| 仲町つれづれNO.103 2007年9月25日(火) |
| 野分の季節 |
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野分とは、秋に吹く大きな風、つまり、台風のことをいいます。夏に茂った草や木々を大きく揺らしながら風が吹き荒れる様を表しているようです。今の時期、二百十日から9月いっぱいは、一年のうちで最も台風への警戒が必要な時期です、防災の準備も兼ねて、今一度点検をしておきたいところです。
今日25日は、中秋の名月にあたります。陰暦では7月8月9月が秋であり、真ん中の8月の十五夜を、中秋の名月といいました。ススキを飾り、団子や里芋などを供えて豊作を祈願したことから、芋名月とも呼ばれています。
また『月夕(げっせき)』とか『三五(さんご)の月』とも呼ぶそうです。どうしてだかわかりますか?・・・「月の夕べ」「3×5=(さんご)15(じゅうご)」という洒落、だそうです。
*秋艸道人会津八一の「学規」より
一、ふかくこの生を愛すべし。
一、かへりみて己を知るべし。
一、学芸を以って性を養ふべし。
一、日々新面目あるべし。
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| 仲町つれづれNO.102 2007年9月25日(火) |
| 祝・100号記念プラス2 松本順没後百年 |
今夏の9月2日まで、大磯町郷土資料館で「大磯の蘭疇―松本順と大磯海水浴場」という展覧会が開かれおり、佐倉市教育委員会からも、遺品が貸し出されていました。
松本順(1832-1907年、幼名順之助。後に良順。1871(明治4)年より順と改名)は、蘭方医佐藤泰然の次男でしたが、父と昵懇の間柄であった幕府の医官松本良甫の養子となります。長崎でオランダ海軍軍医ポンペから医学伝習を受けた後、長崎小島に洋式病院と医学校を創り、近代医学教育の受容を見事に成功させました。幾多の苦難を乗り越え、1872(明治5)年に陸軍軍医総監、晩年の1890(明治23)年には貴族院議員、男爵を授けられ、その生涯を閉じました。
松本順は、海水浴場の名づけ親としても知られています。長崎時代に海水浴の効用を説き、1885(明治18)年に大磯の照ヶ崎海岸に海水浴場を開設し、「海水浴法概説」(1886(明治19)年)という書物を著しています。そして転地療養として海水浴をおこなうために別荘ができ、それに伴って関連する人々が増加するなど、海水浴場は大磯の町の発展の原動力となった、といえます。
3月11日には、松本順の菩提寺である大磯町の乗勝山妙大寺において法要と供養の会が開かれ、大勢の方々が参会されたとのことです。
*松本順が出てくる小説には、子母澤寛『狼と鷹』(新潮社)、司馬遼太郎『胡蝶の夢』(文藝春秋)、篠田達明『空の石碑』(NHK出版)、吉村昭『暁の旅人』(講談社)などがあります。
*『松本順(佐倉市郷土の先覚者)』佐倉市教育委員会1998年
*内田儀久『明治に生きた佐倉藩ゆかりの人々』聚海書林1997年
*『順天堂史(上・下巻)』学校法人順天堂1970年・1996年 |
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| 仲町つれづれNO.101 2007年9月25日(火) |
| 祝・100号記念プラス1 「井上靖と松本順」その2 |
井上靖がよく揮毫する好きな言葉で、座右の銘的な言葉を一つ選ぶとすれば、少年の頃見た松本順の扁額にあった『養之如春』(これを養う春のごとし)という言葉です。出典は、後漢の歴史家・斑固選「答賓戯」(『漢書』巻一百上「敍伝」)にある語句です。
「涵之如海 養之如春」「万事焦ることはない。春の光が万物を育てるように焦らずゆっくりやれば、いつか事はなる」という意味で、学問や見識を自然に沁みこむように養い育てること、ということなのでしょう。秋艸道人の会津八一も好んで揮毫しています。
井上靖の書いた文章のなかにも何度となく出ており、「毎年書き初めにはこの四文字を書く」「小説を書くにもこのようにしたいと思っている。」といっています。また「之」には何を当てはめても良いそうで、「家庭を作るにも、仕事を大成させるにも、子供を育てるにも、みな春の陽光が万物を育てるようになすべきである。」(昭和57年2月)とのことです。
何事も気長に、一朝一夕に人生の事柄をやるようなことではいけないということです。徐々に昨日よりは今日、今日よりは明日と、良い言葉です。自戒。 |
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| 仲町つれづれNO.100 2007年9月25日(火) |
| 祝!100号 「井上靖と松本順」その1 |
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昨年の師走から始めた「仲町つれづれ」も、とうとう100号を迎えました。
今回は、百号記念として、井上靖と松本順の不思議な縁について取り上げます。
(作家の井上靖(1907-1991)は今年生誕百年を迎え、佐倉ゆかりの松本順は没後百年にあたります。)
井上靖の生誕百周年記念として、NHK大河ドラマ『風林火山』が放映されています。井上靖は、毎日新聞記者としての生活を15年間送った後、本格的に作家活動に入りました。彼の作品は『闘牛』(1950年・芥川賞)、『天平の甍』(1958年)、『敦煌』(1959年)等、特に歴史文学、西域物が評価されています。益田勝実氏は「井上靖の文学は司馬遷の血を継いでいる。文学が歴史で、歴史が文学でなければならぬことを教える」(筑摩・現代日本文学大系月報11・1969年)とも書いています。
井上靖の作品に、彼の幼少年時代のことを書いた『グウドル氏の手套(てぶくろ)』(1953(昭和28)年12月)という短編があります。彼の父は石渡家の出で、陸軍軍医。母は井上家の長女で、その祖先は代々医業に携わってきたとされ、6代目の潔は佐倉ゆかりの松本良順(後に順と改名)の弟子だった、ということです。
靖は旭川で生まれ、1歳の時に母と郷里の静岡県湯ヶ島に帰り、幼少年期を送っています。この頃の環境について『グウドル氏の手套』では、「幼い頃の私の心に、松本順という名前をこの世で最も尊敬すべき人物として吹き込んだのは、曾祖父潔の妾であったかの女である。私は6歳から小学校4年の11歳の時まで、郷里の伊豆の家で彼女の手で育てられた」と書いています。
その「彼女が先生と呼ぶのは、この世で松本順一人」であり、彼女が何も判らぬ少年の彼にみせるのが、2階の欄間にかかっている2枚の横額、『養之如春』(明治16年)と『居敬行簡』であった、と書かれています。
そして、彼なりに松本順の描写をしています。「豪放磊落であるが、一点侵すべからざる峻厳さをどこか持っている。色は白く髪は黒く、肥り肉の中背の人物である。」「和服で馬に乗っている美術学校長時代の岡倉天心のそれに似ている」。井上靖のこの頃の思い出は、『しろばんば』(1962(昭和37)年)という自伝小説に詩情豊かに描かれています。
*井上靖の奥さんは、京都帝大名誉教授足立文太郎の長女で、河盛好蔵の評伝に「(父は)世界的に著名な解剖学者で、学者のなかの学者ともいうべき人だった」とあります。1895(明治28)年に船橋市の古作貝塚遺跡からたくさんの人骨が発掘され、そこで出土した「下腿骨を研究して、石器時代に黴毒が日本に存在したことを主張した論文は、黴毒起源の謎を解くべき一つの重要な鍵として重大視されたものである」とのことです。このような環境からか、彼自身にも学殖があり、学問と学者を深く尊敬し、彼の作品に出てくる学者はよく描かれている、といわれています。
*『井上靖全集』新潮社1995年(『グウドル氏の手套』は第4巻所収)
『井上靖短編集 第3巻』岩波書店1999年
『井上靖 永井龍男集(現代日本文学大系86)』筑摩書房1969年
『しろばんば』中央公論社1962年
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| 仲町つれづれNO.99 2007年9月23日(日) |
| 海の『1・0・∞・ボール』 今も百八つの巡礼が波の上で永遠の旅を続けている |
お彼岸です。「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、今年は、いつまで暑さが続くのでしょうか。
還暦が近くなり、過去を振り返って考えることが多い折、今年還暦を迎える立松和平さんの『晩年』(人文書院2007年)を手にしました。立松さんは市役所勤務の経験もあり、親近感を持っていたのです。
この本は、季刊「三田文学」に連載中の短編をまとめたもので、父を始めとして、彼のまわりの「彼岸に旅立っていった」人々を偲びながら、自分の人生をも綴った29篇が収められています。
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立松さんは、季刊「三田文学」の編集長加藤宗哉氏に依頼された時「過ぎ去った時というものが甦ってきた」「消えていった時の中で同様に消えていった数々の人がいる。私の中で生きている人々は、私がその人のことを忘れてしまうと、少なくとも私が支えていた分だけの存在が消滅する。そのことを痛みのような感覚として感じた」そうです。そして「この世に在る間は、一人一人を惜別の念とともにていねいに見送りたい」とのこと。また「人のことは「棺の蓋を覆ってからでなければ」わからない。人は死ぬ時、その人を繕っていた属性がそがれる。一瞬、ありありとその人自身として存在することがある。そのことこそまさに短編小説の生起する瞬間である。」と後記に書いています。
「海の巡礼」という短編に、旧知の人が出ており、とても驚きました。何気なく手にとった本の中に、今は亡き人が登場したのです。これも何かの縁なのでしょうか。その人とは、石や木を素材とした彫刻家の丑久保健一さんで、2002年9月23日にすい臓がんのために55歳で亡くなりました。15年前から付き合いがあって、酒好きで谷中で終電まで酒を飲みながら語り合ったことがあります。今年6月には浦和の画廊で関係者によって展覧会が開かれました。
丑久保さんは東京生まれですが、学校を出てから宇都宮の大谷石採石場のそばに住んでいました。そこの素封家が丑久保さんのパトロンで、立松さんの親戚だったそうです。
この短編には、二人でやったことが書かれています。海の『1・0・∞・ボール』(百八=始源・無・無限大を意味する)という地球規模のプランです。彼の考えたプラン(銚子港から漁船にのって太平洋の黒潮本流までいき、そこに欅で作った百八個のボールを置けば永遠に回り続ける)を、立松さんがTV番組として実現させました(1987年6月)。
こうして、丑久保さんの作品は多くの人の心に残り、多くの人の想念の中で、このボールは「永遠の循環をつづける」こととなったのです。「今も百八つの巡礼が波の上で永遠の旅をつづけている」ことでしょう。
*立松和平「丑久保健一の太平洋」(『丑久保健一展』図録・宇都宮美術館2004年所収) |
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| 仲町つれづれNO.98 2007年9月19日(水) |
| もうひとつの師弟関係 |
師弟関係については、小欄(NO.89)で『アサッテの人』の芥川賞作家・諏訪哲史さんとドイツ文学者種村季弘氏の関係を紹介しましたが、もう一例、ニ・ニ六事件で暗殺された高橋是清(1854-1936年)を挙げます。
彼の人生は波乱万丈でした。10歳でヘボン博士夫人などに英語を習い、13歳でアメリカへ行きます。1年半の滞在を経て帰国し、14歳で東大の前身である大学南校に入るも、英語力を買われすぐに教官の助手になったそうです。しかし、茶屋遊びを覚えて職を失います。後に知人の紹介で唐津に出来た洋学校に職を得て着任します。彼が教えたのは僅か1年でしたが、そこから俊秀が二人輩出しています。
それが、日本銀行本店や東京駅の設計をした建築家の辰野金吾(フランス文学者辰野隆の親)と、小欄(NO.78)で触れた建築家曾禰達蔵の二人です。宮本百合子の親である建築家中條清一郎も、辰野金吾の弟子になります。
この師弟関係は一体どう考えればよいのでしょうか。熱意があった人と人との出会いもさることながら、教えた高橋是清自身に、理論や知識量ではない何かがあったということ、二人にとっては「師の姿を眺めることを通し、容易に要約のできない体験」(四方田)をしたということでしょうか。 |
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| 仲町つれづれNO.97 2007年9月18日(火) |
| あるべき師弟の姿とは |
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今夏、相撲界での師弟関係が話題となっていました。8月14日千葉西病院で、第53代横綱琴桜〔先代佐渡嶽親方〕が亡くなった際「師匠がわたしのすべてでした」と泣く弟子たちの姿がありました。一方、高砂親方と横綱朝青龍の関係は、報道される映像などを見る限り、師弟が逆転していて、絆らしきものは感じられませんでした。このことは、相撲界だけのことではないかもしれません。
明治学院大学教授の四方田犬彦さん(1953年生)の『先生とわたし』をおもしろく読みました。先生というのは、英文学の泰斗・由良君美(1929-1990)のことで、60~70年代の東大(駒場)の雰囲気や、仲たがいしていた師の業績の評価、その長所と短所を書き溜めた内容になっています。読みどころは、複雑な師弟の権力関係が述べられているところで、中でも、「教える」とはなにか、「人はなぜ教師となるのか」という原理的な問いを「間奏曲」という形で続けています。
例えば、教師と弟子の関係について「教師はその空間にあって、先行者として振舞うことを余儀なくされる。教師は当座に要求されている知識を切り売りするだけではなく、みずから知の範例を示すことを通して教育という行為を実践する。この行為が学ぶ側にも理解され、両者の間に人間的な信頼関係がうち立てられたとき、彼らは師と呼ばれ弟子と呼ばれることになる。理論や教説を説明するだけでは師になることはできない。理論に基づいてときに危険を顧みず進んで実験を手掛けたり、教説を個人的にも信奉しながら、それに見合った生活を提示することができて、はじめて教師は師として認められる。教師は知を運搬するが、師はみずから例証する。そして弟子は長期にわたってそうした師の姿を眺めることを通し、容易に要約のできない体験をする。」等、自問を繰り返しつつ述べられています。
また、師弟とは何かという問題の啓発的な書物として、ジョージ・スタイナー『師の教え』(ハーヴァード大学出版)と、山折哲雄『教えること、裏切られること』(講談社新書)の2冊をあげています。これらの本の分析を通して、著者の体験も語られており、教育に携わる者必読の書といえます。
*四方田犬彦『先生とわたし』新潮社2007年
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| 仲町つれづれNO.96 2007年9月9日(日) |
| 展覧会へGO! |
9月15日(土)から10月21日(日)まで、成田山書道美術館において「近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む」という展覧会が開催されます。これは、日本近代文学館創立45周年、開館40周年、成田分館開館の記念展覧会です。著名な文豪たちの原稿や草稿ノートなど、普段は見ることのできない貴重な資料が展示されます。
この展覧会の招待券について、先着15組30名様に差し上げます。希望される方は、佐倉図書館事務室まで来館し、「仲町つれづれを見た」とお申し出ください。9月11日(火)9時より配布開始、先着順でなくなり次第、配布終了とさせていただきます。ぜひ、この機会に足をお運びください。 |
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| 仲町つれづれNO.95 2007年9月9日(日) |
| 建築家ル・コルビュジェ |
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佐倉図書館のある新町の通りの並びに、佐倉市立美術館があります。この建物は、1996年に今は亡き坂倉準三(1904―1969年)主宰の設計事務所により設計されました。2階展示室へのアプローチなどは、同じく坂倉が設計した鎌倉の神奈川県立近代美術館本館(1951年)に一部似ているようにも思えます。
坂倉準三は、フランス人建築家ル・コルビュジェ(1887―1965)の弟子で、1937年のパリ万博日本館の設計でグランプリを受賞、世界的にその名前が知られることになります。ル・コルビュジェの東アジア唯一の作品である、上野の国立西洋美術館(1959年)は、坂倉が現場協力をしていました。新聞によると、フランス政府は西洋美術館を含むル・コルビュジェの作品(23件)について、一括して世界遺産に推薦することを検討しているようです。
今年はル・コルビュジェの生誕120周年にあたり、今月24日まで森美術館で「ル・コルビュジエ 建築とアート、その創造の軌跡」展が開かれています。
ル・コルビュジェの本名は、シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ、スイス生まれのフランス人です。パリに来た彼は先ず画家として出発しました。今回の展示でも、パリのアトリエを再現されており、絵画や彫刻が目に入ります。それから、代表的建築や都市計画の図面、建築模型、映像や実寸大の住宅の復元などが並べられています。
最大の見所としては、集合住宅のマルセイユ・ユニテ(2階建てのアパート)の内部に入ってル・コルビュジエの空間が体感できるということでしょうか。41点の絵画を含む約300点の展示は、森美術館ならではの贅沢な展覧会です。間違いなく、ル・コルビュジェの思想を理解する一助になるでしょう。
建築家ル・コルビュジエに逢いたいという欲求に駆られて旅行を計画するなら、先ずは代表作といわれるアルザス地方にあるロンシャンの礼拝堂(1950-55年)を見に行くことでしょう。この独特のフォルムで、スタッコのように凸凹で微妙な表情をした、建築家の五十嵐淳いわく「白肌の美女のような」存在感のある建物に逢い、彼が生命を吹き込んだその空間に身を置いてみたいものです。
*佐倉市立美術館については、『新建築』9502(1995年)を参照してください。
*五十嵐淳「わたしのフォトメモ」(INAX REPORT No.171 2007年所収)
*荒このみ『歌姫あるいは闘士―ジョセフィン・ベイカー』講談社2007年
1920年代半ばからフランスで活躍したアメリカの歌手ジョセフィン・ベイカーの一代記。彼女はダンサーでもあり、そしてエンタテイナーでもあり、ル・コルビュジェは彼女と浮名を流した一人です。
*富永譲ほか『リアリテ ル・コルビュジェ』TOTO出版2002年
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| 仲町つれづれNO.94 2007年9月8日(土) |
| 世界最高のテノール歌手パヴァロッティ |
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ここ数日は大型台風9号の関東上陸で大荒れでしたが、おかげさまで当館は被害はありませんでした。(見かけによらず、頑丈ナノデス)
「三大テノール」の一人、ルチアーノ・パヴァロッティ(1935年生)がすい臓がんのため、イタリア北部モデナの自宅で6日に亡くなったというニュースがありました。日本でも広く愛されていた歌手です。特に、昨年2月にトリノ冬季五輪の開会式において、プッチーニのアリア「誰も寝てはならぬ」をつやのある伸びやかな声で歌った歌手といえば、思い出される方も多いのではないでしょうか。その同じ曲で演技したフィギュアの荒川静香選手が金メダルを獲得し、なおさら日本人の心に深く刻まれた人でもあります。2004年の引退コンサートが来日最後となりました。あの風貌、そして世界最高のテノール、「キング・オブ・ハイC(高いドの王様)」といわれた、あの美声は、決して忘れません。
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「オペラ界の伝説」と
讃えられた故人に合掌。 |
『王様と私』(ハーバート・ブレスリン/アン・ミジェット著)という本があります。奥付によると、パヴァロッティのマネジャーを36年間努めた著者が、彼のありのままの姿を「友人、時には敵、そしてマネージャーだった私が栄光の座に就いたバヴァロッティの私生活を修正なしで公開」したものだそうです。その本によると、彼のことを「シヨール・チェルヴェッロ、つまりミスター・ブレイン(物知り博士)と呼ぶ。あらゆる事柄の世界的権威。音楽、医学、歯科学、前立腺、育児、法律、のほかもろもろについて、誰よりもよく知っている」と綴っています。
パヴァロッティは、イタリアのモデナの生まれです。同郷で国際的に活躍しているスターといえば、ソプラノのミレッラ・フレーニがいます。彼女はパヴァロッティと同じ年で、同じ乳母に育てられた、ということです。
パヴァロッティの父親はパン職人、母親は工場で働いており、祖母が彼の面倒を見ていたとのこと。「スポーツ少年で、勉強よりもサッカーが好きだった。父親はのど自慢だったが息子が声楽をやることには批判的で、彼がスーパースターになっても変わらなかった。」そうです。
彼は、デビュー当時そう太っていたわけではないが見場が悪く、舞台の上では演技下手で器用ではなかった、とのこと。「習得できるような演技を考えるより、彼がやっていることをそのまま続けさせたほうが良かった」とさえいわれたそうです。そんな彼が大スターになるまでの、辛辣で、おもしろいエピソードが綴られています。ぜひ一読をお勧めします。
*世界三大テノール-ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスの三人。
*『王様と私』(ハーバート・ブレスリン/アン・ミジェット著 相原真理子訳 集英社2006年) |
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| 仲町つれづれNO.93 2007年9月6日(木) |
| 「英治忌」を前にして |
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9月7日は、吉川英治(1892-1962年)の命日です。青梅市の吉野梅郷の旧宅(現在草思堂・記念館)では「英治忌」が開かれます。その昔何度かでかけたことがありますが、地元の美味い酒『澤の井』の薦(こも)かぶりが置かれて酒が振舞われていました。『新・平家物語』などの挿絵を11年半担当した画家の杉本健吉さん(1905-2004年)の隣に座した思い出があります。また、赤坂の文子未亡人のお住まいをお尋ねしたことがあります。吉川英治の母いくは、現在の佐倉市江原にあった佐倉藩士山上家の三女です。文子未亡人を初めて佐倉に案内した際、嶺南寺で墓参りをしていかれました。
吉川英治は、1962(昭和37)年9月7日に亡くなり、葬儀は12日青山斎場で執り行われました。扇谷正造の本に、角川源義氏の話として「その日、見あげると靖国神社の森に、見事な虹がかかっていた」といい、自分は関係者の一人として「波のように押しよせる一般会葬者の人の群れに、ただただおどろき感動し、今さらの如く、国民的作家なるかな、の思いを深くしていた」そうです。さらに「会葬者の中に、身なりの粗末な人が数多くまじっていたことも、いかにも吉川先生の葬儀らしい」と当日のようすが書かれています。
印旛沼湖畔に「萱崖は母のむねにも似たるかな高きを忘れただぬくもれり」(昭和9年箱根仙石原にて詠まれたもの)という歌碑があります。扇谷正造の話によると、英治は「母のことを思い出した。自分が31歳の時で文壇に出てまもないころのこと。むし暑い日で、頭の中がクサクサしてなかなか筆が進まない。『さあーぅ』と雨が降ってきた。思わず着物をとり、サルマタ一枚になって庭に飛び出した。そして降る雨を両手で受けていた。奥の方で針仕事をしていた母親が飛び降りるなり「英治は英治は、このコは風邪を引きますよ」といってお尻をピシャピシャとたたいた。」と話していたそうです。そして「扇谷君、僕五歳の童子にあらず。十歳の少年にあらず。二十歳の青年でもない。三十一といえば男盛りです。その男盛りの自分をつかまえて、裸になって雨に打たれていると見るとすぐ(あっ、お前風邪を引きますよ)と思う。こういう純粋な愛情というものは、母親以外にない。」と言われたとか。英治にとって一番の心の支えは、母だったようです。「母親はいつも自分と共にある。母親がいつも自分を見つめている。」と自分に言い聞かせていた、といいます。
1960(昭和35)年文化勲章受章の日、吉川英治は母の写真を胸に出席したとか。今はあの世で母といっしょに、そして、今まで書いてきた小説の主人公と対話して、楽しまれていることでしょう。
*扇谷正造『吉川英治氏におそわったこと』(六興出版1972年)
*吉川英治『忘れ残りの記』(六興出版1979年/講談社歴史時代文庫1989年)
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| 仲町つれづれNO.92 2007年8月31日(金) |
| 『ピーターラビットのおはなし』 |
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青い上着を羽織った愛らしいウサギのピーターラビット。彼が登場する『ピーターラビットのおはなし』は、1902年に出版され、8千部の初版は予約で完売されました。最初は引き受けてくれる出版社がなく、250部の自費出版でした。その後、彼と仲間の動物たちの物語になって、現在までに世界111カ国で出版され、1億部といわれるベスト&ロングセラーを誇っています。日本では1971年に発行され、「ピーターラビットの絵本」第1集から第7集、「わらべうた絵本」を含めて24冊、別巻2冊セットの「ピーターラビットのてがみの本」(福音館書店1992年)まであります。
このウサギを生み出した原作者は、ビアトリクス・ポター(1866-1943年)という女性です。9月15日から、彼女の恋と波乱に満ちた半生を描いた映画『ミス・ポター』(角川映画配給)が公開されます。クリス・ヌーナン監督(『ベイブ』等・豪州)の作品で、『ブリジット・ジョーンズの日記』(01年)等で人気・実力共にハリウッドを代表する女優レニー・ゼルウィガーが主演しています。
時は1902年、ヴィクトリア朝の封建的な空気が漂うイギリス。上流階級の女性が結婚しないで仕事を持つことなど考えられない時代に、ポターは、子どもの頃から自然の影響を多分に受けて育ち、画家になることを夢見る女性でした。そして、大好きな動物たちの絵本を出すという夢を実現したわけですが、もう一つ触れておきたいのが、彼女の原点である湖水地方に移り住んでからの、自然を守るという夢(意志)を追い続けたということです。
いわゆるナショナルトラスト運動が、1895年イギリスにおいて非営利法人組織として設立されました。そして1905年にはポターが湖水地方の美しい風景を守るために土地を買いとり、その維持管理を組織に委ねたのです。彼女の死後も農場などの土地(4千エーカー=東京ドーム約344個分)をナショナルトラストに遺しています。
この作品の大きな見どころは、この湖水地方でロケされているということです。今では詩人ワーズワースやピーターラビットの世界を観たさに観光地化しているとはいえ、まだまだ19世紀の自然景観が残っていて、スクリーンに溢れています。先日、通りかかった富士フイルムフォトサロンで「写真で見るピーターラビット絵本の世界展―辻丸純一ーイギリス湖水地方の旅―」という写真展を見たせいか、余計に印象的でした。詳細は、ぜひ映画をご覧ください。
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| 仲町つれづれNO.91 2007年8月30日(木) |
| 夏休みも終わり |
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「この本が急ぎで欲しいんですけど・・」「いつまでに借りられますか」
カウンターで、特に小中高校生またはその保護者から、そんな声を聞くたびに、「ああ、もう夏休みも終わりだな、宿題がんばれ」と、心の中で応援しています。
図書館では「こどもの身近に本がある」という環境をめざし、学校等の団体に、本を貸出するサービスを実施していますが、先日、間野台小学校の先生が来館して、団体貸出を利用していきました。
団体貸出用の本が置いてある倉庫から200冊ほど選び、図書館で選定した小学生向け読み物パックの本約300冊とあわせて、借りていかれました。狭い倉庫で作業するのも大変ですが、重たい本を車に運び入れるのも、一苦労です。学校の先生も、新学期の準備に大わらわといったところでしょうか。
もうすぐ9月。夏バテの体も心機一転して、秋に備えたいと思います。
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| 仲町つれづれNO.90 2007年8月29日(水) |
| 種村季弘さんの『徘徊老人の夏』 |
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この本(筑摩書房1997年)は、『人生居候日記』(筑摩書房1994年)の続編と考えられるエッセイ集で、それ以降書かれたものに、旅先の金沢で浅野川の土手から水の流れを見下ろす姿勢のまま倒れ(軽い脳梗塞)、一年半の療養生活を送ったことなどを書き下ろした「徘徊老人その後」という一編を加えたものです。
タイトルとなった『徘徊老人の夏』(初出1994年)は、「九四年夏は記録的な猛暑だった。三伏の猛暑云々の暑中見舞いを何通も頂いた。三伏とは、五行思想で夏の火の気に押されて秋の金気が伏蔵することをいうらしい。しかし、五十日、七十日の真夏日続きで、伏蔵している秋の金気はなかなか立ち上がる気配がない。どころか、どちらさまも金気に見放されてうんざりの不景気続きである。」で始まっています。まさに07年の今日この頃のことのような記述です。
「永井荷風の『断腸亭日乗』をのぞいてみた。昭和25年夏。雨天を除き、連日、猛暑をものともしない浅草通いが続く。」「荷風も、まことにもってご立派な徘徊老人だったわけである。」
荷風のような「夜行性に徹する徘徊老人型」と「猛暑は終日蟄居、夕刻ほんのすこし庭の盆栽を手入れする」盆栽老人型があるという。「今夏の自分は後者に傾いて、あやうく自律神経に失調を来しかけた。来夏は山中から出て、町中を徘徊してやろうと決めた」と結んでいます。
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| 仲町つれづれNO.89 2007年8月29日(水) |
| 芥川賞受賞作「アサッテの人」に隠れた師弟愛 |
第137回芥川賞受賞が決定した後、7月18日付けの読売新聞の『顔』欄に出た諏訪哲史さんの記事の冒頭に、「先生をギャフンと言わせたくて書いた小説でした」とありました。その先生とは、種村季弘(すえひろ)さん(1933-2004年)のことであり、先ずその師弟愛に注目しました。
種村さんとは、晩年になりますが、一度だけ酒を飲む会に同席する機会がありました。大学ではドイツ語の先生でしたが、博覧強記で、文学、美術、映画など多彩なジャンルで評論活動を続けた人で、知的好奇心をくすぐられる人でした。
諏訪さんも、澁澤龍彦、種村季弘を「両輪」と呼んできたそうで、もう一人の恩師である谷川渥さんとの対談(『群像』9月号)で、谷川さんに「種村さんの弟子というか師事したというか・・」と聞かれて、謙遜して「私淑」と答えています。そして種村さんのやってきた異端の世界「贋作者だとか偽書作家だとかペテン師、詐欺師」とかいうような「正統なものに対して裏側」の問題について、諏訪さんは「人間だれしも裏があるというような世界を緻密におもしろおかしく、しかも、衒学的に表現されているという」ところに魅せられた、と語っています。
今回の受賞作は、多分に種村季弘の問題意識を継承している、といえます。冒頭の『顔』欄でも「人間の怖さ、えたいの知れなさを掘り下げる好奇心は、まさに師匠譲り」と評されています。
種村さんは、2004年8月29日に亡くなっています。諏訪さんのもとに亡くなる二週間前にノートの紙に書かれた「僕は入院中。ペンも面会もできそうにありません。何事も若いうちですね。ガンバッテください。」という一文が届けられたということです。今は希薄になっている師弟関係の見事な結実ではないでしょうか。
*『群像』の対談(「アサッテの人」執筆前夜)には、種村の『徘徊老人の夏』(筑摩書房・1997年)の表紙に使われた野毛商店街に立つ種村と同じ背景写真が使われています。 |
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| 仲町つれづれNO.88 2007年8月28日(火) |
| 図書館について知りたい!(その2) |
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CABLENET296が、図書館の取材をしたいと来館。開館日、しかも、利用の多い夏休み終盤に、ただでさえ狭いフロアに、カメラとリポーターが入りまして・・・。
当日ご協力いただいた来館者の皆様、ありがとうございました。
その模様は、「デリバリースタジオ296」という番組で、9月3日(月)から9日(日)まで放送される予定です。
(放送時間は、午後5時半~、午後7時半~(月金のみ)、午後10時半~、翌午前0時半~、午前9時半~)
突然マイクを向けられた職員が目を白黒させながらも、必死でしゃべっていますのは、ご愛嬌ということで・・・。
(右は、人形劇おはなしきゃらばんの取材の様子)
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| 仲町つれづれNO.87 2007年8月25日(土) |
| 図書館について知りたい!(その1) |
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下志津小3年生の女の子が保護者とともに来館(ちゃんと本人が事前に電話でアポをとって・・・)。普段は志津図書館を利用しているようでしたが、今日は、佐倉図書館について調べたい、ということで、いろいろ質問していきました。
「貸出と返却のほかにどんな仕事をしているの?」「図書館で働いていて困っていることは?」
小学3年生を相手に、どのように説明したら理解してもらえるか、夏ボケの頭をフル回転させて、言葉を選びながらインタビューに答えました。普段使っていない脳細胞が活性化したかもしれません。
職場体験学習等で年に数回、中学生や高校生が図書館にやってきます。その一生懸命な姿と真面目な視線で問われる度、未来あるこども達に胸を張って伝えられる仕事を自分はしているか、自問自答するよい機会となっています。
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| 仲町つれづれNO.86 2007年8月23日(木) |
| 純な少年の眼差し-「ジブリの絵職人 男鹿和雄展」 |
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スタジオジブリのアニメーション映画の背景を手がけている美術監督の男鹿和雄さん(1962年生)の作品展が東京都現代美術館で開催中です(9月30日まで)。男鹿さんの作品を今回初めて見ましたが、その描写力の見事さに驚きました。まさに職人芸というべき仕事です。
ひとつのアニメーション作品に、どれだけの背景画が描かれるのかご存知でしょうか?なんと千枚以上の背景画が描かれるといわれています。「背景画は映像が切り替わるほんの数秒間だけすばらしく見えればいい」と男鹿さんは言いますが、実際には背景画の上にキャラクターが配置されてアニメ-ションが作られていきます。1カットに1枚というわけではなく、セル画に描いて、それを重ねて奥行きを表現したり、大判の背景画を描き、複数の背景画やセルブックを組み合わせることで、複雑なカメラワークを表現するのだそうです。
男鹿さんは、30代の時「となりのトトロ」(1988年)で初めて宮崎駿監督と仕事をしました。そこには昭和30年代の日本の自然が見事に描き出されています。以後宮崎監督の信頼を得て「もののけ姫」(1997年)「千と千尋の神隠し」(2001年)、「ハウルの動く城」(2004年)、「ゲド戦記」(2006年)の仕事をしています。
また、高畑勲監督作品で、山形県を取材した「おもいでぽろぽろ」(1991年)があります。紅花畑の風景などは見事なものです。そして『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)では、自身の住まいに近い多摩丘陵、多摩ニュータウンが描かれています。一瞥しただけでも、私たちが誰しも慣れ親しみ憧れてきた風景ばかりです。
展示会場の後半には、自らの画集やスケッチ類、絵本「ねずてん」(2003年)、女優吉永小百合さんによる原爆詩の朗読会CD「第二楽章」シリーズの挿絵(1997-2000年)などが展示されています。
夏の思い出に、男鹿和雄さんの自然の豊かな表情が凝縮された世界に浸ってみては如何でしょうか。
*辻惟雄さんの『日本美術の歴史』(東大出版会2005年)の中にも、「アニメが児童だけでなく大人の心にも訴える内面性の表現や時間・空間の自由な演出を備えるようになったのは、宮崎駿、高畑勲らのスタジオジブリが制作した『風の谷のナウシカ』など一連の作品によってである。」と書かれています。
*かつては、公立美術館で劇場アニメやTVアニメ等を展示することへの批判がありました。今は、文化庁を始め国の政策としての成果もあり、「アニメーションは固有名詞の『コンテンツ』として胸のすくような台頭を見せ、日本の魅力を世界に知らしめるものとなった。」(森山朋絵「それぞれの夏の終わりに」『群像』9月号)とのこと。この都現代美術館においては毎年のように開催され、観客動員に大きく貢献しています。
*『男鹿和雄画集』(徳間書店1996年)、『男鹿和雄画集Ⅱ』(徳間書店2005年)。
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| 仲町つれづれNO.85 2007年8月22日(水) |
| 『次郎と正子 娘が語る素顔の白州家』 |
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新潮社から2007年に出版されたこの本の著者、牧山桂子さんは白洲次郎・正子夫妻の長女で、その子どもとしての視点から親の生活や流儀などについて書いています。
父の次郎は実業家で吉田茂と親交が深く、終戦直後には吉田外相の要請でGHQとの折衝の矢面に立ち「従順ならざる唯一の日本人」と言われました。この時の毅然とした態度が、今の対外交渉と比較されて今改めて脚光を浴びているようです。母の正子は、14歳の時女性として初めて能舞台に立ったり、古典文学に親しみ、小林秀雄や青山二郎などの影響で骨董にも傾倒した人です。その著作には今なお多くの読者がいます。ちなみに、小林秀雄は牧山さんの子供(龍太)の名づけ親であり、また、後年、小林秀雄の娘が牧山さんの次兄と結婚しています。
「私の両親は個人主義というか、無関心というか、私が何か相談したいと想う時、それを受け入れてくれるような雰囲気は全くなかった」という牧山さん、「子供は親の鏡と言いますが、母が私に口に出して教えたことというのは、ほとんどまったく記憶に残って」いないとありますが、やはり父の思い出よりも、母について詳しく書かれています。母の個性をぴったりと捉えているのが娘の愛情というものでしょうか。
終わりに「親が自分たちの子供の将来に理想を描くのは当然のことですが、言葉に出してああせいこうせいと言っても無意味なようにも思います。」とあり、最近の子どもの犯罪の横行について「どんな形であれ、親が子供たちを愛していれば、子供たちの犯罪が起こりえない」と書いています。そして、自分が世間に迷惑をかけないで生活していけるのも、結局は両親のおかげだと結んでいます。
敗戦と食糧難を予期した白洲次郎は、1943年に鶴川村の養蚕農家だったところに移住し、一時農業を営んだそうです。1985年に次郎が他界した後、正子が1988年に88歳で亡くなるまで住んでいました。その後、日本の原風景とも言える茅葺き屋根の旧家を傷めずに保存し、白洲家の暮らしぶりを紹介する場として、2001年10月から公開されています。(旧白洲邸の武相荘(ぶあいそう)。館長・牧山圭男さん。町田市能ヶ谷町。月、火曜休館で、開館時間は10時から17時まで。入館料1000円)
*白洲正子の著作『西行』『いまなぜ青山二郎なのか』『白洲正子自伝』『明恵上人』『十一面観音巡礼』『白洲正子のきもの』『私の百人一首』など(いずれも新潮社刊)
*牧山桂子『白洲次郎・正子の食卓』新潮社
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| 仲町つれづれNO.84 2007年8月19日(日) |
| 始まりは、いつも駅から |
夏休み、今年はどこへお出かけですか?
『鉄道ファン』最新号(9月号)の「夏もよう」というグラビア特集の最初に、今回の大地震で土砂崩れが発生した、青海川と笠島間を走る特急電車の写真が載っています。この付近は、新潟県内でも有数の海水浴場が続くところです。残念ながら信越本線のこの区間は現在も不通になっています。この特集の終わりのコピーを借りるならば「今年の夏はちょっと肩の力抜いて『スローな汽車旅写真の世界』にどっぷり浸かってみるってのはどうでしょう?『新しい夏』は案外身近なところにあるかもしれませんよ。」・・・ということで、市内のJR第一高岡踏切周辺でも、三脚をたてて、写真を撮っている方を見かけますので、真似して、デジカメですが撮ってみたのが、右の写真です。
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今、両国にある江戸東京博物館で「大鉄道博覧会」という展覧会が、9月9日まで開催されています。この展覧会は「昭和という時代を振りかえる」ということで、特に、高度成長期、鉄道の黄金期といわれる昭和30年代に焦点が当てられています。昭和31(1956)年11月19日東海道本線の全線電化が完成し、昭和39(1964)年10月1日には東海道新幹線が開業します。最高速度(時速)210キロ、東京―大阪間3時間10分で結ぶ「夢の超特急」と呼ばれたものです。
会場には、さまざまな資料が展示されています。大きなものでは、復元された客車特急「つばめ」の展望デッキ(もちろん記念写真を撮ってきました)、その隣には「修学旅行用電車」の6人掛ボックスシート、さらに10系客車オハネ17形の3段寝台が展示されています。入り口、出口付近には明治40(1907)年に製作された「下工(くだこう)弁慶号」、国産最後の実用蒸気機関車となる「くろひめ号」が展示されています。
以前、久野節(佐倉高校記念館の設計者)という数多くの駅舎を設計した人、団塊の世代に鉄道好きが多いということにふれましたが(詳細はNO.41を参照)、ぜひ夏休みに、身近なところで子供と一緒に「夢のような昭和の時代」へと、旅をしてはいかがでしょうか。
* 『鉄道ひとつばなし』『鉄道ひとつばなし2』 原武史 講談社 2003年 2007年
『鉄道廃線跡を歩く 10』 宮脇俊三 JTB 2003年 |
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| 仲町つれづれNO.83 2007年8月15日(水) |
| 佐倉の兵士達 |
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先日、友人が東金の骨董市で買い求めた『聖戦記念 福井部隊』という本を見せてもらいました。標題紙に「昭和13年支那事変記念寫眞帖」と書かれており、はじめに「明治天皇御製の歌」、そして軍旗、部隊長の写真、と続いています。最後には『支那風俗の色々』という見出しで、支那美人、路傍の理髪師、路傍の代書人、豚饅頭屋、一輪車等の写真が載せてあります。そして一番最後には「戦闘日記」という頁が付けられ、「貴下の御記念の御写真を御貼り下さい」と写真の貼付欄および全体に罫線が引かれている頁がありました。
昭和12(1937)年7月、華北で勃発した日中戦争は、8月に上海に飛び火し、日本陸軍は苦戦を強いられました。そのため、第一次歩兵第157連隊、福井浩太郎大佐が率いる、いわゆる福井部隊が9月に編成され出征しました。この戦い全体での戦死者は914名、戦傷者は1852名、部隊は昭和15(1940)年2月に帰還します。
「千葉日報」紙上で約一年間、268回にわたり「福井部隊血戦の記録」として連載されたものに写真を400枚挿入してまとめられた『福井部隊の血戦記』(千葉日報社1963年)が、一番詳しい記録となっています。
昨年、国立歴史民俗博物館で開催された「佐倉連隊にみる戦争の時代」展では、郷土部隊として歩兵第57連隊の歴史が実証的に展示されました。
昭和11(1936)年5月に連隊が満州孫呉へ移駐してからも、毎年佐倉兵営から現役兵を送り出しています。そして昭和18(1943)年には第二次歩兵第157連隊(南部部隊)を中国の華中・華北に送り出しています。そして歩兵第57連隊は、昭和19(1944)年のグアム・レイテ島戦での悲劇を迎え、昭和20(1945)年セブ島で終戦を迎えてました。
*佐倉連隊関係の資料は図書館にもあります。ぜひご覧ください。
『佐倉聯隊写真集』 国書刊行会 1979年
『歩兵第五十七聯隊史』 帝国在郷軍人会本部 1930年
『歩兵第五十七連隊小史』 五七会 1995年
『房総健児の記録(佐倉連隊の記録)』佐倉の郷土部隊刊行委員会2005年
『佐倉連隊にみる戦争の時代』 国立歴史民俗博物館 2006年
『レイテの雨-佐倉連隊の最後』 千葉日報社 1973年
『レイテ戦記』 大岡昇平 中央公論社 1974年
*歩兵は、小銃・擲弾筒・機関銃・歩兵砲などを持って火戦や白兵戦を行います。そのため、砲兵・騎兵・工兵といった兵科に比べ、厖大な兵力を必要とし、陸軍の中でも大きな比重を占めています。師団が最大の編成単位で、一個師団は四個連隊程度からなり、一個連隊は約3000人。その下に大隊、中隊に細分されていました。
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| 仲町つれづれNO.82 2007年8月12日(日) |
| 昭和20年 夏の日記 |
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写真集『雪国』や『裏日本』などで知られる写真家の濱谷浩(1915―1999年)は、昭和20(1945)年8月15日、当時住んでいた新潟県高田市で、太陽と、自分と友人で囲んだ食卓を愛用のライカで撮影しています。
「この瞬間までは好きなように写真を撮る自由は日本にはなかった。憲兵や警察そして町内の人々もお互いに監視し合い、カメラを向ければ何を撮るのか詮索される社会だった。戦争が終わった最初のシャッターを、強烈に輝いていたまぶしい太陽へ向かって押していた。」という濱谷は、単に「太陽が平和の太陽」になったという気持で撮った、と言っています。その時に和紙に毛筆で書かれた日記には、次のように記されています。
「昭和廿年八月十五日十二時天皇陛下大詔ヲ下シ賜フ 西城町市川邸ニテ御放送謹聴、戦争ハ終リ日本ハ敗レタリ、語ナシ、コノ日マコトニ晴天雲悠々寫真機ヲトリテ、コノ太陽トコノ雲ヲワケモワカラズ冩シテイタ・・。」
あれから62年。先の参議院選挙でも戦後生まれの首相が「戦後レジーム(体制)からの脱却」を叫んでいましたが、最近の出版物の広告を見ていても戦争を問う本がたくさん刊行されています。未だ終わらない戦争と共に生きる人々がいるということ、語られるべき事実が今もなお多いということではないでしょうか。
『昭和20年夏の日記』(博文館新社)は、1984年8月15日にNHKで放送されたドキュメンタリー「晴れゆく空に光仰がむ―昭和20年8月15日の日記―」という番組がきっかけとなり、昭和60(1985)年に出版されました。ここに集められた日記には、外地を含めた各地で、様々な立場の老若男女によって、自分だけの心の光景が書き綴られています。日記の魅力というのでしょうか、平易で他人を意識しない表現が生々しい臨場感を感じさせてくれます。
この本の「エピローグ」より
「現代の日記には、この今という時代が映っている。しかし365日間の日記の中で、8月15日という一日の日記だけは、多くの日本人にとって過去と現在の日本を繋げる、特別の「夏の日記」となっている。まもなくやってくる8月15日―あなたはこの白いページに、何を記しますか。」
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| 仲町つれづれNO.81 2007年8月11日(土) |
| 怖~い話の季節 |
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臼井公民館図書室において、夏の風物詩ともいえる「こわいおはなし会」が8月22日(水)に開かれます。当日は14時から日本の幽霊話である「番町皿屋敷」「ろくろっ首」など、15時からは「吸血鬼ドラキュラ」などの外国のこわい話が聞けます。どうぞお集まりください。
怖さや怪しさを感じさせる「怪談」というと、誰でも思いつくのは四谷怪談でしょうか。これに、皿屋敷、牡丹灯籠を加えて日本三大怪談といわれています。これらはいずれも民話伝説、あるいは神話のなかに原型を見つけることが出来ます。小泉八雲は日本各地に伝わる怪談や奇談を収集して、『怪談』というかたちにまとめました。これをベースに制作されたのが映画『怪談』(1965年・小林正樹監督)でした。
テレビドラマや映画のシリーズにもなった『学校の怪談』(」995-8年)は、現在歴博の教授をされている常光徹さんの『学校の怪談』1-9巻(1990-1997年・講談社KK文庫)などがベースになっています。このシリーズの本は、今なお子どもたちに人気があり、種類もたくさんあります。
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そして、今、歌舞伎の尾上菊之助が主演する映画『怪談』(中田秀夫監督・松竹)が公開されています。原作は三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』(岩波文庫刊)。円朝の落語の中でも最高傑作といわれる話で、時は江戸時代の深川。黒木瞳扮する年上のお師匠さんと恋に墜ち、その嫉妬深さに手を焼き始めたところで、今度はその弟子の少女と、次から次へ女性を惹きつける主人公新吉をめぐる話です。日本の様式美とリアリズムが濃密な画面を創りあげていて美しく、女の情念の世界が怖いほどに恐ろしい作品になっています。暑い夏に、怖い話は涼を求めるひとつです。ぜひ怪談をお楽しみあれ。
*「AYAKASI江戸の怪し」展 妖怪や鬼、幽霊や妖術師などが登場する浮世絵を紹介する展覧会。葛飾北斎、歌川広重、三代歌川豊国らの作品が展示、8月26日まで原宿にある太田記念美術館にて開催中。
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| 仲町つれづれNO.80 2007年8月9日(木) |
| 弱き者、汝の名は人間なり |
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夏は原爆忌や終戦記念日など、過去を振り返り、平和を考える季節です。五木寛之さん(1932年生)と大塚初重さんの対談集『弱き者の生き方-日本人再生の希望を掘る』(毎日新聞社)を紹介します。
人気作家の五木さんと、どちらかといえば地味なイメージの考古学者の大塚さんとの組み合わせ、いったいどういうことなのかと手にとって見ました。五木さんの波瀾万丈の人生に加え、大塚先生の「驚くべき人生遍歴と信じがたい実体験」がユーモアたっぷりに語られており、おもしろく読み、かつ重く受け止めました。
五木さんは多くの人々と対話を重ねてきたそうですが「大塚先生との対話ほど、よく笑い、かつ深く感動した機会はなかったように思う。それは圧倒的な体験だった。」そうです。その大塚初重先生(1926年生・成田在住)は、考古学者で明治大学名誉教授、知人に先生の教えを受けたことがある人がいますが、先生のお人柄故か、皆「はっちゃん」と呼んでいました。
五木さんは「お互いを『弱き者』として語り合えたのは、私たちがともに戦争という歴史によって翻弄され続けて生きてきた過去による。私たちは、あの時代を『石、つぶての如き』日本人の一人として生き残ったのだ。そのことは、私たち二人の心に、大きな傷と痛みを与えたし、いまもなおその痛みは残っている。」と語っています。
また、この対話により、戦争の時代の後遺症としての暗部をさらしだすことになったものの、大塚先生のユーモアあふれる話に「絶望のなかに希望を、人間の悪の自覚のなかに光明を見ること」ができ、戦後「背おい続けてきた重いものを、はじめて脇におろしたような気」になったということです。
私自身は戦争を知らない世代であり、二人のような体験をしていません。しかし、誰もが持っている人間の弱さを自覚すること、「生かされている」という感覚が大切であるということ、そして全力で生きるということを学びました。――「人は皆、それぞれの生を生きる」
*五木寛之さんの著作『林住期』(幻冬舎・2007年)は、すでに8刷25万部以上出版されているそうです。この本は、古代インドにあった四住期(一生を学生期、家住期、林住期、遊行期の4つに区切り、それぞれの時期の目標を掲げる)のなかで、人生100年とすれば、後半に当たる50から75歳が林住期であり、この人生のピークをどう過ごすかを考察したものです。
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| 仲町つれづれNO.79 2007年8月8日(水) |
| プロヴァンスの贈り物 |
欧米における南仏プロヴァンス・ブームの火付け役、ピーター・メイル(1939年~)の『南仏プロヴァンスの12か月』(河出書房新社1993年)は、日本でもミリオンセラーになりました。そのピーター・メイルの最新作が『プロヴァンスの贈りもの』(原題『A good year』、河出書房新社)です。
前作は、イギリス人である彼が旅行者として何度もプロヴァンスに訪れるうちに、豊かな自然と変化に富む食生活、純朴な人々に魅せられて、200年を経た農家を買って移住した当時の諸体験をまとめたものでした。今度の新作はフィクションで、おじの遺産を継ぐためにプロヴァンスに来た主人公マックスと「当たり年」ワインが取り持つ大人の恋物語です。
同時に、ピーター・メイル家と隣り合わせに別荘を持ち、30年来の友人でもあるリドリー・スコット監督によって映画化されました。8月4日からロードショー公開されています。映画『プロヴァンスの贈りもの』(角川映画配給)も、緩やかに流れる時間によって醸し出されるワインのような薫り高い、なかなかしゃれた作品になっています。
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舞台となった南仏プロヴァンス地方は、ローマの植民都市(属領)だった時代に大いに繁栄したところです。その遺跡が残るアヴィニョン、晩年のゴッホが滞在した街アルル、エクス・アン・プロヴァンスなどがあります。撮影は中央北部のリュベロンにある実在のシャトー(ラ・カノルグ)で行われたそうです。ここは減農薬農法などで話題の地でもあります。桃源郷のような美しい村々の、詩情あふれる映像となっています。
ワインも、マルセル・ブルーストの『失われた時を求めて』に因んだ「ル・タン・ベルデュ」と「ル・コワン・ベルデユ」という名の希少ワインがでてきます。スローフード、スローライフを考える時間をプレゼントされたような気分になりました。
*フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、晩年の1888年にパリからアルルへ来て滞在しました。この時期3度にわたり狂気の発作を経験しています。アルルからサン=レミ=ド=プロヴァンスまではわずか25キロ、1889年5月8日に療養院へいく為に小旅行をした際、糸杉や赤ぶどう園などの作品を描いており、映画にも、ゴッホの作品が何度か出てきます。1890年5月17日にパリに戻り、7月27日自ら胸に弾丸を撃ち込んで重傷を負い、7月29日午前1時頃意識を失って、付き添っていた弟テオの胸の中で息を引き取ったということです。37歳という短い生涯でした。傑作とされる作品のほとんどがこの時期に制作されたものです。 |
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| 仲町つれづれNO.78 2007年8月5日(日) |
| 宮本百合子のこと |
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過日(7月18日)98歳で亡くなった宮本顕治、日本共産党の最高指導者として活躍しましたが、その夫人だった人をご存知ですか。佐倉藩の西村茂樹の孫で、プロレタリア文学の全盛期に才を発揮した、宮本百合子です。
宮本百合子(1899―1951年)は、旧姓中條百合子、父は建築家の中條精一郎、母葭江は、佐倉藩出身で明治20年頃から道徳教育運動を推進した思想家・西村茂樹(1828-1902年)の長女です。
恵まれた家庭で育った百合子は、高等女学校在学中から小説を書き始め、17歳(1916年)の時『貧しき人々の群』を「中央公論」9月号に発表し、天才少女として注目を集めました。
最初の結婚に失敗した後、ロシア文学者湯浅芳子と共同生活を送りながら、『伸子』を発表(1924-26年)。1927年に湯浅と共にソ連へ行き、映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテイン、衣笠貞之助、河原崎長十郎らとも親交をもちました。1930年11月に帰国後、プロレタリア文学運動に参加し、9歳下の宮本顕治と結婚することになりました。
1933年にスパイ査問事件容疑で顕治が逮捕され、夫婦としての生活期間は短かったものの、獄外から支え続けました。自らもたびたび検挙され、執筆禁止も経験する等、苦難の連続の中で文学活動を続けます。戦後になって、『風知草』、『播州平野』、『道標』などの作品を残しています。
1951年1月21日、獄中の病を持ちこして脳脊髄膜炎菌敗血症により、急逝。享年51歳でした。
(奇しくもそれから5ヶ月後、林芙美子が心臓麻痺で突然死しています。享年48歳。)
*宮本顕治は、東大在学中の1929年に雑誌『改造』の文芸評論の懸賞論文に応募し、芥川龍之介を論じた評論「『敗北』の文学」が第1席になり、世にデビューしました。その時の第2席が小林秀雄(「様々なる意匠」)でした。1932年2月に中條百合子と結婚し、戦後は日本共産党の指導者として活躍しました。
*中條精一郎(1868-1936年)は、米沢市出身。東京帝大建築学科を卒業。代表的作品には上杉記念館・上杉伯爵邸(1925年)、北海道大学のキャンパス・古河記念講堂。そして、慶応義塾図書館(1912年)など。1908年曾禰・中條建築事務所を設立し、曾禰達蔵のパートナーとして、デザイン・経営面で支えました。
*曾禰達蔵(1852-1937年)は、中條精一郎と共に国内最初期(後に戦前で)最大規模の設計事務所を開設し、恩師J.コンドルのもと、丸の内の三菱オフィス街の基礎となる三菱一号館(監督)、二号館、三号館(1894-1896年)などを設計しています。1912年には慶応義塾創立五十年記念図書館を設計(国重文指定)。1917年には西村茂樹の日本弘道会館を設計しています。
*参考文献 『西村茂樹』高橋昌郎 吉川弘文館(人物叢書) 1987年
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| 仲町つれづれNO.77 2007年8月1日(水) |
| 梅雨明けした!? |
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ようやく梅雨も明けたでしょうか、暑い夏本番といった感じになってきました。
「夏」という漢字は、もともと季節ではなく、舞の名称を表す漢字だったそうです。大きな冠をつけて仮面をかぶり、両手両足をゆったりと動かしながら雅やかに舞っている人の姿を描いた象形文字だとか。中国では「大きい」という意味もあるようです。
この文字が季節の意味として使われるようになったのは、単にその舞と季節の名称が同じ発音だったにすぎず、つまり当て字として使われた結果である、といわれています。
今風に言えば、ビリーといっしょに踊ってたっぷり汗を流してこその「夏」でしょうか。
(汗をかいた後は水分補給を忘れずに!)
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