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図書館ホーム > 仲町つれづれバックナンバー > NO.57~NO.76(2007.6~2007.7)

仲町つれづれNO.57~NO.76 ~佐倉図書館通信

仲町つれづれNO.76 2007年7月31日(火)
八朔-はっさく(果物のことではなく)

暦の上に、八朔という言葉があります。旧暦の八月一日、八月朔日のことを略して「八朔」。「朔」という字のヘンは「逆」の元の字で、月が一周して元に戻ったことを意味するということです。どうして八月の一日だけがそう呼ばれてきたのでしょうか。何か特別の意味があるのでしょうか?

旧暦の八月初めの気候は、その後の稲の実りを大きく左右する大切な時期です。そのため、新穂を摘んで神様に供え、来るべき台風シーズンを無事乗り切って豊作となるよう祈る、という神事が古来より行われていました。「田実(タノム)の節句」といい、それを取り仕切る人が「八月一日」さん、つまり「ほずみ」さんと呼ばれたそうです。今でも時々紙面などでおみかけする苗字です。

そして、私にとって忘れられない人がいます。尊敬する大先輩の歌人、会津八一(1881-1956年)です。八一は1881年8月1日生まれで、19歳で「八朔朗」という俳号を使って投句(「ほととぎす」)を始めています。書いたものにも「八朔」と署名をしていました。
八一は、その後奈良旅行で仏教美術に関心を持ち、俳句から短歌へと移ることになります。歌集『南京新唱』『鹿鳴集』などを出版し、歌人としても多くの人に親しまれました。秋艸道人、渾斎と号し、その歌風は「万葉集―良寛―子規」を継承しながら、結社を作らず結社に属さず、独自の歌格をなしていると言えます。
   雨上がりの夏の朝―
      あめ はれし きり の したは に ぬれ そぼつ あした の かどの つきみそう かな
   会津八一『村荘雑事』
仲町つれづれNO.75 2007年7月27日(金)
文豪谷崎潤一郎の誕生日と命日に
『落花流水』(渡辺千萬子著、岩波書店2007年)を読んでいたら、文豪谷崎潤一郎の命日は7月30日とのこと。昭和40年(1965)の7月30日の朝、79年の生涯を終えています。そして7月24日は谷崎の誕生日でした。

著者の渡辺千萬子さんは、関西画壇の重鎮であった日本画家橋本関雪(*)の孫として京都に生まれ育ち、大学在学中に谷崎潤一郎の妻松子夫人と前夫との間に生まれた長男と結婚し、義父である谷崎潤一郎の家族とともに約4年間を過ごしたそうです。渡辺さんが今まで封印していた、晩年の文豪とその家族の生活を赤裸々に綴ったのが、この『落花流水―谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』です。
谷崎が熱海に引越した後に、10年間で300通を超えた谷崎との往復書簡(『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』中央公論新社2001年)のことについても書かれており、谷崎宛の未公開書簡(21通)も付けられています。
これまでベールに包まれていた谷崎家の一面があまりにも凛とした語り口で綴られており、正直驚きました。例えば、一緒に暮らした松子夫人の妹の重子が『細雪』の雪子のモデルであるとか、重子は「谷崎に愛されているという自信はあっても、いつも松子の蔭の第二夫人に甘んじなくてはならなかった」ために「アルコール依存症」だったとか等々。一気に読み終えてしまいました。

ほとんどの作家の命日は、記念日となっています。以前に太宰治の「桜桃忌」について触れましたが(仲町つれづれNO.60を参照)、芥川龍之介は「河童忌」、司馬遼太郎は「菜の花忌」というように、何々忌ということが多いのですが、渡辺さんによりますと「華やかなことの好きな人でしたから、誕生日が近かったということもあって『忌』ではなく」、谷崎が好んだ地唄の「残月」から「残月祭」とし、昭和62年(1987)から講演会と墓参りを15年間続けたということです。
谷崎が生前決めていた法然院の墓(自筆の「寂」の字が刻まれた鞍馬の自然石の墓)を40年余に亘って守ってきた渡辺さんでしたが、平成15年(2003)に最後の墓参りをして京都を離れています。
渡辺さんの手元にあった谷崎潤一郎の遺品全部(約600点)は、芦屋市立谷崎潤一郎記念館に寄贈されたということです。渡辺さんの手からは離れたけれども、昨年の第20回残月祭は生誕120年、芦屋ルナ・ホールにおいて瀬戸内寂聴さんを迎えて盛大に開催されたということです。

橋本関雪の展覧会は、平成5年(1993)秋に川村記念美術館でも開催されました。
仲町つれづれNO.74 2007年7月25日(水)
夏休み!わくわくおはなし会を行いました
☆☆本日のプログラム☆☆

★絵本「おばけドライブ」
★すばなし「おれは、おれさ」
       (イタリアの昔話)
★絵本「すいしょうだま」
       (グリム童話より)
★すばなし「宝茶釜」
         (遠野の昔話)
★絵本「こわいドン」

ふしぎでこわい話をじっくりたっぷりみんなで堪能しました。
おはなし会の後は、「なんでもペッタン」をして遊びました。
野菜や空き容器をスタンプにして、模造紙や紙皿に絵の具でペッタンしました。
みんな夢中で、手の指を筆の代わりにして絵を描いたり、とても自由な作品ができあがりました。
(洋服が絵の具だらけになってしまった・・・ごめんなさい)
仲町つれづれNO.73 2007年7月19日(木)
心よりお見舞いを申し上げます
またまた、死者が10人という、甚大な被害をもたらした地震が発生してしまいました。新潟県中越沖地震です。余震もまだまだ続いており、2次災害も心配されています。被災された皆様には、心よりお見舞いを申し上げます。

震源地に近い柏崎市立図書館では、蔵書27万冊のおよそ9割が落下して散乱し、開館の見通しは立っていないとのことです。この図書館には県内でも数少ない貴重な書物が収蔵されており、学生時代に良寛関係資料を求め、貞心尼(1798-1872)の「蓮の露」(和装本)を見に、訪れたことがあるのを思い出しました。

今、自分は何ができるか、何をなすべきか考えているところです。いずれにせよ、一刻も早い復興を祈念しております。
仲町つれづれNO.72 2007年7月15日(日)
もうすぐ、参議院選挙です

今月29日は、第21回参議院選挙の投票日です。今回は昨年9月に発足した安倍政権にとって初の本格的な国政選挙です。皆さん、ぜひ投票にいきましょう。

さて、文壇で参議院議員を務めて存在感を示した人に、今東光がいます。国会でも「ばかやろう!」を連発して物議をかもすなど、口が悪いので有名でした。晩年は、きよ夫人の故郷である佐倉に住居を構えられ、佐倉市長選挙などの応援演説にも立たれたことがありました。

仏門での弟子である瀬戸内寂聴さんは、日経新聞に「奇縁まんだら」を連載していますが、その中でも今東光との縁について書かれています。文春が催していた地方講演会に、今東光と松本清張と組んでまわっていた関係で、後に仏縁を得て、法師になってもらったということです。そのときの模様について、こう書かれています。
☆今東光の出家は32歳のときで、それ以来筆を断たれていたが、59歳の時、突如として『お吟さま』で返り咲き、直木賞作家として活躍され続けていた。一方天台宗の僧侶として中尊寺再興の業績をあげられていた。
☆「出家させていただきたく参上いたしました」といったら、「急ぐんだね」と、その日に得度式の日取りが11月14日と決められた。

8月下旬に東京の仕事場でお逢いして以来、私は先生にお目にかかる機会もなかった。その日訊かれたことは、「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする?」「断ちます」と、それだけであった。先生は、「出家しても、あなたはあくまで小説家として、ペンは死ぬまで捨てるな」とおっしゃった。
☆(その後、今東光はガンの手術で入院し、得度式には出られなくなったが)「寂聴さんや、これからは一人を慎むんだよ」とおっしゃった。私が先生から法師として教えられたことはこれだけである。この一言が、出離後34年の私を支え通してくれた。
☆気難しい母堂に気にいられてよく仕えられたきよ夫人を尊敬し、大切にされたやさしいよき夫であった。偽悪ぶりたがるのは、生涯ぬけなかった子供っぽさの現れはなかっただろうか。亡くなる前頃、私に笑いながらおっしゃった。「好きなことやって生涯に悔いはないが、政治にかかわったことが一番愚劣だったな。あれはミスや」

日本橋高島屋8階ホールにおいて、文化勲章受章・作家生活50周年記念『瀬戸内寂聴展』が23日まで開催されています。そこでも「第二章天台寺の秋」というコーナーに、「覚悟の得度式」などの関連資料が展示されています。今東光はデッサンもうまいし、字もうまくすばらしい書を遺されています。  是非ご覧ください。

仲町つれづれNO.71 2007年7月14日(土)
親の小言と茄子の花は、千にひとつの無駄もない

新鮮な茄子が食卓に出る季節になりました。茄子は日本人にとってなじみのある野菜です。日本には平安時代に奈須比(なすび)として伝わり、女房言葉により「茄子」となった、と言われています。
【茄子あれこれ】
①初夢の縁起物として「一富士、二鷹、三茄子」と出てきますし、
初夢漬というものもあるようです。
②お盆には、先祖の霊がゆっくりとあの世に戻っていくようにとの願いをこめて茄子で牛を作ります。
「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉があります。夏蛸や秋鯖も嫁に食わすなと言われています。これらは美味すぎるからでしょうか、嫁を憎む姑の心境を示している言葉という説があります。また、一説(養生訓)には、茄子には体温を下げる効果があり、多食すれば必ず腹痛や下痢になるので、嫁の体を案じた言葉でもある、と言われています。核家族になり、食卓から季節感が消えた昨今、実感することが困難ではありますが、姑と嫁の付き合いの難しさは、今も昔も変わらないのでしょう。

文藝春秋8月号の「日本美のかたち」でも、茄子をテーマにした作品が紹介されています。選者の山下裕二さんは、「茄子はいかにも禅的な粗食の、でも実はしみじみと美味しいものとして、水墨画などでも描き継がれてきた。織部や古九谷でも、茄子の模様を絵付けした逸品がいくつかある」としています。その中でも、注目した次の3点を取り上げています。
「秋茄子と黒茶碗」(京都国立近代美術館蔵)は、日本画家の速水御舟(1894-1935年)が金地に茄子と茶碗を描いた作品です。
「唐物茄子茶入 銘紹鴎茄子」(諏訪市サンリツ服部美術館蔵)は、立体で茄子に見立てたものとして、「日本人の粋で知的なセンス」が反映された武野紹鴎(1502-55)が
所持していたといわれています。
「茄子水滴」(東京藝術大学大学美術館蔵)は、明治時代の金工家平田宗幸の作品です。特にこの水注しは「赤銅を茄子のかたちに成形し、そこに銀で象った鈴虫をとまらせる」といった洒落た逸品です。山下さんは「江戸時代を通じて培われた職人のエッセンスを受け継いだ仕事」と評価しています。

仲町つれづれNO.70 2007年7月9日(月)
田端文士村における芥川龍之介

7月24日は、芥川龍之介(1892―1927年)の命日で、今年は没後80年になります。芥川龍之介というと「羅生門」が浮かびます。この作品は高校の国語の教科書全てに収録されているとのことです。彼の作品は、一昨年には中国において『芥川龍之介全集』全5巻が刊行されるなど、これまでに世界40か国以上で翻訳出版されているようです。
芥川龍之介は、1914年10月末、帝大生時代に田端に越します。この頃から画家、彫刻家、工芸家などに加え、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、菊池寛等が移り住み、田端はにわかに文士村と化していました。芥川家の隣には、佐倉ゆかりの金工家香取秀真の家があり、隣家通しの心のどかな交際を10年間続けています。
香取秀真の息子、香取正彦(1899-1988年)は、小学校時代を佐倉で過ごした後、中学に入るために田端に住むことになります。彼は著書『鋳師の春秋』の中で、
「関東大震災後、芥川さんは書斎を新築されたが、日の当たる部屋を嫌って西に窓を切り、日の当たるのを好む父の部屋と垣根をへだててちょうど向かいあう格好になった。ある時芥川さんは父に『ときに書斎の窓を明けたのは、先生に話したいためであるから、私が窓を明けて、先生、といったら、ハイ、と返事をして下さい』といわれたそうだ。『じゃあ、そうしましょう』と父は答えたが、ついに亡くなるまで『先生』と声はかからなかったという。隣に住んでいながら、芥川さんはしばしば手紙を父のもとによこす癖があった。」
と振り返っています。

芥川龍之介は「香取先生は通称『お隣の先生』なり。先生の鋳金家にして、根岸派の歌よみたることは断る必要もあらざるべし。僕は先生と隣り住みたる為、形の美しさを学びたり。」とか、「何ごとも僕に盗めるだけは盗み置かん心がまへなり・・」(隋筆「田端人」)と思っていたようです。
さらに、芥川龍之介は話がうまかったそうです。交代制で夜警に立ったときなど、「『雨月物語』など古典に取材した話を、たくみな話術で語った。われわれは知らず知らずつり込まれて、時のたつのを忘れた。特に幽霊の話が得意で、耳を傾けているうちに、ゾーッと身ぶるいするようなことがたびたびだった。」そうです。また、芥川龍之介の死については、「隣に住んでいながら、生活のタイプの全く違う私どもにはそんな気配すら感じとれなかった。通夜の日は、私の家との垣根がとり払われ、弔問の客はわが家の応接間にまであふれた。」とのことです。

 香取秀真の芥川龍之介への哀悼の歌――
  死ぬるすべ知りける人は思ふまゝに   眠りてさめずなりにけるかも
  みづからを詩のうちに見てこの世をば  去りにし心あはれとぞ思ふ
  みづからの影をうつせる影絵をば    追ふが如くに逝きし人はや
  父母は老いていませりめぐし妹と    かなしき子等とのこりいませり 

*香取正彦『鋳師の春秋』日本経済新聞社1987年
  近藤富枝『田端文士村』中公文庫1983年<講談社 1975年>

仲町つれづれNO.69 2007年7月8日(日)
男のダンディズム~吉行淳之介流「二枚腰の生き方」

先月から今月にかけて、六本木ヒルズの森アーツセンターで「ねむの木の子どもたちとまり子美術展」が開かれていました。宮城まり子さんが主宰する障害を持つこどもたちの「ねむの木学園」創立40年記念として開催されたものです。この学園は、今では施設も充実し、現在は静岡県掛川市にあります。そして、そこには作家吉行淳之介(1924―1994年)の文学館もあります。
ちょうど昨年、吉行淳之介の13回忌(命日は7月26日)が済んだところです。その13回忌パーティの会場で、かつて淳之介と編集者としてつきあいのあった作家の村松友視さんは、以前からあった書き下ろしの話を「突然、やってみようという気持になった」ということです。それが、今春刊行された『淳之介流―やわらかい約束』(河出書房新社)という本です。
吉行淳之介といえば、最期まで「男のダンディズム」の粋を貫いた人といわれています。とはいえ、理解できるのは熟年層だけかもしれません。いみじくも、この本は「第一章吉行淳之介とは何者?」で始まっています。村松さんは「吉行文学の価値については作品を通じて論じられるものの、吉行淳之介という人物の魅力が、現代の一般生活の中に浮上し、陽の目を見る可能性はきわめて低いといってよいだろう。」と述べています。そして「読者に伝えたいのは、人物として、男としての吉行淳之介の色合い」であり、吉行淳之介の口癖であった「流れ」(「そこから先は流れで」)に従って、吉行淳之介という人間の振幅の大きさをあぶり出しているといえます。
この本から、吉行作品へと「少数派の愉しみをひそかに満喫」してみては如何でしょうか。

*吉行淳之介の父は、モダニズムの詩人吉行エイスケ、母は平成9年NHK連続テレビ小説『あぐり』のモデルとして有名になり、7月10日に百歳を迎える美容師の吉行あぐりさん、妹には女優の吉行和子さん、作家の吉行理恵さんがいます。
そして、吉行淳之介の最期を看取ったのは永年の同居人でもあった宮城まり子さんです。二人の関係については、本人自身の書き残したものからその一端を紹介しておきましょう。

 「M・Mに出会ったことは作家の私にとっては幸運であったといえる。」
 「私はM・Mに惚れたのであり、惚れるということはエゴイズムにつながる部分はあるが、功利的な気持が這入りこむ余地はない。」
 「たしかに、一人の女性に惚れた情況が、私の文章にうるおいを持たせた。そのことを、言葉を積み重ねて作品をつくりながら、私ははっきりと感じていた。」
 「M・Mとのことで、私は作家としても人間としても成長したとおもっているが、私の生活はそのために困難なものになった。」等々(「私の文学放浪」1965年)


*吉行淳之介は1954年、娼婦との交情を描いた『驟雨』で芥川賞、1978年「夕暮れ族」という流行語を生んだ『夕暮まで』で野間文芸賞、1970年『暗室』で谷崎潤一郎賞を受賞しています。 なお、没後に宮城まり子さんが『淳之介さんのこと』(文藝春秋 2001年)を発表しています。

仲町つれづれNO.68 2007年7月1日(日)
もうすぐ七夕
ささやかですが、児童コーナーに七夕飾りを設置しました。

小さい人たちは、短冊をわたすと、
まじめに真剣に、じっくりと願い事を考えて、
たどたどしくも一生懸命書いて、笹に結んでいきます。

大きい人たちは?見ると、実に様々な願いが・・・。

しかし、いざ、自分が短冊を前にしたら、さて、自分は何を願っているのか?
毎日忙しく、時間だけが過ぎて、流されて過ごしている日常の中、
「たかが季節の風物詩」というなかれ、自分を振り返り、
新たな自分を発見できる機会かもしれません。

さて、何をお願いしましょうか。
仲町つれづれNO.67 2007年6月29日(金)
親子演歌は人間の情念の叡智-遠藤実自伝-

「この本は若い人にも読んでもらいたい」という作曲家遠藤実さん(1932年生まれ)の自伝です。「半世紀前の日本の風景、そこで命を燃やした人々の姿」を描いたもの、ともいえます。昨年の6月に、1ヶ月にわたり日本経済新聞の『私の履歴書』に掲載されたものに加筆してまとめられたのが、この『涙の川を渉るときー遠藤実自伝』(日本経済新聞出版社 2007年)です。

遠藤さんは、10歳のとき新潟に疎開し、少年期を新潟ですごし、1949(昭和24)年上京。演歌師をしながら、作曲を独学し、1957年藤島桓夫が歌った「お月さん今晩わ」のヒットをきっかけに本格的な作曲活動に入ることになります。巻末の作品リストによれば、1758曲ほど抜粋されていますが、「自分でも定かではなくなった。五千曲か六千曲か、あるいはもっとあるかもしれない。」(あとがき)といわれるほどたくさんの曲を書かれています。
ヒットするまで2年かかったという「星影のワルツ」は、当時薬師寺管長の高田好胤師に「あれは仏の調べです。あの歌でどれほどわが心が癒されたか・・」と励まされ、以後の付き合いが始まったことなど、エピソードを交えながら70年余の半生をまとめられています。
あとがきに「私の人生は音楽を心の支えにして夥(おびただ)しい涙の川を越える旅であったように思える」と書かれていたのが、印象的でした。

   人の世に涙の川があり
   苦労の山もある
   その川を渡るときその山を越えるとき
   歌という友がいる。

仲町つれづれNO.66 2007年6月28日(木)
親子で絵本を楽しむ!

絵本の講座の講師として、6月14日と28日の2回、中央公民館主催の2歳児親子教室に行ってきました。
子どもたちはみんな、リラックス&集中して、絵本を楽しんでいました。お母さんたちも、楽しそうです。
このような絵本との楽しい時間を、ぜひ家庭で、ほんの少しの時間でも、親子で共有していただけたら・・・。
子育てに忙しい毎日だと思いますが、切に願っています。

仲町つれづれNO.65 2007年6月22日(金)
夏至の日に想う
今日22日は夏至です。二十四節気のひとつで「陽が極まり陰に変じる日」ですが、これといった夏至の習わしはありません。どうしてなのでしょうか。日本の夏至は梅雨の最中だからでしょうか。北半球では一年中で一番昼が長く夜は短い日です。

さて、梅雨将軍といえば、ご存知の織田信長です。信長が争った主要な合戦のほとんどで雨が降っていたことから名づけられたようです。新田次郎の短編に『梅雨将軍信長』(新潮文庫、1979年)があります。信長が桶狭間へ出陣したのは1560年の今日(旧暦の5月19日)で、急雨(にわか雨)が襲って、今川義元を破る大金星をあげ、さらに梅雨の合間に徳川家康と組み、長篠で武田勝頼を倒すことになります。この本は、気象観測の側面からその勝利の秘密を明かしています。信長の最後となった本能寺の変(1582年)も梅雨のころだそうです。歴史は繰り返すといいます、さて、今は・・・?

新田次郎(1912-1980年)は、長野県諏訪町大字上諏訪角間新田で生まれ、新田村の次男坊というところから、その筆名がとられたということです。昨年のべストセラー『国家の品格』を書いた藤原正彦さんの父でもあります。無線電信講習所(現在の電気通信大学)で学んで今の気象庁に入り、昭和31年直木賞を受賞してからも、二足のわらじを続けていた人です。6年にわたって富士山観測所の交代勤務員を勤めたこともある人だけに、処女作『強力伝』(1951年)、『富士山頂』(1967年)、『芙蓉の人』(1970年)、『富士に死す』(1973年)、『怒る富士』(1972-3年)など、富士山を扱った作品が目立ちます。このほかにも『八甲田山死の彷徨』(1971年)、『聖職の碑』(1976年)など、山にまつわる自然の厳しさや社会の矛盾、歴史の非情さなどの中で、誠実に生きるさまざまな人間像を理系の眼で描いて、時代科学小説という独特の分野を切り開いた作家でありました。
仲町つれづれNO.64 2007年6月20日(水)
天気のいい日は、庭の木陰で
臼井保育園で読み聞かせをしてきました。
とても暑い日で、子どもたちは部屋の中でも汗びっしょり。なのに、すごい集中力で、絵本に見入っています。

その後、園庭開放に参加の親子と一緒に絵本を楽しみました。さすがに炎天下では暑すぎるので、玄関先の日陰にシートをひろげて・・・。涼しい風が心地よく、みんなご機嫌でした。

夏も、もうすぐでしょうか。
仲町つれづれNO.63 2007年6月19日(火)
梅雨入りしたものの・・・
この地域では、平年より6日、昨年より5日遅れて、14日にようやく梅雨入りしました。今年は、ペルー沖の太平洋で、エルニーニョとは逆に海水温が低下するラニーニャ現象が発生しており、日本では高温少雨が予想されているとおり、空梅雨のような晴天と暑さが続いています。

先月の末に、日展日本画の中堅作家6人による「麻蓬の会」展(湯島・羽黒洞)を見ました。今回は、作家がそれぞれ好きな本を読んで、そこから受けたイメージを絵画として表現する、というテーマ展でした。作品からは、本の著者の言葉をどう解釈してイメージを膨らませたのか、といった画家の読み込み方や発想の豊かさを垣間見ることが出来ました。
作家が選んだ本は、西行の「山家集」、八木重吉の詩集「貧しき信徒」、浜田広介の「泣いた赤鬼」、そして渡辺淳一の「愛の流刑地」、安岡明子訳「『冬のソナタ』で始める韓国語」など。どんな絵だったか、脳裏でその表現を想像してみてください。
その中に、雨にちなんだ作品がありました。手塚恒治(1951年生まれ)の『雨の音』(6M)、八木重吉の詩を読んで制作されたハガキ約6枚くらいの作品です。雨が3本の斜線のみで表現されており、余計なものを捨て去り、余白を十分に活かした、きわめて簡潔な表現手法です。
19世紀以前のヨーロッパには、雨が描かれた絵はないと言われています。日本で雨の絵というと、すぐ思い出されるのは歌川広重の『東海道五十三次之内 庄野白雨』で、雨の降り具合や風の強さなどまで感じさせてくれます。これら浮世絵師の手法が、印象派の画家たちをはじめ多くの作家に影響を与えたということも周知のことです。自然とともに暮らす、日本の風土で培われた日本人ならではの表現といえます。


『雨』 雨は土をうるほしてゆく
    雨といふもののそばにしやがんで
    雨のすることをみてゐたい  ――八木重吉詩集「貧しき信徒」(1928年刊) の雨の詩より
仲町つれづれNO.62 2007年6月17日(日)
おはなし会活動と著作権
先日、千葉県公共図書館協会主催の児童サービスのスキルアップ研修に参加してきました。(右は、会場となった千葉市生涯学習センター入り口の写真。)

午前中は、児童出版社の著作権処理を担当する部署の課長さんから、絵本の著作権についてのお話を伺いました。毎日、営利非営利を問わず、絵本を通じた様々な読書推進活動をしている団体・個人から、多い時では50件近く、電話やFAXでの問い合わせがあるそうです。
その中でも困っているのは「あさって使用するので、すぐ使用許可を出してほしい」という要望だそうです。出版社では「出版権」という著作権は所有しているが、著作人格権の類の著作権については、あくまでも著者(絵や文を書いた人)の許可をとる必要があるため、出版社の立場からはすぐには許可が出せないというのが、現状とのこと。そのほか、絵本やその関連グッズの制作までの様々なお話を伺いました。

午後は、「手遊び・わらべうた」「学校での読み聞かせ」の各部会ごとに研修が行われました。子どもが自力で図書館に来ることが難しい社会状況もあり、図書館が子どものいる場所へ出向いていく方法のひとつとして、学校訪問はとても有意義である、という話を伺いました。
仲町つれづれNO.61 2007年6月16日(土)
スローな旅はいかが?
旅の形態も、様々に変化してきています。3月下旬からロードショー公開された映画『ホリディ』では、失恋した女性と、同棲生活に疲れた女性が、気分転換にとインターネットのホームエクスチェンジに申し込み、ロンドン郊外とハリウッドという、いつもとは違った環境に身をおく、というストーリーでした。また、『NEWSWEEK』6.13号では「スローな旅で行こう」という特集が組まれていました。以前、スローフードのことを書きました(仲町つれづれNO.39を参照)が、個性的なスタイルで休暇をじっくり楽しもうというのが、スロートラベルということになります。

最近の旅について、業界では「今の旅行者は旅を一種の自己表現として、土産物を買ったり写真を撮ったりするのではなく、自分だけの体験を得たい」(米旅行会社の上級副社長)という見方があり、流行から距離を置くというのが潮流になってきているようです。要するに、今までと同じ感覚しか味わえない旅なら、目の肥えた今の旅行者の心は捉えられないということです。スロートラベルを楽しむには金がかかりますが、そういう人は金を惜しまないそうで、宿は自己所有の別荘、貸し別荘、家庭的なホテル等々になります。別荘を所有するアメリカ人の数は過去20年で900%増え、欧州の中産階級でも別荘を持つ人が増加していて、別荘地の一番人気はスペインだということです。
旅のスタイルはどんどん進化しています。毎月発行されている雑誌を見ていると、日本でもそんな状況になりつつあるようです。普段の生活で仕事のプレッシャーが増すにつれて、休暇は一層重要な意味をもつようになってきています。仕事から解放されたい、時間から解放されたい、そんな思いは、誰でもお持ちだろうと思います。

図書館にも、旅に関する資料はいろいろあります。特に、観光ガイドブックなどは借りた人と一緒にあちこちへ旅に出ているようで、彼らの中には傷心旅行といえるような目に遭って、図書館に帰ってくるものもいます。ところどころに行程のメモや思い出などが書き込まれたり、地図が切り取られたりして、悲しい限りです。図書館ではこうした行為に対して、カウンタ-の前などで皆様の目に留まるように展示したりして、マナーの向上を呼びかけています。

夏休みの計画は、もうお決まりですか。観光地を巡るツアーに参加するには、今からではもう遅いかもしれません。ときには、自分だけののんびりした旅を考えてみてはいかがでしょうか。
仲町つれづれNO.60 2007年6月13日(水)
桜桃忌、そして「ゆすらうめ」

太宰治(1909年―1948年)を偲ぶ「桜桃忌」の季節になりました。太宰は、39年の生涯で5回の自殺未遂を図り、1948年6月13日に玉川上水で山崎富栄と入水心中をしました。二人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日であったということです。この日を「桜桃忌」とし、太宰の墓のある三鷹の禅林寺には、今でも多くの愛好家が訪れるそうです。

太宰を自殺へと追い込んだ要因はなんだったのでしょうか?小説家として絶頂期にあった太宰は、亡くなった年にも『桜桃』や『人間失格』を発表しています。「子より親が大事、と思いたい。」ではじまる『桜桃』は、家庭生活を破壊しようと決意した人間の苦しみがぎりぎりまで描かれており、文学的遺言とも言える作品です。一方、未完の絶筆となった『グッド・バイ』は、軽く明るいユーモア小説の書き出しになっています。作品から考えると、太宰の死は才能的に行き詰っての自殺ではなかったといえるのではないでしょうか。
また、亡くなる前年に書いた『父』(1947年)という短編は、太宰文学のキィワードでもある「義」について書かれていますが、佐倉宗吾郎一代記の活動写真(宗吾郎の子別れの場面)を涙して見たことが描かれています。

太宰は、1935 (昭和10)年7月から翌年10月まで、船橋市宮本に住んでいました。当時、盲腸炎がもとで薬の中毒症に苦しんでいたため、静養を兼ねて海に近い船橋市にきたようです。借家から近いところにあった玉川旅館の桔梗の間に二十日間も居続けて小説を書いた等、諸説紛紛伝えられています。このことは、佐倉市在住の大木勲さんの著書『船橋で結ばれた奇縁の二大作家・川端康成・太宰治』(京葉新報社、2003年)の中で触れられています。

この稿を書いていたら、近くの人が自宅の庭から真っ赤な「ゆすらうめ」をたくさんもってきてくれました。今は梅などをつける時期ですが、筆者も果実酒を愛飲する一人なので、早速、ウイスキーでいろんな組み合わせの果実酒を造っている方のところへ持参しました。以前に作っていただいた時はとてもきれいに色が出て目も舌も楽しみました。今度もどんな風になるか期待しています。
「ゆすらうめ」は、中国では古くから果樹として栽培されており、「桜桃」と称しています。桜桃というと、日本ではサクランボのことを言うようです。また、漢方では「山桜桃」とよばれ、消化促進や便秘、利尿に効果があるとされています。 


太宰の桜桃忌との偶然の巡り合わせに、今夜は太宰の田舎の酒「桃川」といきたいところです。

仲町つれづれNO.59 2007年6月8日(金)
麦秋の季節
秋よりも春に運動会をやるところが増えてきているのでしょうか。ここ数日、真っ赤に日焼けした人に出会いましたが、ほとんどが子どもの運動会に参加して、ということでした。

先日の新聞で、大麦や小麦の収穫風景の写真を見て、東欧で一番快適である初夏の風景を思い出しました。ちょうど34年前に見た、今は国名が変ってしまいましたが、ユーゴスラビア(セルビア)の空港周辺の麦畑の麦穂が、見事に黄一色で、黄色く波打っている様が、まるつい最近見たかのように浮かんできました。
日本では、この時期を麦の秋、「麦秋」と呼んでいます。したがって俳諧の世界では『麦秋』は秋の季語ではない、ということになります。東京新聞紙上の村上護さんの『言霊の泉』によりますと、「あき」の語源は、食物が豊かで「飽き」るほど食べられるとか、稲が「あからむ」からきているという説があるようです。

さらに、「竹の秋」という季語も、秋ではないということです。京都の名刹相国寺でゆかりの「若冲展」が開かれ話題を呼んでいましたが、そのお寺を詠んだ一句に、【いざ竹の秋風聞かん相国寺(江戸後期の俳人・大江丸の句)】があります。村上さんによりますと、「季節は春で、竹はこの時期に黄ばんでゆく。閑寂の風情を詠んだ一句だ。春に竹の葉が色あせるのはなぜか。地中の筍を育てるためで、親竹にとっては凋落の秋である。」と解説されています。
秋は、夏が過ぎて冬を迎えるまでの季節をいいますが、時によって変化している、ということでしょう。まさに、日本的情緒ではないでしょうか。
仲町つれづれNO.58 2007年6月7日(木)
オランダの夏

オランダ関係の本の紹介です。日本と付き合いの深いオランダですが、実は、日本人の食生活にも深く浸透しています。この本は、オランダ人の生活そのものような、シンプルで、しっとりとした色あいの美しいイラストブックです。筆者の荒牧幸子さんはイラストレーターですが、20年来の友人ファミリーを通じて、4度にわたるオランダでの生活体験をもとに、得意の絵と文章でオランダの12ヶ月を綴っています。

私も、チューリップの花などが一段落し、柳やマロニエなどの目の覚めるような若葉の頃のオランダを思い出しました。街の屋台の主役は、なんといってもハーリング。これは、生のまま塩でしめたニシンですが、オランダ人に倣い、よく街頭で大きい口を開けて一気に食べたものです。タマネギのみじん切りとピクルスなどといっしょにパンに挟んで食べたりもしました。鰻などもそうですが、慣れない人が食べ過ぎるとえらいことになります。かつて同室の人が一晩中苦しんだことも、思い出として残っています。


今頃の旬は、なんといってもアスパラです。フレッシュなホワイトアスパラで、荒牧さんの言葉を借りますと、「白い大理石のような肌で、プリッとした瑞々しい食感。噛み締めると、ほろっとした苦みとほのかな甘み、そして独特の香りでまさに大人の味」ということになります。缶詰では味わえない一品です。オランダ南部・リンブルグ州がこの特産地ですが、向こうでも「アスパラを食べにいくツアー」があるそうです。掘りたてはなんでもそうですが、「それはそれはえも言われぬ美味しさ」ということです。

荒牧幸子『オランダ
おいしい生活12ヶ月』
 新潮社 2006年12月

オランダ料理の簡単な
レシピはもちろん、鍋、
ハーブ、スパイス、パン、
野菜、魚介などについて
詳細に紹介されています。是非お試しを。
仲町つれづれNO.57 2007年6月1日(金)
衣替えは、お済みですか?

今年は、特に暖冬で小雪でしたので、今から夏は暑く、水不足になるのではないかと心配しています。6月の異称は「みなづき」、漢字で「水無月」。旧暦の6月は、24節気の大暑(今年は7月23日)を含む一ヶ月間で、大よそ梅雨の後半に当たり、水無月という表現は一般的には、どうもしっくりしないと思われています。
岡田芳朗さんの「暦のことば」(『言語』6月号)を見ますと、諸家の語源説をあげています。それによりますと、新井白石の『東雅』は「水涸れて尽るの義なり」と水無し月説、谷川士清の『倭訓栞』は「水月の義なるべし、此月は国ごとに水をたゝへたるをもて名とせり」と水の月の転訛とする説、大きな農事が終わった「皆尽月」、端境期で穀類が皆無しになる月という説、等々。変わっているのは賀茂真淵の『語意考』の説で、「かみなりづき」の「かみなり」の上下、「か」と「り」を省いたもの、ただし、その理由は記されていないということです。
万葉集の歌人たちでも、水無し月派もあれば、富士の雪を詠んだ歌もあります。
そして「もともと、旧暦の6月は梅雨の後半の強い雨の時期と、梅雨明け後のカンカン照りという二つの顔を持っているから、水無し月説も水之月説も正しい」と書かれています。
さて、今年の6月は、どんな月になるのでしょうか?

                                       
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