきれいで豪華な色刷りの大判の本」であったと書いています。その表紙には「ジョセフィン・ベイカーによるテキストと書かれているが、ジョー・ブイヨンとの共著」と記され、「子供向けの短い簡単な絵本ではなく、物語性に富んだ少しばかり厚手の本」ということです。物語の概要は著書の中で紹介されています。
*荒このみ 『歌姫あるいは闘士ジョセフィン・ベーカー』 講談社 2007年
*石井好子 『さようなら私の二十世紀』 東京新聞出版局 2000年
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| 仲町つれづれNO.107 2007年10月11日(木) |
| 浅井忠と、夏目漱石 |
朝日新聞(9月16日)の『話題の本棚』欄の『これいくら?』に、夏目漱石(1867-1916年)の『吾輩ハ猫デアル』が上中下カバー付き3冊で250万円という記事がありました(出久根達郎著『作家の値段』に出てくる話です)。「なぜ、こんなに高いのか。わかる人にしかわからない。」「はあ、とため息が出る。」とか、確かにその通りですが、当時の書籍の装丁挿画の状況を考えると、それだけ芸術的価値が高いということでしょうか。その記事は「ロマンがかき立てられつつ、作家の値段にもうなずいている。」「結局、人生が全て終わったときに、初めて値段はわかるのだろう。」と締めくくられていました。
江戸東京博物館で、東北大学が所蔵する夏目漱石の手紙、蔵書などを中心に約800点が、11月18日まで展示されています。特に、ロンドン留学時代(1900-02年)の手紙、日記類、書き込みが残る蔵書類が見ものです。そして、冒頭の記事のような疑問を解決してくれる漱石の著作物が展示されています。
夏目漱石の最初の著書である『吾輩ハ猫デアル』(上・中・下編)は、1906(明治38)年から1907(明治40)年に出版され、漱石の手紙によると「発売して二十日で売り切れた」(出久根の『作家の値段』より)ということです。
この本の挿画は、佐倉ゆかりの浅井忠が中編と下編を担当、浅井の弟子でもある中村不折が上編を担当、表紙などの装丁は橋口五葉(兄は漱石の五高時代の教え子)が担当しています。この三人の手によるというこだわりは、漱石自身が後に書画を書くほど美術への関心が高く、留学中にアール・ヌーヴォーの世界にふれたことにより、自著にもそうした流行を採り入れようとしたからでしょう。
特に、浅井忠とは同時期(1900―1902年)にパリ留学をしており、漱石は1900(明治33)年1月16日に子規庵で開かれた浅井忠渡欧送別会に熊本から上京して出席しています。この二人はパリとロンドンでも親交を深めています。なお、佐倉市立美術館が収蔵する浅井忠の『にわとり』(1902年)という作品には、石井柏亭の「浅井忠氏 倫敦ニテ作 先生明治34年英京(ロンドンのこと)に在り 夏目漱石氏等と交遊されし頃の作たらむ」という裏書があります。
漱石が三女の栄子に宛てた手紙(東北大学付属図書館蔵)にあった「にわとりの絵」は自筆ではありませんでしたが、弟子の寺田寅彦に宛てた1904(明治37)年10月22日付けの絵葉書(高知県立文学館蔵)には、自ら水彩で、にわとりに餌をやる様を書いています。1905(明治38)年2月13日付の葉書には「浅井の口絵の百姓の足は非常に甘(うま)いと思ふ。橋口の挿画は特長がある無暗に他の雑誌抔には載って居ない。僕は非常に感服した。僕の文章よりもうまい」そして「僕の猫伝(『吾輩ハ猫デアル』を漱石自身は当初こう呼んでいた)もうまいなあ。天下の一品だ。」と自画自賛しています。
浅井忠は、下編を刊行直後の1907(明治40)年12月16日に亡くなっています。漱石の晩年の作品『道草』(1915年)や『明暗』(1917年)の装丁は、浅井の弟子である津田青楓(1880(明治13)-1978(昭和53)年)が担当しています。京都から東京に移った(1911(明治44)年)津田青楓は、漱石に会い、その時から漱石の南画指導にも当たりました。
*1902年6月29日、留学中の浅井は帰国を前にヨーロッパ歴訪の旅の途中、ロンドンに着いています。そして夏目漱石を訪ね、漱石の下宿に数日間滞在しています。7月4日ロンドンより阿波丸に乗船し、帰国の途についています。(浅井忠展(1998年)の図録・年譜より)
*漱石は帰国後水彩を始めていますが、留学中から患っていた重度の神経衰弱が和らいだことから、しだいに時間を忘れて書画に打ち込むようになっていきます。このことは「精神的バランスを保つために必要不可欠なひとときであった」(『文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし』)のです。
*出久根達郎『作家の値段』講談社2007年
*江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし』朝日新聞社2007年
*芳賀徹『絵画の領分』朝日新聞社1984年 |
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| 仲町つれづれNO.106 2007年10月10日(水) |
| フェルメール! |
先日、室内楽のフェルメール・クァルテット(米国ではヴァミア・カルテットと英語読みする)が来日しました。シカゴを本拠地としたこのクァルテットは5度目の来日ですが、11月にアメリカ・メイン州で38年に亘る活動に幕を閉じることになっています。今回はファイナル・ステージとして、紀尾井ホールで6夜に亘って「ベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会」を開きました。一夜だけ聴きに出かけましたが、良かったです。日本の人気演奏家の姿もあり、室内楽の真髄ともいえる精緻さを超えた円熟味のある弦それぞれが奏でる曲の流れのなかに、至福の瞬間を共有できました。
永くオランダに住み、国際的なヴィオラ奏者として活躍中の今井信子さんは、このメンバーとして1973年から78年まで活動していました。「フェルメール(クアルテット)は、私の人生そのものだった。」と、それほど濃密な、かけがえのない5年間だったようです。当時のことについては、今年春に出版された著書『憧れーヴィオラとともに』に詳しく書かれています。
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また、弦楽四重奏という音楽の難しさ、他のジャンルにはない力を持った作品の魅力が述べられています。自分の家庭でも息が合わないのに、四人それぞれ異なる考え・音楽観を持ったプロがディスカッションを重ね、喧嘩になることもあるほど本気でぶつかり合って音楽を作り上げていくそうです。音楽的に主張しすぎると人間関係が壊れてしまいます。「いかにバランスを取るかは、そのまま人生の機微にも通ずるもの」だとか。
メンバーでただ一人結成当初から38年間在籍してやってきた第一ヴァイオリンのシュミュエル・アシュケナージは66歳になり、「ひどい演奏をしたくない。」「腕が落ちていくのをお客様にお聴かせするようなヴァイオリン奏者にはなりたくない。」「最高の状態のままでステージにいたい。」と語っています(『紀尾井だより』Vol.64)。また、ベートーヴェンについて「まだその偉大な作品群に飽きたことは一度もない」とも。そうした余力を残しての解散、見事です。どこの世界でも、引き際が大切です。
*今井信子『憧れーヴィオラとともに』春秋社2007年
*この秋、ヨハネス・フェルメール(1632-1675年)の代表作『牛乳を注ぐ女』が、オランダから初めて六本木の国立新美術館にきています。今30数点しか現存していないという寡作な画家の、貴重な絵を見ることができます。 |
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| 仲町つれづれNO.105 2007年10月7日(日) |
| 仲町の山車が江戸天下祭に! |
いよいよ今年も、佐倉の秋祭りが開催されます。元々は、佐倉藩の総鎮守である麻賀多神社の祭礼ですが、12年前から毎年10月の第2金、土、日曜日に開催されるようになりました。今年は12日から14日まで繰り広げられます。ここ佐倉図書館も仲町にありますので、祭りの期間中15時から22時までは車両通行止めになります。図書館をご利用の方にはご不便をおかけしますが、ご注意ください。
佐倉の祭りに先駆けて、仲町と横町の山車が一足早く姿を現しました。9月25日から30日まで行われていた「江戸天下祭」のため上京したのです。
その昔、数ある江戸の祭の中でも幕府によって行列が江戸城内に入ることが許された“将軍公認”の祭りのことを「江戸天下祭」というのだとか。1889(明治22)年に憲法発布を記念して山車100台が皇居前に集結したのが最後でしたが、2003年に江戸開府400年記念で復活しました。
今年はその3回目で、心配された雨も止んだ29日には、16時から夜遅くまで、横町の「石橋」は、80人ほどの曳き手によって日比谷公園から皇居前広場までの山車・神輿順行に参加しました。
一方、仲町の山車人形「関羽雲長」(『三国志』の三武将の一人・三代目原舟月作)は、6日間にわたり、八王子、青梅、本庄、成田などから来た山車とともに、東京駅丸ビル1階で展示されていました。
江戸型山車の代表とされる江戸重層型三層せり出しの仕組みで、上段四方幕には三面に金色の応龍の刺繍、後ろの一面には仲町と刺繍され、「玉亀縫 樵山書」と記されています。詳細な制作年代は不明ですが、人形を入れる長持に、明治12年9月という墨書きがあり、明治12年から13年にかけて佐倉新町6町が江戸日本橋周辺から山車や人形を購入した時期でもあることから、仲町の山車と人形も、その頃購入したと考えられています。 |
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| 仲町つれづれNO.104 2007年10月4日(木) |
| ただいま蔵書点検を行っております。 |
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10月に入った途端に、すっかり秋らしい涼しさが続いています。
ここ新町(旧仲町)にある佐倉図書館では、1日(月)より蔵書点検を行っており、5日(金)まで休館となっております。日頃、当館をご利用いただいている皆様にはご不便をおかけしており、誠に申し訳ございません。
*蔵書点検とは?
「読みたい本をコンピュータで調べて、所蔵情報を見たら「書架」と表示されているので所定の棚を探したが、本が見つからなかった」ということがないように、本を請求記号順にきちんと並べるという配架作業は、図書館の日常業務の中でも、とても重要な仕事となっています。
同時に、実際にどうしても本が見当たらない場合は、コンピュータのデータを「書架」(利用可)から「紛失」(利用不可)に修正する、というデータ管理の作業が必要となります。
蔵書点検では、図書館の棚にある本を1冊1冊すべてチェックし(いわゆる棚卸作業です)、本の現状とコンピュータ上のデータを合わせることによって、本の管理を行っています。
今回は、ノートパソコンを12台使用して、約10万冊の本のバーコードを読み込みました。ここで読み込まれなかった本は「現物が棚にない」ということで、データが「紛失」に修正されます。
その後、作業で乱れた棚の本を整理整頓するとともに、棚や本のほこりをきれいに掃除します。
また、作業中にデータの間違い(データ入力時のミス?)が見つかった本については、データを修正してから棚に戻します。(人間の手入力による作業のためか、毎回かなりの量のデータ不具合が発見されるのです)
あとは、蔵書点検作業用に設定したパソコンを通常業務の設定に戻し、作業で使用した床に長く延びた各種コード(情報LANコードや電源コード、電源ドラム等)を撤去します(これもけっこう時間がかかります)。
最後に、作業中(休館中)にブックポストに返却された本について、返却処理後、棚の本が請求記号順にきちんと並んでいるか確認しながら配架し、予約された本の取り置きをして、開館に備えます。
このような作業のほとんどが人手によるため、開館準備が間に合うか、毎回必死の思いで作業を行っております。6日(土)より、開館しますので、よろしくお願いいたします。
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